昼休みのチャイムが鳴る。母が持たせてくれた弁当を出すが、その蓋を開ける間もなく僕を見ていた坂田と目が合った。黒板側の入口から視線を感じると思い視線を向けると、不機嫌そうな坂田が僕をじっと見ていた。デジャヴのような状況に、好奇の目の数は減った気がする。話しかけてくるわけではなかったけれど、震えた携帯には『早く来い』とメッセージが届いた。
 巾着から出した弁当を、また巾着へ戻す。僕が立ち上がる素振りを見せると、坂田はすぐに歩き出した。何も言わずに歩く坂田の背中を見ながら、嫌な予感がじわりじわりと広がる。昼休みすぐの生徒玄関は、今日も人が少ない。前回と同じテーブルに座った坂田が、「ん」と顎で座るように示す。

「七瀬。最近ずっとピアノの曲聴いてんだけど、あんたなんか知ってんじゃないの」

 僕が座ってすぐ、坂田は自分の爪を見ながらそういう。もうすでに苛立っていそうな様子を隠そうともしない。

「女の影響としか思えないんだけど。ねえ、あんた知ってんでしょ」
「知らない」
「は? 嘘つくなよ。ちゃんと本当のこと言えって」

 坂田の語尾が棘を孕む。詰問のような強い口調に、どうしてそう強く当たられなくてはいけないのか理解できず、眉根がひそむのが自分でも分かった。僕のことを睨んでくるさk多に、僕は引かずに言葉を返す。
 速水がピアノを練習してくれていることを坂田に伝えてしまったら、連弾でのサプライズ演出の予定が崩されてしまうかもしれない。坂田はせっかくピアノに向き合ってくれる速水の障害になりかねなかった。

「仲良かろうが、なんでも知ってるわけじゃない」
「何お前。キモイんだけど」
「そっちが聞いてきたから本当のこと言ってんだよ」

 呆れて、つい強い口調で言い返してしまった。人に強く当たるのには慣れていなくて、声が上ずっていたと思う。坂田は動きを止めたかと思うと、眉を潜めて僕をきつく睨んでくる。

「なんで玉城が怒ってるわけ? 意味わかんないんだけど」

 坂田の表情が強張っていた。僕は返す言葉も見つけられず、背もたれに身体を預けた。部活後で空腹も強く、早く教室に戻って弁当を食べたい。

「ちょっと。黙ってるってことは怒ってるってこと? おい、なんか言えよ」
「怒ってないよ。とにかく、速水がピアノを気にしてるとか、好きな女子の話とかは知らないって」
「お前さ、七瀬と仲良かったんじゃないの? ほんとは知ってて言ってないんだろ? なんで教えようとしないわけ?」

 少しずつ彼女の声に苛立ちがこもる。坂田は身を乗り出して、今にも掴みかかってきそうな距離で「答えろよ」と語気を強める。男の僕がなにもしないと思っているような、態度。坂田の態度に面倒くささや苛立ちを覚えるが、感情のままに対応する気力もわきあがらない。のらりくらりとこの場を乗り切ることが、僕の心のためにも得策だと思えた。

「そんなに気になるなら、自分で速水に訊けばいいんじゃない?」

 僕の返答を聞いた彼女の目が、よりきつくなる。もうそれ以上の言葉を返す気分にはなれなかった。速水と別れている自覚があるからこそ、自分で速水に訊きに行くことができないことくらい想像できる。速水が誰に心を寄せているのか、誰に惹かれているのか。復縁の可能性がどれだけあるのかを、まるで探偵のように情報を集めようとしているのだろう。

「速水に訊きにいけないことを他の人に訊いたって、誰も教えるわけがないよ」

 ふと気配を感じて、横を歩いて行った人物を見上げる。日焼けした肌、首元にミッドブルーの髪がはらはらと踊る。速水が僕を見下ろしていた。ほんの一瞬だけ目が合ったけれど、坂田に一瞥することもなく静かに目線を外して速水は廊下を進んでいった。
 ここでの会話がどこまで聞かれていたかは分からないけれど、肩が下がった坂田は自信を喪失しているようだ。

