目が開くと、携帯の充電は落ちていた。アラームは鳴らなかったけれど、復活した携帯が表示した時間はいつもの起床時間よりも三十分近く早い時刻を示す。親もまだ起きていないリビングを通り、洗面台で身支度を済ませる。
 部屋に戻ってすぐ、ピアノの蓋を開けた。鍵盤に触れる指がなんとなく重い。指ならしに『きらきら星』や『トルコ行進曲』をピアニッシモで弾く。朝だからか音色が続かないような違和感がある。
 鍵盤から手を放して自分の指をまじまじと見つめる。まっすぐに伸びた、男にしては節の少ない指。握ったり伸ばしたりしてみるが、何かに操られているような変な重たさがある。
 部活になっても違和感が続いた。練習をしても音の世界が広がっていかない。音が、音としてしか存在していないような不安が募る。音が、音としてしか響かない。自分の音がどこにもない。
 基礎練習も、自分の音の粒が分からなかった。変な感覚が集中力を切らして、トレーニングパッドを叩くスティックを投げ捨てたい衝動が生まれる。初めての感覚が気持ち悪くて、どうしたらよいのかが分からない。思うように弾けない歯痒さを感じながらも、僕を待たずに日々は過ぎていく。
 不安定な音のいびつさが増していく日々を過ごし、気づけばカレンダーは土曜日まで進んでいた。
 雲の気配一つない、真っ青な快晴。炎天下に晒された屋外プールには、足首が浸かる程度に水が張られている。

「えー、お互い朝からお疲れ様です。テニス部部長の遠藤でした。お互いの顧問が仲良いってことで、今年も恒例になりましたプール清掃です。よろしくお願いしまーす」

 タンクトップに太腿を半分近く出した短パンという出で立ちの遠藤先輩が、プール清掃を取り仕切るらしい。元々はクラス毎にしていたそうだが、通学や部活の都合で参加できない生徒も多く、ここ数年はテニス部と吹奏楽部が合同で行っていた。
 テニス部顧問の安田先生とヤマ先が同じ大学出身だったから、という理由から気づけば七月のメインイベントのようになっている。

「てきとーに半分ずつに分けたから、先に名前呼ばれた生徒は隣のプール清掃でお願いします。向こうは向こうで掃除道具あるから、呼ばれ次第移動で」

 そう言い、遠藤先輩はテニス部から名前を読み上げていく。名前を呼ばれた生徒は数人ずつ固まりながら、二番プールへ移動を始めた。全員の移動が済み、残された面々はホースやデッキブラシを持って端から清掃を開始する。
 運動着のテニス部と、制服の裾をまくっただけの吹奏楽部が同じ空間にいるのは、なんだかちぐはぐでおもしろい。足首が浸かる程度の水深だけれど、スラックスが濡れてしまわないように、僕は膝下まで裾をまくった。
 プールにはうっすらと苔が生えていたり、足裏にぬるりと触れる箇所があったりと、掃除しがいに溢れている。そうした汚れのある部分をデッキブラシで擦る。前傾になって腰を曲げた体勢が続き、何度か腰を反らして身体を伸ばす。
 部活ごとに分かれたものの、制服の吹部と運動着のテニス部には少し溝があるようだった。それぞれ各部活ごとに集まって、吹部は淡々と掃除を進める。日中のカンカン照りに鳴れていないのも原因だろうけれど、吹部の口数は明らかに少ない。
 テニス部はホースで水を掛け合い、楽しそうに会話しながら作業をしていた。

「あぢー……」
「テニス部全然平気そうですごいね……」

 ぐったりとした一輝は片手にホースを持って、僕の前にきれいな水を流してくれていた。水色のタイルが格子状に並んだプールの底をデッキブラシで擦る。浅い水面が強制的に揺らされ、波打つ。デッキブラシの動きに合わせて、ぱちゃぱちゃと水が弾けた。
 最初は冷たく感じた水温は、とっくにぬるくなっている。毛穴という毛穴から汗が噴き出ているような感覚。背中にぺったりとワイシャツが張り付いた不快感。身体を動すのもつらいけれど、ただ立っているだけでいるのもかなり辛いだろう。
 現に一輝は逃げられない陽射しの下で、限界そうに「あぢぃ」と呟いてばかりいる。

