「ねぇ。タマシロっている?」

 昼休みに入った直後だった。机に出していた教科書をしまっている最中、聞き覚えのない声に名前を呼ばれて、後ろを振り向く。教室の出入り口近くのクラスメイトが対応している相手は、あの坂田だった。
 太腿の半分近くが露わになるほどスカートを短くして、気怠そうに立っている。手には大きな赤色のリボンがついた携帯を握っていた。

「玉城は僕だけど……」

 クラスメイトたちが好機の目で僕と坂田を見る。坂田は学年でも目立つ女子だった。あの速水と付き合っていた女子というだけでなく、中学でもやんちゃをしていたという噂もあった。この学年でも、いわゆる一軍と呼ばれる位置にいると小耳にはさんだことがある。
 小顔、すらりと伸びた脚には無駄な脂肪がなさそうだ。女子が憧れ、男子からはかわいいと言われる容姿なのだろう。

「相談したいことあんの。ちょっと付き合って」

 携帯だけを持って彼女に近付いた僕を、坂田はめいっぱい見上げていた。品定めするように頭の先から爪先までを見たあと、やる気のなさそうな口調で言う。彼女は僕の返事を待たずに、中央階段へ向かって歩き始めた。
 自分勝手な振る舞いに呆気にとられ彼女の後ろ姿を見ていると、くるりと坂田が振り向く。不機嫌そうな表情を浮かべて、「さっさとして」と言い放って、また一人で歩いて行ってしまった。
 背中に刺さる同情の視線から逃げるように、僕は彼女の後を追った。背筋を冷やされるような風が、足を進める後押しをしているようだった。

 一階の生徒玄関前には学生が休憩できるようにと、木製のテーブル一つに対して四人掛けのベンチが二つ置かれている。それが全部で三組あるが、昼休みには誰も利用していなかった。部活終わりの生徒たちがよくこの場で集まっていることを知っているから、この閑散さが新鮮だ。
 階段から一番遠いベンチに坂田が座り、僕はテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。片手ずっと携帯をいじる坂田を、まじまじと見ながら待つ。
 指定の制服にニットベストを着た坂田の髪は、肩のあたりできれいに切り揃えられている。明るい茶髪の色に、大きな瞳が印象的で、彼女の小さな身長と相まって小動物のような雰囲気を感じさせた。

「玉城ってさぁ、七瀬と仲良いって聞いてたんだけどほんと?」

 携帯をいじることを止めずに話す坂田とわずかに目が合う。話したことがないはずだったけれど、高圧的な態度に身構える。

「いや、なんとか言えよ。こっちが訊いてんだけど」

 返事をしないでいた僕に、「つかえねぇ」と彼女は盛大に悪態をつく。その言葉にむっとするが、学校で女子生徒と口喧嘩をする気分にはなれない。どうこの坂田と会話したらいいのか分からず、慎重に言葉を選びながら返事をするしかなかった。

「まあ、少しは仲良いけど」
「少しは、ってなに。綾はあんたに、今七瀬と仲良いのかって訊いてんだけど」
「仲は別に普通じゃないかなと思うけど……」

 電灯がついているとはいえ薄暗い生徒玄関で、僕の心も少しずつ陰っていく。速水の元彼女で、速水と別れた後も一緒に帰っていた。それくらいしか情報を知らない女子生徒から、強く当たられる理由が分からない。
 きっとこういう強気な表情は好きな相手に向けることは無いんだろうなと、居心地の悪さから意識を逸らして考える。どうでもいい対象として見られているのは構わないけれど、せめて不機嫌さくらいは隠してほしい。
 そう思いながら、なんとなく僕は坂田のことを見続ける。目が合うだけで「きもい」と誹謗されそうな雰囲気が、彼女にはあった。

「つかいいわ。本題なんだけど」

 携帯を置いた坂田が、胸の前で両腕を組む。

「あんたさ、七瀬に好きな人がいるかとか知ってる?」
「え、き……知らないけど」

 興味がない、と口をついて出そうになったところを、咳払いで軌道修正する。僕の返答に納得がいかなさそうな表情をした坂田は、目つきを鋭くした。仲が良かったとはいえ、気まずい友人ていどの距離感でしかない状況で、速水の恋愛事情なんて訊いているわけがない。
 こちらの事情も知らずに、坂田はぐちぐちと文句を言う。何をしても今の坂田には怒りの燃料にしかならなさそうで、僕はだんまりと時間が過ぎるのを待つしかない。

「仲良いなら知っとけよ。使えないし、お前呼んだの無駄すぎ」

 彼女の態度の悪さに、反論する意欲も湧き上がらない。へたなことをして穏やかな学校生活が失われてしまうことの方が、ずっと重大な問題だった。

「てか玉城って吹部?」
「そうだよ」
「あんたさ、ピアノできる女知らない?」

 ピアノを弾くことができる女子生徒。そう言われてパッと思いつくだけでも、秋羽部長を始めとして三年生の磯川先輩、室先輩。同級生の谷津、榊、後輩の坂江の名前が浮かぶ。

「急に、どうしてピアノ?」

 浮かんだ名前を坂田に伝えることは憚られた。彼女のようなスクールカースト上位の人間たちがクラシックを好きだとか、ピアノのコンサートに行くだとかは聞いたことがない。こういう人たちは文化的な教養が足りていないだろうし。
 そんな人たちに、ピアノを弾くことができる人を教える必要はないように感じられた。坂田は小さく舌打ちをした。

「七瀬がピアノ気にしてたの。一緒に帰ってる時もずっとよくわかんない曲口ずさんでるし。何それって言ったら、ピアノの曲って。だからあんたに訊いてんの。私の七瀬に誰が色目使ってんのかって」

