翌日の部活は散々だった。基礎練習をしながら、一年生に指導をして、三年生と顧問のヤマ先から指導される嫌な記憶。合間に聞き覚えのある声が混ざる。

「ねー、ちょっと悠ー! 遅刻するよー!」
「んー……」

 昨夜、いつの間にか眠ってしまったらしい。次の日はいつも通り授業があると分かっていても、うまくいかないむしゃくしゃとした気持ちを発散させるために遅くまでピアノを弾いてしまった。母親の大声が小さく聞こえる。枕元に置いていた携帯のアラームは、自分で消してしまっていたようだ。画面の表示は、いつもより遅い時刻を示している。重たい身体を起こし、なんとか優しい悪魔のような布団から抜け出す。
 のそのそとした遅い動きで部屋を出て洗面台へ向かう。朝食を作っていた母に「送っていけないよ」と釘を刺される。うっすら灰色のクマができ、目は半開き。ぼさぼさの金髪頭の男が鏡に映る。寝ぐせのついた金髪は、黒髪の時よりもだらしない雰囲気を強めている気がした。
 ごちゃついた洗面台に置かれた三種類の洗顔フォームから、自分のものを選んで洗顔を終わらせる。動作の合間に欠伸を挟みながら、自分用のスペースにおいているスキンケア用品を順番に塗っていく。
 欠伸の度に零れる涙を拭いつつ、ようやく乳液を塗り終えた頃にしっかりと目が開いた。ぼさぼさの髪をセットしないとなぁと、身体を伸ばしながら考える。

「あ。あー……仕方ないか」

 目は開いたけれど、頭はまだぼんやりとしていたらしい。少し考えた末に、蛇口に手を伸ばす。洗面所に水音が広がった。
 ドライヤーの後、ワックスで髪を整える。父がアイロンがけを済ませてくれた制服に袖を通し、気に入っているベルトを締める。昨日の疲れが取れていない。
 ダイニングテーブルには母が作った手料理が置かれ、両親はすでに朝食を摂り始めていた。時間にはまだ少し余裕があることを確認して、少し冷めたトーストをかじった。上に塗られたいちごジャムの甘さがちょうどいい。

「あんた時間大丈夫なの? いつもより五分も遅いよ?」
「へーき。まだ余裕」
「まあまあ、母さん。昨日も遅くまでピアノを頑張っていたんだから。ただ、悠。鍵盤を乱暴に叩くのはやめなさいよ」
「ん、ごめんなさい。なんか、うまく弾けなくて」

 父さんは「そうか」と言ったあと、ニュースを気にしながら食事を口へ運ぶ。僕も時間を気にしながら、スクランブルエッグとトマトをかいこむ。空いた食器をシンクに置き、水に浸してから歯を磨く。間違えた親の歯周病予防用歯磨き粉をつけてしまったけど、歯を磨き直す時間が惜しくてそのまま口をゆすいだ。

「じゃ、行ってきまーす」

 荷物を持ち、玄関からリビングに向かって声を張り上げる。両親からの返答を背中で受け、自転車にまたがり最寄り駅を目指す。始発電車が到着するまであと十分。晴れ渡る空の↓、追い風に背中を押さえながら必死にペダルを踏み込んだ。
 朝練の後、うつらうつらしていると授業はあっという間に終わった。昼休みになった途端に目が冴える。

「悠ー。飯食いに行こー」
「おー」

 財布を手に持った一輝が、廊下から僕を呼ぶ。母親が作ってくれた弁当は朝のホームルーム前に食べ終わっており、僕も財布を持って一輝と学食へ向かう。

「今日はカレーとザンギ丼らしい。ちなみに俺はザンギ丼食う」
「一輝前もザンギ丼食べてなかった?」
「あれまじで美味いんだよ。ザンギ丼は絶対食った方がいい」

 すでにメニューを把握している一輝の言葉に、心がザンギ丼に傾く。
 北幌(きたほろ)市の高校は、公立か私立か関係なく学食が併設されているところが多い。幌南(ほろなん)の教室棟五階にもパンやおにぎりだけを買うことができる購買ブースと、その奥に一学年はまるっと座ることができるほど広い学食ブースがあった。学食の券売機には長い列ができており、その最後尾に僕たちも並ぶ。
 日替わりメニューのカレーとザンギ丼に、かけうどんとかけそばが常設メニューとして置かれている。ご飯やルーの大盛りも無料だ。人数は多いが回転も速く、一輝と同じザンギ丼を購入する。食券には番号が記載されていて、すぐに隣のカウンターで番号を呼ばれた。
 受け取ったザンギ丼は、あたたかい白米の上に千切りキャベツが盛られ、げんこつサイズのザンギが三つものった贅沢なものだった。ザンギ専用のたれがかかり、その香りが食欲を刺激する。
 いただきます、と伝えると丼を渡してくれたおばさんがにっこりと笑った。テーブル席を探して一輝と向かい合って着席する。

