放課後、十九時近くなった駅は、制服姿の学生と帰宅途中の会社員が入り混じり、騒がしい。西の空にはまだ茜色が残っていて、今日一日が終わりに近づいていることを静かに知らせていた。
顔と両肩は日曜日からヒリヒリと痛み始め、背負った鞄がこすれてジンジンと傷んでいる。あの日から、まだピアノを弾くことはできていない。けれど気持ちはもう重たくはなかった。やらなくてはいけないことが、僕の中で明確になっていた。
駅に着き電光掲示板を見上げるが、運休の影響で定刻よりも十五分ほど遅れてしまうらしい。母に帰宅時間の連絡を送り、駅の一階に置かれたコンビニでジュースを一本買った。
店を出て、新作の炭酸ジュースを一口飲む。強炭酸の弾ける痛みが喉を通って、後からかき氷シロップのような濃い甘みが流れてくる。飲み過ぎたら病気になりそうな甘さだけれど、部活後の汗をかいていた身体にはちょうど良かった。
早めに改札を抜け、ホームへと階段を下る。軽快に階段を下りていた足が止まった。階段を下りてすぐのところにあるベンチに、速水の姿があった。制服のワイシャツのボタンを大きく開き、中の黒いインナーが見えている。部活中に縛っている髪の毛は解かれ、首元にはらはらと髪が落ちていた。
ベンチに座り携帯を触っている姿が、やけに無防備に見えた。心細そうな、風に吹かれて消えてしまいそうな姿から目が離せない。ぼんやりと速水を見ていると、後ろからどんどんと僕を抜かしていく通行人の一人と肩がぶつかった。要約速水から視線を外して、僕も階段を下る。
ホームの左右から出る電車の発車時刻が近いこともあり、ホームは人波を縫って進まなくてはいけないほど混み合っている。速水の前を通るしか進める道は無さそうだった。人波に流されながら進む混雑の中、乗車列に並んだ人が急に下がってきて、回避しようとした身体がよろける。爪先がぶつかり、咄嗟に「すみません」と呟いて振り返ると速水と目があった。
「っごめん」
そう言って通り過ぎようとした瞬間、鞄が引かれた。気のせいかと足を進めてみるが、なにかに引かれているのか進めない。振り向くと、速水が僕の鞄を掴んでいた。速水は俯いたまま眉を潜めて、視線は定まらない。
鞄を掴む速水の指先が少し震えているのが分かる。なにかを言い出そうとしていることが分かって、僕は肩の力を抜いた。
「……今、帰り?」
「うん。そうだよ」
速水の声は思ったよりも近くに聞こえて、弱々しく声が揺れていた。その声色に、僕もなにかを伝えたいと思ったけれど、言葉が出てこなかった。ホームはがやがやと騒がしいはずなのに、僕たちの間には深い沈黙が満ちる。
掴まれたまま鞄は離してもらえる気配はない。電車が来るまでこの状態でいても、ただ気まずいだけ。そう思うと、心がざわつく。またあの夜みたいに、傷ついて帰るようなこになったら。あの夜が、胸の奥の方でまだじくじくと膿んでいる。
「ごめん、僕あっち行くから」
「あ……、ごめん」
力なく、速水の手が鞄から離れた。鞄を背負い直して別の車両へ向かう。ホームの長い列に並ぶと、遅れてきた電車がホームに流れ込んでくる。強い風が巻き起こる。すし詰め上体の電車に乗り込み、イヤホンを耳に付ける。久しぶりに『序奏とロンド・カプリチオーソ』の音色が、耳の奥に流れ込んでくる。
今日は久しぶりにこの曲が弾けるかどうか試してみようと思っていた。鍵盤に触れない時間が長くなってしまっていたから、たとえ旋律として成り立っていなくても奏でてみたかった。電車の揺れに身を任せながら、指先が太腿を叩きロンドのリズムを刻む。
二度目のロンドに進んだ時、指が止まった。ロンドの音色を聴きながら考えていたのは速水のこと。あいつはもうあの夜のことなんて覚えていないのかもしれない。僕がどれだけ悩んでいるのかも、どういう気持ちで思いを伝えたのかすら、考えていないかもしれない。
