瞼が開く。
天井があった。カーテンの隙間から侵入した夜の明かりに照らされた白い天井が、じっと僕を見下ろしている。心臓がまだばくばくと速く動いている。溺れるような息苦しさが喉に残っていて、浅い呼吸が続く。
夢、だった。
やけに現実的な映像を思い出すと、胸の奥がずきりと痛む。あまりにも現実味のある夢だった。速水が来なくて、僕は一人で演奏する。速水からのメッセージの内容を思い出すだけで、胸が苦しくなる。僕とは弾けないなんて、本当に打たれていたらどうしようと焦燥感に駆られる。
起き上がり、枕元の携帯を手に取った。時刻は午前四時半を回ったところ。通知はゲームや公式アプリからの通知以外は届いていない。携帯が顔認証で解除された。昨日の夜、寝る前に速水とやりとりしたメッセージが残ったままだった。
『また明日』
速水から送られていたその言葉を見て、心底ほっとする。息苦しさが消え、安堵の息を吐きだす。現実では僕たちは繋がっている。夢とは、違う。
水を飲みにキッチンへ向かうと、窓の外がうっすらと青くなっていることに気がついた。朝が近づいている。さっきまでの悪夢が、少しだけ遠ざかっていく。コップに水を注いで、一口、口に含む。冷えた水が喉を通るたびに、夢と現実の境界が明瞭になっていく。
速水が逃げるような夢を見るとは思わなかった。僕は携帯を手にしてソファに座る。数か月ぶりに動いたメッセージのやり取りを見返す。素っ気なく見える速水からの返信。シンプルな返信が、口下手な速水らしい。
あの夜話しかけてくれたのも、きっと簡単じゃなかったはずだ。鞄を掴む手が震えていた。表情を見せようとしなかったのは、感情を隠していたわけではなくて、溢れるのを必死に防いでいたのかもしれない。
あんな夢を見てしまうのは、僕の中で速水のことを信じることができていない部分があるからだろう。まだ、夢のような出来事が起きてしまうかもしれない。本当に親友に戻りたいと思っているのは僕だけで、速水は僕に合わせているだけかもしれない。
そんな疑念がまだ心に残っている。だけどそれは速水が本当に思っているわけではなくて、速水を信じられない僕が勝手に感じていることでもあった。あいつは不器用だけど、不器用なりに言葉を向けてくれた。
僕も、速水にちゃんと向き合わなくちゃいけない。
窓の外が、もう少しだけ白んできた。朝が来る。僕は速水をよく見て、言葉に耳を傾けて、ちゃんと知っていかないといけない。深まる夏に、そんな決意が生まれていた。青い僕たちが、成長するために。
起きるには早すぎる時間だったけれど、二度寝する気分にはなれずそのまま登校の支度を済ませる。『序奏とロンド・カプリチオーソ』に楽譜が鞄に入っていることを確認して、ファスナーを閉める。
今週の通常授業期間が終われば、来週からは変則授業に切り替わる。午前中に部活動、午後からは文化祭準備の時間になる予定だった。
吹奏楽部が行うのはアニメソングメドレーとクラシック入門メドレー。トランペットやクラリネットなど有名どころの楽器が主旋律を奏で、他の楽器が徐々に増えていくことで旋律が完成していく様子を観客に感じてもらうことを主としている。未来の吹奏楽部員を増やすために、できるだけ吹奏楽や合奏の魅力を伝えたいと秋羽部長が意気込んでいた。
そんな吹奏楽部の演奏は本番前の仕上げの段階に入っていて、部活中の音楽室はいつにも増して張り詰めた空気に満ちている。ほどよい緊張感が満ちた部活が終わったタイミングで、僕は音楽室を出て行ったヤマ先を追いかけた。
「あの、山路先生ちょっとお時間いいですか」
「ん? 珍しいな。恋バナか」
「毎回それ言ってきますけど、あんまおもしろくないですからね」
ヤマ先がつまらなさそうにため息を吐く。一度ウケた返答をし続けるところさえなければ、この人のことをもっと尊敬することができるのに。
「あの、部活が終わった後と来週の放課後、音楽室使わせてもらえませんか」
気を取り直して、ヤマ先にそう伝える。不思議そうな顔をしていたヤマ先が、顎を触りながら思案する。二つ返事で了承をもらうことは難しいと分かっていた。吹奏楽部の部活が終わるのは十八時半。片付けや軽いミーティングなどがあると、十九時頃に部活が終わることもある。
十九時は学校が定める下校時間でもあって、部活の後に音楽室を使う時間はほとんどない。顧問たちも部活が終わるとぱらぱらと帰宅していくため、学校に生徒が残る状況をあまり作りたくはないはずだった。
「どれくらい使うつもりだ?」
「三十分くらいです」
「一人でか?」
「二人です」
「二人?」
ヤマ先が探るような視線で僕を見た。文化祭で連弾をする話は秋羽部長がヤマ先に伝えてくれると言っていたけれど、もしかしたら伝わっていないのかもしれない。
「連弾今年もやるから、その練習で……」
「部活の後ってことは部員じゃないのか? 部員同士なら部活の合間で流れの確認もかねて弾けるだろ」
「今年は部員とじゃなくて、別の部の人で……。部活の後じゃないと一緒に弾くのが難しくて、ピアノを弾ける心当たりが音楽室くらいしかなくて」
家に帰ればアップライトピアノもあるけれど、家に速水をあげる勇気はない。気兼ねなく使う事ができそうなのは、音楽室のグランドピアノくらいしかなかった。それに帰るだけとはいえ、わざわざ移動することも手間がある。
音楽室から出てきた部員たちの視線を浴びつつ、僕とヤマ先は廊下の端へ寄った。たまたま今週から鍵当番は僕に代わった。ヤマ先さえ許可をくれれば、施錠まで責任をもって行うことができる。