「めっちゃ美味しそう」
「美味そうとかじゃなくてマジで美味いから。っし、いただきまーす」
「いただきます」

 あたたかいザンギを大きく齧る。ザクッとした衣と、その下からじゅわりと流れる肉汁。にんにくやショウガがたくさんはいっていそうな醤油ベースのザンギの旨味が、次に頬張った白米と相乗効果で美味しさを倍増させる。
 ひんやりしたキャベツの軽い食感もアクセントになり、ザンギを頬張る手が止まらない。一輝は僕をにやりと笑いながら見ていて、目が合い思わず笑ってしまう。

「これ、やばい」
「だろ。ようやくお前もこの世界に来れたか」

 喋ることもほとんどせずに食べ続け、あっという間に丼の中は空になった。お腹がずっしりと重くなるほどの満腹感と、それ以上の満足感。

「ごちそうさまでした」

 二人そろって手を合わせる。昼休みが始まってま十分ほど。たくさんの生徒が券売機に並んでいた。席はまばらに空いているが多くはなく、すぐに立ち上がって食器を返却口に返した。
 中央階段を下って教室がある四階へ戻る。寝不足か血糖値の上昇か、欠伸が止まらない。

「あれ」

 隣を歩いていた一輝が足を止める。

「ん? なしたの」

 教室が並ぶ廊下の真ん中あたりに、速水と速水を囲む数人の女子がいた。制服の前ボタンを全部開け、黒いタンクトップが見える速水の腕に、小柄な女子がぴたりと密着している。

「坂田って、速水と春に別れたんじゃなかったっけ?」

 僕に耳打ちした一輝に、生返事をした。速水に彼女ができたことは去年教えてもらっていたけれど、そこからほとんど話さなくなってしまったから、今がどうなっているのかは知らなかった。
 明るい茶髪の髪は肩口で切り揃えられている。左耳にかけた髪には、赤色の大きなリボン型の飾りがついている。速水に向かって話しかけるたびに背伸びをしている様子に、小動物のような愛らしさを思わせた。
 坂田と速水が別れたと言われても、傍目には信じられない。坂田は速水の左腕に自身の腕を絡めて、身体を押し当てるように密着している。携帯をいじる無表情な速水を気にすることなく、無垢そうに笑って速水と会話をしているのだから。

「あ、てか速水と言えば、悠けんかしてんの?」
「え」
「二年になるまではよく一緒にいたじゃん。最近二人でいるの見かけないなと思ってさ」

 その問いは、速水たちの前を通り過ぎてからぶつけられた。今も互いに声を掛けたり目を見ることもなく通り過ぎたから、違和感を感じさせたのだろう。

「まあ、クラスも部活も違うしね」

 こうなってしまった心当たりはあった。それにきっと、僕と速水の間に溝が生まれたのは僕のせいだ。一輝にきっぱりと否定ができるわけもなく、曖昧に微笑む。そんな様子にふい込めないと考えたのか、一輝はそれ以上速水の話題を続けようとしなかった。
 今日の部活で何をするのか、外部コーチが来るかどうか。そんな話をだらだらと廊下で続け、始業十分前に一輝を別れる。財布をしまい、イヤホンを付けて『序奏とロンド・カプリチオーソ』を流す。序奏の静かな哀しみを、ロンドが始まってもなお引きずっていた。楽しそうに舞い踊るようなことはできない旋律が、イヤホンから流れている。
 これはきっと僕が疲れていて眠たいせいだ。男子トイレに廊下を出ると、もう速水や坂田の姿はなかった。手洗い場で顔を洗う。何してんだろう、僕。そう自問しそうになるのを必死に止める。
 鏡越しにいるのは朝よりもクマが濃くなった自分だった。重たそうに垂れた瞼が、眠たそうな様子を助長している。毛先を整えながら、廊下にいた速水の姿を思い出す。二年生になってから、また少し身長が伸びていた気がする。それに、髪色が明るくなっていた。
 去年までは黒髪だった気がするけど、深い青色へと変わっていた。話さなくなって数ヶ月。僕は無意識に速水のことを見ないようにしていたのかもしれない。そうでなければ、速水の変化なら知る気がなくても噂で分かるのだから。
 僕が知らない速水のことを、坂田はどれだけ知っているのだろう。別れた後でも隣で楽しそうに過ごすことができるなんて、どれだけ速水と信頼し合っているのだろう。
 思い耽る鏡越しの自分と目が合う。ハイライトの見えないアニメキャラのように、表情は暗い。