返事がなかったこと、なにも言ってくれなかったこと、あの夜振り絞った気持ちは、結局速水には届かなかった。それなのに、あいつは突然引き留めて、話しかけてきた。僕の心の準備ができているかも知らないで、あいつの都合がいいときにだけ僕にそっと手を伸ばしてくる。
――やっぱり、ずるいやつ。
僕が勝手に傷ついて、思ったままを吐き出しただけ。速水には届いていなかった。だから速水は、なにも無かったかのように振る舞ってきたんだろう。僕の迷いや不安なんて全部置き去りにして。
電車が停まる慣性に身体が揺れる。自動ドアが開き、人がぱらぱらと降りていく。
階段を上り改札を出る。ぬるい風が吹きぬけ、すぐにじっとりと肌が汗ばむまま駐輪場へ向かう。薄暗い街灯の光を頼りに自転車の鍵を外し、ロックを蹴り上げる。その時、前方に人影が立っていることに気がついた。
それは速水だった。自転車を取ろうとする素振りは無く、僕の方を見ている。街灯と月明りの弱い光が陰に落ちて、彼の表情は読めない。ただそこに立っているだけだった。僕はなにも言わずに自転車を押して歩く。
「悠」
速水の横を通り過ぎようとした瞬間だった。速水の声が僕を引き留める。その声は小さくて、震えていた。顎を引き、下に向いた速水の目線は僕を捉えない。それでも速水は僕にまっすぐと身体を向けている。月明りが、彼の頬に淡く影を落としていた。
「悠と話がしたい」
静かに届いた言葉に、僕は自然と頷いていた。まだ速水と話すような心の準備ができているわけじゃなかったけれど、今ここで速水の手をとらないといけないような気がした。
速水と二人で、自転車を押して歩く。駅前の明るさから逃げるようにして、街灯の少ない道を進む。チェーンがカラカラと回って、歩幅の違う足音がやけに大きく響いていた。隣を歩く速水の顔を盗み見ようと試みるが、俯きがちの彼の表情を読み取ることができない。
重たい空気に肩が凝る。教科書の詰まった鞄が、両肩にずしりと重たくのしかかる。等間隔に並べられたオレンジ色の街灯が、アスファルトを照らしていた。速水の髪が風に揺れ、さらりと彼の首筋を撫でる。街灯の光を受けた速水の髪は、深海の様だった。
静かな夜だ。虫の鳴き声がして、遠くで蛙も鳴いている。身体がじっとりと汗をかくのは、単に外の熱さだけが理由ではなかった。速水から声を掛けられるとは思っていなかった。僕の名前を震える声で呼ばれるとは考えていなかった。
ぽっかりと開いたままの心の穴が、その存在を主張する。声を掛けられ嬉しかったのは事実だった。けれど、またきっと速水から言葉をもらうことができないだろうという不安と、話したいと言ってきた速水を信じたいような気持ちが生まれる。わずかに期待してしまったその言葉の続きを、僕は待ってしまっている。
すでに閉まったスーパーの前おを通り過ぎ、十字路を左へ曲がる。ゆるい坂道を下ったところにある公園は、僕たちの家の中間地点に位置する。子ども園のすぐ隣に作られた公園は地域の誰もが使うことができる。大きな砂場。回転するジャングルジム、ブランコに滑り台。公園の中央に置かれた、切り株や丸太を模した椅子に座る。鞄は、テーブルに置くことにした。
日中は子どもたちの笑い声が響き合っているだろう公園も、夜には誰もいない。隣の切り株に腰掛けた速水も、鞄をテーブルへと置く。動作の音が大きくて、僕は自分の緊張に気づいた。
「……ありがとう、来てくれて」
小さな声で速水が言う。僕はそれに返事をすることができなかった。たった一言でも返してあげたなら、会話が続くきっかけにもなったかもしれない。けれど、返す言葉が浮かばなかった。僕を呼びつけたのは速水だったし、話をしたいと言ったのも速水だ。それなら、話を続けるのは速水の晩。そう、どこかで意地のようなものを感じていた。
沈黙が夜風に溶け出す。風の音とともに近くの道路を車が通り過ぎていく音がかすかに響く。速水は少しだけ身を前に倒して、指先を膝の上で絡めたり離したりと繰り返していた。落ち着かないのか、速水も緊張しているのか。
