さよならミッドブルー

 駅に近づいてくる速水の後ろに、陰になって見えなかった坂田の姿があった。何も話していないように見えるが、それが不思議と信頼の形に感じられた。二人の前を歩くのも、その後ろについて行くのも憚られ、ベンチに座ったまま二人を見つめる。速水たちが僕に気づいている様子はない。
 速水の隣に小走りで移動した坂田の手が、速水の左腕に巻き付いてそのまま手を握ったようだった。座るベンチの後方に、そのまま二人が進んでいく。二人が会話をしているのかは分からないが、親密そうな二人の後ろ姿を注視してしまう。
 別れたなんて、ただの噂だったんじゃないか。人の色恋を盗み見るのは良くないことだを理解しているつもりだけれど、心とは裏腹に目線は二人を追い続ける。
 駅の出入り口に面したロータリーの前で、二人は止まった。十メートル以上は離れてしまったから、彼らが止まったのか動いているのかということしか分からない。薄暗くなってきた外で、きっと二人は僕を見つけられないだろうという気持ちから、ベンチの背もたれに肘をかけて二人の様子を見守る。
 坂田は速水にぴったりと密着して、顔を近づけているようだった。速水もそれを嫌がっているようには見えず、はたから見ると恋人同士が二人だけの世界に浸っているみたいだ。彼女がいるていいなぁと、密着する二人に架空の彼女を想像する。
 女子の中では高い身長で、黒髪セミロング。運動部らしく、しなやかな筋肉で引き締まった四肢が制服から伸びる。学校帰りにファミレスとかカラオケに行ったり、お互いの部活が終わる時間を待って駅まで一緒に帰ったり。悠、と僕の名前を呼ぶ想像が、ふわりと浮かんだ。
 そんな妄想は、突然坂田が走り出したことで終わった。急に現実に戻され、僕は身を乗り出して二人を見た。駅に向かって左手にあるバスセンターの方へ、坂田は一人で走って行った。速水は少しも坂田を見ようとはせず、すぐに駅の方へ進み出す。親密そうに見えたけれど、それは見せかけだったのかもしれない。
 一輝が言うように本当は別れているのか、ただけんかをしただけなのか。
 二人が散り散りになり、僕もベンチに座っている必要がなくなってしまった。今度こそ立ち上がり、駅へと向かう。より高く昇った月が街灯と重なり、道を青白く照らす。速水も道の先で同じ空を見上げているようだった。
 電車到着を知らせるアナウンスが鳴るホームに、ぎりぎりに到着する。改札を抜け、ホームに下る階段を降りたすぐのところにいた速水と目が合った。

「……おつかれ」

 空気がピンと張り詰めるたような感覚に気圧されながら、なんとか声を出す。電灯の光を浴びる速水の髪は、近くで見るといっそうくすんだ青さが目立つ。

「おう」

 速水は表情を変えずに返事をする。なにか会話を、と思ったタイミングだったが、電車が到着し乗車口が開く。人が降りた隙間に、また人が乗り込んでいく。僕たちもその波と共に電車に乗り込む。二十一時を過ぎているのに、サラリーマンだけでなく学生も多く乗車していて、車内は満車に近い混み具合だ。
 つけたままにしていたイヤホンからは、流行りの邦ロックが流れる。携帯を操作する振りをして速水を横目で盗み見る。変わらず端正な、男にしてはきれいに整った顔立ち。日焼けしたばかりなのか、鼻や頬が赤く染まっている。
 ふと速水の耳にイヤホンがないことを見て、僕もつけていたイヤホンを自然と外していた。ロックはこの夜の緊張に似合わない。放課後に弾いたロンドを思い返しながら、指でトントンと太腿を叩く。何度も指が止まってしまうのは、緊張のせいだった。
 地元の降車駅が近づいていくごとに、少しずつ乗客が少なくなっていく。空いた座席に座ると、速水も周囲を見た後に僕の正面の席に座った。速水はずっと携帯を触っている。赤色のケースが目を惹いた。
 さっき坂田となにを話していたんだろう。僕はまだ最近の部活のことや近況を、速水に訊くことができる立場にあるのだろうか。目の前に座る速水は、すっかり遠い存在になってしまったように感じる。
 さらに四駅を通過し、電車が地元駅の駅で停車する。僕と速水以外にも数人ほどが一緒に降車し、ホームから階段を上って改札を抜けた。緑色の床材が古い白色電灯の光を浴びている。階段を降り、外の駐輪場へと向かう。駅の裏手に造られた駐輪場に街灯はなく、うすら明るい月光と記憶を頼りに自転車を探す。
 赤色のロードバイクのキーチェーンを外す。速水の自転車も近くに停めていたらしく、同じようにチェーンを外している音が聞こえた。静かな月夜に、僕たちが動く音と虫の鳴き声が混ざる。糸が張り巡らされているように緊張感が漂う、青白い夜だった。
 自転車に手を掛けたまま、僕も速水も動かない。速水を見ると目が合った。速水はあの時みたいに自分からはなにも言おうとしない。僕が話すのを、ただ待っている。