「疲れた顔してんね」

 鏡越しの自分が、弱弱しく口角を上げた。流れるロンドの哀しそうな沈む。前に進めないでいる僕が、ロンドを踊り終えることはできない。記憶の中に囚われたままでは、ロンドの相手を探すことなんてできないから。顎からぽたりと垂れる水を拭い、午後の授業に臨む。
 何にも身が入らない。右から左へと流れる授業の合間、考えるのはピアノのことばかり。ピアノが弾けなくなってしまったら、この先どうやって過ごしたらいいのだろう。漠然とした不安の種が知らずに芽吹いていた。
 授業後、部活のために音楽室の鍵を開けて、集まった部員たちと音楽室を掃除する。譜面台は出さず、大きな円を描くように椅子を並べた。部長以外が集まり、部活が始まるのを待つ。

「あちゃー、準備終わっちゃったよね?」

 最後にやってきた秋羽(あきう)部長が、音楽室を見てへらっと笑う。

「伝達遅れてごめんねー。今日部活無しでーす」

 気の抜けるふわふわとした口調。一瞬の沈黙の後、わっと喜びの声が上がった。お盆と年末年始、それぞれ二日の計四日しか吹奏楽部には休みがない。貴重すぎる休みに、喜ばない生徒はいない。

「部長! ちなみに理由ってなんすか!」

 一輝の言葉に、みんなが静かに秋羽部長のことを見る。

「ヤマ先、牡蠣当たって学校来れなかったっぽい。昼くらいにメールきてたんだよね」
「……かきって、貝の?」
「そ、牡蠣。上も下も大変らしいよってことでー、みんな解散ねー。明日は先生来なくてもやるからねー」

 手をひらひらさせて音楽室を出て行った秋羽部長が「そーだそーだ、忘れてたわ」と戻ってくる。

「そろそろ四週間後の文化祭でやる出し物決めるから、考えといてね。じゃ、解散ー」

 残された僕たちも、それぞれ帰り支度をして音楽室を出て行く。鍵当番は最後まで帰ることができないから、椅子を端にまとめて時間を潰す。手伝ってくれた一輝も先に帰宅した。残ったのは僕と、バスの時間がなくて暇そうにしている一年生の八柳(やつやなぎ)だった。
 八柳(やつやなぎ)はスカートのしたに指定ジャージを履き、脚を広げて床に座っている。長い黒髪に、愛らしい顔立ちのわりに、自分の見られ方を気にしていない所作が多い子だった。
 とくに会話することもなく、僕は教壇の後ろに置かれたグランドピアノを開く。十年以上前の卒業生が寄付したらしいこのピアノは、ヤマ先こと顧問の山路先生が大切にメンテナンスをしているものだった。

「玉城先輩ピアノ弾けるんですか?」

 いくつか鍵盤を押していると、気になったらしい八柳が隣までやってきた。立ち上がったりはせず、四つん這いで。

「少しだけ弾けるよ」

 興味津々な後輩を前に、準備運動を兼ねて『きらきら星』を弾く。ピアノを習い始めた当時、コマーシャルで使われていたこの曲を弾けるようになりたくて何度も練習した。ドドソソララソと主旋律を弾きながら、全音符だけの伴奏を弾く。それだけでも八柳にとってはすごかったようで、「すごーい」と拍手をしてくれる。
 小学生の頃に誰もが聞いたことのある『きらきら星』という曲も、『きらきら星変奏曲』と名前が変わると全く違う雰囲気をまとう。鍵盤からやわらかく手を離す。
 左手の伴奏は主旋律を支えながら、右手は細かく鍵盤を叩いて主旋律を奏でる。ただ輝く星を眺めるだけじゃない。kらきらとした流星群を見ているような疾走感がありながらも、そのペースを崩さないように。和音と巧みに駆使しながら、荘厳な、深みのある音を生み出す。最後の一音を残したペダルから足を離し、一拍。