「速水に未練があるなら一人でやって。僕は坂田さんに付き合ってる暇ないから」

 坂田の表情が固まる。僕には彼女と向き合うような時間は残されていなかった。こんなことで時間を使ってしまうより、クラス準備を時間通りに終わらせてピアノの練習をしなくていけない。
 はっきりと、僕の立場を明確にする。彼女の顔が引きつる。きっとこれまでも、ある程度自分の意見や考えが通っていたんだろう。だからこそ、はしごを外されるような気持ちを味わうことは予想外だったのかもしれない。
 僕は立ち上がって踵を返す。野次馬の生徒たちの視線が向けられていたことに、ようやく気が付いた。ちくちくと刺さる視線に居心地の悪さを感じながら、坂田を置いて教室へ戻る。昼休みが終わる前の予鈴のチャイムが、無機質に廊下に響く。
 文化祭準備は大詰めに近づいてきていた。教室の黒板には作業スケジュールが大きく書かれ、終わったものにはレ点がつけられている。黒板のあちこちにマスキングテープで貼られたメモや図面があり、窓から吹く風に揺れている。
 昨日よりも着実に進んでいる、そんな達成感が満ちる喧騒の中、僕たちは装飾用の工作を手分けして作っていた。
 クラス全体の空気もどこか熱を帯びている。準備に追われながらも、楽しそうに動き回るみんなの姿に、文化祭というイベントのもつ特別な魔法を感じる。文化祭が迫っている事実が、僕と速水の連弾練習にも熱を加えていた。
 作業が一段落した夕方、僕は職員室の片隅を守るヤマ先の下にいた。短く用件を伝えると不適に笑って鍵を渡してくれた。

「音楽室使ってる間鍵かけてていいぞー」
「え、でも、中から閉めたら写真部とか使えないんじゃないですか」
「今日は吹奏楽部が使うって伝えているから、気にしないでいい」
「あ……はい。ありがとうございます」

 ヤマ先は楽器の扱いや音楽室の扱いに、厳しい面を見せることが多い先生だった。そんな顧問からの言葉に呆気にとられる。けれど信頼されている事実に、なんだか気恥ずかしさもある。
 頭を下げると、ヤマ先は早く行けと言わんばかりに手をひらひらさせていた。僕は職員室前に置いていた鞄を回収して音楽室へ向かう。鍵を開け、ひっそりとした室内に入る。
 速水に連絡を入れて、照明をつける。室内はピアノを避けるようにパーテーションが置かれ、演奏会や体育祭での吹奏楽部の面々の写真が張られていた。その間を進んでピアノの準備を済ませる。連弾の練習も部活中にした方がいいんじゃないかと話題になったけれど、結局一度も連弾は披露していない。
 そのことが部員の一部に不信感を与えている可能性はゼロじゃない。けれど速水が弾くから、と話題になるより、ここの吹奏楽部が気になるから見に来てほしい、という気持ちがあった。

