「じゃあ、頭から」

 放課後の音楽室には、さまざまな楽器の音が満ちている。山路先生の指揮に合わせて、旋律が流れていく。より発展した基礎練習を続けてきた一年生の音は、いくらか自信に満ちていた。ティンパニのロールで止まることもなく、タクトも踊るように揺れる。
 シロフォンの前に立ち、身体に染みついた動きで鍵盤を叩く。この空間で一つの楽曲と成るために必要な音の粒や情緒を意識する。合奏に気持ちが向かなくても、今できる限りの音を響かせる。
 指揮を見るため顔を上げると、山路先生と視線が交わった。その鋭い視線が、僕の後ろめたさを見透かしているように感じられた。けれど合奏は止まらない。今日は、怒る価値もないらしい。動きを緩めそうになる手に力を込め直した。
 楽譜の最後の一音が、山路先生の指揮に合わせて止まる。

「まあ、今日はよし。細かい修正は後日やるので。明日からは文化祭前当日まで二十日間くらいしかないようなので、そっちの練習にあてようか。明日の部活前にパートリーダーは私の所に来るように。じゃ、解散」
「ありがとうございました!」
「「ありがとうございました!」」

 楽器を片づけている最中、山路先生が「玉城ちょっと」と僕を呼んだ。後輩にシロフォンの運搬を頼み、指揮台の隣に行くと座っていた山路先生が難しい顔をする。

「すいませんでした」

 僕は、先に謝罪した。演奏に身が入っていない自覚はあった。山路先生に注意をされなかったことを、内心運が良かったと思ってしまっていた。
 合奏ではある。そう思われる程度の演奏しかしていない。『メルヘン』として見せたい世界に、僕は一歩も踏み入ることができていなかった。言葉を選んでいる様子だった山路先生が、短く息を吐く。

「言われなくても分かってるか」

 鋭い目線が向けられた。

「はい。集中できていませんでした」
「今回は大目に見るけどな、それが続くんだったら他の生徒と替えるからな」
「……はい。すいません」
「それだけだ。行っていいぞ」

 山路先生に一礼し、片づけに戻る。一輝が心配そうに見てきたが、軽く笑ってあしらった。山路先生のあの目線は、怒っているとも、評価をしているとも違う色があった。それが何かは分からなかったけれど、ただ注意を去れただけではないように感じる。
 ピアノが思うように弾けなくなっただけでも集中ができていないのに、昨夜の出来事のせいで余計に音楽に向き合う事ができないでいる。僕の演奏が良くなるような期待が持てない。部員たちがまばらになっていくのを見ながら、帰りの支度を済ませる。
 すでに一輝は帰ったらしく、音楽室を見渡してみるが姿はない。安堵で息が漏れる。人と会話をする気力も元気も、どこかに落としてきてしまったような感覚だった。
 階段を下り、外へ出ると、一輝が正門の前でスマホを触っていた。重たそうな黒いリュックを背負ったまま。一輝は僕と目が合うと、「おー」と言って携帯をしまった。

「おつかれ。ヤマ先だいじょうぶだった?」
「うん。少し注意されたけどね」

 何でもない日常の言葉が、浮いているような違和感。いつも通り話しているはずなのに、自分声が他人のもののように聞こえる。僕ではなく、僕の身体を模したなにかが言葉を発している。
 ゆっくりと通学路を歩く。一輝はいつも通り他愛のない会話を続けている。クラスの誰々がどうしたのか、速く夏休みが来ないかなとか、最近はバラエティ番組より配信者ばっかり見てるよ、とか。
 話題はテレビのチャンネルを切り替えるように、次々と変わっていく。まるで少しの沈黙すら避けようとしているようだった。

