ヤマ先こと山路先生は、牡蠣に当たった翌日から復帰した。元々細身だったヤマ先は、たった一日の休みだったにもかかわらず一回り体が小さくなったように見える。それでも指揮台に上がれば、誰よりも大きな存在感をは鳴っていた。
 教室三つ分の広さをもつ音楽室に、百名を超える部員が扇状に椅子を並べて座る。目線の先には指揮棒を持つヤマ先が、教壇に立っていた。彼がタクトを動かす姿を注意深く観察し、ブレス。
 演奏するのは数年前の全日本吹奏楽コンクール課題曲であるメルヘン。主題やテンポが細かく変わりながら進行する、雄大な楽曲だ。主旋律を奏でる楽器が変わりながら、曲は進行していく。
 曲の冒頭、冒険に進むため、はじまりの町を出発した高揚感があった。音色が変わるごとに場面転換しているように世界が切り替わる。シロフォンの前に立ち、振られるタクトに集中する。
 この楽曲はティンパニやクロッケンの音色が、金管と交わって場面が展開されていく。楽曲のリズムや流れを支える重要な役割を果たしていかなくてはいけない。
 ドラムの疾走感と共に楽曲が一つの幕を下ろそうとする。マーチのような明るい曲調は、優雅な街に辿り着いたようにゆったりとしたものに変わった。拍の間に刻まれるティンパニとベースドラムの強打。指揮と楽譜を交互に確認しながら、楽器それぞれが息遣いを合わせる。

「だめだ」

 ヤマ先がタクトを振る。ブレスをしていた部員も、音を奏でている最中だった部員も、それぞれ楽器から口を離した。ヤマ先は厳しい表情をしたまま「頭から」とだけいう。楽譜のページを戻し、再びはじまりの町から冒険を開始した。
 アルトサックスがリードする場面は三拍子のワルツ。その優雅さはバレエのようだけれど、華やかな世界の奥に影がある。支える低音の深みに、踊っている者は人間じゃない生物なのかもしれない、なんて妄想をしてしまう。
 タクトが早くなる。先生自身も身体でリズムを取り、僕たちの演奏を聴いていた。ここからは怒涛の加速。金管が力強く主旋律を支え、クラリネットのラインが踊るように音を奏でる。この盛り上がりの空気をティンパニのロールが飲み込んでいく。

「もう一度。ティンパニのロールから」

 止まったタクトがまた振り下ろされる。ティンパニを扱うのは一輝と一年生の八柳。入りが遅れた八柳に、タクトが止まった。

「もう一回。ティンパニ音揃えろ」
「はい! すみません!」

 萎縮し声が小さい八柳に代わって、一輝が大きく返事をする。合奏はティンパニのロールから進めなくなった。何度か繰り返すと、テンポの違いがいっそう明らかになる。その度にリテイクを要求されるが、ティンパニはそれに応えることができていない。

「ティンパニの一年見学してろ。もう一度、頭から」
「っはい」

 再び、タクトが振られた。今回の冒険は滞りなく進んでいく。始まりの高揚感、強敵の障害、それらを越えエンディングへ向かう心の充足。エンディングが近づき、テンポは疾走感とともに速くなる。雑音はほとんどなく音が重なっていく。メルヘンの結びは、うねりに呑み込まれるような勢いだった。最後の休符で音が止まり、ヤマ先がタクトを下ろす。
 終わってからも不満足そうな表情をして、白髪交じりの頭をかく。合奏の後に好評をいただくまでの時間が、なによりも緊張する。

「金管、音が揃ってない。木管もだ。走ってるやつ、遅いやつがいるだけで目立つぞ。君たちの中で曲のイメージがバラバラすぎて、まったく演奏として成り立ってない。全パートが全然ダメ。合奏にすらなってない」
「すみません」

 ヤマ先の言葉に、秋羽部長が立ち上がり頭を下げる。全員が同じように曲をイメージして音を揃えないと、それは合奏ではない。折々にそう話すヤマ先の言葉を知っているから、もらった講評に学年関係なく神妙な面持ちになる。

「残りは各自で練習。時間になったら解散で」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございましたっ!」

 部長の言葉に、全員が立ち上がってヤマ先に一礼する。タクトを置いた先生が指揮台を降りる。その動きをみんなが見る中、先生は音楽室を出て行った。しんとした重たい沈黙を切ったのは、秋羽部長だった。

「じゃ、それぞれ空き教室でパート練入ってー。パーカッションは音楽室で一旦待機。十八時で終了して、パートリーダーだけ私の所に最後来てねー。はい、かいさーん」

 その声に、まだ落ち着かないさざ波はあるけれど、それぞれ楽譜と楽器を持って音楽室を出て行く。パーカッション以外のパートが全員出て行ったのをっくンンして、部長がパートメンバー是認を見た。部長が動くたびに、後ろで一つに結われた黒髪がやわらかく揺れる。
 部長が真剣な表情を崩したのは、八柳を見てだった。

