「私たち三年がみんなのことを支えられるところはあるから、皆はまっすぐぶつかりにきてね。こういう、振りへの意見を言うっていうのも、みんなで合奏をやる中ではとっても大事だから」
返事は、まばらだった。それでも部長は嬉しそうに笑う。この部長がいる時代に吹奏楽部でいられて良かったと思える。それくらい人として格が高いように感じられた。
「で、まあそれはそれとして。ちょっと今月いろいろと忙しそうだから、もう七月に入って一週間経っちゃったからここらで整理しよう」
そう言い、部長は黒板の方へ移動する。僕たちもそれを追って、音楽室の隅から中央へと移動した。部長は白いチョークを手に持って『七月・予定編!』と右肩上がりに書いている。七月のメインイベントは今まさに部長が書いたように文化祭だろう。
今週、七月の第二週の平日は通常練習。土曜日の午前中は男子がプール掃除で、女子は楽器庫の清掃の予定があるらしい。日曜日は朝から通し練習。
第三週も大きく変わらず、平日の通常練習、休日は通し練習の予定だ。第四週も同様だけれど、第五週の金曜日から土曜日には文化祭が待っている。文化祭と書かれた文字は、ピンク色のチョークで周囲を囲われ目立たせられていた。
「意外と時間なくて、今日中に文化祭で何やるかってことを決めまーす。ヤマ先には報告済みなので、さくっと色々案出してー」
ぎこちなかった空気が、一人の「テーマパークの曲のメドレー!」を皮切りに、がやがやと騒がしくなる。黒板には次々と演目の案が書かれていった。オーケストラの名曲、ポップソングメドレー、アニメソングメドレーなど、誰でもが楽しめるようなメドレー案が多く出される。
例年通りなら体育館が会場となっていて、吹奏楽部の持ち時間は三十分程度。部活紹介やメドレーだけで、持ち時間の半分近くは使ってしまう。メドレーのあとに何をするか決めるのも、骨が折れる作業だ。
隣に移動してきた一輝は案は出さないながらも、「楽しそー」と呟いている。僕は挙げられる案をや曲をどう演奏するか考えながら、頭の中でイメージをふくらませる。一般公開日に披露する演目になるのだから、少し目新しくて飽きさせないような何かがあったらいい。
「ねー、玉城ー」
吹奏楽部らしさもありつつ、一般公開で楽しめる演目かぁと頭を働かせているところに、突然秋羽部長の声が飛んでくる。前を見ると、もうほとんどスペースがないほど文字が書かれた黒板があった。部長のスカートが白く汚れている。
「今年も連弾する?」
秋羽部長のその言葉に、部員たちの目線が一斉に僕を見た。百人単位の視線に圧を感じて、少しだけ肩に力が入る。
部長が連弾を提案したのは、昨年の文化祭で披露したことが理由の一つだろう。部員の中でもピアノを弾くことができる面々と、交代しながらさまざまな曲の連弾を披露する演目だった。ピアニストのソロコンサートもそうだが、連弾の演奏もあまり一般的ではないらしく、物珍しさもあって大盛況だった覚えがある。
「去年の連弾すごい評判良かったしさ、私もみんなも楽しかっただろうしさ、どう?」
さも軽い提案だよ、と言いたそうに部長はにっこりと笑っていた。一輝に肘で小突かれるのを無視して、穏便に済ますことができそうな言葉を探すが、数人からの期待がこめられた視線に渋々頷く他なかった。
「今ちょうど練習している曲もあるから、まあ、その、前向きに検討って形で……おねがいします……」
「おっけー、やる方向で考えながら楽譜だけ用意しとくねー」
黒板にしっかりと書かれた連弾の二文字。連弾は楽しいし、実際に去年も楽しかったけれど、荷が重いのは事実だ。もう連弾をやらない選択はなさそうで、体を小さくする。一輝が苦笑い混じりにちらりと僕を見て、また黒板を向き直った。
その後はメドレーなどの案以外にも、連弾で披露する曲の案もいくつか出始める。その中に、かつて僕が速水と連弾をしたことがある楽曲があった。
ベートーヴェン作曲、交響曲第五番『運命』第一楽章。
速水が弾くプリモに低音のセコンドを合わせたい。そう無理を言って、速水と最後に演奏した曲だった。冒頭の特徴的な音色が合わせられなくて、なんどもケンカをしながら練習をした。今よりも次の演奏が良くなるように、二人でピアノにばかり向き合っていた日々が懐かしい。