「ちなみに誰と弾くつもりだ? 連弾することは聞いているけど、秋羽も相手を知らないって言ってたぞ」
「テニス部の速水と、です」
速水の名前に、ヤマ先は興味深そうに目を輝かせた。
「あいつ弾けるのか?」
「一応中学までピアノ習ってたので。二人とも部活終わらないと練習できないから、もし使えたら音楽室借りたくて……」
ヤマ先は再び顎に手を置いて思案する様子で、口角を上げた。挑まれているような緊張感がわずかに生じる。「まあいいよ」と、ヤマ先がいつもの調子でニヒルに笑った。
「シークレットでサプライズってやつだな? オレがどこまで口硬くいられるか分かんないが、使用前後の報告と施錠をちゃんとやるんだったら三十分限定で使っていいぞ」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げると、ヤマ先は「青春だな」と言いながら去って行った。これで練習場所を確保できた。音楽室に戻ると部員はもう出払っていて、僕の荷物だけがぽつんと置かれている。せっかくだからと、ピアノの蓋を開けた。
フェルトの鍵盤カバーと外すと、白黒の美しい鍵盤が現れる。いそいそと鞄から取り出した楽譜は『序奏とロンド・カプリチオーソ』。今日は弾けそうな、確証のない自信があった。突き上げ棒を使い、屋根を一番開く状態で固定する。譜面台に載せた楽譜には、こすれた「楽しく。跳ねるように」の文字があった。
椅子に座り、そっと鍵盤に指を置く。一週間ぶりのピアノの感触。身体の真正面にあるドの音を、鳴らす。聞き馴染みの良い音色。
集中する。目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。胸いっぱいにため込んだ息を、細く長く吐き出す。目を開けた。両手を鍵盤に静かに置き、最初の一音を華やかながらも憂鬱な様子で響かせる。『序奏とロンド・カプリチオーソ』イ短調。サン=サーンスが稀代のヴァイオリニストであるサラサーテの技巧に魅せられて書いた、あの遊戯的なロンド。
序奏は旋律というより、聴き手に語り掛けるような静けさや心地のよさを孕む。滑らかな和音が重なり、旋律は慎重に、呼吸を整えるように進んでいく。何かを思い出しながら、発する言葉を選ぶように、静かで確かな情熱が込められていた。
序奏は穏やかな表情の中に、目に見えない哀しみの水脈を隠している。和音の隙間から、ふと顔を覗かせる影。けれどその影もまた、優しさと一緒に包まれていく。
そして訪れる、転調とテンポの変化。アレグロ・ノントロッポ。――楽しく、跳ねるように。楽譜の文字が主張するように、目に入った。陽気に、けれど行き過ぎないように、慎ましく弾む音楽が始まる。
跳ねるようなリズム。軽やかな音の粒。主題が舞い上がるように立ち上がり、右手が鍵盤を駆けていく。まるで音が笑っているかのように。
笑みが自然と浮かぶ。足先が思わずリズムを刻みたくなるような、そんなロンドだった。スタッカートとスラーの切り替えをくっきりと。ひとつの音が跳ねて、次の音に飛びつく。跳躍、下降、再び音が跳ねる。まるでロープを飛び越えていくような心地。
鍵盤の上を指が自由に動くたび、音楽が生き物のように動き出す。浅くペダルを踏む。残響はあたたかく、あくまで優雅さを忘れない。
途中でふと、呼吸を整えるように旋律の速度を緩める。一つのロンドが終わり、休憩のようなゆるやかな時間。けれど、そこで終わらない。すぐにリズムが戻り、新たな舞踏が始まる。ロンド形式の通り、同じ主題が幾度となく戻ってきて、少しずつ変化を纏って進んでいく。その度に新しい景色がひらけていくようだった。前と同じ旋律なのに、どこか違う。
音の数が増していく。ロンドが求める速さに身体が、指が応えてくれている。拍の変化が、ロンドをさらに加速させる。細かく動くアルペッジョも、跳ね上がる高音も、ぜんぶ楽しい。次の音に指が動く、新たな音が生まれる、その全てが楽しくてしかたない。今この瞬間だけは、旋律の中を自由に泳ぎ回っているようだった。
最後のロンド。
旋律がもう一度戻ってくる。速さの中に安定があり、華やかさの中にしなやかさがある。疾走感をたたえた終盤へ。約六分間踊り続けたロンドが、楽しそうに、少しだけ名残惜しそうに終わりを迎える。鍵盤から手を離し、ペダルから足を外す。音が止んだあとの、少しだけ続く静寂。目を閉じて、静かに息を整えた。
これまでの悩みが全部なくなってしまったように、旋律が響いていた。まだ、音の余韻が残っている。たった一曲弾き終えただけなのに、なぜか世界がほんの少しだけ違って見える。
「――楽しい」
一人残った音楽室で、これまで感じたことがないくらいの充足感に身を沈ませる。これが、僕にとってのロンド。これを速水に聴いてもらいたい。僕が今演奏できる全てが詰まった、このロンドを。
手を膝に置いて、目を閉じたまま呼吸をする。興奮が冷めない。コンクールで金賞を取った時よりも高揚している。まだ弾きたい。もう一回、今度はもっと軽やかなロンドになるように。
「玉城」
不意の声に肩が跳ねる。膝がピアノの下に当たってしまった。
「下校時間だぞ」
音楽室の入口に居たのはヤマ先で、呆れたような表情をしている。時間を見るとすでに針は十九時半頃を指し示しており、慌てて屋根と鍵盤の蓋を閉じた。その様子をずっとヤマ先は見ていた。急かされてるような気持ちになりながら、音楽室を消灯する。
「すみません。鍵です」
施錠を確認し、ヤマ先に音楽室の鍵を手渡す。鍵の返却を確認したヤマ先は頷いた。