「ごめん、待たせた」
「おつかれー。あ、鍵だけかけて」

 速水が鍵を閉めたことを確認して、速水の準備が終わるまで好きに音色を奏でる。今日の気分は『エリーゼのために』だった。なにかのためにというよりも、誰かのために作られた曲が好きで、情景を浮かべながら指を運ぶ。制服を着崩していた速水がワイシャツを脱いで、僕の隣に椅子を用意した。
 黒いタンクトップにスラックス姿の速水が、譜面台に楽譜を用意してくれたのを見て、演奏を止める。ピアノを前にして、速水と肩を並べて座る。
 ピアノの前に座るとまだすこし騒がしい教室の喧騒が離れたように感じられた。この広い空間でたった二人。僕たちだけの世界の中で、速水が軽く息を吸って、『Summer』の一音が響く。
 序奏は静かに進む。速水の旋律を支えるように、僕の右手が伴奏を奏でる。ハ長調の明るさは、たんに明るいというわけではなかった。音色の奥に寂しさや切なさを含んだ光があった。速水の奏でる旋律には、まさしく夏が香る。
 旋律が転がるように跳ねると、曲は自然とテンポを上げていく。伴奏が刻むリズムは風のように流れて、旋律はその上を遊ぶように舞った。軽やかなスタッカートに、わずかに絡むペダルの余韻。陽射しのなかを駆け抜けていく子どもたちのような、そんな自由な躍動感。
 速水の息遣い、指の動きをよく見て、僕は伴奏を続ける。速水が奏でる一音一音が嬉しい。またピアノを弾いてくれているという実感が、この連弾を楽しくさせる。嬉しくて、楽しくて、でもそれだけじゃない。
 この時間がずっと続けばいいのに。そんな思いが、音に影を落としていく。文化祭が終われば、きっとまた元に戻る。放課後に時間を作ってピアノを二人で弾く機会なんて、きっと今回で最後になるはず。そう思うと、鍵盤を押す指にほんの少しだけ迷いが生まれた。
 細かいフレーズで、微妙に音がずれる。速水の音は滞りなく進んでいく。迷いなく、僕を信じて進んでくれる。僕の音だけは自信がなさそうで、弱弱しい。最後の音が切れ、静寂が訪れる。

「ごめん七瀬、もう一回」
「ん」

 僕に合わせて、速水は何度も『Summer』を弾く。気づけば窓の外、西の空が茜色に染まっていた。西日が音楽室に射し込み、ピアノの上を照らす。僕たちは時間を忘れてピアノに向かっていた。

「悠、なんかあった?」

 休憩中、速水がぽつりと言う。僕がピアノを通して相手のことを知るように、速水にも僕の不安が知られているのかもしれない。

「ううん。ただ、弾くのって楽しいなぁって思ってさ」
「そっか」

 小さく笑う速水の横顔に、僕は目を伏せる。僕もけっきょくなにも言えないでいるじゃないか。速水がなにも言ってくれなかったことに苛立っていたのに、僕も同じだ。今の関係を壊したくなくて、本音を飲み込んで、なんでもない振りをして。
 その不安が大きくなって速水にぶつけたばかりなのに。弾くのは楽しいし、このままずっと文化祭が終わった後も一緒にピアノを弾き続けたい。気持ちは膨らむのに、言葉に出すことはできなかった。
 もう一度、『Summer』を弾く。けれど、音は合わないままだった。さらに三十分ほど練習をして、しっかりと休憩をとることにした。ペットボトルの水を飲みながら、速水は僕の横顔をじっと見ている。真顔のように見えるけれど、速水が言葉を必死に選んでいる様子が伝わっていた。

「七瀬」

 だからこそ、僕から言葉を伝えなくちゃならなかった。

「ん?」

「『情熱大陸』やめて『運命』弾きたい」

 速水は数回瞬きをして、それから少し考えるように視線を泳がせた。

「いいけど……そうなると弾けない可能性もある」
「うん、わかってる。でも、せっかくなら、もう一回最後に弾きたいと思って」

 速水が小さく息を吐いた。僕はもう覚悟が決まっていた。速水がミスをしてもセコンドとして支える覚悟が。

「……わかった。久しぶりだけど、主旋律はなんとかする」
「できそう?」
「昔みたいに、とはいけないけど、やってみる」
「ありがと」

 速水が指を開いたり閉じたりしながら真剣な顔を見せる。速水が覚悟を決めてくれたなら、僕は速水が不安なく弾くことができるように支えるだけ。再び、鍵盤の上に静かに手を置く。ベートーヴェン作曲、交響曲第五章『運命』第一楽章。記憶の奥にしまっていた旋律が、少しずつ形になって蘇ってくる。
 当時を思い出すように探りながら、躓きながらの演奏。荘厳さの少ない不安で拙い音だけれど、連弾をしている実感が急に満ちてきて、胸が熱くなる。。
 文化祭まで、あとわずか。限られた時間の中で、どこまで満足いく演奏になるか、観客を楽しませるものになるかは分からない。でも、最後には最高だと笑って終わることができるように。僕たちの連弾がようやく始まったような気がした。