思い出の紐が解かれ、記憶の包装が少しずつ剝がされていく。もしこの曲を弾くのなら、その隣は速水以外に担うことはできない。音の厚みも、この曲にかけた思いも、一朝一夕で超えることはできないのだから。
「玉城さー、今出た曲とか弾いたことあるのも入ってるよね? 一緒に弾いたら楽しそーなのも追加しちゃった」
「まだ少し考えさせてくださいよ、前向きに検討って言ったじゃないっすかー、もー」
二ッと笑う部長に、少し伏し目になりながらも明るく返すことで精一杯だった。
黒板いっぱいに書かれた案は最後までまとまらず、部活後に部長とパートリーダーが集まって決めることになった。
「悠まじで連弾すんの?」
「前向きに検討って言ったんだけどね」
その日の部活終わり、一輝が心配するように声を掛けて来た。校門を出て部員たちがまばらになった通学路を歩く。課題曲『メルヘン』もだけれど、今弾きたい『序奏とロンド・カプリチオーソ』を抱えながら連弾用の練習をすることは、あまり現実的ではない気がしていた。
弾きたい曲を弾くためにピアノを続けている中で、義務的になってしまう連弾練習は好きになれない。去年もプリモが交代していくなか、セコンドの僕が交代したのは一度だけ。
「弾きたくないって言えない雰囲気にされるのは、ちょっとずるい」
「たしかに。あれで断るの無理だよな」
「無理だよ、みんな見てくるし。断らせないようにしてんのかな」
「そんだけ期待されてんだよ」
からっと一輝が笑う。憎めないその笑い方に、僕も自然と口角が上がった。
「ちなみに俺今日ファミレス行くけど、悠も行く?」
その言葉に、僕たちはいつもの通学路を離れて大通りを進む。大きな交差点をいくつか進むと、目的地の看板が見えた。カフェレストランと銘打たれたファミレスチェーン店は、幌南生に人気の店。広い駐車場には沢山の車が停まっているのが分かる。
テスト期間には勉強道具を広げて何時間も居座る幌南生のグループであふれかえるけれど、店員たちはあまり注意をすることはなかった。そうした懐の広さがあり、幌南の生徒たちはテスト期間以外にもこのファミレスを利用することが多い。
店内は満席に近い混み具合だ。端の席に通されてすぐ、一輝がタッチパネルを操作する。
「ポテト大盛りでいい?」
「うん。あとドリンクバー二つ」
シーフードドリアとミックスグリルも併せて頼む。注文を済ませ、レジ横のドリンクバーカウンターにそれぞれジュースを取りに行く。一輝はメロンソーダで、僕はオレンジジュースをグラスに注ぐ。
店内はファミレス特有のざわざわとした賑やかさに満ちていた。家族連れが多く、至る所で小さい子たちの声が聞こえてくる。
「てかまじ連弾どうすんの?」
ストローを使ってジュースを吸いながら、一輝がそう言う。一拍置いて、うーん、と答える。
「去年みたいなのはやりたくないけど、連弾かぁ」
「断りにくかったしな」
去年の連弾もたしかに楽しかった。何回でも弾けるし、何回でも弾いてやると考えていたけれど、実際に沢山の曲を相手に合わせながら弾くというのは、骨が折れる。弾くならせめて、相手は一人か二人がいい。できれば、一人だけとじっくり練習を重ねたい。
文化祭までの約四週間の日程で、連弾として披露する最低限のレベルに到達するためには、そうするしかないように思える。
「まあまだ、前向きに検討してるところだから」
ため息混じりにそう言って、オレンジジュースを飲む。去年一番合わせやすかった秋羽部長に依頼するのが順当のような気もするけれど、あまり気が進まない。誰と弾いてもいいなら、隣には速水の音が響いてほしいと思ってしまう
「めっちゃ急だし、相手探すのも大変だろ」
「うーん……」
氷だけが残ったグラスを、ストローで遊ぶ。くるくると氷を回して、縦に並ぶ氷を落として、また回す。
「てかめっちゃ混んできたな」
「うん」
「期間限定の海鮮かた焼きそばも美味しそうだったよな。俺次あれにしよ」
「うん」
「……おーい。聞いてる?」
「うん」
「疲れてんなぁ」
ストローを咥える一輝を見つめる。ジュースを飲みながら小首を傾げた一輝に、口を開く。
「料理を持ってきましたニャン!」
その声に振り向くと、やる気に満ち溢れた顔のニャンタと名札がついた配膳ロボットが僕たちを見ていた。くるりと向けられた背中には、湯気の立つドリアとミックスグリル、大盛りポテトが置かれていた。