やっぱり何も言わないじゃん。そんな風に思ってしまう自分がいた。緊張しているのかもしれないけど、緊張に負けるくらいのことしか速水は話せないんだろう。今にも何か言いだしそうな気配はあるけれど、それでも結局口を開かない。速水には覚悟なんてないんだろう。
これを伝えたいとか、そういうのもないくせに手を伸ばそうとしてくる。前だってそうだった。何も言わなかったくせに、僕の話を聞いたうえで何も言わない選択をしたくせに、僕の手を取った。気まぐれに伸ばされた手に、僕はどれだけ傷ついたかななんてこいつはなにも考えていない。
「あれからずっと考えてて」
静けさを裂いて、速水が口を開いた。膝の上で指先を絡めたまま、速水の視線はその手に向く。ぽつりと発せられた言葉。また僕たちの間には沈黙が漂ってしまって、僕はなにも言えない。
「ごめん。悠の、俺に対する気持ちとか、言ってくれたこととか、受け止められなくてごめん」
小さな声で速水は言う。彼の膝の上で組まれた手が、かすかに震えているようだった。
「でも、嫌なわけじゃなかった」
少し大きくなった声で、速水は言う。僕は心の中で、そっか、と呟く。速水のその言葉だけで、あの時思いを伝えた当時の僕が救われたような気がした。これまでの拒絶も全部無かったことになるくらい、十分すぎる言葉だった。あの冬の日がようやく昇華できる。
「驚いたし、どういう好きなのかと思って帰ってからたくさん考えた。けど、俺じゃ答え出せなくて」
僕は黙って速水の言葉を聞く。速水の息遣いや声の調子を、静かに。
「気まずくて避けたいとか、嫌いになったわけじゃなかった。でもどうしたらいいか分からなかった」
速水の様子に、言葉がなかったあの日々に納得がいく。そっか、僕が速水を困らせていたんだ。目を閉じて、ばれないようにふうとため息を吐く。
「ちゃんと話したかったけどクラス別だし、話しかけに行くのもできなくて、ずっとなにも言えなかった」
そう言って、速水はゆっくり目を閉じた。なにかに耐えているようにも見えるけれど、言葉を探しているのかもしれない。
僕は速水をみることをやめて、視線を落とす。草のにおいが混ざった夜の風を感じていた。初めてこんなにも素直な速水の感情に触れた気がする。あの冬の日から、僕だけじゃなく速水にとっても、答えの出ない苦しい時間が続いていた。僕だけが苦しんでいたわけじゃなかった。お互いに話そうとしていなかったから、僕の中で速水の見方が変わってしまっていたのかもしれない。
早いなら、僕の言葉をまず受け入れてくれるはずだ、なんて、速水をイエスマンのように考えてしまっていた気がする。歪んでしまった速水像にばかり執着をして、僕は本当の速水を見ていなかった。
周りから見れば物静かで、口下手。人見知りが根底にあって、他人とコミュニケーションをとることが得意じゃない。でも、僕にだけはいつも笑いかけてくれて、いろいろな話しをしてくれていた。もう完成されていた親友としての関係値にあぐらをかいて、僕はすっかり速水の本質的なところを見てあげようとはしていなかった。
「この間悠が泣いてて、俺、ちゃんと謝らないといけないって思ったんだ」
謝らないといけないのは、僕の方だった。速水ならこうする、こうしてくれるはず。そんな考えばかりを速水に押し付けて、勝手に苛立って、速水を攻撃してしまったのだから。視線を上げて、速水を見る。速水もまっすぐに僕を見ていた。
僕はそっと深呼吸をする。僕にとっての速水の輪郭は、ゆらいで崩れていた。目の前の速水をしっかりと見る。
「七瀬」
今ならそう呼んでも許されるような気がした。速水が目を丸くする。
「速水のこと考えないで、ひどいこと言ったりしたし、態度も悪かったと思う。ごめん」
「いや、俺にも悪いことがあったから、俺もごめん」
「……僕さ、やっぱり七瀬のことが好きだよ」
速水の目線から逃げずに、そう伝える。僕はずっと昔から、速水のことが好きだった。改めて言葉にして思うけれど、僕は速水七瀬という人間のことが好きだ。人として、親友として、ただ速水がいてくれるだけで嬉しくて、好きだよと伝えたくなる。速水のことが大事だと。
