翌日、ベッドから空を見上げて、雨が降りそうだなと思った。
 起きた時にはまだ曇り空だった。窓の向こうの空気はどこか重たい。開けた窓から入りこむ風は少しひんやりするけれど、湿り気を含んでいた。街路樹を揺らす生温い風が、僕の肌を撫でていく。制服に袖を通しながら、傘を持つかどうか迷った。
 雨はまだ降っていない。どんよりと暗い空模様だけれど、これくらいの天気なら学校に着くまで雨には濡れなさそうだし、帰りに濡れたって風呂に入ればいいか。玄関を出る直前にもう一度空を見上げて、結局傘を持たずに出かけた。ピアノも、弾きたいような弾く気になれない不安定な心地のまま、結局弾かない選択をした。
 僕が弾かなくても誰も気にしていないようだった。存在感を放つ部屋のピアノを意図的に見ないようにしているのも、僕だけしか知らない。
 耳に届く鳥の鳴き声。犬が吠える音、誰かの足音、車のエンジン音に、自転車のチェーンが回る音。ノイズのように感じていた全てが、すっと耳に届く。今まで聴いていたようで実は意識していなかった音が、生々しく届く。駐輪場に自転車を置く。近くに速水の自転車が置かれていたことは、気づかなかったことにした。
 歩くリズムに合わせて、鍵盤に触れるように指を動かしてみるが、旋律や音色はひとつも浮かばない。今までなら曲をイメージして指を動かせば、すぐに旋律が響いた。いつだってピアノの音色が聴こえていた。けれど、旋律も、曲の情景も、ピアノが関わるなにもかもすべてが失われている。
 学校に着くまで、雨は降らなかった。空の暗さばかりが深くなっている。生徒玄関に入ると、数人の生徒たちが集まって楽しそうに話をしている姿が目に入った。
 立ち聞きなんてするつもりはなかったけれど、速水、という言葉を聴いて靴をしまう動作が止まる。声の方に視線を向けてみるが、速水がこの場にいるというわけではなかった。 木製テーブルの奥にある中庭へ続く扉の横、大きな窓から木に包まれたテニスコートを見ようとしているらしい。

「最近の速水見た? 部活の時やばいんだって」
「速水くんなんていつでもやばいじゃん」
「なんか気迫? がすごいんだって! ちょっと今度見に行こうよ!」
「じゃあまた明日とかにしよ!」

 楽しそうに笑う女子生徒は、見えもしないテニスコート越しの速水を探し続ける。黙ってく津を履き替え、視線は落ちてしまったまま教室に向かう。
 教室ではクラス名とと他愛のない話をしたけれど、その内容までははっきりと覚えられなかった。

「ね。明日水曜じゃん? 七瀬くん見に行こうよ」

 誰かが速水の話をしている。いつもならば気にならないその話題が、やけに耳に付いて気になってしまう。

「え、行こ! なんか最近ファンサしてくれるんでしょ!」
「そうなの、七瀬くんのファンサとかやばくない?」
「あんな無愛想なのにね。やっぱ顔が良いってすごいわ」

 無愛想。その言葉が、関係のない僕に矢のようにすとんと刺さる。たしかに速水に対して社交的だとか、友人が多いというような印象を持つ人は少ないだろう。
 でも僕は、速水が無愛想だなんて感じたことはなかった。速水は優しくて、いつだって困ったように笑う。
 僕が困っているときには無言で手を差し伸べてくれるような、あたたかさがある。僕たちの間には、きっと言葉がいらない類いの信頼があった気がする。
 いろいろな声が語る速水の姿に、僕が知る速水と、みんなが知る速水との差がありありと浮き彫りになる。

 七時間目、現代文の時間。僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。空はさらに暗くなり、今にも雨が降り落ちそうだ。黒板の文字が滲むような重苦しさと湿り気が、クラスの空気を満たしている。せっかくセットしている髪が、元に戻ってしまいそうだ。

