始発電車を待つ駅のホームで、ぼんやりと過ごす。昨日も夜遅くまでピアノを弾いていて、寝不足気味だ。まだ涼しい七月の朝。昨日父がアイロンをかけてくれた制服は、いつもより袖を通すことに緊張した。少し開けた襟首も息苦しく感じる。
「悠、おはよ」
「おはよー。どう? 調子」
「そこそこかな」
いつもは制服を着崩している速水が、今日は優等生のようにシャツの裾をスラックスにしまっていた。服装は二人で合わせて、白い半袖シャツにニットベスト、スラックスに黒いローファー。指定の制服を着て、電車に乗り込む。
ガラガラの車内はすでに冷房がしっかり効いていて、身体を冷やしていく。僕たちは隣同士に座った。速水からワイヤレスイヤホンを片方借りる。片耳にイヤホンを装着して、僕が『Summer』の楽譜を開くと速水が曲を再生する。久石譲が弾く『Summer』が流れ出したのに合わせて、僕たちはそれぞれの太腿を指で叩く。
時折腕がぶつかりながら息を合わせて弾き終える。指の動きがスムーズな心地よい緊張感。速水は満足そうに微笑んでいて、僕も同じように笑顔を向ける。もう一度、『Summer』を弾いた後、速水が携帯を操作した。楽譜をしまう僕に、速水がそういえば、と口を開く。
「この、『運命』のさ、出だしのジャジャジャジャーンってとこあんじゃん?」
「あるね」
楽譜を用意しながら、僕は速水に答える。きっと『運命』というタイトルを知らなくても、多くの人は出だしのインパクトある音色を聞いたことがあるはずだ。
「あそこってジャジャジャジャーン以外に合う効果音ないよな」
「たしかに?」
オーケストラでもたくさんの楽器が一度にそのフレーズを弾く。タタタターンのような薄さでもなく、テテテテーンのような軽さでもない。ヴァイオリンの高く細い旋律だけではなく、管楽器も打楽器も、どの楽器も迫力を持って弾くフレーズ。
「俺らのピアノも、ジャジャジャジャーンって聴こえたらいいな」
楽しそうにそう話す速水の横顔を、僕はまじまじと見つめた。その言葉は、中学生時代に速水と最後の連弾をしたその日、まさに速水自身が言った言葉と同じだった。まだ真っ黒な髪で、僕と身長も変わらなかった速水七瀬の姿が見えた気がした。
速水に「そうだね」と返し、僕は太腿に指を置く。速水が『運命』を流す。ピアノの重低音が響く。その音で、どれだけ聴きに来る人を楽しませられるだろう。速水が言うように、ただの学生二人の演奏が、しっかり『運命』の楽曲のように、次の時代への展望や期待のような旋律として届いてくれたら。そう考えるだけで指が楽しそうに動き出した。
真っ青な、これまでの日の中で一番深く透き通った青い空が僕たちを見下ろしていた。
駅から学校までの道中も僕たちの耳にはイヤホンが入っていて、いろいろな曲が流れている。邦ロックや洋楽、女性アイドルグループの楽曲など多岐に渡っていた。同じ服を着て、同じ楽曲を聞いて、同じ速度で歩く。この関係が、この時間が、いつまでも続いてほしい。
けれど、それも今日まで。たった二週間弱の短い期間だったけれど、一緒にピアノを弾いていた日々全てに懐かしさを感じてしまう。これから本番に向かうというのに、もう演奏が終わってしまったかのような虚脱感の種が芽吹いている。
歩く足が少しずつ遅くなってしまう。もうすぐ学校に着く。一般公開日の文化祭二日目は十一時から十三時までの間、体育館で吹奏楽部のステージが行われる。定期演奏会のように楽曲を演奏して、メドレー、最後に僕と速水の連弾。
「悠?」
速水が振り向いて、僕を見る。朝日に光るミッドブルーの髪。結われていない髪が、頬をやさしく撫でていく風にあそばれている。
「ちょっと、緊張しちゃってさ」
笑おうとしたけれど、うまく表情を作ることができなかった。緊張なんかしていない。でも、この思いを速水に圧しつけてしまってはいけない。一つの終わりに向かって進まなくちゃならないことが、怖くて仕方がない。
「俺がいるよ」
速水が歩み寄る。
「悠の方がステージに慣れてるし、俺より演奏も上手いから。俺じゃ力不足だと思うけど今日は俺もいる」
速水、お前は。
「一緒に楽しもう」
――本当に、ずるいやつだ。
