文化祭は盛況のうちに終了した。当日は演奏後、速水と合流することは無いまま、僕は自宅に帰っていた。文化祭を見に来ていた両親から「すごかったよ」「がんばったね」と声を掛けられても、心は晴れなかった。
久しぶりに、ピアノを演奏した心地だった。コンクールや発表会から身を離していたおかげで、文化祭が数年ぶりに全身全霊で弾いたステージになった。息が詰まりそうな緊張感。楽しそうに弾く速水の邪魔にならないように、けどただの伴奏になってしまわないようなバランスで弾く難しさ。
そして、弾き終えたあとの満足感と、終わってしまった心の穴の空虚さが残っている。持ち時間は十分もなかったのに、この日を最後に、もう二度とピアノが弾けなくてもいいと思えてしまうほどだった。
日曜日の片づけの後、振替休日になった月曜日のベッドの中で、僕はもぞもぞと動く。なにもしたくないような、けれど動かないと落ち着かないような感覚。まだ興奮した心が落ち着いていないのかもしれない。
ベッドから出て、出かける準備を済ませる。ジージーと蝉が鳴く道を自転車で走り抜ける。駅から電車に乗り、目的地で降車した。そこからは徒歩で行く。じりじりと照りつける日の眩しさに、目を細めた。夏だ。それも、とびっきりの。
「片づくの早いな」
家から三十分ほどかけて着いたのは、北幌市立南高校の校舎前。文化祭のために装飾されていた校門は、明日からの授業に合わせて普段通りの質素なものに戻っている。
もうどこに文化祭の名残はなかった。活気に溢れていた玄関前のロータリーには、今日は誰もいない。客引きをする学生の声も、体育館から漏れる軽音楽部の演奏も聞こえない。もう、ひとつも残っていない。
不意にピアノの音が聞こえた気がして、帰ろうと振り返った足が止まる。校舎を見て耳を澄ませてみるが、それは気のせいのようで、思わず笑ってしまう。休日勝手に忍びこんでピアノを弾くことなんてできないのに、ピアノの音が聞こえてくるわけがなかった。
「……悠? なにしてんの?」
「……え。そっちこそ、なにしてんの」
さあ帰ろう。そう思った矢先、自転車に乗った速水が現れた。長い前髪を後ろに梳いて、速水は額の汗を拭う。互いにスウェット姿で、汗をかいている。
「僕は落ち着かなくて。なんか来てた」
「俺もそんな感じ。午前中テニスしてたんだけど、落ち着かなかった」
「部活?」
「少年団の練習。いつも日曜なんだけど、今週は月曜日だったから行ってきたんだ」
そういう速水の背中には、テニスラケットが入っているらしいソフトケースが背負われていた。速水が無言で、僕の奥を見つめる。僕もその視線の先を追うように目線を動かせば、いつも通りの様子を見せる校舎があった。
文化祭が終わった。僕たちの連弾も終わった。練習を重ねて、できるかぎり誰にも速水とピアノを弾くことを言わずに過ごして、サプライズ演出も上手くいった。全部が上出来といっても差し支えなかった。
何度も音を重ねて、失敗するたびに笑い合ってまた修正して、なにかが確かに変わっていった。
それでも朝は変わらずにやってきた。変わった僕たちはいつも通りの日常に戻ることができなくて、なにが変わったのかを確かめようとしている。一昨日までの熱気はとっくになくなっているはずなのに、僕たちは燻っている。
「日陰、行かない?」
遠慮がちに言った速水に頷いて、校舎を離れる。ちょうどいい日陰を探すのは意外と難しくて、昼時ということもあって南高生御用達のファミレスチェーンへ入店した。タッチパネルでドリンクバーを二つと大盛りポテト、それから季節のフルーツパフェを頼む。
速水は空腹らしく、グリルチキンとミックスグリルプレートを単品で注文した。料理が届くまでの間、好きなジュースを注いで待つが、話す言葉もなくただ沈黙が流れる。
