真新しい制服を身に着け、姿見の前に立った。高校生活が始まる実感が急に湧いてくる。気が引き締まる感じがして口元をキュッと結び、緩いウェーブの茶髪をふんわりとまとめてから鞄を肩に引っ掛けた。三天(みあま) 律(りつ)というネームプレートはポケットに忍ばせる。
「うわぁ、やっぱ似合う! 律は学ランよりもブレザーよ」
「うるさいよ、姉貴」
「褒めてるんだから喜びなさい。あ、地毛証明持った?」
「持った」
「治癒証明は?」
「ある」
「配慮申請は?」
「それも入れた」
「く~っ! 足長っ! 体細っ! 亡国顔最高! ただでさえ高い顔面偏差値を銀縁眼鏡が爆上げ! モデルのバイト探しておくわ。事務所入れば変な虫から守ってもらえるし」
「なにが亡国だよ。高校登校初日の弟にアホなこと言うなって」
「だって~。天下の進学校・秀晰高校とはいえ、男六割の学校へ男装の麗人が行くのよ。心配でしょ」
「誰が麗人だ。あ~、もういいから。いってくる」
朝からテンションがおかしい姉の前を早足で通り過ぎる。褒め言葉だと分かっていても、傾国だの亡国だの、美人、麗人といった女性の容姿を評価する言葉は正直嬉しくない。やっぱりカッコイイと言われることに憧れる。
ただ、学生時代に雑誌モデルを務めながら医師になった母を否定することになってしまう気がして、正面切って「嫌」とは言えない。そっとしておいて欲しいというのが本音だ。この辺りを察することなくブラコン精神丸出しでまくし立ててくる姉は、母の代わりに世話を焼いてくれているとはいえ、なかなか迷惑だった。
「あ! 目のこと、ちゃんと話なさいよ!」
「誰に?」
「迅クンよ。本音で話せない仲じゃないでしょ? ず~っと心配してるよ」
「なんで迅が出てくるんだよ。もう関係ないし! いってくる」
そそくさと革靴に足を突っ込み、下駄箱の上の鍵を取った。バスケットボールのキーホルダーが付いた鍵だ。傷だらけのそれを見た時、一瞬手が止まったがすぐ内ポケットに入れて外へ出た。
「ちゃんと言うのよ!」
追い打ちをかけるように言う姉を無視して外へ出た。バタンという音を背中で聞きながら歩き出す。
白セーターを着ているけれど、寒さがヒリッと頬にしみる朝だった。フルフルッと首をすくめたくなる。この四月はおかしい。もう二十日だというのにまだ桜が咲いている。長い下り坂をゆっくり歩きながら朝陽にけぶる七分咲きの桜に目を細めた。
「あ~、違う」
けぶっているんじゃない。そう思い直し、右目を軽く撫でた。
「やっぱ、見えてない」
今日は調子がいいと思ったがそうでもないようだ。左目を隠すといっきに世界がぼやける。右目の視力が極端に弱いことを認識せざるを得ない。
「っ」
現実を突きつけられた気がして苛立ちが胸を濁す。唇をへの字にして歩き出した。
高校は坂を下った先。大体、徒歩で十五分くらいだ。車や自転車が行き交う中、桜並木を黙々と歩く。グラウンドが見えてきたら正門はもうすぐだ。
「あ、バスケ」
ボールが地面を打つ音が聞こえた。反射的に目を向けてしまう。グラウンドの端にゴールが見えた。その前で数人がボールを追っている。朝練のようだ。
少しの間、足を止めて練習を眺めた。なんとももどかしさを感じる練習風景だった。言葉は悪いが、ぼやけた視野でも分かるくらい動きが拙い。思わず浮足立ち「そうじゃない!」と口を出してしまいそうになった。
「いや、もう関係ないし」
湧き上がって来る感情をグイッと押し込めるように呟く。
「オレはもう、バスケなんてしない」
そう。去年の夏にバスケは止めた。
バスケなしの真面目な高校生活を送ると決めた。自分に言い聞かせるように「バスケなんてしない」と繰り返してから早足で正門を目指した。
