体育館の照明が落とされ、ステージの中央だけが静かに浮かび上がる。吹奏楽部のプログラムには、満員御礼と言って差し支えないほど観客が集まっていた。どのメドレーも聞き覚えのある楽曲ばかりで、観客の手拍子がパーカッションのように作用することもあった。
 観客に紛れた速水が舞台袖で、髪を結う。僕はメドレー中の暗転を利用して舞台袖へと引いていた。心地よい緊張感が、身体全体にある。それは速水も同じようで、目が合い、またグータッチをした。

「七瀬」
「ん?」

 会場ではメドレーが終わり、拍手が鳴っている。楽器を置く音が聞こえてくる。部員たちが使っていたパイプ椅子が手早く片づけられていた。

「めいっぱい楽しもう」
「そうだな」

 もう弾くことからは避けられない。それなら、後悔が一つもないようにミスを恐れず思い切り楽しんだ方がいい。

「それでは皆さん! この後は吹奏楽部最後のプログラム、当校が誇る二人のピアニストによる連弾が披露されます! 一人は吹奏楽部二年生、玉城悠。彼は小学生の頃からピアノを続けていて、数々のコンクールで賞を獲得してきた実績があります!」

 ステージから聞こえる司会者の言葉に、速水が笑う。

「なんで僕こんなハードル上げられてんの」
「紹介の圧がすごいなぁ。慕われてんだね」

 上げられたハードルが分不相応に思えて、ため息が出る。横で笑っている速水が気楽そうに見えた。

「そんな玉城の相方は――なんと私たちも分かりません! 我らが山路先生も教えてくれませんでした! それでは準備ができたようなので、二人の連弾をお送りします!」

 マイクが切れる。会場が暗転し、ピアノの隣がスポットライトで照らされた。部員からのハンドサインを見て、僕たちはステージへ進む。静寂の中、僕たちの足音だけが響く。並んで深く一礼をする。速水だと気づいたらしい誰かの声が、驚きや小さな悲鳴となって反響した。
 プリモとして主旋律の多い高音部を弾く速水が観客側、低音部を弾くセコンドの僕が奥に座る。譜面台に置かれた楽譜は『Summer』。
 速水の手が鍵盤に触れると、静かに序奏が始まった。やわらかで、淡く、まるで朝の空気のような音。旋律は一音一音、夏の記憶を撫でるように響く。僕の右手がその旋律に寄り添うように伴奏を重ねる。穏やかなハ長調は、まるで日の光に包まれるような温かさと、少しの切なさを含んで流れ出す。
 テンポが次第に上がっていく。
 速水の旋律が跳ね、音が転がる。軽やかなスタッカートにのって、夏の風景が広がっていく。蝉の声、遠くまで伸びる青い空、入道雲。そんな夏のイメージが、音にのって客席に届けられていく。僕は速水の呼吸や指の動きを読みながらテンポの揺らぎを感じ取り、伴奏のリズムを支える。ペダルにより音色が控えめに響き、軽やかさと余韻のバランスを保っていた。
 練習を始めた頃と比べて、速水の演奏は自由で柔軟性があった。ぎこちない箇所もあるけれど、それすらもこの演奏の一部として馴染んでいる。集中した表情の速水だったけれど、旋律の中では笑っているような気がした。ピアノから遠のいた彼が、今この瞬間を楽しんでくれている。嬉しさと、胸の痛みが混ざり合う。
 曲の終盤、旋律はふたたび穏やかさを取り戻す。速度が落ちていく中、最後の音がゆっくりと静かに、響きを残して消える。その余韻が壊れてしまわないように、しばらくの沈黙が体育館を満たした。