だからきっと冬の日、同じように好きだと伝えた。あの時は気持ちばかりが先行してしまい、速水の返事がなかったことを僕への拒絶だと解釈してしまっていた。だからもう一度、壊れた僕たちの関係を少しずつ直しながら、もう一度友達に戻りたい。
「また、友達に戻れる……?」
速水は眉尻を下げて、困ったように、それでも嬉しそうに笑った。
「なろう。もう一回」
「……うん、ありがとう」
ぽっかりと空いた心の穴に、少しずつ涙が溜まる。喜びが溶け込み、からからに乾いた心がまた形を取り戻す。速水が差し出した拳に、僕の拳をとんと当てる。ピアノを弾く前やピアノを上手に弾くことができた時、必ず行っていた動作だった。何年も前のことでも、身体はそれを覚えている。
ピアノ。そうだ、ピアノだ。
「速水。やっぱり、一緒に連弾をしたい」
拳越しに速水の動揺が伝わる。
「僕がリードするから。嫌かもしれないけど、でも速水と一緒に弾きたい」
ピアノの音、鍵盤を叩く息遣い。二人で一曲を奏でる連帯感。連弾を通して相手を知ることができる、あの時間。文化祭まであと二週間と迫っているけれど、速水とならどうとでもできる自信があった。根拠のない自信だけれど、速水と一緒ならできると感じていた。
「忙しいだろうし、時間も短いし……」
僕はまだピアノを弾ける気がしないけれど。そう伝えようと思ったが、僕は口をつぐむ。僕だけの気持ちで決まることではないから、速水の言葉を待とうと思った。速水は難しい顔をして空を見上げる。雲の隙間に、満月になりそうな月が浮かんでいる。
「感覚戻すまで少し時間がかかると思うけど、それでもいいなら」
「まじ? うれしい、ほんとにいいの?」
「うん。悠と弾くピアノ好きだし、せっかく一緒にやれる機会だから覚悟決めた」
速水が優しく微笑む。僕もつられて笑顔になった。僕たちはそれきり言葉を交わさないまま、しばらく並んで夜の道を歩いた。月明りだけがたしかに僕たちがたしかにここにいることを、月だけが知っている。
顔と両肩は日曜日からヒリヒリと痛み始め、背負った鞄がこすれてジンジンと傷んでいる。あの日から、まだピアノを弾くことはできていない。けれど気持ちはもう重たくはなかった。やらなくてはいけないことが、僕の中で明確になっていた。
駅に着き電光掲示板を見上げるが、運休の影響で定刻よりも十五分ほど遅れてしまうらしい。母に帰宅時間の連絡を送り、駅の一階に置かれたコンビニでジュースを一本買った。
店を出て、新作の炭酸ジュースを一口飲む。強炭酸の弾ける痛みが喉を通って、後からかき氷シロップのような濃い甘みが流れてくる。飲み過ぎたら病気になりそうな甘さだけれど、部活後の汗をかいていた身体にはちょうど良かった。
早めに改札を抜け、ホームへと階段を下る。軽快に階段を下りていた足が止まった。階段を下りてすぐのところにあるベンチに、速水の姿があった。制服のワイシャツのボタンを大きく開き、中の黒いインナーが見えている。部活中に縛っている髪の毛は解かれ、首元にはらはらと髪が落ちていた。
ベンチに座り携帯を触っている姿が、やけに無防備に見えた。心細そうな、風に吹かれて消えてしまいそうな姿から目が離せない。ぼんやりと速水を見ていると、後ろからどんどんと僕を抜かしていく通行人の一人と肩がぶつかった。要約速水から視線を外して、僕も階段を下る。
ホームの左右から出る電車の発車時刻が近いこともあり、ホームは人波を縫って進まなくてはいけないほど混み合っている。速水の前を通るしか進める道は無さそうだった。人波に流されながら進む混雑の中、乗車列に並んだ人が急に下がってきて、回避しようとした身体がよろける。爪先がぶつかり、咄嗟に「すみません」と呟いて振り返ると速水と目があった。
「っごめん」
そう言って通り過ぎようとした瞬間、鞄が引かれた。気のせいかと足を進めてみるが、なにかに引かれているのか進めない。振り向くと、速水が僕の鞄を掴んでいた。速水は俯いたまま眉を潜めて、視線は定まらない。