上履きに履き替えて階段を登る。目指すのは一年S組の教室だ。時計を見ると予鈴が鳴る寸前だった。
「……」
少し歩いただけで周囲の視線が集まるのを感じた。
「うわっ、あれ、誰?」
「顔ちっさ!」
「足なっが! 腰の位置バグってる!」
「芸能人?」
「クラスどこ?」
「ネクタイって、あれで男子?」
「嘘。男子の制服選んだ女子じゃね?」
聞こえてくる言葉に眉根が下がる。思わず心の中でため息を吐いた。
小学生の頃からそうだ。
母は高校生でアパレル系雑誌のモデルを務めた文句なしの美女。父はしばしば世界的人気俳優に間違われるジム好きのアメリカ人。お陰様で容姿は抜群に恵まれている。しかも、いくら鍛えても細い筋肉しかつかない体質で、高身長の女子に間違えられることは日常茶飯事。中学生の時は良くも悪くも言い寄って来る者が絶えなくて、ボディガードが必要なくらいだった。
「高校も同じかよ」
中学の頃は迅が壁になってくれていた。大柄で寡黙なポーカーフェイスは冷淡な印象を与えるらしく、迅が傍に居る時は平和だった。
「迅……」
だが、高校に迅は居ない。去年の夏、律の方から連絡を断った。意図的に別れたのだ。高校では、自力で乗り越えていくしかない。
前途多難かも――。
不安を覚えながら二階の奥にある一年S組の教室に入った。ちょうど予鈴が鳴った。
「おぉ、やっと来たぞ! 入学式も来ないし、二十日になって全員揃うなんて初めてだ。おい、委員長! お前が心配していた最後の一人、ようやく来たぞ」
教壇に立っていた担任が大声で言った。クラスメイトは皆、既にお行儀よく席に着いている。律は最後の一人だった。
全員の視線が刺さる。それだけでも落ち着かないのに、律に見惚れて我を忘れたような表情になっている者が何人もいて逃げ出したくなった。
「おはようございます」
困惑の表情で担任に挨拶したが、気持ちは汲んでもらえそうにない。諦めて鞄から書類を取り出した。
「んんん? インフルAとBの両方だったから出て来なかったのか。で、なんだ、これ?」
「地毛証明です」
「地毛、地毛ぇ、地毛ねぇ? 見事な茶髪が地毛かぁ」
スーツ姿だが体育会系が隠し切れない中年教師の声は、隣の教室まで聞こえるくらい大きい。ズケズケと思ったことを口に出すところも合わない感じがした。苦手だ。本当に色々な意味で前途多難な一年になりそうだった。
「で? おぉ? なんだぁ?」
担任は残りの一枚に目を通しながら唸った。なんだか嫌な予感がする。
「配慮、配慮かぁ。配慮ねぇ」
顎を摩りながら担任はグルリと教室を見渡した。
「目ぇ見えないんじゃ一番後ろは無理か。この『外傷性網膜剥離』って治るのか?」
「!」
やっぱりこの担任は苦手だ。なぜ、全クラスメイトの前で目のことをばらされないといけないのか。怒りさえ覚えながら担任を見た。しかし、担任は全く何も感じていないようで、顎を摩りながら言葉を続けた。
「でも、座席はもう決めたんだよなぁ。おい、委員長! しばらくお前がサポートしてやってくれ。どうしても見えないなら前に変えるから」
配慮配慮、と言いながら担任は書類を出席簿に挟んだ。
「? っ!」
大声でセンシティブなことを言わないでください! と担任に抗議したかったが、それどころではなかった。教室の一番後ろ、窓に近い席に居るはずのない知った顔を見たからだ。
「迅……」
少し雑に掻き上げたオールバックの髪と、鋭さを宿した切れ長の目に、すっと伸びた鼻梁。そして薄い唇が完璧ともいえる配置の顔を見間違えるはずもない。