「あ」

 人に聴かれるかどうかの声量で、言葉が漏れる。――僕がいちばん、速水のことを分かっていないのかもしれない。その思いが、唐突tに胸にせり上がってきた。
 昨日アルバムを見て、僕の中の速水の姿がぐにゃりと歪んだ。人見知りで、口数が少なくて、口下手な速水の姿が。
 けれど、今は違う。気迫のある姿で部活をして、廊下で女子と楽しそうに会話をして、無愛想ながらファンサービスまでする。
 僕が知っている速水は、そのどちらでもなかった。静かに隣にいて、困るように笑いながら、手を差し伸べてくれる。そういう男だった。そういう男だと、思っていた。
 僕は知っていると思い込んでいただけで、速水のことをなにも知ってなんかいないのかもしれない。
 雨だ。誰かがぼそりと呟いた。いつの間にか、雨粒が窓に打ちつけられている。それはにわか雨だった。クラスの空気が、ほのかに冷たく変わる。
 あっという間に強くなった雨脚が、窓にいくつもの模様を生み出していた。外の色だけしか見えず、風景の輪郭が壊れていく。僕の中にあった速水の記憶も、誰かが語る速水の姿も、少しずつ形を失っているようだった。
 授業が終わり校舎の外へ出てもまだ、雨は降り続いていた。生徒玄関前には大きな水たまりがいくつもできていた。持ってこなかった傘のことを思いながら、ぎりぎり屋根がある位置で立ち止まる。重たい灰色の空を、静かに見上げた。
 ザーザー、ポタ、パチャパチャ。雨や水たまりが多彩な音を奏でる。雨の日に合うチェロの名曲があった気がして、思い浮かぶ旋律を口ずさむ。けれどやはり、曲というよりもただの音。音色とはほど遠い、ただの音の羅列が口から逃げていく。
 旋律というものが、僕の中から消えているような感覚。ピアノを弾いたとしてもそれは誰かを感動させられない。どれだけ素晴らしい曲を今の僕が弾いたって、音符が音として並ぶだけ。

「速水のこと、なにも知らないな」

 雨音に紛れて、ぽつりと声が漏れた。口ずさんでも、指を楽譜の通りに動かしてみても、ピアノの音は一つも戻ってこない。
 速水の姿ばかりが、雨に溶けて記憶に滲む。駆けだした足から雨水が染みた。上からも下からも雨に濡れていく。
 身体だけじゃなく、頭もすうと冷やされているような感覚だった。速水との深い溝を自覚して、溜め息を吐く。一緒に連弾をしたかっただけなのに、もう、そうすることは叶わない。
 速水からの拒絶を、僕はまだ受け止められていない。濡れた身体が、電車内のエアコンで急激に冷やされていく。
 自宅の最寄り駅に着く頃には、雨はもう降り止んでいた。蛙の声がいつもより元気そうに聞こえる田んぼを越えて、家に帰った。

 真っ暗な夜に部屋の灯りを落として、扇風機の前に寝転ぶ。やわらかなマットレスに沈み込む身体。扇風機のモーター音だけが耳に届く。
 もうシャワーを浴びたし、母親の作った夕飯も食べ終えた。あとはもう、なにをすることはない。洗い立ての髪が扇風機の風になびいて、逃避がひんやりと冷たくなる。部屋着の襟元をつまんで風を取り込むと、ようやく汗が引いてきた。
 扇風機を回しながら、窓は開け放ってある。網戸を通して、夜のやわらかな空気が部屋の中に満ちていく。扇風機に運ばれる夜風をゆっくりと吸い込んで、吐き出す。
 カーテンがゆっくりと膨らんではしぼみ、また膨らむ。白くて薄い布が、風を捉えるたびに泳ぐように揺れていた。深海に住むクラゲのように、ふわりと宙を泳いでいる。
 暗い部屋の中は静かだった。エアコンの音はなく、携帯のチカチカとした光りもない。リビングからテレビの音が届くこともない。
 ただ、扇風機の音が聞こえるだけ。ほんとうに静かな夜だ。いつもは騒がしいくらい賑やかな雰囲気が好きなのに、今はこの夜が心地よかった。
 街灯の明かりがカーテン越しに部屋に響く。車のエンジン音が聞こえ、外の白さが少しだけ強くなった。車が一台通るだけで、この静かな夜の色が揺れる。
 小さな羽音が聞こえる。なにかが網戸に当たったようだった。部屋の灯りはつけていないけれど、夜行性の虫にはまぶしく感じられるのかも。
 どこかからチリンと高い音が鳴る。風鈴のように、細くて、高くて、きれいな音。夏の夜の音はすべてやわらかくて、目を閉じていると夜に身体が溶け出していくような、一体になるような感覚があった。
 今日もピアノに触れていない。もう一週間近くになる。早く連弾の相手を見つけて練習を始めないと、もう三週間を切っていた。
 部屋の隅にあるアップライトピアノは日に日に存在感を強めていくけれど、まだ覚悟がなくて、触れることはできないでいる。
 椅子に座って、ピアノとしっかり対面して弾きたいと思うけれど、胸の奥がざわついてしまう。吹奏楽部の面々にも、親にも、ピアノが弾けなくなったことは伝えられていない。 誰かに勝手に失望されてしまいそうで、伝えられないままだ。軋むベッドから身体を起こして、立ち上がる。扇風機の風を弱めて、窓辺へ近づいた。カーテンを少しだけ開けて、網戸越しに外を眺める。
 道の先にある街灯の下を、自転車に乗った誰かが通りすぎていくのが見えた。人の顔は
はっきりと分からないけれど、その存在の気配や音は確かに伝わっていた。
 姿が見えなくても、聞こえてくる音は誰かの気配を運んでくる。夜の香りや風の色、深い深い黒に隠れた紺碧の夜空。今日の夜を構築する全てを、五感で感じ取ることができる。 部屋の中にいる自分と、外の世界はただ一枚の網戸で隔てられているだけ。風はその隙間をすり抜けて、僕の髪や腕、頬を撫でていく。
 外を通る誰かに、僕の手は届かない。網戸は風も音も、夜の色すら通すけど、触れることだけは許さない。近いのに、遠い。その距離感が、今の僕とピアノの関係のようにも感じられた。