鞄を掴む速水の指先が少し震えているのが分かる。なにかを言い出そうとしていることが分かって、僕は肩の力を抜いた。
「……今、帰り?」
「うん。そうだよ」
速水の声は思ったよりも近くに聞こえて、弱々しく声が揺れていた。その声色に、僕もなにかを伝えたいと思ったけれど、言葉が出てこなかった。ホームはがやがやと騒がしいはずなのに、僕たちの間には深い沈黙が満ちる。
掴まれたまま鞄は離してもらえる気配はない。電車が来るまでこの状態でいても、ただ気まずいだけ。そう思うと、心がざわつく。またあの夜みたいに、傷ついて帰るようなこになったら。あの夜が、胸の奥の方でまだじくじくと膿んでいる。
「ごめん、僕あっち行くから」
「あ……、ごめん」
力なく、速水の手が鞄から離れた。鞄を背負い直して別の車両へ向かう。ホームの長い列に並ぶと、遅れてきた電車がホームに流れ込んでくる。強い風が巻き起こる。すし詰め上体の電車に乗り込み、イヤホンを耳に付ける。久しぶりに『序奏とロンド・カプリチオーソ』の音色が、耳の奥に流れ込んでくる。
今日は久しぶりにこの曲が弾けるかどうか試してみようと思っていた。鍵盤に触れない時間が長くなってしまっていたから、たとえ旋律として成り立っていなくても奏でてみたかった。電車の揺れに身を任せながら、指先が太腿を叩きロンドのリズムを刻む。
二度目のロンドに進んだ時、指が止まった。ロンドの音色を聴きながら考えていたのは速水のこと。あいつはもうあの夜のことなんて覚えていないのかもしれない。僕がどれだけ悩んでいるのかも、どういう気持ちで思いを伝えたのかすら、考えていないかもしれない。
返事がなかったこと、なにも言ってくれなかったこと、あの夜振り絞った気持ちは、結局速水には届かなかった。それなのに、あいつは突然引き留めて、話しかけてきた。僕の心の準備ができているかも知らないで、あいつの都合がいいときにだけ僕にそっと手を伸ばしてくる。
――やっぱり、ずるいやつ。
僕が勝手に傷ついて、思ったままを吐き出しただけ。速水には届いていなかった。だから速水は、なにも無かったかのように振る舞ってきたんだろう。僕の迷いや不安なんて全部置き去りにして。
電車が停まる慣性に身体が揺れる。自動ドアが開き、人がぱらぱらと降りていく。
階段を上り改札を出る。ぬるい風が吹きぬけ、すぐにじっとりと肌が汗ばむまま駐輪場へ向かう。薄暗い街灯の光を頼りに自転車の鍵を外し、ロックを蹴り上げる。その時、前方に人影が立っていることに気がついた。
それは速水だった。自転車を取ろうとする素振りは無く、僕の方を見ている。街灯と月明りの弱い光が陰に落ちて、彼の表情は読めない。ただそこに立っているだけだった。僕はなにも言わずに自転車を押して歩く。
「悠」
速水の横を通り過ぎようとした瞬間だった。速水の声が僕を引き留める。その声は小さくて、震えていた。顎を引き、下に向いた速水の目線は僕を捉えない。それでも速水は僕にまっすぐと身体を向けている。月明りが、彼の頬に淡く影を落としていた。
「悠と話がしたい」
静かに届いた言葉に、僕は自然と頷いていた。まだ速水と話すような心の準備ができているわけじゃなかったけれど、今ここで速水の手をとらないといけないような気がした。
速水と二人で、自転車を押して歩く。駅前の明るさから逃げるようにして、街灯の少ない道を進む。チェーンがカラカラと回って、歩幅の違う足音がやけに大きく響いていた。隣を歩く速水の顔を盗み見ようと試みるが、俯きがちの彼の表情を読み取ることができない。
重たい空気に肩が凝る。教科書の詰まった鞄が、両肩にずしりと重たくのしかかる。等間隔に並べられたオレンジ色の街灯が、アスファルトを照らしていた。速水の髪が風に揺れ、さらりと彼の首筋を撫でる。街灯の光を受けた速水の髪は、深海の様だった。