「一輝日陰で休んでたら?」
「や、だいじょうぶ」
「限界そうだけど……」
「あついとは思ってるけど、そこまで限界じゃねーから平気。もう少し頑張ろうぜ」

 力なく笑った一輝を信用できないけれど、また前傾姿勢になってデッキブラシを動かした。腰回りの筋肉がピンと張っている気がする。無意識に腕に力が入って、頭が下がる。沸騰した血液が頭に集まってくらくらとして、頭をあげた時だった。

「うぶぇっ」

 顔面に当たった衝撃に、バランスが崩れた。ばちゃん、とひときわ大きな音が響く。尻と太腿の痛みがズキンと響くのに合わせて、太腿のつけ根や股間が濡れる不快感が広がる。転んだ。濡れてる。痛い。顔は濡れていて、どうにか頭を働かせて状況理解を続ける

「玉城ぉー! ごめーん!」

 顔の水を濡れた手で拭いていると、同級生の上戸が走り寄って来た。着ている服は水に濡れて色が濃くなっている。上戸自身も頭からつま先までびっしょりと濡れていた。彼の奥に、速水が見える。
 ようやくテニス部の水の掛け合いに巻き込まれたことを理解した。

「――やったな」
「えっ? うえっ」

 手を伸ばしていた上戸に向かって、両手で思い切り水をかける。少し汚いプールの水を、思い切り。それは狙い通り上戸の顔を中心にヒットし、上戸は動きを止めた。しんと静まった空間に、ぽたぽたと水が滴る音が鳴る。

「……玉城てめぇ許さねーぞ! 俺にホース貸して!」

 顔が濡れたままの上戸が、後方のテニス部員にホースを要求する。僕は水を吸って重たくなった身体でどうにか立ち上がり、傍にいた一輝からホースを奪う。後ろを向いて無防備な上戸のシャツの中に水を流す。

「つめってぇ!」

 浜に打ち上がった魚のように跳ねた上戸が、声を張った。
 これがきっかけでプール清掃は水の掛け合いへと発展してしまった。制服が濡れるのも気にせず、水を掛け合う。関係なかった吹部の皆も、気づけばびっちょりと濡れていた。プールの中を走り回る。面白いけれど、熱くて苦しい。陽射しはじりじりとつむじを、鼻先を、赤く焼いていく。その分かけられる水の冷たさが心地良い。
 何度も足がもつれて水に浸かってしまいながら、水面に揺らぐ自分の姿を見た。濡れそぼった金色の髪に、肌が透けた制服。波紋でゆらめく僕の姿に、松田先生の家で見たクラゲの風鈴を思い出した。
 変わらなかった空間で唯一の変化だった、クラゲの風鈴。ゆらりゆらりと空を泳いでいた。吊るされたしがらみ以外、何もなかった風鈴の音色が耳から離れない。
 ぼんやりと立ち尽くした僕の後ろで、「うわー!」とか「タンマ!」とか悲鳴も混じった声がいろいろなところから聞こえてくる。広いプールを振り返ると、隅に立っていた遠藤部長がずぶ濡れになっていた。隣にいる上戸の手に握られたホースからはじょろじょろと水が流れる。

 空気が震えるほど反響した大声で、遠藤先輩が怒鳴った。

 水を打ったように静まったプールは、おとなしい水しぶきだけがデッキブラシとともにおどる。濡れた髪もワイシャツもなかなか乾かない。残った湿気が気持ち悪いけれど、楽しい時間だった。遊んでいた時間の方が多かったプール清掃も、なんとか昼前には終わることができた。
 前のめりの体勢が続いていたせいで、伸ばした腰回りは痛みを伴う。みんながプールサイドに上がり、排水口に流れていく水を眺める。
 僕が上がった隣には、偶然速水が座っていた。速水は普段縛っている髪を下ろしていた。その髪は水に濡れてきらりと光り、太陽光を受けて深いミッドブルーの色を透かす。
 今までの距離感だけれど、今は少しだけ気まずさが強い。横目で速水を盗み見てしまい落ち着かない。浮ついた心が居心地悪そうにぷかぷかと漂う。