「いい演奏だったな。じゃ、気をつけて帰りなさい」
「あ……ありがとうございます」
一礼をして帰路に着く。生徒がいない校舎を出て、駅へ向かう。少し涼しい風が、火照った心を撫でていた。
寝る前ぎりぎりまで火照っていた心も、寝て起きるころには落ち着いていた。良い演奏をした満足感だけが残っている。
翌日の部の演奏も、旋律が跳ねるような楽しさがあった。終礼のあと、最後の一人として音楽室に残る。全員が出て行ったのを見届けて、職員室へと向かう。 ヤマ先は職員室入口から対角線上、一番奥の角にあるデスクのところにいた。
「これから三十分音楽室借ります」
「ああ。また鍵を返しに来るようにな」
「はい」
浮足立つ気持ちで音楽室に戻る。静かな広い部屋。昨日のようにピアノの屋根を開き、弾く準備を整える。そうしていると、速水が静かに音楽室に現れた。
「誰もいない……」
「そりゃ、部活終わったしね。僕だけだよ」
「なんか特別感ある」
少し緊張した様子で笑う速水の横顔を見て、僕は微笑む。
「音楽室初めて?」
「いや。学校案内でちらっと見たことある気がするから、二回目かな」
速水はピアノ椅子に座って高さを調整しながら、鍵盤をじっくり観察する。僕は鞄から楽譜を出し、譜面台に置いた。最初に試すのは、リトミック教材から選んだ一段譜。ドからラくらいまでの音だけで構成された、超初級の簡単な旋律。
「弾けなかったらどうしよう」
自信がなさそうな速水が、楽譜をじっと見ながら右手の親指をドの鍵盤に置く。速水の腕の筋肉に目が止まる。しなやかで細い腕の印象だったけれど、明らかに太くなっている。指も腕も、しっかりと鍛えられた運動部のそれになっていた。
「楽譜は? 読める?」
「読める。音楽記号もなんとか大丈夫。昨日少しアプリでピアノ弾いてみたから、少しはできると思う」
「ゆっくりでいいからやってみよ」
速水は小さく頷いて演奏を始めた。たどたどしいけど、音の粒は一音ずつ丁寧に置かれていく。少し躓くけれど、二度三度と繰り返すともうスムーズに弾くことができた。
「思ったより弾ける」
「いい感じじゃん。感覚まだ残ってるね」
「まじで少しだけだよ。こういうの習いたての頃にやったなって思い出したら、わりとスムーズだった」
速水が笑って、楽譜を捲る。僕は低難度ながらも二線譜の楽譜をいくつか用意していた。速水なら少し弾いてみるだけで、すぐに簡単な伴奏付きの楽曲くらい弾けそうな予感があった。
再び速水は鍵盤に手を置いて、ゆっくりと両手で鍵盤を押す。ぎこちない旋律だけれど、少しずつ音が重なって小さな音楽になっていく。
「楽しいな、ちょっとずつクリアできてる感じして」
「ね。バイエルも結構楽に弾けてるし、最後これやってみようよ」
彼が興味深そうに僕の手元を見る。本当はバイエルを弾いて終わろうと思っていたけれど、鞄から『きらきら星』の楽譜を取り出す。右手は四分音符の旋律、左手は全音符による簡単な和音伴奏で構成された簡単なもの。
「簡単すぎかな? 七瀬ならもう少し難しくていいかなとも考えたんだけど」
「いや、初めだからこれで」
伴奏を付けて速水が演奏を始める。最初はよろよろとして不安定だったけど、繰り返すうちに少しずつ整ってくる。四回目でようやく、速水にとって納得できる演奏ができたようで鍵盤から手を下ろした。
「……弾けた」
「いい感じじゃん。次からもう少し難しいのに挑戦しても良さそうだね」
「マジ? けっこう鈍ってるけど」
「ブランクあるわりに弾けてるよ」
そう言うと速水は控えめに笑った。
「ありがと」
「じゃあ、今日は終わろっか。明日もやる?」
「うん、できれば」
頷いた速水の横顔は、照明に透けるようにやわらかく見えた。ピアノを元に戻して、僕たちは音楽室を出る。生徒玄関で合流することにして、僕はまだ職員室に残っていたヤマ先に音楽室の鍵を返した。ニヤリと笑うヤマ先に一礼する。速水のことがばれないよう、慎重に練習を重ねて行かなくちゃいけない。ヤマ先の笑みに、そうしたプレッシャーも含まれているようだった。
部活後秘密の特訓を続け、気づけば文化祭まで一週間を切り、時間割は変則的なものになった。午前中に部活をし、昼食を済ませて、午後の時間はクラスの準備作業に切り替わる。出し物の設計や準備は、部活に所属していない生徒が主体になって進んでいた。
言われるがまま教室から体育館へ、そこから職員室、外へ買い出し。いろいろな場所へ移動し、部活とは違う忙しさがあった。それでも指示されたことをこなすだけだから、心は上の空でいられる心地良さがある。
予定より少し早く切り上げられた午後四時。簡単なホームルームが終わり、クラスを出ながら速水に「教室出た。駅で」と短く送る。クラスメイトたちも雑談していたり、早めに帰ったりと様々だった。
階段を下り靴を履いたところで、後ろから聞こえた女子の歓声に思わず振り向く。生徒玄関に向かって歩いてくる速水の傍には、坂田ではない女子がいて、一生懸命に話しかけている。近距離で話しかけられているのに聞こえていないのか、速水は返事をするわけでもなくまっすぐ生徒玄関へと歩いてきた。
「あ、悠。一緒に帰ろ」
やわらかく目じり下げた速水の微笑みに、一瞬女子の動きが止まり、悲鳴にも似た叫び声が響く。速水もさすがにうるさかったのか、またほとんど無表情に戻って靴を履く。その姿に動きを合わせて、校舎を後にした。
まだ青い空に、明るい太陽がある。少し前までならもうとっくに夕暮れで、薄暗い中帰宅していたのに。こんなに明るい時間に帰宅することは久しぶりで感動がある。
