商店街の道すがら、耳心地の良い高い音色が聴こえる。その音に、イヤホンをしていなかったことに気が付いて、イヤホンを装着する。流すのはサン=サーンスによる『序奏とロンド・カプリチオーソ』。ピアノ演奏のために編曲されたこの楽曲は、ピアノ教室で学びながら弾いているものだった。
 序奏では中音域を中心に、ロンドでは高音と低音が軽やかな掛け合いを行う。自然とピアノのリズムに体が揺れ、太腿を指が叩いた。
 小学生の頃から通い続けているピアノ教室でのレッスンは、高校に上がる時に土曜日の夜一度だけに変更した。今はピアノのコンクールに出ることもないから、難易度を気にせず、弾きたいと感じた曲を弾かせてくれる今のレッスンが性に合う。
 サン=サーンスがサラサーテに献呈した『序奏とロンド・カプリチオーソ』は、最近気に入っている名曲だった。元々はヴァイオリンの独奏曲として知った名曲をピアノで弾ける。それがとても高いモチベーションになっていた。
 吹奏楽部の練習は週七日かつ月曜日、水曜日、金曜日には早朝練習もあり、多忙を極める。疲労困憊で帰宅する毎日のせいでピアノの練習量は足りていないから、今のようなレッスン方式に変えてもらった。
 ようやく明日の夜、先生の家でグランドピアノに触れることができる。自宅のアップライトピアノでは出ない音の深みや、鍵盤の重さの違いに触れることを想像するだけで胸が高揚する。
 街灯が道を照らす他は、暗く静かな住宅街にある自宅へ入る。二十時を過ぎたけれど、両親はさらに遅くまで仕事をしているため、誰にも邪魔されずピアノに向かうことができる。作り置きの夕食を済ませ、課題を片づける。
 日中の外周で日焼けした肌は赤くなり、シャワーの湯が少し当たるだけでひりひりとした痛みを生んだ。やや白みの強い金髪になるよう染めたけれど、毛先のダメージが気になってしまう。
 ヘアミルクとヘアオイルで髪を労わりながらドライヤーを済ませ、自室のピアノの前に座る。黒を基調としたスタンダードなアップライトピアノ。ドの音を押す。聞きなれた音、よく手になじんだ鍵盤。楽譜を広げ、座る位置を直す。
 一度ゆっくりと呼吸をする。両手を鍵盤に載せ、一音。アンダンテ・マリンコニコ――歩く速度で、憂鬱な様子で。イ短調の穏やかな序奏が始まる。サン=サーンスの想いに悲哀を交えて、歌うように一音一音を奏でていく。穏やかな和音で、主旋律を包み込むように。
 穏やかな曲調で進んでいく序奏では、アルト寄りの中音域でなめらかなレガートを奏でる。その後はアログロ・ノントロッポの情熱的な舞曲調のロンド主部が続く。速く、しかし、あまり速すぎないように。リズムに合わせて足が動くようにロンド主題に、自然を笑みが浮かぶ。
 右手が跳躍すると、旋律が軽やかに跳ね始める。テンポを上げ、オクターブを越えてリズミックに主題が下降する。スタッカートとスラーの切り替え。はっきりとした和音の進行に、今まさにロンドを踊っているかのような浮遊感が生まれる。
 ロンドはリズムを保ちながらも機械的にならないように、ペダルを浅く踏み込み余韻を残す。拍の変化がロンドにアクセントを生む。楽し気でありながら優雅な舞踏が行われ、そしてまたロンドへ。ここから、まるでカデンツァのように、自分が即興で演奏しているように無邪気に指を動かしていく。
 ロンド主題が一区切りし、最後のロンドに進むための力を蓄える。けして臆病にはならずに、大胆さの中に優雅な線を保つように。
 そうして、最後にテンポをあげてロンドを踊る。約六分間踊り続けたロンドが、ようやく終わりを迎える。鍵盤から指を離し、ペダルから足を外す。ロンドの終わり。たった一曲、されど一曲。初めと同じように、深呼吸をする。
 ヴァイオリンの鬼才であるパブロ・デ・サラサーテのためにサン=サーンスが書いた曲だった。スペイン出身のサラサーテにちなみスペイン風の要素が取り入れられた名曲。
 サン=サーンスはどれだけの思いをもって、これを書き上げ、サラサーテに捧げたのだろうか。彼の思いは、どれだけサラサーテに届いたのだろう。

「……連弾、したいなぁ」

 浮かんだのは速水の姿。隣同士でしか感じられない息の重なり、二人だからこそのボルテージ。最後に連弾をしたのは、中学生の頃だった。眩しいスポットライトの下で、目線の高さが一緒だったあいつとの演奏を思い出し、はあとため息を吐く。まだあの熱が、あの日の音が忘れられないままだ。
 椅子の背もたれに寄り掛かり、じっと天井を見つめる。あいつがピアノを辞めてから、ピアノに触れると連弾の記憶が思い起こされてしまう。高校に上がってもピアノを続けたのは、僕がそうしたいと決めたから。辞めたあいつにカッコいい姿を見せようと思って続けているけれど、その願いは叶いそうにないことは自分がよく分かっていた。