静かな夜だ。虫の鳴き声がして、遠くで蛙も鳴いている。身体がじっとりと汗をかくのは、単に外の熱さだけが理由ではなかった。速水から声を掛けられるとは思っていなかった。僕の名前を震える声で呼ばれるとは考えていなかった。
ぽっかりと開いたままの心の穴が、その存在を主張する。声を掛けられ嬉しかったのは事実だった。けれど、またきっと速水から言葉をもらうことができないだろうという不安と、話したいと言ってきた速水を信じたいような気持ちが生まれる。わずかに期待してしまったその言葉の続きを、僕は待ってしまっている。
すでに閉まったスーパーの前おを通り過ぎ、十字路を左へ曲がる。ゆるい坂道を下ったところにある公園は、僕たちの家の中間地点に位置する。子ども園のすぐ隣に作られた公園は地域の誰もが使うことができる。大きな砂場。回転するジャングルジム、ブランコに滑り台。公園の中央に置かれた、切り株や丸太を模した椅子に座る。鞄は、テーブルに置くことにした。
日中は子どもたちの笑い声が響き合っているだろう公園も、夜には誰もいない。隣の切り株に腰掛けた速水も、鞄をテーブルへと置く。動作の音が大きくて、僕は自分の緊張に気づいた。
「……ありがとう、来てくれて」
小さな声で速水が言う。僕はそれに返事をすることができなかった。たった一言でも返してあげたなら、会話が続くきっかけにもなったかもしれない。けれど、返す言葉が浮かばなかった。僕を呼びつけたのは速水だったし、話をしたいと言ったのも速水だ。それなら、話を続けるのは速水の晩。そう、どこかで意地のようなものを感じていた。
沈黙が夜風に溶け出す。風の音とともに近くの道路を車が通り過ぎていく音がかすかに響く。速水は少しだけ身を前に倒して、指先を膝の上で絡めたり離したりと繰り返していた。落ち着かないのか、速水も緊張しているのか。
やっぱり何も言わないじゃん。そんな風に思ってしまう自分がいた。緊張しているのかもしれないけど、緊張に負けるくらいのことしか速水は話せないんだろう。今にも何か言いだしそうな気配はあるけれど、それでも結局口を開かない。速水には覚悟なんてないんだろう。
これを伝えたいとか、そういうのもないくせに手を伸ばそうとしてくる。前だってそうだった。何も言わなかったくせに、僕の話を聞いたうえで何も言わない選択をしたくせに、僕の手を取った。気まぐれに伸ばされた手に、僕はどれだけ傷ついたかななんてこいつはなにも考えていない。
「あれからずっと考えてて」
静けさを裂いて、速水が口を開いた。膝の上で指先を絡めたまま、速水の視線はその手に向く。ぽつりと発せられた言葉。また僕たちの間には沈黙が漂ってしまって、僕はなにも言えない。
「ごめん。悠の、俺に対する気持ちとか、言ってくれたこととか、受け止められなくてごめん」
小さな声で速水は言う。彼の膝の上で組まれた手が、かすかに震えているようだった。
「でも、嫌なわけじゃなかった」
少し大きくなった声で、速水は言う。僕は心の中で、そっか、と呟く。速水のその言葉だけで、あの時思いを伝えた当時の僕が救われたような気がした。これまでの拒絶も全部無かったことになるくらい、十分すぎる言葉だった。あの冬の日がようやく昇華できる。
「驚いたし、どういう好きなのかと思って帰ってからたくさん考えた。けど、俺じゃ答え出せなくて」
僕は黙って速水の言葉を聞く。速水の息遣いや声の調子を、静かに。
「気まずくて避けたいとか、嫌いになったわけじゃなかった。でもどうしたらいいか分からなかった」
速水の様子に、言葉がなかったあの日々に納得がいく。そっか、僕が速水を困らせていたんだ。目を閉じて、ばれないようにふうとため息を吐く。
「ちゃんと話したかったけどクラス別だし、話しかけに行くのもできなくて、ずっとなにも言えなかった」
そう言って、速水はゆっくり目を閉じた。なにかに耐えているようにも見えるけれど、言葉を探しているのかもしれない。