「練習進んでる?」
「一応伴奏もできるようになったかな」
「なんだ結構できるじゃん」
「四年ぶりだけどね」
速水との会話は自然と口角が上がる。ピアノの話をするとき、速水もピアノを演奏するように指が動く。
「じゃあまっすぐ僕ん家でいい?」
「うん。よろしく」
速水と一緒に電車に乗り、隣同士で座る。電車内では何も話さず、片道十五分の程の時間をそれぞれイヤホンで曲を聞きながら帰った。気まずさはなく、これから弾くピアノが楽しみでしかたがない。電車の扉が閉まる。まだ明るい空の下を自転車で駆ける。
まだ両親の帰ってきていない家に速水を上げ、まっすぐ自室へ向かった。アップライトピアノは今日もそこにいる。明るい日の光がカーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。速水が家にいる光景が不思議で、心が落ち着かない。音楽室を使おうとしていたけれど、写真部が撮影した吹奏楽部の写真展示の設営をするらしく、速水を連れて行くことができなくなってしまった。
やむを得ず自宅で練習をする流れになり、数年ぶりに速水が僕の部屋にいる。
「ピアノ開けてていいよ。楽譜出す」
「わかった」
本棚にしまっていた楽譜集を二冊取る。付箋がついていた『Summer』のページを開き、譜面台に置く。
「練習してくれてたと思うから、今日はこれをそこそこ完成させるのが目標」
「やれるだけやってみるかな」
「ちょっとじゃあ、合わせてみよ」
速水がピアノの椅子に座り、僕はその隣でキャスター付きの椅子に腰かける。速水のプリモから始まる『Summer』は穏やかな旋律で進み、それはまるで穏やかな日常の一ページを彩っているように感じられる。けれど、ほんのわずかな油断が、この旋律を躓かせてしまう。
伴奏に潜む変拍子や跳躍のバランス。それらを合わせてようやく、連弾曲としての『Summer』が完成する。速水と呼吸を合わせて演奏することがなによりも大切な曲。せっかく弾くならこの曲が弾きたい。僕がそう考えて選曲した。
速水の指が慎重に鍵盤をなぞる。速水の弾く主旋律に合わせて、オクターブ下がった音色で主旋律を支える。リズムが合ってきたところで、ペダルを浅く踏み込み、音を響かせる。軽やかなアルペジオ。光と影のグラデーションのように、短調から長調へと切り替わる一瞬を、二人で確かめるように弾いた。
速水の音色がひときわ冴える。三連符のリズムに揺れた部分を越え、主旋律が再び姿を現す時には音色が自然に溶け合っていた。連弾をしたというより、二人で一曲を弾いたと言える達成感があった。
「……おお」
「けっこう良かったね」
「すごいな、ちゃんと曲って感じになった」
速水がすっかり気の抜けた笑顔を見せる。学校で見る無表情な姿ではなくて、中学生頃までよく見ていた幼い笑い方。まだその表情を見せてくれる関係でいられていることに、胸がじわりと熱くなる。
そこから何度か繰り返して『Summer』を弾く。今年だけの大切な夏が、文化祭という終わりに向けてゆっくりと進んでいく。これまでの時間が、静かにほどけていくような感覚。ピアノの上に影を生む速水の指と、それを支える僕の音色が混ざっていく。
「最後のが一番よかったね」
「うん。意外と弾けるし、悠が合わせてくれるから弾いてて楽しい」
まっすぐに目を見て言う速水に、こそばゆい心地だった。なんだか照れくさくて、もう一冊のスコア集を開く。
「次。これ弾こうと思って」
速水に『情熱大陸』も連弾譜を見せる。「これかぁ」と難しい声で速水は頭をかいた。『Summer』と比べると確かに難易度はの高い曲。一人で弾くには難しいかもしれないが、連弾なら速水の負担をできるだけ減らすことができるのも事実だ。
「難しすぎない? いけっかな」
「難しいと思うけど、でもこれ弾けたら気持ちいいだろうなって思ってさ」
速水はしばらく楽譜を見て、身体を伸ばす。指を組んで手首を動かし、よし、と声を出した。
「挑戦してみる。サポートお願いします」
「もちろん。目標は躓かないで主旋律を弾く、って感じね」
ピアノを向き直り、速水が鍵盤に手を置いた。西日はどんどんと濃くなり、部屋のコントラストを高めていく。この時間がずっと続いてくれたらいいのに。叶わないことだとしても、どうかこのまま。今この時間に鍵盤を叩く指が、心底楽しそうに見える。
でも、それでも、この時間は今しか楽しむことはできない。だからこそ、このひと時の温度を忘れないように、心に焼き付けておかないとならない。きっとこの連弾が、最後になるだろうから。聴いたことのあるイントロやリズムということもあり、プリモは概ねスムーズに弾き進められている。
互いの息を探り合いながら弾く難しさとの直面が懐かしい。次に速水がどれくらい強く音を弾くのか、鍵盤から指を離す速度や次の鍵盤を押すタイミングに集中する。徐々に互いの息遣いが近くなる。ブレスのタイミングが合っていく。ピアノの楽しさが、連弾の楽しさが心の底から湧き上がる。
あっという間に両親が帰宅して、二十時を回っていることに気が付いた。速水も帰宅し、いつも通りの時間が流れる。違うのはアップライトピアノの前に椅子が二つ置かれていること。たしかに速水がこの家にいて、一緒にピアノを弾いていた。弾けないと思っていたことが嘘のように、ピアノを楽しいと思って弾けている。日ごとに安心感が募る。
鍵盤の蓋を閉じて、今日の一日を静かに終わらせる。少しずつ形になっていく旋律を、このまま続けていけたらいい。