それらを取り「押してね!」と書かれたポップの隣にあるボタンを押す。ニャンタはとんちきなメロディを奏でながら厨房へと去って行った。さっきまで聞こえていた音の正体がこのニャンタだったらしい。場の空気を全部持っていかれたような気持ちで、僕たちは目の前の料理と向き合った。
「とりあえず食うか」
「そうだね」
あつあつのドリアをゆっくり食べ進める。大きなエビがいくつものったドリアは、バターライス仕立てで、食材の塩味とあまみのバランスがちょうどいい。夏には熱すぎるメニューだが、冷房がよく効く室内ではちょうどよさすら感じる。
行儀は悪いが、ポテトをホワイトソースにつけて食べるのも美味しい。互いに空腹だったこともあり、ほとんど無言で全てを平らげてしまった。
テーブルの端に空いた食器を寄せて、ゆったりとした時間が流れる中で一輝の話に耳を傾ける。一輝は最近新作のゲーム機を購入してもらったらしく、サッカーゲームにはまっているらしい。
有名なプロ選手の中に自分をイメージしたキャラクタを投入し、ドリームチームを作ることもできるんだと、一輝は嬉しそうに話す。
「サッカー昔から好きなら、いろんなレジェンドと一緒にプレーできるの楽しそう」
「ゲームじゃないとできないからな。悠がピアノ弾く時間くらい、俺にとっては大事」
「ああー、なるほど。それはめっちゃ大事だわ」
きらきらとした笑顔で話す一輝に相槌をうつ。今の僕は、きっと一輝のような熱量でピアノの魅力を語ることができない気がした。弾いてみたいと思った曲を弾くためだけに続けているピアノに、少しだけ違和感を抱いていたからかもしれない。
「僕、さ」
だからきっと、昔の音に手を伸ばすことをやめられない。
「連弾、速水を……誘ってみようと思ってて……」
「速水って、テニス部の?」
「……うん」
小さく頷く。速水がピアノを弾けることを知っているのは限られた人間だけで、一輝はその事実を知らない。速水が高校で楽器に触れる機会はなく、あいつも自分が弾けることを公言していないからだ。
「速水ってピアノ弾けんだ?」
「辞めて三年くらい経つけど、何年も一緒に弾いてたんだ」
一輝に過去の速水の演奏や、これまでの演奏会の様子を簡単に説明しながら、速水の音を思い出す。速水の音は一音一音が重たいけれど、爽やかな雰囲気を伴っていた。聴き疲れしない、むしろ次の音を聴きたいと気持ちがはやるような音色が特徴だった。
「テニス部は今月大会ないっぽいし、去年も文化祭で出し物してなかったからオッケーしてくれそうじゃん」
一輝が目を細める。
「でもさぁ、なんかまだちょっと気まずいんだよね」
「あ、そうだ、二人ってケンカしてんじゃなかったっけ」
「ちょっと話してなかっただけだよ」
少し話していなかっただけでも、周囲がケンカを考えてしまうほど不自然な距離感だったらしい。一輝は「ま、そんなこともあるわな」と、新しく注いできたコーラをジュゴっと吸い込んだ。
あの日、勇気を出して速水と一緒に帰った夜を思い出す。ピアノをいつ辞めるのか訊かれた、あの夜を。僕のピアノが好きだと言ってくれた速水なら、もう一度一緒に弾いてくれるかもしれない。
「速水に訊いてみようかな」
溶けて角が無くなった氷をぐるぐるかき混ぜる。グラスの下半分にできた結露がテーブルを濡らしていた。コーラを飲み終えた一輝が頷く。
「いいじゃん。二人の連弾聴けるの楽しみにしとくわ」
「あんま期待はしないどいてね」
「おう。じゃ、帰るべ」
紙ナプキンでテーブルの水滴を取り、かばんを持って席から出る。すでに二十時を回っている店内は、まだ活気が溢れていた。弱い風の吹く外で一輝と別れ、すっかり暗くなった道を駅に向かって北上して進む。
携帯のメッセージアプリを開いては消し、開いては消しを繰り返していると、あっという間に駅に到着してしまっていた。速水宛のメッセージ欄にはまだ何も書けていない。
吊革につかまりながら左右に揺れながら、『文化祭のことで相談してくて』とだけ文字を打ち込む。何度か消して、『連弾しない?』『一緒に文化祭で連弾しようよ』など訊き方を変えたりしてみるがどれもしっくりとこない。