「あ、あのさ、速水」

 お前がずるい男だって知りながら、僕は速水が望んでいそうな言葉を探す。

「なに?」

 あの時みたいに、まっすぐ僕のことを見るくせに。お前はなにも言ってくれない。

「家、方向一緒だし、一緒に帰んない……?」

 勇気を出して、そう伝える。速水は予想外だったのか、少し驚いた顔をした後に、「いいよ」と笑った。困ったように、でもどこか優しく眉尻を下げて。懐かしいその表情に胸が跳ねる。速水になにも悟られてしまわないように、自転車を押して駅前の通りを進む。
 駅前の道をまっすぐ南に進むと、既に営業を終了したスーパーマーケットがあった。敷地内に置かれた自動販売機でそれぞれ炭酸飲料を購入して、スロープを上った先にあるベンチに座る。プシュッと炭酸の弾ける音が鳴る。渇いた喉をシュワシュワとした炭酸が流れていく。座った後からも、言葉を探したまま会話のない時間が淡々と流れていた。

「久しぶり、です」
「そうだね。久しぶり」

 味の市内炭酸飲料を数口嚥下し、どうにか声を出す。横に座る速水の表情は分からないけれど、声色は記憶の中のものとあまり変わらないように聴こえた。緊張しているのは僕だけのようで、不甲斐ない気持ちになる。

「なんか、急に人気すごいね」
「女子が勝手に来てるだけだよ」

 そして、静寂。
 暑さからか、はたまた気まずさからか汗が背中を流れる。缶の軽い音がして、速水がジュースをの見えたことが分かった。会話のない夜の時間に、虫の鳴き声が大きく聞こえる。

「そういや、坂田と付き合ってるんだっけ」

 炭酸が抜けきってしまうくらい、長い時間が経っているように感じる。なにか話題を、と思って出てきたものは、帰りがけに見た二人の姿だった。今の速水と共通している話題は、坂田との関係以外にないように思えた。僕の言葉に、速水は「うーん」と空気が抜けるような曖昧な返事をした。

「別れてるよ、けっこう前に」

 思わず速水を見る。速水はベンチの座面に足を置いて、立てた膝に肘をついて遠くを見つめていた。ぽつりと速水は続ける。

「学年上がる前とかだったかな」

 別れた時期はね。半年くらい続いたんだったかな。そう、速水は付け加えた。

「秋くらいから?」
「八月終わるくらいだった気がするけど、俺もそんなちゃんとは覚えてない」

 速水と坂田が校内で二人きりでいる姿はほとんど見かけたことがなかった。速水自身から彼女ができたことは聞いたような気もするけれど、いつごろから付き合っているのかなんてことは興味が無いから覚えていなかった。

「別れたの、学年が上がる前って」

 はっとして速水を見る。振り向いた速水がぎょっと驚いた顔をした後に、「悠」と優しく僕の名前を呼ぶ。

「なんでそんな泣きそうな顔してんの」
「だって、学年上がる前って、それ」
「学生なんてそんなもんでしょ。悠のせいじゃないよ」

 大きく伸びをして、速水は三日月のよく照る夜空を見上げた。僕のせいじゃないと微笑んだ速水に、どう言葉を返したらいいのか分からない。僕が原因ではないとしても、責任を感じずにはいられなかった。

「悠は、いつまでピアノ続けるの」
「えっ……」

 意図せぬ言葉に、思考が止まる。

「今月の文化祭が終わって秋季大会が終わったら部活も引退して、本格的に受験勉強が始まるだろ? ピアノ、辞めるの?」

 速水はまっすぐ僕を見ていた。ピアノを、辞める。日常に染みついたピアノを辞めるという選択が、僕の中になくて、何を訊かれているのかすぐには理解ができなかった。隣にいる速水は、中学の頃にピアノを辞めている。速水のように、僕も――。

「たぶん、辞めないと思う。ピアノ弾くの好きだから」

 速水が見ていたように、僕も空に浮かぶ三日月を見上げる。好きな曲を弾いて、たまには昔コンクールで弾いた思い出の曲を演奏したっていい。部屋に置かれたアップライトピアノを手放すことは絶対にない。僕はきっと、ピアノを弾くことを辞められない。
 いつか辞めようと考えることがあるかもしれないけれど、受験はきっと関係ないはずだ。それにまだ弾きたい曲が山ほどある。『渚のアデリーヌ』も『序奏とロンド・カプリチオーソ』も、まだまだしっかりと弾けていない。

「よかった。俺、昔から悠が弾くピアノが好きでさ」
「あり、がと」
「今日も弾いてたろ。『渚のアデリーヌ』懐かしかった」

 速水の言葉に胸が熱くなった。僕の音は、速水にも届いていた。遠くに感じていた速水の存在が、ぐっと近くなったように感じる。昔は互いのピアノの演奏を褒め合っていたけれど、もう何年も前の話だ。ある程度いろいろな曲を弾けるようになってしまったら、人から褒められる経験は少なくなった。
 厳密には技術は褒められるけれど、音や旋律を褒められることはほとんどない。だからこそ、速水の言葉は胸にじわりと染みるほどに嬉しいものだった。
 まだ小さなわだかまりはあるけれど、それも今は気にならない。

「少し、話せてよかった」
「俺も。少し緊張したけど」

 眉を下げて速水が笑う。甘ったるい炭酸飲料を飲み切って、どちらともなく立ち上がった。

「じゃあ、また」
「また。気をつけて」

 自転車にまたがり、家を目指す。心臓がうるさいくらい脈打っていた。月の青さが目に染みる。ペダルを踏む脚は少しずつスピードに乗って、車も来ない住宅街を興奮のままに走っていく。叫び出したいくらいの衝動が生まれていた。