天井があった。カーテンの隙間から侵入した夜の明かりに照らされた白い天井が、じっと僕を見下ろしている。心臓がまだばくばくと速く動いている。溺れるような息苦しさが喉に残っていて、浅い呼吸が続く。
夢、だった。
やけに現実的な映像を思い出すと、胸の奥がずきりと痛む。あまりにも現実味のある夢だった。速水が来なくて、僕は一人で演奏する。速水からのメッセージの内容を思い出すだけで、胸が苦しくなる。僕とは弾けないなんて、本当に打たれていたらどうしようと焦燥感に駆られる。
起き上がり、枕元の携帯を手に取った。時刻は午前四時半を回ったところ。通知はゲームや公式アプリからの通知以外は届いていない。携帯が顔認証で解除された。昨日の夜、寝る前に速水とやりとりしたメッセージが残ったままだった。
『また明日』
速水から送られていたその言葉を見て、心底ほっとする。息苦しさが消え、安堵の息を吐きだす。現実では僕たちは繋がっている。夢とは、違う。
水を飲みにキッチンへ向かうと、窓の外がうっすらと青くなっていることに気がついた。朝が近づいている。さっきまでの悪夢が、少しだけ遠ざかっていく。コップに水を注いで、一口、口に含む。冷えた水が喉を通るたびに、夢と現実の境界が明瞭になっていく。
速水が逃げるような夢を見るとは思わなかった。僕は携帯を手にしてソファに座る。数か月ぶりに動いたメッセージのやり取りを見返す。素っ気なく見える速水からの返信。シンプルな返信が、口下手な速水らしい。
あの夜話しかけてくれたのも、きっと簡単じゃなかったはずだ。鞄を掴む手が震えていた。表情を見せようとしなかったのは、感情を隠していたわけではなくて、溢れるのを必死に防いでいたのかもしれない。
あんな夢を見てしまうのは、僕の中で速水のことを信じることができていない部分があるからだろう。まだ、夢のような出来事が起きてしまうかもしれない。本当に親友に戻りたいと思っているのは僕だけで、速水は僕に合わせているだけかもしれない。
そんな疑念がまだ心に残っている。だけどそれは速水が本当に思っているわけではなくて、速水を信じられない僕が勝手に感じていることでもあった。あいつは不器用だけど、不器用なりに言葉を向けてくれた。
僕も、速水にちゃんと向き合わなくちゃいけない。
窓の外が、もう少しだけ白んできた。朝が来る。僕は速水をよく見て、言葉に耳を傾けて、ちゃんと知っていかないといけない。深まる夏に、そんな決意が生まれていた。青い僕たちが、成長するために。
起きるには早すぎる時間だったけれど、二度寝する気分にはなれずそのまま登校の支度を済ませる。『序奏とロンド・カプリチオーソ』に楽譜が鞄に入っていることを確認して、ファスナーを閉める。
今週の通常授業期間が終われば、来週からは変則授業に切り替わる。午前中に部活動、午後からは文化祭準備の時間になる予定だった。
吹奏楽部が行うのはアニメソングメドレーとクラシック入門メドレー。トランペットやクラリネットなど有名どころの楽器が主旋律を奏で、他の楽器が徐々に増えていくことで旋律が完成していく様子を観客に感じてもらうことを主としている。未来の吹奏楽部員を増やすために、できるだけ吹奏楽や合奏の魅力を伝えたいと秋羽部長が意気込んでいた。
そんな吹奏楽部の演奏は本番前の仕上げの段階に入っていて、部活中の音楽室はいつにも増して張り詰めた空気に満ちている。ほどよい緊張感が満ちた部活が終わったタイミングで、僕は音楽室を出て行ったヤマ先を追いかけた。
「あの、山路先生ちょっとお時間いいですか」
「ん? 珍しいな。恋バナか」
「毎回それ言ってきますけど、あんまおもしろくないですからね」
ヤマ先がつまらなさそうにため息を吐く。一度ウケた返答をし続けるところさえなければ、この人のことをもっと尊敬することができるのに。
「あの、部活が終わった後と来週の放課後、音楽室使わせてもらえませんか」
気を取り直して、ヤマ先にそう伝える。不思議そうな顔をしていたヤマ先が、顎を触りながら思案する。二つ返事で了承をもらうことは難しいと分かっていた。吹奏楽部の部活が終わるのは十八時半。片付けや軽いミーティングなどがあると、十九時頃に部活が終わることもある。
十九時は学校が定める下校時間でもあって、部活の後に音楽室を使う時間はほとんどない。顧問たちも部活が終わるとぱらぱらと帰宅していくため、学校に生徒が残る状況をあまり作りたくはないはずだった。
「どれくらい使うつもりだ?」
「三十分くらいです」
「一人でか?」
「二人です」
「二人?」
ヤマ先が探るような視線で僕を見た。文化祭で連弾をする話は秋羽部長がヤマ先に伝えてくれると言っていたけれど、もしかしたら伝わっていないのかもしれない。
「連弾今年もやるから、その練習で……」
「部活の後ってことは部員じゃないのか? 部員同士なら部活の合間で流れの確認もかねて弾けるだろ」
「今年は部員とじゃなくて、別の部の人で……。部活の後じゃないと一緒に弾くのが難しくて、ピアノを弾ける心当たりが音楽室くらいしかなくて」
家に帰ればアップライトピアノもあるけれど、家に速水をあげる勇気はない。気兼ねなく使う事ができそうなのは、音楽室のグランドピアノくらいしかなかった。それに帰るだけとはいえ、わざわざ移動することも手間がある。
音楽室から出てきた部員たちの視線を浴びつつ、僕とヤマ先は廊下の端へ寄った。たまたま今週から鍵当番は僕に代わった。ヤマ先さえ許可をくれれば、施錠まで責任をもって行うことができる。