着痩せするタイプで、実は驚くほど逞しく、一日三試合フル出場しても平然としている体力お化けであることも知っている。だって、同じユニフォームでコート上を走り回っていたから――。
担任に背中をバシバシと叩かれ、机の間をおぼつかない足取りで進んだ。
「なんだよ。幽霊でも見たみたいな顔して。ほら、座れ」
「……」
迅が椅子をポンポンと叩いた。担任から「早く座れ~」という声も飛んできて、自分だけスロー再生されているような動きで腰を落とした。驚き過ぎて言葉が出てこない。
唖然とした表情で隣を見る。やはり、迅だ。何度見直しても、佐藤迅その人だった。
「ねぇ、もしかしてあの二人って」
「龍角中のバスケ部主将と副主将だ」
「めっちゃ強くて有名なとこ! あれ? それなら推薦で強いトコ行ったりしない?」
「あ、目が見えないから行けなかったとか?」
「え~、でもそれで二人一緒にココ? 特進だよ?」
教室がざわついた。
皆の言うとおり、律と迅は地元・龍角中のバスケ部出身だ。一年の時からスタメンで全国大会に出ていたし、三年では迅が主将で、律が副主将。全中ベスト四という悔しい思いをした。当然のように、バスケ強豪校に推薦で行く話も出ていた。
しかし――。
「迅、なんでここに居るんだよ?」
鞄を置き、チラッと横目で見ながら尋ねた。見えにくいが、迅の眉間には深い皺が刻まれていた。明らかに怒っている。その原因に心当たりしかない。思わず視線を逸らせた。
「授業始まるぞ」
迅の言葉に顔をそむけたまま小さく頷いた。
(迅だ……)
去年の夏以降、迅の声を生で聞いたのは初めてだ。
低い声には、試合の時に全身から放っていた気迫と威圧感がそのまま乗っていた。まさか、それをコート以外の場所で浴びせられるとは想像もしていなかった。鳥肌が立ちそうだ。しかし、怒りや困惑、少しの悲しみが混じっているように聞こえて、心臓をギュッと掴まれたような感覚に襲われる。
(迅だ。迅が隣に居る)
驚きと戸惑いの他に、なんとも言えないむず痒いような感じが胸の中を満たしていた。
「うわぁ、やっぱ似合う! 律は学ランよりもブレザーよ」
「うるさいよ、姉貴」
「褒めてるんだから喜びなさい。あ、地毛証明持った?」
「持った」
「治癒証明は?」
「ある」
「配慮申請は?」
「それも入れた」
「く~っ! 足長っ! 体細っ! 亡国顔最高! ただでさえ高い顔面偏差値を銀縁眼鏡が爆上げ! モデルのバイト探しておくわ。事務所入れば変な虫から守ってもらえるし」
「なにが亡国だよ。高校登校初日の弟にアホなこと言うなって」
「だって~。天下の進学校・秀晰高校とはいえ、男六割の学校へ男装の麗人が行くのよ。心配でしょ」
「誰が麗人だ。あ~、もういいから。いってくる」
朝からテンションがおかしい姉の前を早足で通り過ぎる。褒め言葉だと分かっていても、傾国だの亡国だの、美人、麗人といった女性の容姿を評価する言葉は正直嬉しくない。やっぱりカッコイイと言われることに憧れる。
ただ、学生時代に雑誌モデルを務めながら医師になった母を否定することになってしまう気がして、正面切って「嫌」とは言えない。そっとしておいて欲しいというのが本音だ。この辺りを察することなくブラコン精神丸出しでまくし立ててくる姉は、母の代わりに世話を焼いてくれているとはいえ、なかなか迷惑だった。
「あ! 目のこと、ちゃんと話なさいよ!」
「誰に?」
「迅クンよ。本音で話せない仲じゃないでしょ? ず~っと心配してるよ」
「なんで迅が出てくるんだよ。もう関係ないし! いってくる」
そそくさと革靴に足を突っ込み、下駄箱の上の鍵を取った。バスケットボールのキーホルダーが付いた鍵だ。傷だらけのそれを見た時、一瞬手が止まったがすぐ内ポケットに入れて外へ出た。