「すみません」

 八柳は震えた声を絞り出す。今にも泣きそうな様子だけれど、口を引き結んで必死に涙をこらえている。

「ティンパニ初めて三ヶ月経ってないんだよ? しょーがないしょーがない」
「すみません……」

 部長が八柳の背中を優しく撫でる。

「上手くなってヤマ先のこと見返してやろーね。てことで、小グループに分かれるよー。各自空いてるところで練習ね」

 部長の言葉に各自が頷く。

「小倉、玉城、八柳は音楽室でティンパニ触って練習してね。十八時に終了だからね」

 残された僕たちは顔を見合わせて、パーカッションの楽器が並ぶ一角に戻った。一輝が準備室にメトロノームを取りに行ったのを見て、椅子を円形に整える。八柳も涙は止まったようで、鼻をすすりながらトレーニングパッドを用意してくれた。
 メトロノームのテンポは課題曲『メルヘン』に合わせる。カチコチと鳴る音を聞きながらスティックを握り直す。

「じゃ、シングルストロークから」

 一輝の声に合わせ、トレーニングパッドを叩く。三人のテンポは合っているが、音の粒が揃っていないことは明らかだった。八柳が自信を失くしてしまったのか、僕や一輝と比べると音が小さく弱々しい。一輝もそのことに気が付いているようで、二人でアイコンタクトをして一度ストローク練習を止めた。

「え……あの、先輩?」
「息抜きしよ。今続けてもあんまり楽しく演奏できないと思うし」

 戸惑う様子の八柳に、そう声を掛ける。トレーニングパッドにスティックを置いて、大きく伸びをする。

「ヤマ先元気すぎね? 牡蠣に当たったとか嘘だよな」
「ちょっと小さくなった気はするけど、いつも通りって感じだったね」
「つか先に戻ったの体調悪かっただけじゃね? 病み上がりだし」

 ティンパニでロールをするときのように、一輝はスティックを動かす。平坦な音が鳴った。ヤマ先と過ごした一年間があるからこそ、こうした冗談をいえる。きっと体調が良くないのも本当だろうし、合奏自体に納得がいっていないのも本当のはずだ。
 ストローク練習前までは神妙な面持ちをして、まるで今まさに叱責されているような雰囲気を纏っていた八柳も、今は少し表情がやわらかい。この一年で起こったヤマ先の事件簿集は、まだとっておきとして残しておけそうだ。

「八柳さ、ヤマ先に狙われたの初めて?」

 一輝の言葉に、八柳の身体に力が入る。

「初めてです」

 肩をすくめた彼女が、しおしおと小さくなったように見えた。声も細くて、自分に責任を感じていることがありありと見て取れる。

「一年生で初めてヤマ先に怒られた子になったかー。誇っていいぞ、それ」
「なんにも誇れないですよ……。合奏止めちゃいましたし……」

 私なんて、と小さくなる八柳を見て、一輝は楽しそうに笑う。少し不満気な八柳に同情してしまう。

「僕たちの代は一年目の夏まで、先生から名指しで怒られたりしなかったよ。一年外れろって言われたよね」
「言われたなーそれ。懐かし」
「それもちょっと立ち直れないかもです……」
「部長がさ、八柳と一緒で一年の時名指しで怒られてんだよ。しかも噂では同じティンパニで」
「えっ」

 八柳の肩がぴくっと跳ねる。期待がこもったような目線が一輝に向いた。

「だから、だいじょうぶ。八柳はちゃんと期待されてっから」

 そう言い切った一輝に、僕も「おお」と声が漏れた。しっかりと先輩らしいその姿が眩しい。八柳の心も少し晴れたようで、自然な笑みを見せている。一輝はこういう場面に強い。誰かが悩んでいる時とか、後輩への指導とか、相手がほしい言葉を無意識に選択することができる。

「てことで、一つ年上の俺らが八柳の質問に答えるコーナーしまーす。なんか聞きたいことある? 部活のことじゃなくてもおっけー」
「一輝、それ普通にパワハラだよ」

 けらけらと笑いながらいると、八柳も控えめに笑う。

「あ、あのお二人っていつ頃から髪染めましたか」

 黒髪を揺らす彼女に、初めて染めた時を思い返す。

「俺は染めてないけど、八柳染めるの?」
「なんかいずれ染めたいかも? って思ったりしてて」
「めっちゃきれいな黒髪なのに」
「え、うれしいです。でもなんか見飽きたし、インナーに色いれたいなー? みたいな?」

 ダメージのないつるんとした黒髪の毛先を触りながら、八柳は頭をひねる。

「高校入る時に染めてなかったっけ……。今みたいにブリーチし始めたのは二年に上がってからだった気がする」

 高校デビューに向けて髪をブラウンにした記憶がぼんやりと思い出される。ブリーチは二年生になってから、という暗黙の了解があった。実際に一年の秋頃にブリーチをした同級生が先輩に指導され、一週間後には茶髪に戻っていた姿を見たことがある。