「ちなみに誰と弾くつもりだ? 連弾することは聞いているけど、秋羽も相手を知らないって言ってたぞ」
「テニス部の速水と、です」
速水の名前に、ヤマ先は興味深そうに目を輝かせた。
「あいつ弾けるのか?」
「一応中学までピアノ習ってたので。二人とも部活終わらないと練習できないから、もし使えたら音楽室借りたくて……」
ヤマ先は再び顎に手を置いて思案する様子で、口角を上げた。挑まれているような緊張感がわずかに生じる。「まあいいよ」と、ヤマ先がいつもの調子でニヒルに笑った。
「シークレットでサプライズってやつだな? オレがどこまで口硬くいられるか分かんないが、使用前後の報告と施錠をちゃんとやるんだったら三十分限定で使っていいぞ」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げると、ヤマ先は「青春だな」と言いながら去って行った。これで練習場所を確保できた。音楽室に戻ると部員はもう出払っていて、僕の荷物だけがぽつんと置かれている。せっかくだからと、ピアノの蓋を開けた。
フェルトの鍵盤カバーと外すと、白黒の美しい鍵盤が現れる。いそいそと鞄から取り出した楽譜は『序奏とロンド・カプリチオーソ』。今日は弾けそうな、確証のない自信があった。突き上げ棒を使い、屋根を一番開く状態で固定する。譜面台に載せた楽譜には、こすれた「楽しく。跳ねるように」の文字があった。
椅子に座り、そっと鍵盤に指を置く。一週間ぶりのピアノの感触。身体の真正面にあるドの音を、鳴らす。聞き馴染みの良い音色。
集中する。目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。胸いっぱいにため込んだ息を、細く長く吐き出す。目を開けた。両手を鍵盤に静かに置き、最初の一音を華やかながらも憂鬱な様子で響かせる。『序奏とロンド・カプリチオーソ』イ短調。サン=サーンスが稀代のヴァイオリニストであるサラサーテの技巧に魅せられて書いた、あの遊戯的なロンド。
序奏は旋律というより、聴き手に語り掛けるような静けさや心地のよさを孕む。滑らかな和音が重なり、旋律は慎重に、呼吸を整えるように進んでいく。何かを思い出しながら、発する言葉を選ぶように、静かで確かな情熱が込められていた。
序奏は穏やかな表情の中に、目に見えない哀しみの水脈を隠している。和音の隙間から、ふと顔を覗かせる影。けれどその影もまた、優しさと一緒に包まれていく。
そして訪れる、転調とテンポの変化。アレグロ・ノントロッポ。――楽しく、跳ねるように。楽譜の文字が主張するように、目に入った。陽気に、けれど行き過ぎないように、慎ましく弾む音楽が始まる。
跳ねるようなリズム。軽やかな音の粒。主題が舞い上がるように立ち上がり、右手が鍵盤を駆けていく。まるで音が笑っているかのように。
笑みが自然と浮かぶ。足先が思わずリズムを刻みたくなるような、そんなロンドだった。スタッカートとスラーの切り替えをくっきりと。ひとつの音が跳ねて、次の音に飛びつく。跳躍、下降、再び音が跳ねる。まるでロープを飛び越えていくような心地。
鍵盤の上を指が自由に動くたび、音楽が生き物のように動き出す。浅くペダルを踏む。残響はあたたかく、あくまで優雅さを忘れない。
途中でふと、呼吸を整えるように旋律の速度を緩める。一つのロンドが終わり、休憩のようなゆるやかな時間。けれど、そこで終わらない。すぐにリズムが戻り、新たな舞踏が始まる。ロンド形式の通り、同じ主題が幾度となく戻ってきて、少しずつ変化を纏って進んでいく。その度に新しい景色がひらけていくようだった。前と同じ旋律なのに、どこか違う。
音の数が増していく。ロンドが求める速さに身体が、指が応えてくれている。拍の変化が、ロンドをさらに加速させる。細かく動くアルペッジョも、跳ね上がる高音も、ぜんぶ楽しい。次の音に指が動く、新たな音が生まれる、その全てが楽しくてしかたない。今この瞬間だけは、旋律の中を自由に泳ぎ回っているようだった。
最後のロンド。
旋律がもう一度戻ってくる。速さの中に安定があり、華やかさの中にしなやかさがある。疾走感をたたえた終盤へ。約六分間踊り続けたロンドが、楽しそうに、少しだけ名残惜しそうに終わりを迎える。鍵盤から手を離し、ペダルから足を外す。音が止んだあとの、少しだけ続く静寂。目を閉じて、静かに息を整えた。
これまでの悩みが全部なくなってしまったように、旋律が響いていた。まだ、音の余韻が残っている。たった一曲弾き終えただけなのに、なぜか世界がほんの少しだけ違って見える。
「――楽しい」
一人残った音楽室で、これまで感じたことがないくらいの充足感に身を沈ませる。これが、僕にとってのロンド。これを速水に聴いてもらいたい。僕が今演奏できる全てが詰まった、このロンドを。
手を膝に置いて、目を閉じたまま呼吸をする。興奮が冷めない。コンクールで金賞を取った時よりも高揚している。まだ弾きたい。もう一回、今度はもっと軽やかなロンドになるように。
「玉城」
不意の声に肩が跳ねる。膝がピアノの下に当たってしまった。
「下校時間だぞ」
音楽室の入口に居たのはヤマ先で、呆れたような表情をしている。時間を見るとすでに針は十九時半頃を指し示しており、慌てて屋根と鍵盤の蓋を閉じた。その様子をずっとヤマ先は見ていた。急かされてるような気持ちになりながら、音楽室を消灯する。
「すみません。鍵です」
施錠を確認し、ヤマ先に音楽室の鍵を手渡す。鍵の返却を確認したヤマ先は頷いた。
