インターホンを押して、わずかな時間で扉が開いた。
「待ってたわよー! どーぞ!」
松田先生は変わらない素k抜けの明るさで出迎えて食える。靴を脱ぎ、上がり框に手を空いて、深く息を吐く。海の疲れが残っているけれど、今日は土曜日。ピアノのレッスンの日だった。
今日の今日でピアノを弾けるよは思えなかったけれど、このルーテインが崩れてしまうとずっと弾けなくなってしまうような不安があった。
「さ、いらっしゃーい!」
先生が嬉しそうに笑うから、僕もにこりと微笑む。なんだか久しぶりに笑ったような気がした。広いリビングに置かれたピアノは、変わらない凛々しさで鎮座する。てらてらと光る黒い体躯。弾く人を勇んで待っているような存在感がある。チリンと鳴るクラゲの風鈴も、楽しそうに宙を舞っていた。
すぐ弾くことができるように準備されたピアノの前に座る。いつもはすぐに指を置いて曲を奏でることができるけれど、今日は気圧されてしまって指が動かない。旋律を奏でることができない僕に向かって、覚悟を試してくるような威圧感。コンクールでも場の空気に緊張することはあるけれど、その日にはならないほどの圧があった。
一つ息を吐いて、覚悟を決めて指を置く。楽しく、跳ねるように。そう唱え、『序奏とロンド・カプリチオーソ』を弾く。
落ち着いた序奏から、ようやくロンドが始まる。大切な相手と手を取り合って踊るロンド、足取りを軽やかに、心が浮き立つように跳ねる音を意識して。楽しさを意識して。意識して。もっと、もっと楽しそうに。僕自身が楽しそうに弾かないと、ロンドはいつだって楽しそうにはならない。
運指を急ぐ。鍵盤を強く叩く。楽しく、もう一度ロンドに。もっと意識しないと。もっと、もっと――
「……あ」
突然音が見えなくなって、手が止まる。踏んだままのペダルが、尻すぼみな弱い一音を残した。楽譜が見えない。僕が弾きたかったロンドにはならなかった。ピアノから見放されたような虚無感が心を満たしていく。僕はもうピアノが弾けない。その予感が強くなっていく。
また初めから弾くけれど、どうしても序奏からロンドへ移るところで指が止まる。よく見ると指先が細かく震えていた。
「悠くん、今日はちょびっとお話しでもしましょっか」
弾けない僕を見かねてか、先生がそう声を掛けてきた。先制を見た僕の顔は、必死だったのだろう。松田先生は穏やかで優しい微笑みを浮かべた。
「ピアノ教室だから絶対にピアノを触らなくちゃいけないなんて決まりはないのよ? 美味しいお茶があるから、一緒に飲みましょっか」
示された逃げ道に進むことを、心が拒否する。今弾けない事実が全てでしかないのに、僕の中でも不思議だった。戻ってきた先生に促されて、ソファに腰を下ろす。鍵盤の上で緊張していた指が、するりと膝の上に戻ってきた。力が抜けて、指先が自然を丸まっていく。
前に置かれたティーカップには、不安そうな自分の顔が映っていた。
「ピアノ、弾けなくなっちゃって」
「弾けないって、どういうこと?」
「なんていうか……」
どういう風に弾けないのか。ただ弾けなくなった、としか感じていなかったこの違和感に合う言葉をどうにか探す。弾けなくて、楽しくない。『序奏とロンド・カプリチオーソ』はサン=サーンスがサラサーテのために献呈した曲なのに、僕はこの曲を弾けてもサラサーテに捧げることができない。
「なんか、うまくできなくて」
「うまくって?」
問われて、言葉に詰まる。音を外すとか、ミスタッチがあるとか、そういうことじゃない。けれど、この違和感は「うまくできない」と表現することが一番合っていた。
「もしかしてだけど、悠くんは、前は楽しく弾けてたのに、今はそういう気持ちで弾けないって思ってるのかしら」
図星のその言葉に、僕は控えめに頷く。そっかぁと呟く松田先生を見ることができない。旋律が旋律じゃなくなる不安がずっと消えない。楽しいなんて感じられない。
「今は、なんか、楽しくない……です。音が鳴るだけで、メロディとか曲の情景とか、そういうのなくなっちゃって」