「でさ、あいつめっちゃ内職してんのよ。あの飯塚(いいづか)太郎(たろう)の授業でだぜ」
「やばいじゃん」

 陰で鉄仮面と呼んでいる厳格な物理教師、飯塚(いいづか)太郎(たろう)。皺ひとつないスーツを着て、夏でもネクタイをしっかりと締めているため一部ではサイボーグとも呼ばれている。分厚い黒ぶちの眼鏡越しに睨まれたら最後、評価は最低になりテストも最高難度を更新する、らしい。
 なんとか口角を持ち上げて相槌を打つけれど、きっと形だけの笑顔になっている気がする。一輝の楽しそうな声に調子を合わせているつもりなのに、自分の声が薄っぺらく響いていることが分かる。中身がすっかり抜け落ちているみたいだ。
 前までならこういう時にはもっと気の利いた返し方を考えたり、クラスで生まれた鉄仮面エピソードとかを伝えたりしていたはず。だけど今は、一輝の言葉を受け取る度に、一呼吸おいてからどうにか言葉を探して返している。

「なあ悠」

 止まった一輝の足音に、顔を上げる。知らない内に、ずっと下を見ていたらしい。

「えっ、なっ、なした、その顔」

 一輝の顔を思わず二度見する。わざとらしく眉尻を下げ、うるうると泣きそうな目をした一輝が僕を見つめていた。

「俺がこんっなにお前を楽しませようとしてんのによぉ……」
「タンマ痛い、痛いって待って待って」

 両肩を思い切り掴まれ、前後に揺さぶられる。ぐわんぐわんと揺れる視界。前後に揺れる首が痛い。

「ま、いいんだけどさ。疲れてんね」
「……少しね」

 ようやく落ち着いた視界の中で、一輝が少し寂しそうに笑っていた。僕は誤魔化すように笑う。疲れているという一言で済ませるには、心の穴は大きすぎる。けれどそれ以上、なにかを説明する気分にはなれなかった。一輝も、そうしたことを分かっていそうだった。
 この傷を一輝に伝えたとしても、きっと困らせてしまうだけだ。僕自身もこの傷をどう説明すればいいのか分からず、うまく言葉にすることができない。その時だった。

「あ、テニス部」

 一輝がぽつりと言って、手を上げる。一輝の視線を追った先には、数人のテニス部員たちが笑いながら歩いている姿があった。その真ん中に、あいつがいる。

「おーい、ななせー。おつかれー」

 一輝の声にテニス部の面々が僕たちを見つけた。手を振る一輝に、何人かが手を振り返す。僕は一瞬だけその姿を見て、すぐに目を逸らした。視界の隅で、速水が僕を見たような気がした。でも、確かめることはしなかった。見てしまったらきっと、いつも通りを振る舞う僕が崩れてしまうかもしれない。

「そういや連弾の相手決まった?」

 一輝が何事もなかったように振り向いて、また歩き出す。その自然さが、今は少しだけ苦しく感じた。

「まだ決まってない。なんかあんまり弾きたい感じがなくてさ」
「ふーん? 楽しそうに弾いてた気がしてたけど、やっぱ大変?」
「大変。一緒に弾く人と合わせるっていうのがわりと」
「あー確かに人と合わせるって時間がモノ言うしむずいよな」
「……そうだね」
「悠がこの人となら弾けるぜって人と弾けるといいな」

 その言葉が、すとんと心に落ちる。
 一輝に気を遣わせているこが分かる。分かっていて、それでもうまく伝えられない。話せばきっと一輝は親身に聞いてくれるだろうけれど、僕の準備ができていなかった。

