文化祭の本番、僕は制服をしっかりと着用する。第一ボタンを留め、ブレザーのカフスボタンも留まっていることを確認した。舞台袖から見えるステージでは、部員たちが場を盛り上げている。アニメソングメドレーでは、部員たちは好きなキャラクターのコスプレをして演奏していた。
 ふう、と迫る出番に息を吐く。心臓の鼓動がはっきりと伝わるほど強く鳴った。ピアノのコンクールを思い出すほどの緊張。もうあと二曲で僕たちの出番になる。僕は下手から、七瀬は上手から出てくる予定だ。
 けれど舞台袖がにわかに騒がしくなる。トランシーバーを付けた裏方たちが焦ったように舞台袖からステージを見たりしているようだった。最後のメドレー曲が始まる。一分弱が経てば、僕はもうあの光り輝くステージの真ん中に立つ。
 響き渡っているはずの音色が小さく聞こえる。それだけ、集中できていた。頭の中ではこれから弾く曲が旋律となって流れる。メドレー最後の楽曲が、山路先生の手引きで終わった。舞台が暗転し、袖に部員たちがはけてくる。
 重たいものを引きずる音がして、今まさにピアノが用意されているんだと、緊張が高まる。

「玉城先輩。ちょっと……」

 耳に通信機を付けた八柳が、闇に紛れる小声で話しかけてきた。

「速水先輩、まだ着いてないって言ってます」
「えっ……」

 旋律が止まり、まっすぐと後輩を見る。裏方の後輩は困った様子で、泣きそうな顔をしていた。僕と七瀬の連弾は吹奏楽部での最後の演目になる予定だった。

「みんなで会場とか、学校にいる友達にも連絡してるけど速水先輩どこにもいなくて」

 後輩が話す途中で、ホール内にブザーが鳴る。ホールの使用時間には限りがある。もう舞台に出るまで時間はないが、ポケットに入れた携帯には速水からの連絡は入っていなかった。一人で舞台に上がったことは何度もある。一人で連弾することはできない。連弾の演奏ができないとしても、ピアノを弾かずに演目を減らすことは考えられなかった。

「大丈夫だよ」

 八柳に笑いかける。アナウンスが僕の登場を告げ、会場が拍手で包み込まれた。緊張する。けれど、まずは演目を変えないといけない。僕が舞台に上がると、会場は割れんばかりの拍手で歓迎してくれた。
 上手から相方が出てこない違和感を感じ取った観客が、ひそひそと小声で話す音が聞こえる。僕は形式的に一礼をして、二つ並べられた椅子の一つに座った。持ってきた楽譜はどれも連弾用で、速水用に書き込みされたものしかない。
 鍵盤に手を置く。『きらきら星』の演奏から『きらきら星変奏曲』を弾き進めよう。『星に願いを』なら知っている人も多いだろうからそれも弾いて、あとはどうしよう。邦楽のピアノアレンジは練習したことがないから、『トルコ行進曲』あたりにした方がいいかも。技巧に凝らず、誰もが聞いたことありそうなクラシック曲をメインに、思い出せる曲を弾こう。
 ざわついた会場や裏方に反して、僕は冷静だった。ピアノから流れる旋律に、観客のざわめきも次第に静かになる。
 演奏は一人で続けた。ピアノの音は旋律となって響いている。弾きながら曲のイメージが湧いて、記憶を頼りに指が動いた。弾く音が、旋律が、遠く聞こえる。なんとか演奏することはできているけれど、速水がいない喪失感が心をひりつかせる。ペダルを踏み、鍵盤を押す間も、心ここに在らずな気持ちになってしまいそうなのを、なんとか集中して持ち直す。
 舞台が終わり、拍手が会場を響かせる。深く一礼をして、舞台袖へと戻った。眩しいはずの会場も何もかも、無彩色のように見える。ブブ、と震えたポケットの携帯には速水からのメッセージが一件通知欄にあった。

『ごめん。悠とは弾けない』

 その文字がやけに眩しかった。そこから先は、帰路に着くまでよく覚えていない。自宅に帰り、自室のアップライトピアノを見て初めて、涙がこぼれた。やっぱりあの時、連弾をしようなんて言わなければよかった。速水がいつでも辞めたいと言えるように、しっかり伝えておけばよかった。そんな後悔が胸を満たす。
 ピアノを見ることが辛くて、僕は家を出た。なんとか涙を堪えて、連弾の約束をした公園に自然と足が向かう。公園が見えた頃、僕は立ち止まって来た道を振り返った。ふと、誰かの気配がした。電柱の陰に誰かが立っている。よく目を凝らすと、それは速水だった。

「速水……?」

 声を掛けても彼は何も答えなかった。ただ無表情で僕を見て、それから小さく首を横に振る。彼の影が夕日に照らされてゆっくりと消えていく。速水に向かって走り出そうとしたけど、まるで縫い付けられたかのように足が動かない。
 喉が詰まって、呼吸ができない。せめて速水と叫びたくて、でも、声が出ない。まるで水の中に沈んでいくように、世界が歪んでいく――。