「二年生にならないとブリーチだめですよね……。あ、そうだ! お二人にききたいことがあって!」

 パン、と両手を合わせた八柳に、スティックでパッドを叩いていた一輝の手が止まった。僕もまっすぐに八柳を見る。もうすっかり練習の雰囲気ではなくなってしまっていた。

「あの、速水先輩って、玉城先輩とか小倉先輩と同じ学年ですよね」

 僕たちは顔を見合わせる。

「俺は同じクラスだけど」

 ぱあと表情を明るくした八柳の目が輝く。

「速水先輩ってずっとテニス部なんですか?」
「中学もテニス部か、ってこと?」
「はい!」

 その質問に答えられるのはこの場に僕しかおらず、一輝と八柳、二人の視線が向けられた。本人のいないところでどこまで話していいのか線引きが難しく、今度は僕が頭をひねる番だった。いろいろと考えてみるが、伝えられそうなのは質問に対する必要な答えだけ。

「中学はテニス部じゃなかったよ」
「えっ! あんなにお上手なのに!」

 すっかりパート練習の雰囲気はなくなり、速水の話題が中心になる。どうやら一年生の間では、親しみと憧れから七瀬先輩と呼ばれているらしい。ただ、速水は部活の後輩と必要以上に話すことはないようで、後輩たちが喜ぶような有益な七瀬先輩情報は入ってこないと八柳が嘆く。

「七瀬先輩って、テニス以外に何かしてたこととかってあるんですか?」
「うん。あるよ」
「それ気になります……! 知りたいです!」

 合奏の時の落ち込みはもうないようだ。中学時代の速水について興味のなさそうな一輝は、今度はダブルストロークの練習をやり始めていた。そろそろ練習に戻ろう、という一輝なりのメッセージだった。

「ま。それは個人情報だから秘密ね。ちょっと話しすぎたから、練習再開しよっか」

 八柳は渋々スティックを握るが、速水の話をまだ聞きたそうな様子だった。けれどまだ部活が終わるまで一時間ほど時間がある。一輝がメトロノームを調整し直す。刻まれるテンポの音とパッドを叩く無機質な音が、音楽室に響いていった。
 部活が終わってからは速水の話題に触れることはなく、それぞれ帰路についた。
 夜になっても誰もいない自宅で入浴しながら、八柳の話を思い出す。僕や速水と同じ中学校を卒業している生徒たちは、速水がピアノを弾いていたことを知っている。八柳には言わなかったけれど、速水本人が言っていないのなら僕が他言する必要はない。
 中学二年でピアノを辞めた後、速水はテニスで輝いている。もう速水はピアノを辞めているから、弾いていた過去を吹聴する人がいないのも、僕が八柳に話さなかった理由の一つだった。――もう速水はピアノを辞めているんだ。昨日、速水がなんの気なく言った、ピアノをいつ辞めるのか、という問いが深く刺さっていた。
 速水が最後に演奏した『渚のアデリーヌ』は、松田先生が主催したミニコンサートで披露された。中学二年生の秋の日、家族や友人を呼んだミニコンサートが、小さなホールを借りて行われた。『渚のアデリーヌ』は、あいつが何度も僕の家で練習した曲。
 自然とメロディを口ずさみながら、浴室の縁を鍵盤に見立てて弾く。あの頃、速水が弾いていた音色を思い返しながら、丁寧に一音一音指を動かす。あの頃――まだ僕が七瀬と呼んでいた頃のあいつは、この曲を誰かに向けて弾いていたんだろうかと、ふと、気になった。
 作曲したポール・ドゥ・センヌヴィルは、生まれたばかりの次女アデリーヌにこの曲を捧げた。原曲には慈しみや愛情に満ち溢れた音色が隠れている。速水の音にも、似たような音色が合ったように思う。速水も『渚のアデリーヌ』の成り立ちをしって、イメージを膨らませのだろうか。この曲を誰かに向けて、弾いていたのだろうか。
 この曲を聞いた当初は気にならなかったことが、気になってしまう。『渚のアデリーヌ』を弾き終え、『序奏とロンド・カプリチオーソ』を続けて弾き始める。昨日があったからか、これまでのどの日よりも旋律は軽やかに奏でられた。
 これを実際にピアノの音にのせたなら、きっと満足のいくロンドを弾くことができる。あの夜がきっと、そうさせる。
 センチな気持ちを振り払うように、湯船から上がる。タオルで身体と髪を拭き、急いでピアノに向かった。背筋を伸ばして、鍵盤に手を置く。サン=サーンス作曲、『序奏とロンド・カプリチオーソ』。弾き始めたロンドは、これまで弾いたどれよりも楽しそうに踊っていた。
 愛しい人とステップを踏むように、ピアノの音の粒が躍る。一人でピアノに向かって弾いているのに、まるで一人ではないような、誰かと繋がっているような心強さがあった。昨日の夜がこの心強さを生んでいる。あの夜の思い出が明けてしまわないように、忘れてしまわないように、僕はロンドを奏で続けた。