今日もノートを全部鞄に入れた。
 二人分の弁当も持ち「もしかしたら……」というかすかな希望を胸に家を出た。
 どんよりと曇った空だった。なんだか、こちらの気持ちまで暗くなってくる空だ。自分自身の行く末を表されているようで胃がむかむかしてくる。
 長い坂を下り、グラウンドの脇を通って正門に向かう。
 今日もリズムの悪いドリブルの音が聞こえてきた。バスケ部だ。ひとつしかないゴールの下で四人がドリブルシュートの練習をしていた。
「練習計画できたのかな」
 律も中学の時、色々なメニューを考えた。
 基礎体力作り、個人の基礎スキル向上、パスワーク、攻撃パターン、守備パターン、マンツーマンで負けないメンタルなど。練習と一口に言っても内容は多岐にわたる。ミニバス時代はコーチが複数いたし、中学の時も経験ある顧問とコーチが指導してくれた。指導者に従っていれば強くなれた。
「強い指導者無しじゃ、強くなれないよな」
 ポツリと呟いてからハッとした。
「違う。目標が違うんだよな」
 勝利至上主義ではない。全く違う観点で部を作っている四人なのだ。その背中を見ていると、不意に誰かが近付いていくのが見えた。顧問の教師だろうか。四人がその教師になにかを訴えかけている。しかし、教師はあまり取り合う様子がない。すぐに去ろうとする教師に四人が追いすがっていた。囲んで話をしているが、教師は逃げるように輪から出ていく。そんなやりとりが数回続いたが、ついに項垂れた四人だけがグラウンドに残された。
「……廃部、かな」
 部外者なのに、刺されたように胸が痛んだ。
 ボールの音はもう聞こえてこない。四人がトボトボと校舎の方へ歩いていく。
 ポツポツと雨が降り始めた。
「なんだよ、この雨」
 頬に落ちて来た雨をぬぐい取りながら、目をギュッと閉じた。
 右手がウズウズする。あの不規則でリズム感のないドリブル音が恋しいのが不思議だ。
 いや、そんなはずはない。自分の感情を否定するが、迅と眺めた光景が脳裏をよぎる。
「ちくしょうっ!」
 したたかに舌打ちしてから、律は正門を目指した。

***

 やっぱり迅は来なかった。
 なかなか慣れない隣の物足りなさに唇を尖らせながら、大量に残った弁当箱を片付ける。
 そんな律を遠目に見ていたクラスメイトの一人が、恐る恐るといった様子で近付いてきた。
「ねぇ、三天君」
「?」
「知らないの?」
「なにが?」
 女子は律の弁当箱を指さしながら言っていた。迅の分まで作ってきた弁当のなにが悪いのだろう。首を傾げながら女子を見上げていると、彼女は申し訳なさそうな顔で言葉を続けた。
「佐藤クン、転校したらしいよ。お父さんが居るアメリカに行くって」
「え?」
「担任が『英語のスコア証明なんてどう書くんだよ!』って喚いてたの、杏ちゃんが聞いたって言ってた」
「嘘っ!」
 思わず立ち上がってしまった。
 勢いあまって椅子が後ろに跳ね飛ぶ。その音でクラス中の視線が集まった。
「迅が、アメリカ?」
「あっちの学校入るのに英語のレベルが足りてるとか、足りてないとか、なんか先生達がいろいろ言ってたみたい」

 迅が転校?
 アメリカに行く?
 オレになにも言わず、このまま本当にオレの前から消えてしまう?

「あ、三天君! 午後の移動教室の準備に行かないと!」
 女子がなにか言っていたが無視した。
 スマホを掴み、正面玄関に向かって駆け出す。
「迅、迅!」
 何度鳴らしても迅は出なかった。
 メッセージを連打しても既読にならない。
「迅!」
 スマホからは、無機質な機械音声で「メッセージをどうぞ」しか聞こえてこない。
「ちくしょうっ! どうしたらいいんだよ!」

「転校した」らしい?
 アメリカに行く?
 まだ家にいる?
 もう飛んだ? それとも、これから空港へ?

「どこなんだよ、迅!」
 走り出したいのに、どこへ行くか決められなくて苛立ちだけが募る。思わず、スマホを投げつけたくなるくらいだ。強く握りしめた拳を靴箱にぶつけた時だった。
 四つの足音が聞こえて来た。視線を向けると、例の四人だった。
「駄目だったね」
「本当に今日が最後なんだ」
「頑張って計画作ったのに」
「最後に体育館使わせてくれるって。でも、多分、無理だよなぁ」
 トボトボと歩く四人の手には、クシャクシャになった紙が握られていた。おそらく、計画表だ。顧問の所へ直談判に行ったのだろう。
「誰でもチャレンジできる部、作りたかったのになぁ」
「勝てないって、そんなに悪いことなのかな」
「おい、泣くなって」
「だって、だって!」
 お互いを慰め合いながら歩いていく背中が痛々しい。
 それを見送った律は、強く唇を噛みしめた。
「よしっ!」
 もう一度、スマホで迅の番号を呼び出す。呼び出し音を聞き流し、無機質な機械音の後にメッセージを続けた。
「迅、お前が立つコート、オレが用意する。今日の午後四時、体育館に来い。最っ高のバスケを見せつけるぞ!」
 言い終えた律は、そのまま雨の中へ駆け出した。
 濡れるのも、視界が滲むのも関係ない。
 自分が今、やりたいこと。
 そのために駆けだしたのだった。

***

 まただ。
 このスマホは性懲りもなく着信を伝えてくる。
 発信者はアイツ――。
 スマホの画面に表示された「りっくん」という文字を見て、迅は痛みを覚えたように表情を歪めた。
 昨日は「迅とバスケやりたい」という言葉と嗚咽が何度も録音されていた。
「……」
 キャリーケースの蓋を閉じ、時刻を確認する。そろそろ家を出る時間だ。
 パスポートと財布は上着の内ポケットに入っている。
「よし」
 そう呟いてからキャリーケースを引っ張った。
「……」
 靴を履いたところでスマホが切れた。
「迅、タクシーが来たわよ」
「今、出る」
 母が二階から声をかけてきた。
「父さんが向こうの空港に迎えに来るはずよ。イミグレ(入管)通ったら電話ちょうだい」
「分かってる」
 プッとタクシーの合図が聞こえた。急げ、といっているのだ。
 玄関を開けてキャリーケースを持ち上げる。運転手が出てきてトランクを開けてくれた。
「空港まで。国際線にお願いします。高速使ってください」
「分かりました」
 運転手とやりとりしながらタクシーに乗り込む。
 バタンと自動でドアが閉まった。
「ふぅ……」
 シートに身を預け、小さく溜め息を吐いてからスマホを見た。
 画面には留守電のメッセージが表示されている。
 律の声を聞きたい。でも、聞くと決心が鈍るし、胸が引き裂かれそうだ。

 俺は、律からバスケを奪った。

 アメリカでも帰国してからもいじめられ、人と関わるのが嫌になっていた俺を救ってくれた律から、最高の楽しみを奪ってしまった。そんな俺に、律の横に立つ資格はない――。
 タクシーが走り出す。
 高速の入口はすぐだ。
 乗ってしまえば、あとは早い。
 転校はすぐに律の耳に入るはずだ。律が俺のことで悩むこともなくなるだろう。
 これでいい。
 そう信じながら、迅はスマホを内ポケットに仕舞ったのだった。