何度でも弾き直したかったけれど、鎮座するピアノはそれを許さない。僕はじいっとピアノを見ることしかできなかった。松田先生は何も言わずに、しばらくの間黙っていた。からからに乾いた口を潤すため、ティーカップに淹れられた紅茶を飲む。じわりと胃があたたまって、わずかに不安が薄れた。
やがて、穏やかな声が響く。
「そういう時は、いろいろ見ましょっか」
「いろいろ?」
何を見るのか分からず、全く予想していなかった言葉に、気の抜けた返答をしてしまう。先生は優しく微笑む。
「あなたがまだ中学生だった頃の発表会の映像よ。私けっこう好きでね、よく見返すのよ」
先生はテレビの前に立って、リモコンを操作した。ホワイトノイズ混じりの映像がすぐに始まった。グランドピアノだけがステージの中央にある。中学校の制服を着た僕が、緊張した様子でピアノの横に立った。一礼をして椅子に座る。
それは中学一年生の時に市民会館の大ホールで行われたコンクールの映像。画面内の僕はドビュッシー作曲、『アラベスク第一番』を弾き始める。すこしだけ 顔がこわばっているけれど、指は迷いなく動いて、身体はその音色にのっているのが分かる。
シンプルで優雅な曲調だからこそ、ミスタッチが目立つ。でも、画面の僕は楽しそうで、今の僕には輝いて見えた。
「楽しそうね」
「はい」
僕は画面を食い入るように見つめたまま答えた。きっと楽しかったんだろうと、心から思うことができる演奏。効いていて曲の世界に入り込めるような、深みある旋律。
「いいな……」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。過去の自分の演奏に羨望の眼差しを向けてしまう。先生は頷いて、もう一つの映像を再生した。
次に映ったのは別の生徒の演奏。小学生くらいの小さな男の子が『トルコ行進曲』を弾いている。テンポは少し遅れ、伴奏も簡単なものになっているけれど、無心で弾いているのが分かる。顔は真剣そのもので、弾き終えたあとの深呼吸に、僕は目を奪われた。
その後は女子高校生が『ラ・カンパネラ』を弾き始めた。ピアノの魔術師が作った、様々な技巧が組み込まれた難曲。目立つミスはなさそうに聞こえるが、どこか遠くを見ているような演奏だった。少女は弾き終わったあと拍手を受けながら、すっと視線を落としていた。悔しそうな様子に、見ている僕も同じような気持ちになってしまう。
「いろんな子が、いろんな形でピアノを弾くのよ。どれも正しくて、どれもその時のその子にしか弾けない音」
先生が映像を止める。
「楽しそうな音も、旋律として納得できない音も、今弾いている子の最大限の力なの。ピアノなんてうまく弾くことだけが大事ってわけじゃないんだから、あなたの心が踊るように弾いてみたらいいんじゃない?」
その言葉に、涙が零れそうになる。服の袖で目頭を拭って、息を吐く。幸い、先生はプレーヤーを片づけていたから泣いているところは見られなかった。うまく弾けなくなった、音が聴こえなくなったんじゃなく、僕が音を楽しめなくなっている。自分の音から、僕自身が遠ざかっていた。
「いいわね、若者! って感じで。今まさに殻を破ろうとしてがんばってるのね」
「殻、破れるんでしょうか……」
「あなたがしっかり向き合って、納得できたら、きっとね。やっと蛹から孵化して空を飛べるのよ。だいじょうぶ、悠くん、あなたはピアノにも人にも誠実なんだから」
先生が僕の手を握る。薄くて、少しかさついた優しい手だった。
「今はしっかし自分の目で見て、耳で聴いて、全身で感じてごらんなさい。それがあなただけの旋律になるの。焦る必要なんかないわよ。あなたの音はずっとあなたの中で響いてるんだから」
昔の映像を見ただけで終わったレッスンの帰り道、先生の言葉を反芻する。まだピアノの前に座ると指が震えてしまいそうだ。けれど、それでもあの映像で見た楽しそうなピアニストたちのように弾きたいと、そう強く思えた夜だった。