「……なにしてんだろうな」

 声に出してみたけれど、なにに対して生まれた言葉なのかはっきりとしない。僕自身の弱さとか、滞った現状に対してなのかすら僕は分かっていなかった。
 速水の名前を思い浮かべて、それを胸の奥へと押し込んだ。連弾を楽しいと思ったきっかけは、速水だった。
 即興で曲を奏でたり、互いの課題曲を演奏したり、ふざけ合うこともあった。ピアノを通して近づいた仲は、いつのまにか大切な時間へと変わっていた。でも今は、網戸越しの夜のように互いが近いようで遠い。
 僕が作った深い溝には、透明で広い距離がある。会おうと思えば会うことはできる。声を掛けようと思えば、チャンスがあれば声を掛けられるだろうし、きっと僕の声は速水に届くはずだ。
 自分で生み出した距離を縮める一歩が踏み出せないまま、時間だけが過ぎている。夜を見ていた目線を、室内に向けた。アップライトピアノが、僕を呼んでいる。
 ピアノの椅子にそっと手をかけてみる。椅子に座る勇気まではなかった。弾いたとしても、まだきっと音は音でしかない。蓋に手を掛けることもできないくらい、ピアノに気圧されている感覚だった。
 いつぶりだろう、生活にピアノの音が混じっていないのは。風の音とか外の空気、夜空に浮かぶ色、星の輝き。そんなものばかりを、ピアノに変わって生活の中に組み込もうとしている。
 網戸の向こうから、ふいにネコの鳴き声がした。低くて、甘えるような声。夜の静けさに、猫の鳴き声が一体になる。鳴き声はじょじょに遠くなり、すぐに聞こえなくなった。僕はその音の変化を聴いていた。ピアノ以外の音を集中して聴くのは久しぶりだった。
 窓辺に戻り、空を見上げる。街灯に負けず劣らず輝く青白い月。まだ満ちない、欠けた月。雲の中にその姿が隠れると、夜の深みが静かに増した。
 夜風がまた、風鈴の音を運ぶ。静かな夜がこんなにも気持ちいいなら、いっそピアノが弾けなくたっていいのかもしれない。ベッドに寝転び、クラゲのように踊るカーテンをぼんやりと見つめる。
 このままもう弾けないのなら、弾けないことを悩む必要なんてなくなるはずだ。連弾相手に悩むこともなくなるし、速水とのつながりだって今よりもっと希薄になって、いつの間にか全部がなかったことになっている。それくらいが、ピアノとのちょうどいい関係性だったりするんだろうか。
 薄くまどろんだ夜の縁、大きなクラゲに話しかけられたような、そんな気がした。