「――すご! 先輩ピアノ練習中とか絶対嘘! すごーい!」

 盛大に拍手してくれる後輩に、こそばゆい気持ちで口元が緩む。落ち着かない手が不規則に鍵盤を叩く。

「やばっ、バスの時間来ちゃった。また聞かせてください! おつかれさまでーす!」
「おつかれー」

 ドタバタと音楽室を出て行った八柳を見送る。僕だけしかいない、がらんとした広い音楽室。窓を数か所開けると、少しぬるい風が抜けた。『序奏とロンド・カプリチオーソ』の楽譜を譜面台に置く。一人の空間で椅子に座ると、コンサートホールの舞台が思い出される。自然と背筋が伸びた。
 息を吸い、初めの一音を奏でる。吹く風に乗って、音がどこかの誰かに届いてくれたらいい。誰かに届いてくれる音を奏でられているなら、それでいい。嬉しそうに笑っていた八柳のように、僕のピアノで人が笑ってくれるのは久しぶりだった。ロンドだけでなく、いろいろな曲を弾く。
 時折誰かが音楽室の扉から、僕のことを見ているようだった。その興味に溢れた視線も気にならないほど、奏でる旋律にのめり込む。家とは違う環境だからか、僕以外誰もいない空間だからか、ロンドは楽しそうな様子で踊る。
 下校時間までピアノを弾き続け、心が充足感で満ちる。楽譜をかばんにしまい、音楽室の鍵を職員室に返却をして生徒玄関へ向かう。ロンドの旋律を口ずさみ、宙の鍵盤を叩きながら。鍵盤の重みはないけれど、弾く度にピアノの音が聴こえてくる気がした。
 生徒玄関を出たところで、集まっていた硬式テニス部の集団を見て口ずさむの止める。無意識にあいつを探してしまう。集団の奥に、あいつはいた。日焼けした肌、周りと比べ頭一つ高い身長。蒼い髪色の速水が。

「玉城部活? みんな帰ってなかった?」

 立ち止まっていた僕に、テニス部のマネージャーをしている前園が話しかけてきた。速水に右mけていた目線を外して、前園を見る。ぱっちりとした大きな二重の瞳が僕を見ていた。後ろで一つに縛られた髪。汗で額に張り付いた前髪を、前園は煩わしそうに触っていた。

「ヤマ先が牡蠣に当たったらしくて今日は休み」
「ヤマ先ださ。ピアノ弾いてたのは玉城?」
「そ、僕」

 やっぱり、と前園が無邪気に笑う。前園と話しながらも、意識は半分あいつに向かっていた。僕たちと少し離れたところの集団で、楽しそうに笑う姿に。

「ピアノめちゃかっこよかったよ」

 指がピクリと跳ねる。少し恥ずかしくて、僕は思わず目を伏せて笑みをこらえた。

「ありがと、うれしい。練習がんばるわ」
「応援してるね。ばいばーい」

 前園に届いていたなら、もしかしてあいつにも僕のピアノは届いていたのだろうか。あいつの表情を確認することはできなかった。テニス部の仲間に速水と呼ばれ親し気に話しているその様子が、帰路の間。目に焼き付いて離れなかった。
 学校から駅に着くまでの間、速水が最後に弾いていたピアノ楽曲をイヤホンから流す。そのリズムは自然と口から漏れ、歌うように旋律を奏でた。慈しむようなあたたかさのある楽曲のはずだけれど、今となっては何もない虚空に手を伸ばす残酷な曲時感じられる。
 何度も何度も僕の家で速水はピアノを練習していた。その記憶がありありと浮かんで、足が止まる。もう少しで駅に着くけれど、まだ家に帰る気分になれず駅前のベンチに腰掛けた。メモ書きでぐちゃぐちゃになった楽譜を取り出して、ボールペンで『楽しく。跳ねるように。』と書き残す。そうしないと、ロンドはいつになっても哀しみに縛られてしまいそうだった。
 ビルの隙間から見える空は、オレンジの割合がどんどん少なくなっていく。夕日を追いやる夜空の中に月が上っていた。その景色の変化をぼんやりと眺める。
 イヤホンから流れる『渚のアデリーヌ』は、音にもならずに消えていく。曲を邦楽のポップチューンに切り替えた。バンドサウンドを口ずさむ。
 空一面が暗くなってから楽譜をしまい、かばんのチェックを閉める。まっすぐ駅とは逆方向を見た僕の目に、月明りと街灯に照らされた速水の姿を見つけた。
 速水は古い白色電灯の淡い明かりと青白い三日月の下を、駅に向かって歩いていた。時刻は二十時半を回る頃、速水より先に駅に向かおうと思い立ち上がったところで、動きが止まる。