差し出された拳は、演奏前の僕たちのルーティン。どちらがコンクールで賞を取っても、発表会でうまく演奏できなくても、めいっぱい楽しく弾く約束のジェスチャーだった。奥歯を強く噛んで、僕は自分の拳を速水の差し出す拳に当てる。
「今日はよろしく」
「もちろん。俺の方こそよろしく」
拳を離して、坂道を下る。文化祭専用に飾られた校門を通って、生徒玄関で速水と別れた。僕はすぐに予定されていた吹奏楽部の最終練習へ向かった。
交通機関の関係で集合時間はばらばらで、集まった部員たちから演奏準備の設営が始まっている。すでにステージの前には傷を防ぐためのマットが敷かれ、譜面台とパイプ椅子が並べられていた。観客側は自由に出入りができるよう、体育館の後方に四列分だけパイプ椅子が並んでいた。
僕が弾く予定のピアノは、ステージの真ん中に置かれていた。屋根は開かれ、いつでも弾けるように鍵盤も露わになっている。
「おはよーございまーす」
まばらに返事がある中、秋羽部長の姿を探す。
「部長なら音楽室で楽器の運搬のこととか指示出してますよ」
「あ、ありがと。……えっ、八柳、髪、赤くなってる……?」
満面の笑みの八柳は「めっちゃ可愛くないですか!」と興奮気味だ。長い黒髪の内側には原色のような眩しい赤色に染められている。
「これ、ハーフアップするんです! そしたらめっちゃ赤見えるから、また見てください!」
「うん……。すごいきれいに赤色入ったんだね」
「はい! せっかく文化祭だし、一年だけど怒られてもやろうと思って染めちゃいまいた!」
八柳の言葉の端々は楽しそうに跳ねている。他の部員に呼ばれた八柳は「行ってきます!」と一礼して、駆けていく。一輝も体育館にはおらず、悩んだ末にステージに上がった。登壇しやすいように階段が置かれている。卒業式や入学式くらいでしか使われていない階段を上るのは、少しだけ非日常感がある。
丁寧にメンテナンスされたグランドピアノは、音が滑らかに響く。椅子の高さを調節して、速水が弾いた簡単な『きらきら星』を演奏する。指は問題なく動く。音の粒も軽やかで整っている。あとは時間になったら、このピアノで曲を弾く。
「よろしく」
僕と速水の演奏を、どうか美しく響かせてくれますように。そんな願いを込めて、ピアノの鍵盤を優しく撫でた。
「悠、おはよ」
「おはよー。どう? 調子」
「そこそこかな」
いつもは制服を着崩している速水が、今日は優等生のようにシャツの裾をスラックスにしまっていた。服装は二人で合わせて、白い半袖シャツにニットベスト、スラックスに黒いローファー。指定の制服を着て、電車に乗り込む。
ガラガラの車内はすでに冷房がしっかり効いていて、身体を冷やしていく。僕たちは隣同士に座った。速水からワイヤレスイヤホンを片方借りる。片耳にイヤホンを装着して、僕が『Summer』の楽譜を開くと速水が曲を再生する。久石譲が弾く『Summer』が流れ出したのに合わせて、僕たちはそれぞれの太腿を指で叩く。
時折腕がぶつかりながら息を合わせて弾き終える。指の動きがスムーズな心地よい緊張感。速水は満足そうに微笑んでいて、僕も同じように笑顔を向ける。もう一度、『Summer』を弾いた後、速水が携帯を操作した。楽譜をしまう僕に、速水がそういえば、と口を開く。
「この、『運命』のさ、出だしのジャジャジャジャーンってとこあんじゃん?」
「あるね」
楽譜を用意しながら、僕は速水に答える。きっと『運命』というタイトルを知らなくても、多くの人は出だしのインパクトある音色を聞いたことがあるはずだ。
「あそこってジャジャジャジャーン以外に合う効果音ないよな」
「たしかに?」
オーケストラでもたくさんの楽器が一度にそのフレーズを弾く。タタタターンのような薄さでもなく、テテテテーンのような軽さでもない。ヴァイオリンの高く細い旋律だけではなく、管楽器も打楽器も、どの楽器も迫力を持って弾くフレーズ。
「俺らのピアノも、ジャジャジャジャーンって聴こえたらいいな」
楽しそうにそう話す速水の横顔を、僕はまじまじと見つめた。その言葉は、中学生時代に速水と最後の連弾をしたその日、まさに速水自身が言った言葉と同じだった。まだ真っ黒な髪で、僕と身長も変わらなかった速水七瀬の姿が見えた気がした。