沈黙はもう苦痛じゃなかった。速水と時間を共有しているだけで、今は充分だ。頬杖をついてタッチパネルを扱いメニューを流し見る速水を、僕は静かに見つめる。がらんとした平日の昼間の店に、とんちきなメロディがけたたましく鳴る。音の主は少しずつ僕たちに近づいてきていた。曲がり角から出てきた配膳ロボットが、テーブルの横までやってくる。
「ご注文の料理を持ってきましたニャン!」
背面の料理を取り、ボタンを押す。とんちきな音楽がまた流れ、配膳ロボット――もといニャン太がバックヤードへ戻っていく。
揃った料理に手をつける。すっかり運動部になった速水は黙々と手元のミックスグリルプレートを食べていく。僕がパフェを食べ終わる時間とほとんど変わらずに、速水のプレートは空っぽになっていた。
「文化祭、終わったね」
僕は、小さく言う。速水は頷いた。あっという間だった。あまりにも早く過ぎ去ってしまった。
「あっという間だったな」
「うん」
速水も同じ気持ちらしくて、安心する。
「ピアノどうだった? ……楽しかった?」
思いのほか、僕の言葉は不安そうな響きをしていた。優しく笑う速水が「楽しかったよ」とまっすぐに言う。その一言だけで、僕の胸の奥があたたかくなる。
振り返れば、この夏はいろんなことが巻き起こった。事の始まりは冬のあの日。僕の伝えた思いがきっかけだった。それまで親友だった僕たちの関係が大きく崩れた。
速水は困惑して、たくさん考えてくれて、なにも言えなかった。僕はそれを拒絶だと感じて、なにも聞けなかった。合わない歯車のようにチグハグで、僕たちにしか修理することはできなかったのに、距離をとる方法しか選択することができなかった。
それでも日常は続いた。僕はピアノを弾いて、速水はテニスを続けていた。違う場所にいる速水のことを意識しないように。そうやって壁を作っていた。僕はずっと青かった。
青くて弱いくせに、とんだ意気地無しだった。サン=サーンスと出会ってサラサーテを知り、曲を調べた先で、僕にとって速水がサラサーテのような存在だと感じしまった。それから意気地無しっぷりに拍車がかかっていたと思う。ずっと昔の速水のことばかり考えていた。一緒にピアノを弾いていた頃の、速水のことばかり。
「……その、いろいろごめん」
速水が動きを止めて僕を見た。
「でも、ありがと。僕のわがままで一緒にピアノ弾いてくれて」
今度こそ、上手く笑えているだろうか。離れた距離が近づいて、また離れて。そうかと思えば連弾をするくらい近づいて。寄せて返す波のように不安定な関係のまま、僕たちはぷかぷかとクラゲのように波に漂っている。
速水と一緒に過ごすための条件として、僕は連弾を提示してしまった。これが終わったら、僕たちのピアノで繋がったこの関係も終わってしまう。だからこそ、終わってほしくなかった。この連弾が速水と弾くピアノの、速水と過ごす日々の終止符のつもりだった。
文化祭当日になっても、ピアノを弾く直前も、いっそ弾かなくて済むならと考えていた。弾いている最中は楽しくて仕方がなかったのに、終わってしまった後でもう一緒に弾けない苦しさで涙を流した。
これでおしまい。
これで最後。
これで、速水とはさようならだ。
ほんとうの速水の姿を、僕は知らなかった。速水がスーパーマンのように見えていた。ピアノもできて、運動もできて、欠点が少ない人間だと思い込んでしまっていた。
とても楽しそうにピアノを弾いていた昔の速水のことも、ずっと忘れていた。周りから見た速水の姿を知って、ようやく客観的に速水を見ることができた。速水のすぐ隣にいたけれど、僕は速水を知らないままだった。きっと、ずっと前から。
ぼんやりとした不安で満ちた夏が始まって、ずっとどこかに後悔があった。それでもどうにか速水と向き直って、言葉を重ねて、音を重ねた。ほんの小さなきっかけと、静かな勇気が、僕たちをまた繋げた。
「昨日の演奏、たぶんずっと忘れないと思う。それくらい楽しかった」
照明に照らされた速水の横顔を思い出す。鍵盤を叩く手の大きさ、過集中のように動く指。必死に喰らいついたあの演奏。本当に、全身全霊の演奏だった。