「待ってたわよー! どーぞ!」
松田先生は変わらない素k抜けの明るさで出迎えて食える。靴を脱ぎ、上がり框に手を空いて、深く息を吐く。海の疲れが残っているけれど、今日は土曜日。ピアノのレッスンの日だった。
今日の今日でピアノを弾けるよは思えなかったけれど、このルーテインが崩れてしまうとずっと弾けなくなってしまうような不安があった。
「さ、いらっしゃーい!」
先生が嬉しそうに笑うから、僕もにこりと微笑む。なんだか久しぶりに笑ったような気がした。広いリビングに置かれたピアノは、変わらない凛々しさで鎮座する。てらてらと光る黒い体躯。弾く人を勇んで待っているような存在感がある。チリンと鳴るクラゲの風鈴も、楽しそうに宙を舞っていた。
すぐ弾くことができるように準備されたピアノの前に座る。いつもはすぐに指を置いて曲を奏でることができるけれど、今日は気圧されてしまって指が動かない。旋律を奏でることができない僕に向かって、覚悟を試してくるような威圧感。コンクールでも場の空気に緊張することはあるけれど、その日にはならないほどの圧があった。
一つ息を吐いて、覚悟を決めて指を置く。楽しく、跳ねるように。そう唱え、『序奏とロンド・カプリチオーソ』を弾く。
落ち着いた序奏から、ようやくロンドが始まる。大切な相手と手を取り合って踊るロンド、足取りを軽やかに、心が浮き立つように跳ねる音を意識して。楽しさを意識して。意識して。もっと、もっと楽しそうに。僕自身が楽しそうに弾かないと、ロンドはいつだって楽しそうにはならない。
運指を急ぐ。鍵盤を強く叩く。楽しく、もう一度ロンドに。もっと意識しないと。もっと、もっと――
「……あ」
突然音が見えなくなって、手が止まる。踏んだままのペダルが、尻すぼみな弱い一音を残した。楽譜が見えない。僕が弾きたかったロンドにはならなかった。ピアノから見放されたような虚無感が心を満たしていく。僕はもうピアノが弾けない。その予感が強くなっていく。
また初めから弾くけれど、どうしても序奏からロンドへ移るところで指が止まる。よく見ると指先が細かく震えていた。
「悠くん、今日はちょびっとお話しでもしましょっか」
弾けない僕を見かねてか、先生がそう声を掛けてきた。先制を見た僕の顔は、必死だったのだろう。松田先生は穏やかで優しい微笑みを浮かべた。
「ピアノ教室だから絶対にピアノを触らなくちゃいけないなんて決まりはないのよ? 美味しいお茶があるから、一緒に飲みましょっか」
示された逃げ道に進むことを、心が拒否する。今弾けない事実が全てでしかないのに、僕の中でも不思議だった。戻ってきた先生に促されて、ソファに腰を下ろす。鍵盤の上で緊張していた指が、するりと膝の上に戻ってきた。力が抜けて、指先が自然を丸まっていく。
前に置かれたティーカップには、不安そうな自分の顔が映っていた。
「ピアノ、弾けなくなっちゃって」
「弾けないって、どういうこと?」
「なんていうか……」
どういう風に弾けないのか。ただ弾けなくなった、としか感じていなかったこの違和感に合う言葉をどうにか探す。弾けなくて、楽しくない。『序奏とロンド・カプリチオーソ』はサン=サーンスがサラサーテのために献呈した曲なのに、僕はこの曲を弾けてもサラサーテに捧げることができない。
「なんか、うまくできなくて」
「うまくって?」
問われて、言葉に詰まる。音を外すとか、ミスタッチがあるとか、そういうことじゃない。けれど、この違和感は「うまくできない」と表現することが一番合っていた。
「もしかしてだけど、悠くんは、前は楽しく弾けてたのに、今はそういう気持ちで弾けないって思ってるのかしら」
図星のその言葉に、僕は控えめに頷く。そっかぁと呟く松田先生を見ることができない。旋律が旋律じゃなくなる不安がずっと消えない。楽しいなんて感じられない。
「今は、なんか、楽しくない……です。音が鳴るだけで、メロディとか曲の情景とか、そういうのなくなっちゃって」