「……よし」

 ピアノに向き直り、改めて鍵盤を叩く。サン=サーンスとサラサーテに僕たちの姿を投影してしまってからの演奏は、散々な出来だった。納得いかない演奏のまま、ボスンとベッドに寝転がる。くすぶる心を睡魔がそっと包んでいく。それに抗うことなんでできなかった。
 翌日も始発電車で学校へ向かう。吹奏楽部では一ヶ月毎に鍵当番が決まっており、この七月は僕が担当していた。部活自体は九時から開始になるが、鍵を開けて音楽室とその横にある楽器庫の掃除をする必要があった。職員室に置かれた鍵の受け渡し帳簿に名前を書き、音楽室と音楽準備室の鍵を取る。
 手早く掃除を済ませて部屋の換気をする。まだ涼しい朝の風が、すうっと部屋を抜けて行った。
 基礎練習、パート練習、昼休憩をして外周、筋力トレーニング。夕方最後に各パートと五人単位で集まり、小規模の合奏練習をこなし、時刻は十八時を越えた。薄紫やオレンジ色、まだうっすら残る水色の空の下を歩く。コンビニで夕食を買い、店前で食べ終えて駅へ向かった。
 予定通りに電車がホームへ到着する。はやる心を抑えながら、地元の松田ピアノ室へ向かう。週に一度、土曜夜二十時すぎから始まるピアノのレッスンの日だった。

「玉城くん一週間ぶりねー! 元気だったかしら? さっ、早く上がって弾きましょっかー!」

 インターホンが切れ、扉が開いた直後。夜の二十時を越えているとは思えない元気な声色で、松田ピアノ教室の扉が開かれる。声の主である松田先生は深い紺色のワンピースを翻し、廊下の先にある部屋へと進んでいった。僕も脱いだ靴を揃えてから、その後についていく。
 広いリビングの一角に、グランドピアノが鎮座している。ピアノの傍には背の低い本棚が壁沿いに並べられ、そこには沢山の楽譜や教本が並べられている。年齢や等級別の教本に、クラシックはもちろん邦楽や洋楽まで幅広い楽譜があった。
 ピアノが置かれるスペースの横にも、同じくらい広い空間がある。そこにはテレビやソファ、ローテーブルが置かれている。僕はかばんをソファの上に置いてから、手洗いを済ませて、ピアノ椅子の高さを調整する。
 ふいに頭上でチリンと高い音が鳴った。それはエアコンの風に揺られた風鈴の軽やかな音だった。クラゲを模った風鈴が、ゆらゆら、ぷかぷかと揺れる。

「あれ、先週なかったですよね」

 僕が指さした風鈴を見て、先生は「そーなのよ!」と嬉しそうに話し始める。

「この間硝子市っていうのがやってたんだけどね! そこに売ってて、もう一目惚れっ! こんなに広ーい空気の海を泳ぐクラゲだなんて、とっても幻想的じゃない! チリンって音を鳴らしながら泳ぐんだから! もうほんっといい買い物したのよ!」

 声も手ぶりも大きく、先生はほかにも硝子市の思い出を話し出した。海の生き物の置物や楽譜クリップもあったらしい。

「先生が海とか好きなのは知ってたけど、クラゲが好きとは知らなかったです」
「最近深海のドキュメンタリー番組見たら好きになっちゃって! ほら見て! 深海色のワンピース」
「はは……」

 くるくると三回転し、どこかの貴婦人のようにスカートを摘まんで優雅に一礼をして見せた松田先生に、僕はなんとか笑って拍手をする。そのぎこちない対応でも先生は満足した様子で、てきぱきとした動きでグランドピアノの屋根を開いて演奏準備を始めた。
 僕はその間吊るされたクラゲを見ていたけれど、鞄から取り出した楽譜を譜面台に立てかける。松田先生が近くの椅子に腰掛けたことを確認して、鍵盤に指を置く。
 昨日の夜、一番最初にイメージした楽し気なロンドの様子を思い出しながら、指を弾ませる。サン=サーンスはサラサーテに贈るためスパニッシュな要素も取り入れながら、楽しくこの曲を書いたはずだ。彼の技巧に思いを馳せ、彼の技術が十分に発揮できるような、魅力的な構成をしている。
 彼の描くヴァイオリンの世界が、なににも代えがたいほど美しく映るように。
 ピアノを辞めた速水の音が聴こえてくる。あいつはこの曲を知らないのに、まるで隣で弾いているかのように。僕にとって何よりも美しかったあの音色が戻ってきたような感覚が、苦しい。もう聴こえない音に縋りたくなってしまう。もう、あの頃のように弾くことなんでできないと分かっているから。
 ペダルから、足を離す。松田先生は寂しそうに微笑んでいた。僕もきっと、似たような表情をしていたのかもしれない。この空間でクラゲの風鈴だけが新たな音色を響かせている。僕は、まだそこに追いつけない。
 曲のディティールを相談しながら弾いた『序奏とロンド・カプリチオーソ』は、思ったような音色にならなかった。たった一度の演奏で、楽しみにしていた心地も全部なくなってしまった。
 帰宅してからもピアノを弾く気分にならないまま、ベッドに寝転がる。握った拳を振り下ろすと、マットレスのスプリングにやわらかく受け止められてしまった。