「いい演奏だったな。じゃ、気をつけて帰りなさい」
「あ……ありがとうございます」
一礼をして帰路に着く。生徒がいない校舎を出て、駅へ向かう。少し涼しい風が、火照った心を撫でていた。
寝る前ぎりぎりまで火照っていた心も、寝て起きるころには落ち着いていた。良い演奏をした満足感だけが残っている。
翌日の部の演奏も、旋律が跳ねるような楽しさがあった。終礼のあと、最後の一人として音楽室に残る。全員が出て行ったのを見届けて、職員室へと向かう。 ヤマ先は職員室入口から対角線上、一番奥の角にあるデスクのところにいた。
「これから三十分音楽室借ります」
「ああ。また鍵を返しに来るようにな」
「はい」
浮足立つ気持ちで音楽室に戻る。静かな広い部屋。昨日のようにピアノの屋根を開き、弾く準備を整える。そうしていると、速水が静かに音楽室に現れた。
「誰もいない……」
「そりゃ、部活終わったしね。僕だけだよ」
「なんか特別感ある」
少し緊張した様子で笑う速水の横顔を見て、僕は微笑む。
「音楽室初めて?」
「いや。学校案内でちらっと見たことある気がするから、二回目かな」
速水はピアノ椅子に座って高さを調整しながら、鍵盤をじっくり観察する。僕は鞄から楽譜を出し、譜面台に置いた。最初に試すのは、リトミック教材から選んだ一段譜。ドからラくらいまでの音だけで構成された、超初級の簡単な旋律。
「弾けなかったらどうしよう」
自信がなさそうな速水が、楽譜をじっと見ながら右手の親指をドの鍵盤に置く。速水の腕の筋肉に目が止まる。しなやかで細い腕の印象だったけれど、明らかに太くなっている。指も腕も、しっかりと鍛えられた運動部のそれになっていた。
「楽譜は? 読める?」
「読める。音楽記号もなんとか大丈夫。昨日少しアプリでピアノ弾いてみたから、少しはできると思う」
「ゆっくりでいいからやってみよ」
速水は小さく頷いて演奏を始めた。たどたどしいけど、音の粒は一音ずつ丁寧に置かれていく。少し躓くけれど、二度三度と繰り返すともうスムーズに弾くことができた。
「思ったより弾ける」
「いい感じじゃん。感覚まだ残ってるね」
「まじで少しだけだよ。こういうの習いたての頃にやったなって思い出したら、わりとスムーズだった」
速水が笑って、楽譜を捲る。僕は低難度ながらも二線譜の楽譜をいくつか用意していた。速水なら少し弾いてみるだけで、すぐに簡単な伴奏付きの楽曲くらい弾けそうな予感があった。
再び速水は鍵盤に手を置いて、ゆっくりと両手で鍵盤を押す。ぎこちない旋律だけれど、少しずつ音が重なって小さな音楽になっていく。
「楽しいな、ちょっとずつクリアできてる感じして」
「ね。バイエルも結構楽に弾けてるし、最後これやってみようよ」
彼が興味深そうに僕の手元を見る。本当はバイエルを弾いて終わろうと思っていたけれど、鞄から『きらきら星』の楽譜を取り出す。右手は四分音符の旋律、左手は全音符による簡単な和音伴奏で構成された簡単なもの。
「簡単すぎかな? 七瀬ならもう少し難しくていいかなとも考えたんだけど」
「いや、初めだからこれで」
伴奏を付けて速水が演奏を始める。最初はよろよろとして不安定だったけど、繰り返すうちに少しずつ整ってくる。四回目でようやく、速水にとって納得できる演奏ができたようで鍵盤から手を下ろした。
「……弾けた」
「いい感じじゃん。次からもう少し難しいのに挑戦しても良さそうだね」
「マジ? けっこう鈍ってるけど」
「ブランクあるわりに弾けてるよ」
そう言うと速水は控えめに笑った。
「ありがと」
「じゃあ、今日は終わろっか。明日もやる?」
「うん、できれば」
頷いた速水の横顔は、照明に透けるようにやわらかく見えた。ピアノを元に戻して、僕たちは音楽室を出る。生徒玄関で合流することにして、僕はまだ職員室に残っていたヤマ先に音楽室の鍵を返した。ニヤリと笑うヤマ先に一礼する。速水のことがばれないよう、慎重に練習を重ねて行かなくちゃいけない。ヤマ先の笑みに、そうしたプレッシャーも含まれているようだった。
部活後秘密の特訓を続け、気づけば文化祭まで一週間を切り、時間割は変則的なものになった。午前中に部活をし、昼食を済ませて、午後の時間はクラスの準備作業に切り替わる。出し物の設計や準備は、部活に所属していない生徒が主体になって進んでいた。
言われるがまま教室から体育館へ、そこから職員室、外へ買い出し。いろいろな場所へ移動し、部活とは違う忙しさがあった。それでも指示されたことをこなすだけだから、心は上の空でいられる心地良さがある。
予定より少し早く切り上げられた午後四時。簡単なホームルームが終わり、クラスを出ながら速水に「教室出た。駅で」と短く送る。クラスメイトたちも雑談していたり、早めに帰ったりと様々だった。
階段を下り靴を履いたところで、後ろから聞こえた女子の歓声に思わず振り向く。生徒玄関に向かって歩いてくる速水の傍には、坂田ではない女子がいて、一生懸命に話しかけている。近距離で話しかけられているのに聞こえていないのか、速水は返事をするわけでもなくまっすぐ生徒玄関へと歩いてきた。
「あ、悠。一緒に帰ろ」
やわらかく目じり下げた速水の微笑みに、一瞬女子の動きが止まり、悲鳴にも似た叫び声が響く。速水もさすがにうるさかったのか、またほとんど無表情に戻って靴を履く。その姿に動きを合わせて、校舎を後にした。
まだ青い空に、明るい太陽がある。少し前までならもうとっくに夕暮れで、薄暗い中帰宅していたのに。こんなに明るい時間に帰宅することは久しぶりで感動がある。