速水と面と向かっていると、次々に記憶の花が咲いていく。人は死ぬとき走馬灯を見るというけど、僕にとっては速水との別れが一種の死なのかもしれない。
三途の川には流せないほどたくさんの花々が咲いて、僕の心を眩ませる。もう少しだけこの場所に留まっていたいと考えてしまう。速水は静かだった。グラスに入ったジュースの炭酸が、シュワと揮発する。以前だったら僕はまた、速水はなにも言わないなんて憤っただろう。速水が言葉を選んでいるだなんて、思うことができなかった。
「俺も楽しかった」
「よかった」
僕にとっては十分すぎる言葉だった。短期間で速水に無理をさせたはずだ。大変だっただろうし、たくさん悩ませたと思う。それでも、楽しかった記憶として残っているのなら、これ以上嬉しいことはなかった。
「またこうやって、悠とピアノを弾けるきっかけができると思わなかった」
速水が昔のように眉尻を下げて、気の抜けた笑顔を見せる。ふにゃりと笑う速水の笑顔に、今度は僕が動きを止める番だった。
「俺さ、ずっと考えてて。悠とどうしたら仲直りできるか、とか」
「うん」
速水の手がストローをいじる。目を伏せて、言葉を探していた。
「俺の中で悠はどんどんすごい人になってて、ピアノでたくさん賞取ったり、強豪の吹奏楽部でレギュラーメンバーに選ばれてたりして……。いまさら、俺が謝っても意味なかったんじゃないかって、ずっと思ってた」
速水の声は尻すぼみに小さくなっていく。僕は店内放送にも負けそうな声を聞き逃さないように、じっと速水を見つめた。しっかり速水の言葉を聴かないといけないと思った。
「連弾誘われて、俺は無理だよって思ったんだ。ピアノ弾いてなかったし、悠の足手まといになると思った」
でも、と速水が続ける。
「もう一回友達になろうって言われて嬉しかったし、俺を選んでくれるならがんばりたいと思って、弾くことにした」
「うん」
「あんな風に弾けると思わなくて、やってよかったし、悠と弾けてよかった。俺の方こそ、誘ってくれてありがとう」
その言葉に、胸が締め付けられる。僕が無理やり速水の手を取って進んでいると思っていたけれど、速水もたしかに、手を握り返してくれていた。自分が差し出した手の先で、速水がなにを考えているのか知ることに怯えていた。つくづく、僕は弱い。
速水は嬉しそうに笑う。記憶の花々は、今日この日のためにあったのかもしれない。あの冬の日から今日までの出来事全部が意味あるもので、その全部が肯定されたような安心感があった。
僕の中だけじゃなくて、速水の中にもなにかがきっと芽吹いている。
「俺も悠が好きだよ。悠が親友で嬉しい」
「なっ……! 恥ずかしいやつすぎ!」
「悠も前俺に言ったのに」
「言い方とか、言ってくるタイミングが全部ずるいんだよ」
僕は、はあ、とわざとらしくため息を吐いてみせる。速水はそんな僕の行動に笑っていた。なんだか照れくさくて、テーブルの下で速水の足を軽く蹴る。速水は笑いをこらえるようにして肩を揺らす。
「なんか第二楽章が始まったって感じする」
速水は嬉しそうに言う。ようやく歯車が噛み合ったような感覚だった。中学時代からずっと僕は止まっていた。なにも進めないままで、速水の幻想を見ていた。けれど、また『運命』を弾いて、錆びついていた歯車がようやく動き出した。
目の前に座る速水が無防備に微笑む。僕が見てきた青は、青さは、過去の中にある。僕と速水の淡い関係性が溶けていく。
「悠。これからもよろしく」
速水が拳を差し出す。
「こっちこそ、よろしく」
声が震える。腹筋に力をこめ、自分の拳をコツンと当てる。これでおしまいだ、速水の幻想ばかりを見ようとするのは。記憶の花々は大切に飾られて、誰にも壊すことはできない。大切な思い出として、僕と速水、二人の中に残り続ける。
さようなら、僕らの弱さ。これでさよならだ、僕が夢見たミッドブルー。