「すごい濡れたんだね」

 やわらかく、同級生の中では少し低い凛とした声がそう言った。数日前の会話なんて覚えていなさそうな、何気ない言い方だった。

「うん。午後練で怒られそう」

 少しだけ空を見つめて、僕は返事をする。速水も濡れていたはずなのに、速乾性に優れた運動着はほとんど乾いているようだ。吹奏楽部の面々ばかりが、ぴったりと肌に張り付いたワイシャツを煩わしがっている。

「文化祭で連弾するんだ?」
「一応。相手まだ決まってないけどね」
「そっか」

 黙った速水のことを見る気持ちにはならなかった。連弾をしたい気持ちも薄れている自覚がある。楽しいから弾き続けたいと思っていたのに、そうした気持ちが揺らいでいる。
 連弾の曲も相手もできるだけ早く決めないといけないけれど、あの日から僕は前に進めないでいた。

「俺、悠のピアノの音好きだよ」

 速水の優しい声音に、思わず奥歯を強く噛み締めた。

「連弾応援してる。聴きに行くよ」
「ありがと」

 速水の言葉がすっと通り過ぎていく。夏の暑さが、静かに肌を焦がしていた。何かがつっかえているような苦しさが、胃のあたりにずっとある。速水の気まぐれな言葉に振り回されそうになってしまう。

「隣も終わったみたいだから集合ー」

 テニス部の遠藤部長の声に、速水を置いて立ち上がる。プールの外で部長から解散の言葉を受け、それぞれの部活の場所へと部員が散っていく。
 やる気の上がらない部活を惰性でこなした身体は、ピアノ教室に行く気力を残していなかった。
 夕食も摂らずに、部屋のピアノの前に座る。ピアノの音に没頭したくて鍵盤に指を置く。楽譜は置かずに『序奏とロンド・カプリチオーソ』を弾く。
 順調に進んでいたはずの演奏が、ロンドに進む寸前で止まる。弾こうにも、指が続かない。響きが浅くて、曲に温度がない。音の裏に背景がない。ただ頭に浮かぶ音符をなぞるだけの時間。音として空気が震えているだけで、旋律として成り立ってはいなかった。
 自分の指をまじまじと見つめる。どこもぶつけてはいないし、爪が伸びているわけでもない。いつもどおりの僕の指があるだけ。ピアノの旋律だって、おかしなところはなかった。ドはド、レはレ。ドレミの音は正しくドレミの音が鳴る。
 初めての状況に、ピアノから拒絶されてしまったような不安が生まれた。血の気が引いたように指先が冷たい。もう一度鍵盤に触れ演奏するが、ピアノから出るのは知らない音。
 音が音でしかないことや旋律にもならない音が、こんなにも冷たいとは知らなかった。無機質で誰の心にも響かないような音だった。
 どこにもいけない音が留まって、空気に溺れて、浮き上がることができない苦しさ。奏でられた音はどこに向かうことも、流れることもできず、浮かび上がることができないまま消えていく。

「弾けなくなった……?」

 何を弾いても、途中で指が止まってしまった。
 本棚から教本や楽譜をひっぱり出して、譜面台に置く。リトミックの簡単なものから、リスト作曲の名曲まで、楽譜を見ながらピアノを弾く。
 それでも、どうしても、途中で指が止まった。ピアノがやけに大きく感じる。

「……弾けない」

 自分の声に、はっとする。口にしたことで、これまで違和感だけだったものが、本当に弾けなくなってしまったような気がして、慌てて首を振った。もう一度、今度こそ最後まで弾けるようにと『子犬のワルツ』や『カノン』、『ユーモレスク』――思いつくままに音を鳴らしていく。
 それでも結果は同じだった。奏でたい旋律が出てこない。音としては鳴る。どれだけイメージを膨らませてみても、空気の抜けた風船のようにすぅと消えていく。
 一生ピアノが弾けなくなったらどうしよう。不安で、指先が震える。
 ぽたりと涙が落ちる強い絶望ではなかった。けれど、ぬるま湯が身体をじわじわと満たしていくような静かな不安と焦燥。どこにも響いていかない。誰にも僕の音が届かない。
 僕自身にも届かなくなってしまった。目の前がぐわりと、黒くなる。