「ちゃんと言うのよ!」
追い打ちをかけるように言う姉を無視して外へ出た。バタンという音を背中で聞きながら歩き出す。
白セーターを着ているけれど、寒さがヒリッと頬にしみる朝だった。フルフルッと首をすくめたくなる。この四月はおかしい。もう二十日だというのにまだ桜が咲いている。長い下り坂をゆっくり歩きながら朝陽にけぶる七分咲きの桜に目を細めた。
「あ~、違う」
けぶっているんじゃない。そう思い直し、右目を軽く撫でた。
「やっぱ、見えてない」
今日は調子がいいと思ったがそうでもないようだ。左目を隠すといっきに世界がぼやける。右目の視力が極端に弱いことを認識せざるを得ない。
「っ」
現実を突きつけられた気がして苛立ちが胸を濁す。唇をへの字にして歩き出した。
高校は坂を下った先。大体、徒歩で十五分くらいだ。車や自転車が行き交う中、桜並木を黙々と歩く。グラウンドが見えてきたら正門はもうすぐだ。
「あ、バスケ」
ボールが地面を打つ音が聞こえた。反射的に目を向けてしまう。グラウンドの端にゴールが見えた。その前で数人がボールを追っている。朝練のようだ。
少しの間、足を止めて練習を眺めた。なんとももどかしさを感じる練習風景だった。言葉は悪いが、ぼやけた視野でも分かるくらい動きが拙い。思わず浮足立ち「そうじゃない!」と口を出してしまいそうになった。
「いや、もう関係ないし」
湧き上がって来る感情をグイッと押し込めるように呟く。
「オレはもう、バスケなんてしない」
そう。去年の夏にバスケは止めた。
バスケなしの真面目な高校生活を送ると決めた。自分に言い聞かせるように「バスケなんてしない」と繰り返してから早足で正門を目指した。
上履きに履き替えて階段を登る。目指すのは一年S組の教室だ。時計を見ると予鈴が鳴る寸前だった。
「……」
少し歩いただけで周囲の視線が集まるのを感じた。
「うわっ、あれ、誰?」
「顔ちっさ!」
「足なっが! 腰の位置バグってる!」
「芸能人?」
「クラスどこ?」
「ネクタイって、あれで男子?」
「嘘。男子の制服選んだ女子じゃね?」
聞こえてくる言葉に眉根が下がる。思わず心の中でため息を吐いた。
小学生の頃からそうだ。
母は高校生でアパレル系雑誌のモデルを務めた文句なしの美女。父はしばしば世界的人気俳優に間違われるジム好きのアメリカ人。お陰様で容姿は抜群に恵まれている。しかも、いくら鍛えても細い筋肉しかつかない体質で、高身長の女子に間違えられることは日常茶飯事。中学生の時は良くも悪くも言い寄って来る者が絶えなくて、ボディガードが必要なくらいだった。
「高校も同じかよ」
中学の頃は迅が壁になってくれていた。大柄で寡黙なポーカーフェイスは冷淡な印象を与えるらしく、迅が傍に居る時は平和だった。
「迅……」
だが、高校に迅は居ない。去年の夏、律の方から連絡を断った。意図的に別れたのだ。高校では、自力で乗り越えていくしかない。
前途多難かも――。
不安を覚えながら二階の奥にある一年S組の教室に入った。ちょうど予鈴が鳴った。
「おぉ、やっと来たぞ! 入学式も来ないし、二十日になって全員揃うなんて初めてだ。おい、委員長! お前が心配していた最後の一人、ようやく来たぞ」
教壇に立っていた担任が大声で言った。クラスメイトは皆、既にお行儀よく席に着いている。律は最後の一人だった。
全員の視線が刺さる。それだけでも落ち着かないのに、律に見惚れて我を忘れたような表情になっている者が何人もいて逃げ出したくなった。
「おはようございます」
困惑の表情で担任に挨拶したが、気持ちは汲んでもらえそうにない。諦めて鞄から書類を取り出した。