何度でも弾き直したかったけれど、鎮座するピアノはそれを許さない。僕はじいっとピアノを見ることしかできなかった。松田先生は何も言わずに、しばらくの間黙っていた。からからに乾いた口を潤すため、ティーカップに淹れられた紅茶を飲む。じわりと胃があたたまって、わずかに不安が薄れた。
やがて、穏やかな声が響く。
「そういう時は、いろいろ見ましょっか」
「いろいろ?」
何を見るのか分からず、全く予想していなかった言葉に、気の抜けた返答をしてしまう。先生は優しく微笑む。
「あなたがまだ中学生だった頃の発表会の映像よ。私けっこう好きでね、よく見返すのよ」
先生はテレビの前に立って、リモコンを操作した。ホワイトノイズ混じりの映像がすぐに始まった。グランドピアノだけがステージの中央にある。中学校の制服を着た僕が、緊張した様子でピアノの横に立った。一礼をして椅子に座る。
それは中学一年生の時に市民会館の大ホールで行われたコンクールの映像。画面内の僕はドビュッシー作曲、『アラベスク第一番』を弾き始める。すこしだけ 顔がこわばっているけれど、指は迷いなく動いて、身体はその音色にのっているのが分かる。
シンプルで優雅な曲調だからこそ、ミスタッチが目立つ。でも、画面の僕は楽しそうで、今の僕には輝いて見えた。
「楽しそうね」
「はい」
僕は画面を食い入るように見つめたまま答えた。きっと楽しかったんだろうと、心から思うことができる演奏。効いていて曲の世界に入り込めるような、深みある旋律。
「いいな……」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。過去の自分の演奏に羨望の眼差しを向けてしまう。先生は頷いて、もう一つの映像を再生した。
次に映ったのは別の生徒の演奏。小学生くらいの小さな男の子が『トルコ行進曲』を弾いている。テンポは少し遅れ、伴奏も簡単なものになっているけれど、無心で弾いているのが分かる。顔は真剣そのもので、弾き終えたあとの深呼吸に、僕は目を奪われた。
その後は女子高校生が『ラ・カンパネラ』を弾き始めた。ピアノの魔術師が作った、様々な技巧が組み込まれた難曲。目立つミスはなさそうに聞こえるが、どこか遠くを見ているような演奏だった。少女は弾き終わったあと拍手を受けながら、すっと視線を落としていた。悔しそうな様子に、見ている僕も同じような気持ちになってしまう。
「いろんな子が、いろんな形でピアノを弾くのよ。どれも正しくて、どれもその時のその子にしか弾けない音」
先生が映像を止める。
「楽しそうな音も、旋律として納得できない音も、今弾いている子の最大限の力なの。ピアノなんてうまく弾くことだけが大事ってわけじゃないんだから、あなたの心が踊るように弾いてみたらいいんじゃない?」
その言葉に、涙が零れそうになる。服の袖で目頭を拭って、息を吐く。幸い、先生はプレーヤーを片づけていたから泣いているところは見られなかった。うまく弾けなくなった、音が聴こえなくなったんじゃなく、僕が音を楽しめなくなっている。自分の音から、僕自身が遠ざかっていた。
「いいわね、若者! って感じで。今まさに殻を破ろうとしてがんばってるのね」
「殻、破れるんでしょうか……」
「あなたがしっかり向き合って、納得できたら、きっとね。やっと蛹から孵化して空を飛べるのよ。だいじょうぶ、悠くん、あなたはピアノにも人にも誠実なんだから」
先生が僕の手を握る。薄くて、少しかさついた優しい手だった。
「今はしっかし自分の目で見て、耳で聴いて、全身で感じてごらんなさい。それがあなただけの旋律になるの。焦る必要なんかないわよ。あなたの音はずっとあなたの中で響いてるんだから」
昔の映像を見ただけで終わったレッスンの帰り道、先生の言葉を反芻する。まだピアノの前に座ると指が震えてしまいそうだ。けれど、それでもあの映像で見た楽しそうなピアニストたちのように弾きたいと、そう強く思えた夜だった。