「練習進んでる?」
「一応伴奏もできるようになったかな」
「なんだ結構できるじゃん」
「四年ぶりだけどね」
速水との会話は自然と口角が上がる。ピアノの話をするとき、速水もピアノを演奏するように指が動く。
「じゃあまっすぐ僕ん家でいい?」
「うん。よろしく」
速水と一緒に電車に乗り、隣同士で座る。電車内では何も話さず、片道十五分の程の時間をそれぞれイヤホンで曲を聞きながら帰った。気まずさはなく、これから弾くピアノが楽しみでしかたがない。電車の扉が閉まる。まだ明るい空の下を自転車で駆ける。
まだ両親の帰ってきていない家に速水を上げ、まっすぐ自室へ向かった。アップライトピアノは今日もそこにいる。明るい日の光がカーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。速水が家にいる光景が不思議で、心が落ち着かない。音楽室を使おうとしていたけれど、写真部が撮影した吹奏楽部の写真展示の設営をするらしく、速水を連れて行くことができなくなってしまった。
やむを得ず自宅で練習をする流れになり、数年ぶりに速水が僕の部屋にいる。
「ピアノ開けてていいよ。楽譜出す」
「わかった」
本棚にしまっていた楽譜集を二冊取る。付箋がついていた『Summer』のページを開き、譜面台に置く。
「練習してくれてたと思うから、今日はこれをそこそこ完成させるのが目標」
「やれるだけやってみるかな」
「ちょっとじゃあ、合わせてみよ」
速水がピアノの椅子に座り、僕はその隣でキャスター付きの椅子に腰かける。速水のプリモから始まる『Summer』は穏やかな旋律で進み、それはまるで穏やかな日常の一ページを彩っているように感じられる。けれど、ほんのわずかな油断が、この旋律を躓かせてしまう。
伴奏に潜む変拍子や跳躍のバランス。それらを合わせてようやく、連弾曲としての『Summer』が完成する。速水と呼吸を合わせて演奏することがなによりも大切な曲。せっかく弾くならこの曲が弾きたい。僕がそう考えて選曲した。
速水の指が慎重に鍵盤をなぞる。速水の弾く主旋律に合わせて、オクターブ下がった音色で主旋律を支える。リズムが合ってきたところで、ペダルを浅く踏み込み、音を響かせる。軽やかなアルペジオ。光と影のグラデーションのように、短調から長調へと切り替わる一瞬を、二人で確かめるように弾いた。
速水の音色がひときわ冴える。三連符のリズムに揺れた部分を越え、主旋律が再び姿を現す時には音色が自然に溶け合っていた。連弾をしたというより、二人で一曲を弾いたと言える達成感があった。
「……おお」
「けっこう良かったね」
「すごいな、ちゃんと曲って感じになった」
速水がすっかり気の抜けた笑顔を見せる。学校で見る無表情な姿ではなくて、中学生頃までよく見ていた幼い笑い方。まだその表情を見せてくれる関係でいられていることに、胸がじわりと熱くなる。
そこから何度か繰り返して『Summer』を弾く。今年だけの大切な夏が、文化祭という終わりに向けてゆっくりと進んでいく。これまでの時間が、静かにほどけていくような感覚。ピアノの上に影を生む速水の指と、それを支える僕の音色が混ざっていく。
「最後のが一番よかったね」
「うん。意外と弾けるし、悠が合わせてくれるから弾いてて楽しい」
まっすぐに目を見て言う速水に、こそばゆい心地だった。なんだか照れくさくて、もう一冊のスコア集を開く。
「次。これ弾こうと思って」
速水に『情熱大陸』も連弾譜を見せる。「これかぁ」と難しい声で速水は頭をかいた。『Summer』と比べると確かに難易度はの高い曲。一人で弾くには難しいかもしれないが、連弾なら速水の負担をできるだけ減らすことができるのも事実だ。
「難しすぎない? いけっかな」
「難しいと思うけど、でもこれ弾けたら気持ちいいだろうなって思ってさ」
速水はしばらく楽譜を見て、身体を伸ばす。指を組んで手首を動かし、よし、と声を出した。
「挑戦してみる。サポートお願いします」
「もちろん。目標は躓かないで主旋律を弾く、って感じね」
ピアノを向き直り、速水が鍵盤に手を置いた。西日はどんどんと濃くなり、部屋のコントラストを高めていく。この時間がずっと続いてくれたらいいのに。叶わないことだとしても、どうかこのまま。今この時間に鍵盤を叩く指が、心底楽しそうに見える。
でも、それでも、この時間は今しか楽しむことはできない。だからこそ、このひと時の温度を忘れないように、心に焼き付けておかないとならない。きっとこの連弾が、最後になるだろうから。聴いたことのあるイントロやリズムということもあり、プリモは概ねスムーズに弾き進められている。
互いの息を探り合いながら弾く難しさとの直面が懐かしい。次に速水がどれくらい強く音を弾くのか、鍵盤から指を離す速度や次の鍵盤を押すタイミングに集中する。徐々に互いの息遣いが近くなる。ブレスのタイミングが合っていく。ピアノの楽しさが、連弾の楽しさが心の底から湧き上がる。
あっという間に両親が帰宅して、二十時を回っていることに気が付いた。速水も帰宅し、いつも通りの時間が流れる。違うのはアップライトピアノの前に椅子が二つ置かれていること。たしかに速水がこの家にいて、一緒にピアノを弾いていた。弾けないと思っていたことが嘘のように、ピアノを楽しいと思って弾けている。日ごとに安心感が募る。
鍵盤の蓋を閉じて、今日の一日を静かに終わらせる。少しずつ形になっていく旋律を、このまま続けていけたらいい。