速水に「そうだね」と返し、僕は太腿に指を置く。速水が『運命』を流す。ピアノの重低音が響く。その音で、どれだけ聴きに来る人を楽しませられるだろう。速水が言うように、ただの学生二人の演奏が、しっかり『運命』の楽曲のように、次の時代への展望や期待のような旋律として届いてくれたら。そう考えるだけで指が楽しそうに動き出した。
真っ青な、これまでの日の中で一番深く透き通った青い空が僕たちを見下ろしていた。
駅から学校までの道中も僕たちの耳にはイヤホンが入っていて、いろいろな曲が流れている。邦ロックや洋楽、女性アイドルグループの楽曲など多岐に渡っていた。同じ服を着て、同じ楽曲を聞いて、同じ速度で歩く。この関係が、この時間が、いつまでも続いてほしい。
けれど、それも今日まで。たった二週間弱の短い期間だったけれど、一緒にピアノを弾いていた日々全てに懐かしさを感じてしまう。これから本番に向かうというのに、もう演奏が終わってしまったかのような虚脱感の種が芽吹いている。
歩く足が少しずつ遅くなってしまう。もうすぐ学校に着く。一般公開日の文化祭二日目は十一時から十三時までの間、体育館で吹奏楽部のステージが行われる。定期演奏会のように楽曲を演奏して、メドレー、最後に僕と速水の連弾。
「悠?」
速水が振り向いて、僕を見る。朝日に光るミッドブルーの髪。結われていない髪が、頬をやさしく撫でていく風にあそばれている。
「ちょっと、緊張しちゃってさ」
笑おうとしたけれど、うまく表情を作ることができなかった。緊張なんかしていない。でも、この思いを速水に圧しつけてしまってはいけない。一つの終わりに向かって進まなくちゃならないことが、怖くて仕方がない。
「俺がいるよ」
速水が歩み寄る。
「悠の方がステージに慣れてるし、俺より演奏も上手いから。俺じゃ力不足だと思うけど今日は俺もいる」
速水、お前は。
「一緒に楽しもう」
――本当に、ずるいやつだ。
差し出された拳は、演奏前の僕たちのルーティン。どちらがコンクールで賞を取っても、発表会でうまく演奏できなくても、めいっぱい楽しく弾く約束のジェスチャーだった。奥歯を強く噛んで、僕は自分の拳を速水の差し出す拳に当てる。
「今日はよろしく」
「もちろん。俺の方こそよろしく」
拳を離して、坂道を下る。文化祭専用に飾られた校門を通って、生徒玄関で速水と別れた。僕はすぐに予定されていた吹奏楽部の最終練習へ向かった。
交通機関の関係で集合時間はばらばらで、集まった部員たちから演奏準備の設営が始まっている。すでにステージの前には傷を防ぐためのマットが敷かれ、譜面台とパイプ椅子が並べられていた。観客側は自由に出入りができるよう、体育館の後方に四列分だけパイプ椅子が並んでいた。
僕が弾く予定のピアノは、ステージの真ん中に置かれていた。屋根は開かれ、いつでも弾けるように鍵盤も露わになっている。
「おはよーございまーす」
まばらに返事がある中、秋羽部長の姿を探す。
「部長なら音楽室で楽器の運搬のこととか指示出してますよ」
「あ、ありがと。……えっ、八柳、髪、赤くなってる……?」
満面の笑みの八柳は「めっちゃ可愛くないですか!」と興奮気味だ。長い黒髪の内側には原色のような眩しい赤色に染められている。
「これ、ハーフアップするんです! そしたらめっちゃ赤見えるから、また見てください!」
「うん……。すごいきれいに赤色入ったんだね」
「はい! せっかく文化祭だし、一年だけど怒られてもやろうと思って染めちゃいまいた!」
八柳の言葉の端々は楽しそうに跳ねている。他の部員に呼ばれた八柳は「行ってきます!」と一礼して、駆けていく。一輝も体育館にはおらず、悩んだ末にステージに上がった。登壇しやすいように階段が置かれている。卒業式や入学式くらいでしか使われていない階段を上るのは、少しだけ非日常感がある。
丁寧にメンテナンスされたグランドピアノは、音が滑らかに響く。椅子の高さを調節して、速水が弾いた簡単な『きらきら星』を演奏する。指は問題なく動く。音の粒も軽やかで整っている。あとは時間になったら、このピアノで曲を弾く。
「よろしく」
僕と速水の演奏を、どうか美しく響かせてくれますように。そんな願いを込めて、ピアノの鍵盤を優しく撫でた。