拳越しに速水の熱を感じる。これまでの迷いも弱さも抱えて、僕たちは前に進んでいく。
久しぶりに、ピアノを演奏した心地だった。コンクールや発表会から身を離していたおかげで、文化祭が数年ぶりに全身全霊で弾いたステージになった。息が詰まりそうな緊張感。楽しそうに弾く速水の邪魔にならないように、けどただの伴奏になってしまわないようなバランスで弾く難しさ。
そして、弾き終えたあとの満足感と、終わってしまった心の穴の空虚さが残っている。持ち時間は十分もなかったのに、この日を最後に、もう二度とピアノが弾けなくてもいいと思えてしまうほどだった。
日曜日の片づけの後、振替休日になった月曜日のベッドの中で、僕はもぞもぞと動く。なにもしたくないような、けれど動かないと落ち着かないような感覚。まだ興奮した心が落ち着いていないのかもしれない。
ベッドから出て、出かける準備を済ませる。ジージーと蝉が鳴く道を自転車で走り抜ける。駅から電車に乗り、目的地で降車した。そこからは徒歩で行く。じりじりと照りつける日の眩しさに、目を細めた。夏だ。それも、とびっきりの。
「片づくの早いな」
家から三十分ほどかけて着いたのは、北幌市立南高校の校舎前。文化祭のために装飾されていた校門は、明日からの授業に合わせて普段通りの質素なものに戻っている。
もうどこに文化祭の名残はなかった。活気に溢れていた玄関前のロータリーには、今日は誰もいない。客引きをする学生の声も、体育館から漏れる軽音楽部の演奏も聞こえない。もう、ひとつも残っていない。
不意にピアノの音が聞こえた気がして、帰ろうと振り返った足が止まる。校舎を見て耳を澄ませてみるが、それは気のせいのようで、思わず笑ってしまう。休日勝手に忍びこんでピアノを弾くことなんてできないのに、ピアノの音が聞こえてくるわけがなかった。
「……悠? なにしてんの?」
「……え。そっちこそ、なにしてんの」
さあ帰ろう。そう思った矢先、自転車に乗った速水が現れた。長い前髪を後ろに梳いて、速水は額の汗を拭う。互いにスウェット姿で、汗をかいている。
「僕は落ち着かなくて。なんか来てた」
「俺もそんな感じ。午前中テニスしてたんだけど、落ち着かなかった」
「部活?」
「少年団の練習。いつも日曜なんだけど、今週は月曜日だったから行ってきたんだ」
そういう速水の背中には、テニスラケットが入っているらしいソフトケースが背負われていた。速水が無言で、僕の奥を見つめる。僕もその視線の先を追うように目線を動かせば、いつも通りの様子を見せる校舎があった。
文化祭が終わった。僕たちの連弾も終わった。練習を重ねて、できるかぎり誰にも速水とピアノを弾くことを言わずに過ごして、サプライズ演出も上手くいった。全部が上出来といっても差し支えなかった。
何度も音を重ねて、失敗するたびに笑い合ってまた修正して、なにかが確かに変わっていった。
それでも朝は変わらずにやってきた。変わった僕たちはいつも通りの日常に戻ることができなくて、なにが変わったのかを確かめようとしている。一昨日までの熱気はとっくになくなっているはずなのに、僕たちは燻っている。
「日陰、行かない?」
遠慮がちに言った速水に頷いて、校舎を離れる。ちょうどいい日陰を探すのは意外と難しくて、昼時ということもあって南高生御用達のファミレスチェーンへ入店した。タッチパネルでドリンクバーを二つと大盛りポテト、それから季節のフルーツパフェを頼む。
速水は空腹らしく、グリルチキンとミックスグリルプレートを単品で注文した。料理が届くまでの間、好きなジュースを注いで待つが、話す言葉もなくただ沈黙が流れる。
沈黙はもう苦痛じゃなかった。速水と時間を共有しているだけで、今は充分だ。頬杖をついてタッチパネルを扱いメニューを流し見る速水を、僕は静かに見つめる。がらんとした平日の昼間の店に、とんちきなメロディがけたたましく鳴る。音の主は少しずつ僕たちに近づいてきていた。曲がり角から出てきた配膳ロボットが、テーブルの横までやってくる。