 やがて、拍手が起こる。最初は控えめだったそれが、だんだんと大きく響き渡っているようだった。『運命』の楽譜を並べる僕には、速水の息遣いばかりが聞こえる。緊張の中、集中してピアノを弾き続けるだけでも体力が奪われる。
 ちらりと横を見ると、速水が小さく頷いた。次はもう一曲。僕の思い付きで決まった曲。ベートーベン作曲、交響曲第五番『運命』第一楽章、連弾用アレンジ。椅子に座り直し、鍵盤に手を添える。誰かが息を呑む音が聞こえた。
 同じタイミングで息を吸い、冒頭のフレーズを弾く。速水が四音を力強く鍵盤を押す。迷いのない、鋭い音。僕がすぐに和音を重ね、ピアノ全体が震えるような響きが体育館の空気を揺らす。二人で何度も練習した発表曲。僕たちが連弾を弾くきっかけになった原点。
 力強く、そして緻密に、旋律と伴奏が繰り返される。細かな音符の応酬は、リズムのズレが許されない。強く、けれど汚く響いてしまわないように注意を払う。速水は譜面を見ているようで見ていなかった。何度も何度も、指が痛くなるまで弾いた楽曲を、記憶を思い起こしながら弾いている。当時以上の迫力、緊張感。僕も速水の音に必死に食らいつく。
 小節が進むごとに音の密度が上がり、難易度も跳ね上がっていく。今できる全力で、全身全霊を込めて速水は弾いている。その隣で、僕も負けないように旋律を支える。あの頃には弾けなかった濃さで、迫力で、旋律を奏でていく。今この瞬間しか、こうやって弾くことはできないから。
 失敗したっていい。指が上手く動かなくたって、音を外したっていい。速水が全力で弾いてくれるなら、僕も全力でこの瞬間と速水に向き合ってやる。
 終盤、冒頭のあのフレーズが繰り返される。

 『運命』のさ、出だしのジャジャジャジャーンってとこあんじゃん?
 あそこってジャジャジャジャーン以外に合う効果音ないよな。
 俺らのピアノも、ジャジャジャジャーンって聴こえたらいいな。

 期待に滲んだ表情で言った演奏前の速水、これなら満足じゃないか。あの頃は譜面通りになぞるようにしか弾けなかった音が、今は熱を帯びて、響きの中に意味を持って奏でられている。最後の和音を二人で弾き切り、音が止む。
 体育館全体が一瞬、無音に包まれる。
 ――そのあとに起こった、割れんばかりの拍手。歓声とともに体育館の空気を震わせる。目の前が滲みそうになる。座ったまま速水と顔を見合わせ、同時に息を吐く。

「……すごかったな」

 ぽつりと速水が言う。心臓が痛い。速水もきっと同じだ。僕は小さく頷き、声を絞り出す。

「ありがとう七瀬」
「悠、ありがとう」

 もう何も言わなくて良かった。この時間、この演奏に、言葉以上の価値があった。深く一礼をして、拍手を身に受ける。噛み締めて、耐える。舞台袖に下がると、ヤマ先が目を細めて立っていた。「良かった」と言って、僕と速水と握手をする。
 そのあと、裏方をしていた吹奏楽部の部員たちが次々に駆け寄ってきた。「最高だった」「びっくりした」と口々に言う声に、嬉しさより寂しさが勝る。終わってしまった実感が、ふつふつと湧き上がる。これで最後。これが、最後。先に舞台袖を出て行った速水は、体育館で他の生徒に捕まっていた。
 僕も一言断りを入れて舞台袖を出て、体育館から逃げ出した。あの演奏を聴いていた人たちの明るい言葉や、感想の声が耳に届く。それら全部が、終わった事実を突きつけてくるようで苦しかった。どこに行ったらいいか分からないまま、誰もいない場所を探して学校の裏手の日陰に隠れる。
 あの演奏中、心臓を掴まれたように苦しくて、興奮していた。ここで終わって良い、これが最後の速水と弾くピアノでもいい。そう思っていたはずなのに、ぼろぼろと涙がこぼれる。声を上げて泣きだしてしまいたいくらいの強い衝動が抑えられない。
 演奏が終わってから指がかたかたと震えていた。鍵盤の重さ、音の響きが身体に残っている。いい演奏だった。最後に相応しい、本気の演奏だった。両手をぎゅうと強く握る。祈るように手を組んで、落ち着けと念じながら呼吸する。
 ピアノを弾き続けてよかった。
 速水と最後にピアノを弾くことができて良かった。
 あの冬の日からぎこちなかった関係も、二人で練習した放課後の時間も、うまくいかなかった久しぶりの連弾も、ひとつひとつが記憶の中に咲いている。全部速水に伝えたい。この連弾が、どれだけ楽しかったか。今日までの日々がどれだけ楽しかったのか。花束みたいにいろんな彩りをもった記憶を伝えて、僕は速水と決別する。