降車駅のアナウンスに慌てて送信ボタンを押してしまい、『文化祭で連弾しよう』と送信してしまった。すぐに既読がつく様子はないけれど、静かに息を吐いてうるさい心臓を落ち着かせる。指先が冷たくなっている。自転車を飛ばして家に戻り、寝支度を早めに終わらせた。
携帯を裏返しでベッドに置いたまま、ピアノの蓋を開ける。カバーを外し、鍵盤に指を置く。弾きなれた『序奏とロンド・カプリチオーソ』や『渚のアデリーヌ』を奏でた。
速水からの返答を見る緊張を、コンクールでの演奏前の緊張として思い込むように。指先が少し冷たくても気にせずに旋律は進んでいく。順調に、一つの滞りもなく終わった演奏は納得のいくものだった。音色には深みが増したような気がするし、何より僕自身が弾きながら音楽のイメージを膨らませることができている。
これならきっと、速水の音に合わせることもできるはずだ。表面の汚れを拭き取り、蓋を閉める。椅子に座ったまま、じっとベッドの上に置かれた携帯を見つめた。
集中してピアノを弾いていたから、通知が来ているかどうかすら分からない。部屋に時計もないから、自分がどれだけ長い時間弾いていたのかも定かではなかった。
意を決して、ベッドに寝転がり携帯を手に取る。
ふうと長く息を吐き出して、携帯を開いた。ロック画面にはいくつか通知が届いていた。
「来てる……」
両親からのメッセージの下に、一時間以上前の時間で速水からの返信が来ていた。アプリを開いて、その返信の内容を確かめる。
『他の部員の人と連弾やらないの?』
『吹奏楽部の出し物だよね』
黄緑色の吹き出しに書かれた文字は感情が読み取れない。緊張しているせいで、どう言葉を返していいのかすらまとまらないまま、画面下部の文字盤をフリック入力する。
『吹部の出し物』
『去年は部内でやったけど、今年は速水と弾きたいと思って』
送ってすぐに既読がつき、心臓を鷲摑みにされたように生きた心地がしない。個人画面から一覧へ戻り、速水からの返信を待つ。
『俺と?』
その短い返信から数分。一覧画面を黙って見つめるが、速水から追加の返信はない。小さく震える指先で個人画面を開いて、指を動かす。
『速水とピアノが弾きたい」
勇気を出した返信に、また、すぐ既読が付いた。僕は黙ってその画面を見つめる。既読の文字から目を離すことができないくらい、心臓が苦しい。緊張が高まって、文字を見つめているはずなのに文字が分からない。
『嬉しい』
『けど』
「けど……」
けどってことは、きっとそうだ。
『俺はたぶん悠の求めてるレベルじゃないよ』
『ピアノに触らないで何年も経ってる』
やっぱり、そうか。思っていた答えだったけれど、すっと血が下りてしまったように頭が白くなる。きっと断られる、でも、速水なら。そんな、小さな期待を裏切られた感覚。
ピアノに触れていなくたって、速水なら今までのように音を鳴らせるはずなのに、どうして。うつ伏せに体勢を変えて、両手で携帯のフリックを動かす。
『文化祭までまだ四週間くらいあるし』
『速水とじゃないと連弾は弾けない』
プリモが何人も変わる連弾は意味がなかった。一人のプリモを――速水のプリモの傍で、僕の音を奏でたい。そのためには速水がいないといけない。速水が弾くピアノの重たくも爽やかな音色がないとダメだった。
既読がついたまま、速水からの返信が止まる。やっとまた速水の近くに戻ることができたのに、なににもならないままの距離感が続いてしまいそうでこわい。
少しでも可能性があるなら、その可能性を手にしていたいと思ってしまう。
『でもさ』
速水の返信を、固唾を飲んで見守る。
『気持ちは嬉しいけど、俺は今の悠の隣には立てないよ』
『ピアノが弾けるかどうかも分からないから』
『悠の足引っ張りたくないから、ごめん』
数分後に、『おやすみ』ととんできたメッセージを開いたまま、身体がベッドに沈み込んだ。速水からの返信が表示された状態で、携帯は手から滑り落ちた。
「まじか……」
急に襲ってきた虚脱感に、身体を動かすことができない。ため息は出る。吐き足りないくらいのため息が、はあと出ていく。
かたく握った拳はどうすることもなく緩めた。拳を振り下ろすことなんてできなかった。鬱屈とした気分が満ちていく。速水の音は誰にもない魅力がある。それこそ、僕には絶対に出すことができない音色。
彼の音をもう二度と聴けないかもしれない事実が、深く深く心に突き刺さった。