「ご注文の料理を持ってきましたニャン!」
背面の料理を取り、ボタンを押す。とんちきな音楽がまた流れ、配膳ロボット――もといニャン太がバックヤードへ戻っていく。
揃った料理に手をつける。すっかり運動部になった速水は黙々と手元のミックスグリルプレートを食べていく。僕がパフェを食べ終わる時間とほとんど変わらずに、速水のプレートは空っぽになっていた。
「文化祭、終わったね」
僕は、小さく言う。速水は頷いた。あっという間だった。あまりにも早く過ぎ去ってしまった。
「あっという間だったな」
「うん」
速水も同じ気持ちらしくて、安心する。
「ピアノどうだった? ……楽しかった?」
思いのほか、僕の言葉は不安そうな響きをしていた。優しく笑う速水が「楽しかったよ」とまっすぐに言う。その一言だけで、僕の胸の奥があたたかくなる。
振り返れば、この夏はいろんなことが巻き起こった。事の始まりは冬のあの日。僕の伝えた思いがきっかけだった。それまで親友だった僕たちの関係が大きく崩れた。
速水は困惑して、たくさん考えてくれて、なにも言えなかった。僕はそれを拒絶だと感じて、なにも聞けなかった。合わない歯車のようにチグハグで、僕たちにしか修理することはできなかったのに、距離をとる方法しか選択することができなかった。
それでも日常は続いた。僕はピアノを弾いて、速水はテニスを続けていた。違う場所にいる速水のことを意識しないように。そうやって壁を作っていた。僕はずっと青かった。
青くて弱いくせに、とんだ意気地無しだった。サン=サーンスと出会ってサラサーテを知り、曲を調べた先で、僕にとって速水がサラサーテのような存在だと感じしまった。それから意気地無しっぷりに拍車がかかっていたと思う。ずっと昔の速水のことばかり考えていた。一緒にピアノを弾いていた頃の、速水のことばかり。
「……その、いろいろごめん」
速水が動きを止めて僕を見た。
「でも、ありがと。僕のわがままで一緒にピアノ弾いてくれて」
今度こそ、上手く笑えているだろうか。離れた距離が近づいて、また離れて。そうかと思えば連弾をするくらい近づいて。寄せて返す波のように不安定な関係のまま、僕たちはぷかぷかとクラゲのように波に漂っている。
速水と一緒に過ごすための条件として、僕は連弾を提示してしまった。これが終わったら、僕たちのピアノで繋がったこの関係も終わってしまう。だからこそ、終わってほしくなかった。この連弾が速水と弾くピアノの、速水と過ごす日々の終止符のつもりだった。
文化祭当日になっても、ピアノを弾く直前も、いっそ弾かなくて済むならと考えていた。弾いている最中は楽しくて仕方がなかったのに、終わってしまった後でもう一緒に弾けない苦しさで涙を流した。
これでおしまい。
これで最後。
これで、速水とはさようならだ。
ほんとうの速水の姿を、僕は知らなかった。速水がスーパーマンのように見えていた。ピアノもできて、運動もできて、欠点が少ない人間だと思い込んでしまっていた。
とても楽しそうにピアノを弾いていた昔の速水のことも、ずっと忘れていた。周りから見た速水の姿を知って、ようやく客観的に速水を見ることができた。速水のすぐ隣にいたけれど、僕は速水を知らないままだった。きっと、ずっと前から。
ぼんやりとした不安で満ちた夏が始まって、ずっとどこかに後悔があった。それでもどうにか速水と向き直って、言葉を重ねて、音を重ねた。ほんの小さなきっかけと、静かな勇気が、僕たちをまた繋げた。
「昨日の演奏、たぶんずっと忘れないと思う。それくらい楽しかった」
照明に照らされた速水の横顔を思い出す。鍵盤を叩く手の大きさ、過集中のように動く指。必死に喰らいついたあの演奏。本当に、全身全霊の演奏だった。