「んんん? インフルAとBの両方だったから出て来なかったのか。で、なんだ、これ?」
「地毛証明です」
「地毛、地毛ぇ、地毛ねぇ? 見事な茶髪が地毛かぁ」
スーツ姿だが体育会系が隠し切れない中年教師の声は、隣の教室まで聞こえるくらい大きい。ズケズケと思ったことを口に出すところも合わない感じがした。苦手だ。本当に色々な意味で前途多難な一年になりそうだった。
「で? おぉ? なんだぁ?」
担任は残りの一枚に目を通しながら唸った。なんだか嫌な予感がする。
「配慮、配慮かぁ。配慮ねぇ」
顎を摩りながら担任はグルリと教室を見渡した。
「目ぇ見えないんじゃ一番後ろは無理か。この『外傷性網膜剥離』って治るのか?」
「!」
やっぱりこの担任は苦手だ。なぜ、全クラスメイトの前で目のことをばらされないといけないのか。怒りさえ覚えながら担任を見た。しかし、担任は全く何も感じていないようで、顎を摩りながら言葉を続けた。
「でも、座席はもう決めたんだよなぁ。おい、委員長! しばらくお前がサポートしてやってくれ。どうしても見えないなら前に変えるから」
配慮配慮、と言いながら担任は書類を出席簿に挟んだ。
「? っ!」
大声でセンシティブなことを言わないでください! と担任に抗議したかったが、それどころではなかった。教室の一番後ろ、窓に近い席に居るはずのない知った顔を見たからだ。
「迅……」
少し雑に掻き上げたオールバックの髪と、鋭さを宿した切れ長の目に、すっと伸びた鼻梁。そして薄い唇が完璧ともいえる配置の顔を見間違えるはずもない。
着痩せするタイプで、実は驚くほど逞しく、一日三試合フル出場しても平然としている体力お化けであることも知っている。だって、同じユニフォームでコート上を走り回っていたから――。
担任に背中をバシバシと叩かれ、机の間をおぼつかない足取りで進んだ。
「なんだよ。幽霊でも見たみたいな顔して。ほら、座れ」
「……」
迅が椅子をポンポンと叩いた。担任から「早く座れ~」という声も飛んできて、自分だけスロー再生されているような動きで腰を落とした。驚き過ぎて言葉が出てこない。
唖然とした表情で隣を見る。やはり、迅だ。何度見直しても、佐藤迅その人だった。
「ねぇ、もしかしてあの二人って」
「龍角中のバスケ部主将と副主将だ」
「めっちゃ強くて有名なとこ! あれ? それなら推薦で強いトコ行ったりしない?」
「あ、目が見えないから行けなかったとか?」
「え~、でもそれで二人一緒にココ? 特進だよ?」
教室がざわついた。
皆の言うとおり、律と迅は地元・龍角中のバスケ部出身だ。一年の時からスタメンで全国大会に出ていたし、三年では迅が主将で、律が副主将。全中ベスト四という悔しい思いをした。当然のように、バスケ強豪校に推薦で行く話も出ていた。
しかし――。
「迅、なんでここに居るんだよ?」
鞄を置き、チラッと横目で見ながら尋ねた。見えにくいが、迅の眉間には深い皺が刻まれていた。明らかに怒っている。その原因に心当たりしかない。思わず視線を逸らせた。
「授業始まるぞ」
迅の言葉に顔をそむけたまま小さく頷いた。
(迅だ……)
去年の夏以降、迅の声を生で聞いたのは初めてだ。
低い声には、試合の時に全身から放っていた気迫と威圧感がそのまま乗っていた。まさか、それをコート以外の場所で浴びせられるとは想像もしていなかった。鳥肌が立ちそうだ。しかし、怒りや困惑、少しの悲しみが混じっているように聞こえて、心臓をギュッと掴まれたような感覚に襲われる。
(迅だ。迅が隣に居る)
驚きと戸惑いの他に、なんとも言えないむず痒いような感じが胸の中を満たしていた。