 さも当然のように「私の七瀬」と言った坂田に、呆然としてしまう。別れているはずの男に、ここまで執着できるのか。別れたと聞いて三ヶ月以上経っているはずにもかかわらず、坂田はまだ速水七瀬の隣にいる自分に酔っているようだ。

「速水がピアノを口ずさんでたって?」
「だからそうだって言ってんじゃん。何回も言わせないでくんない? うざいよ?」

 ひとつ確認すれば、倍の罵倒が跳んでくる。その罵倒を気にする余裕もなく、速水が、ピアノを、と頭の中で反芻する。

「それっていつ? 速水が口ずさんでたのって」
「先週の木曜とか金曜もだけど……。何急に、心当たりあんのかよ」

 連弾に誘った翌日から、速水はピアノを気にしているようだった。速水が今も口ずさめそうなのは、『シチリアーノ』や『渚のアデリーヌ』だろうか。連弾と言われて、昔弾いたあの曲を口ずさんだだろうか。
 けれど坂田の言い方から察するに、コマーシャルや動画でも使われることが少なくて、ピアノを知らない人にとって聴き馴染みのない曲は『シチリアーノ』だろう。
 あの日の夕方以外にも、坂田は速水の隣を歩いている。あの日は親密そうに見えた二人の姿だった。けれど、最近になって坂田の知らないところで速水が誰かを気にしていると考えて、鬱屈とした気持ちを抱いていたのかもしれない。その鬱屈さは、別れてからずっと育ってきた感情なのだろう。
 だからこそ坂田は速水の興味を惹こうとして後ろに引いて歩いてみたり、時には密着するように時間を過ごしていたのかもしれなかった。結局その方法もうまくいかず、走り去った。とっくのとうに恋人期間は終わっているのだから、速水の無関心さにも納得できる。

「なあおい。心当たりあんでしょ。その態度」
「ピアノを弾ける女子は吹部以外にもいるから、心当たりがないわけではないけど……」

 連弾の話をしたから、という確信はなかった。ピアノを弾くことができる女子の名前を伝えてしまえば、この時間は早々に終わるのだろうけれど、他の面々に影響があるだろう。
 他の人たちに迷惑をかけそうな相手に伝えられることはなにもなく、僕は曖昧なのらりくらりとした返答を続ける。彼女が当初よりも不機嫌な様子であることが、ひしひしと伝わってきていた。

「ん」

 坂田が急に手を伸ばす。その動作の意味が分からず、「なに?」と返すと深く長いため息を吐かれた。まるで僕が悪いと言わんばかりの態度だ。

「け、え、た、い」
「なんで」
「ピアノできる女が分かったら連絡もらうためだけど。なんでって、意味わかんないんだけど」
「嫌だけど」
「は? お前に拒否権あると思ってんの? ばかじゃん?」

 何度か問答をしても全く引く気のない坂田の態度に嫌気が差し、渋々携帯をポケットから取り出す。身を乗り出して、ひったくるように取られた携帯が、またすぐ手元に変え冴えた。携帯自体にもアプリにもロックがかかっているから、解除しろということらしい。
 坂田も計値を操作して、アプリの友達登録画面を開いていた。強制的に、アプリに坂田のアカウントが友達として登録されてしまった。

「協力しろよ? 七瀬が他の女と付き合うことになったら、玉城のことマジで許さないから」

 捨て台詞のような言葉を吐き捨て、坂田は短いスカートを揺らして去っていく。台風のような、避けては通ることのできなかった風災が、僕の心をいたずらにかき乱していった。
 この日の合奏は、散々なものだった。指揮台から僕を見る山路先生の視線を、まともに受け止めることができなかった。部活が終わり、楽器庫にそれぞれ楽器を片づける。片づける楽器がない部員は、音楽室を授業ができる状態に整え帰宅していく。
 夏の空気は湿り気を帯びて、背中にシャツがぴたりと張り付く。さらに上からリュックが背中を圧迫して、不快さが増していた。
 はっきり言って上の空だった。怒られない程度に力を抜いた演奏をしていたことは、僕自身が一番分かっている。最近はピアノの音だけじゃなく、合奏の音さえも旋律として聞くことができなくなっていた。だから、山路先生には怒られなかった。注意するに値するだけの演奏をしていない。お世辞にも褒められるようなものではないと、よく分かっている。
 初めこそ合奏の音色や指揮の動きに注意深く集中して楽譜をなぞっていたけれど、ただなぞるだけの音だと自覚してしまってからはダメだった。
 坂田が発した「私の七瀬」という言葉と、速水がピアノを気にしているという言葉が、耳から離れない。何かに集中しようとしても、僕の意識を掬い上げてしまう力を持っていた。この言葉ばかりがぐるぐると思考に混ざり込んで、抜け出せない。
 もし、まだあいつに、ピアノを弾きたい気持ちがあるんだったら。
 そう思うと、口元が緩む。緩むたびに、そんなわけないと口を引き結ぶ。僕自身を戒めるために何度も、そんなわけないだろ、と反芻する。僕の音が好きだと言ってくれた速水の言葉に、ピアノを気にしているらしい速水の態度に、ほだされてしまいそうで胸が苦しい。
 夏風が抜け、心が軋むような音がする。中途半端に戻りかけて、近くなったと思ったらまた少し遠ざかったこの距離感が、こんなにも苦しいだなんて思いもしなかった。弾けないと拒絶しておいて、僕の知らないところで急にピアノを気にし始めるだなんて、本当にあいつはずるい男だ。
 弾けなくなったピアノの音が、揺らいでいる自信が、重たくなった大気の重量に負けてしまいそうだった。
 あの冬の日の情景に抱いたのと似た気持ちが、ふつふつと湧き上がる。