僕は速水をみることをやめて、視線を落とす。草のにおいが混ざった夜の風を感じていた。初めてこんなにも素直な速水の感情に触れた気がする。あの冬の日から、僕だけじゃなく速水にとっても、答えの出ない苦しい時間が続いていた。僕だけが苦しんでいたわけじゃなかった。お互いに話そうとしていなかったから、僕の中で速水の見方が変わってしまっていたのかもしれない。
早いなら、僕の言葉をまず受け入れてくれるはずだ、なんて、速水をイエスマンのように考えてしまっていた気がする。歪んでしまった速水像にばかり執着をして、僕は本当の速水を見ていなかった。
周りから見れば物静かで、口下手。人見知りが根底にあって、他人とコミュニケーションをとることが得意じゃない。でも、僕にだけはいつも笑いかけてくれて、いろいろな話しをしてくれていた。もう完成されていた親友としての関係値にあぐらをかいて、僕はすっかり速水の本質的なところを見てあげようとはしていなかった。
「この間悠が泣いてて、俺、ちゃんと謝らないといけないって思ったんだ」
謝らないといけないのは、僕の方だった。速水ならこうする、こうしてくれるはず。そんな考えばかりを速水に押し付けて、勝手に苛立って、速水を攻撃してしまったのだから。視線を上げて、速水を見る。速水もまっすぐに僕を見ていた。
僕はそっと深呼吸をする。僕にとっての速水の輪郭は、ゆらいで崩れていた。目の前の速水をしっかりと見る。
「七瀬」
今ならそう呼んでも許されるような気がした。速水が目を丸くする。
「速水のこと考えないで、ひどいこと言ったりしたし、態度も悪かったと思う。ごめん」
「いや、俺にも悪いことがあったから、俺もごめん」
「……僕さ、やっぱり七瀬のことが好きだよ」
速水の目線から逃げずに、そう伝える。僕はずっと昔から、速水のことが好きだった。改めて言葉にして思うけれど、僕は速水七瀬という人間のことが好きだ。人として、親友として、ただ速水がいてくれるだけで嬉しくて、好きだよと伝えたくなる。速水のことが大事だと。
だからきっと冬の日、同じように好きだと伝えた。あの時は気持ちばかりが先行してしまい、速水の返事がなかったことを僕への拒絶だと解釈してしまっていた。だからもう一度、壊れた僕たちの関係を少しずつ直しながら、もう一度友達に戻りたい。
「また、友達に戻れる……?」
速水は眉尻を下げて、困ったように、それでも嬉しそうに笑った。
「なろう。もう一回」
「……うん、ありがとう」
ぽっかりと空いた心の穴に、少しずつ涙が溜まる。喜びが溶け込み、からからに乾いた心がまた形を取り戻す。速水が差し出した拳に、僕の拳をとんと当てる。ピアノを弾く前やピアノを上手に弾くことができた時、必ず行っていた動作だった。何年も前のことでも、身体はそれを覚えている。
ピアノ。そうだ、ピアノだ。
「速水。やっぱり、一緒に連弾をしたい」
拳越しに速水の動揺が伝わる。
「僕がリードするから。嫌かもしれないけど、でも速水と一緒に弾きたい」
ピアノの音、鍵盤を叩く息遣い。二人で一曲を奏でる連帯感。連弾を通して相手を知ることができる、あの時間。文化祭まであと二週間と迫っているけれど、速水とならどうとでもできる自信があった。根拠のない自信だけれど、速水と一緒ならできると感じていた。
「忙しいだろうし、時間も短いし……」
僕はまだピアノを弾ける気がしないけれど。そう伝えようと思ったが、僕は口をつぐむ。僕だけの気持ちで決まることではないから、速水の言葉を待とうと思った。速水は難しい顔をして空を見上げる。雲の隙間に、満月になりそうな月が浮かんでいる。
「感覚戻すまで少し時間がかかると思うけど、それでもいいなら」
「まじ? うれしい、ほんとにいいの?」
「うん。悠と弾くピアノ好きだし、せっかく一緒にやれる機会だから覚悟決めた」
速水が優しく微笑む。僕もつられて笑顔になった。僕たちはそれきり言葉を交わさないまま、しばらく並んで夜の道を歩いた。月明りだけがたしかに僕たちがたしかにここにいることを、月だけが知っている。