速水と面と向かっていると、次々に記憶の花が咲いていく。人は死ぬとき走馬灯を見るというけど、僕にとっては速水との別れが一種の死なのかもしれない。
三途の川には流せないほどたくさんの花々が咲いて、僕の心を眩ませる。もう少しだけこの場所に留まっていたいと考えてしまう。速水は静かだった。グラスに入ったジュースの炭酸が、シュワと揮発する。以前だったら僕はまた、速水はなにも言わないなんて憤っただろう。速水が言葉を選んでいるだなんて、思うことができなかった。
「俺も楽しかった」
「よかった」
僕にとっては十分すぎる言葉だった。短期間で速水に無理をさせたはずだ。大変だっただろうし、たくさん悩ませたと思う。それでも、楽しかった記憶として残っているのなら、これ以上嬉しいことはなかった。
「またこうやって、悠とピアノを弾けるきっかけができると思わなかった」
速水が昔のように眉尻を下げて、気の抜けた笑顔を見せる。ふにゃりと笑う速水の笑顔に、今度は僕が動きを止める番だった。
「俺さ、ずっと考えてて。悠とどうしたら仲直りできるか、とか」
「うん」
速水の手がストローをいじる。目を伏せて、言葉を探していた。
「俺の中で悠はどんどんすごい人になってて、ピアノでたくさん賞取ったり、強豪の吹奏楽部でレギュラーメンバーに選ばれてたりして……。いまさら、俺が謝っても意味なかったんじゃないかって、ずっと思ってた」
速水の声は尻すぼみに小さくなっていく。僕は店内放送にも負けそうな声を聞き逃さないように、じっと速水を見つめた。しっかり速水の言葉を聴かないといけないと思った。
「連弾誘われて、俺は無理だよって思ったんだ。ピアノ弾いてなかったし、悠の足手まといになると思った」
でも、と速水が続ける。
「もう一回友達になろうって言われて嬉しかったし、俺を選んでくれるならがんばりたいと思って、弾くことにした」
「うん」
「あんな風に弾けると思わなくて、やってよかったし、悠と弾けてよかった。俺の方こそ、誘ってくれてありがとう」
その言葉に、胸が締め付けられる。僕が無理やり速水の手を取って進んでいると思っていたけれど、速水もたしかに、手を握り返してくれていた。自分が差し出した手の先で、速水がなにを考えているのか知ることに怯えていた。つくづく、僕は弱い。
速水は嬉しそうに笑う。記憶の花々は、今日この日のためにあったのかもしれない。あの冬の日から今日までの出来事全部が意味あるもので、その全部が肯定されたような安心感があった。
僕の中だけじゃなくて、速水の中にもなにかがきっと芽吹いている。
「俺も悠が好きだよ。悠が親友で嬉しい」
「なっ……! 恥ずかしいやつすぎ!」
「悠も前俺に言ったのに」
「言い方とか、言ってくるタイミングが全部ずるいんだよ」
僕は、はあ、とわざとらしくため息を吐いてみせる。速水はそんな僕の行動に笑っていた。なんだか照れくさくて、テーブルの下で速水の足を軽く蹴る。速水は笑いをこらえるようにして肩を揺らす。
「なんか第二楽章が始まったって感じする」
速水は嬉しそうに言う。ようやく歯車が噛み合ったような感覚だった。中学時代からずっと僕は止まっていた。なにも進めないままで、速水の幻想を見ていた。けれど、また『運命』を弾いて、錆びついていた歯車がようやく動き出した。
目の前に座る速水が無防備に微笑む。僕が見てきた青は、青さは、過去の中にある。僕と速水の淡い関係性が溶けていく。
「悠。これからもよろしく」
速水が拳を差し出す。
「こっちこそ、よろしく」
声が震える。腹筋に力をこめ、自分の拳をコツンと当てる。これでおしまいだ、速水の幻想ばかりを見ようとするのは。記憶の花々は大切に飾られて、誰にも壊すことはできない。大切な思い出として、僕と速水、二人の中に残り続ける。
さようなら、僕らの弱さ。これでさよならだ、僕が夢見たミッドブルー。
拳越しに速水の熱を感じる。これまでの迷いも弱さも抱えて、僕たちは前に進んでいく。