「ま。今度のんびり飯でも食おうぜ」
「おう。したら、また」

 ちょうど駅前広場に到着し、一輝と別れる。バスセンターへ向かった一輝を少しだけ見送り、僕も駅に向かう学生やサラリーマンの波に合流した。一輝が待ってくれていて良かった。きっと一人だったら、底なしの思考の海に沈み込んでいたかもしれない。
 少しでも自分のこと以外に意識を向けられた。頷いて、どうにか返事をして、相槌を打って、不格好に笑う。そうした不器用な姿は、水上に揺らめくクラゲのように、地に足つかずに言葉と態度が浮いているようだった。
 いつもなら気にならない電車の車窓からの景色を眺める。まだ少し明るい外が、瞬きごとに暗くなっていく。車内アナウンスに、扉に寄り掛かっていた身体を直す。ピアノを聴かなくなってしばらく経った。家のアップライトピアノも開いていない。
 あんなに身近にいたピアノが、今までで一番遠い場所にある。なんとなく、ピアノから弾く資格がないと言われているような感覚があった。僕自身にも届かなくなってしまったピアノに触れるのも、少しだけ怖かった。
 深まる暗さにため息が漏れる。朝は来るはずなのに、僕のもとには朝日が射し込んできていない。
 自宅は平日の夜に珍しく、カーテンの隙間から室内の光が見えていた。玄関を開けるとカレーの香りが充満していた。

「ただいま」

 食卓には両親が揃っていて、すでに夕食を食べている。父はもう食べ終わりそうな様子だ。

「おかえり。手洗って着替えたらご飯食べちゃいなさいね」
「はーい」

 汗を流すためにシャワーも済ませ、部屋着に着替えてから食卓につく。カレーを食べていると、聴き覚えのあるピアノの音色が鳴り、音の方向を探す。リビングのテレビに映っていた発表会の映像を、両親がソファに座って見ていた。
 画面端から歩いてきた子どもが、ピアノの前でお辞儀をする。大人と一緒に椅子を調整して座り、たどたどしい手つきで鍵盤を押す。弾き始めたのは『きらきら星』だった。
 旋律は拙くて、頭を上下させながら必死に楽譜と鍵盤を見ている。両親揃ってその映像を黙って見ているから、僕もできるだけ音を立てないように食事を済ませて、そのままテレビから流れる映像を見始めた。
 子どもらしい演奏は、はっきり言って下手で拙い。楽譜を見るせいでリズムが止まりそうになるし、音の強弱なんて気にしていない。音色の緩急も、誰かに聴かせているっていう意識もなさそうだ。
 けれど弾いている子は、とても楽しそうに見える。表情も動かす指も硬いけれど、拙い旋律は初めて夜空を旅するような高揚感が滲んでいるようだった。

「これ誰? 弾いてんの」

 二人が揃って振り向く。母さんは怪訝そうな顔をして、父さんも口をあんぐりと開けていた。

「あんただよ」
「え」

 映像の中の子どもは最後まで演奏を続け、椅子から降りた。本人なりに達成感がある様子で、満面の笑みを浮かべてステージに向かって深く礼をする。アナウンスの女性が「玉城悠くんの演奏でした。皆様拍手をお願いいたします」と言い、ようやくそれが僕自身だと理解した。
 両親は楽しそうにテレビの映像を見ながら、また違う演奏の映像を流し始める。テレビに映るのは小さな僕と、速水の姿。背丈的に中学時代だろうか。ピアノの前に二人で並んで座り、顔を見合わせた後に演奏が始まる。
 僕の演奏に必死に追いつくように、速水が鍵盤を叩く。この時はまだ、速水がセコンドを弾いているから、中学に上がる少し前の連弾映像だと分かった。
 わずかにテンポが遅れる速水の旋律は、時折不協和音のように聞こえることもあった。

「……七瀬」

 思わず名前を口にする。画面の中の速水は、必死にピアノの鍵盤を追う。速水の姿勢、指の動き、ほんの小さな息遣いまでもが懐かしくて胸に迫る。今まさに隣で弾いているかのように、音の圧や発表会の質感をありありと感じる。

「これたしか、悠と七瀬君が初めて連弾したときだったね」
「そうっぽいね。プリモとセコンド逆だし」

 なんとか食らいつこうとしている速水の姿が懐かしい。ペダルを離すタイミングも遅いし、二人してミスタッチが多い。けどどうしてか、この頃の演奏が楽しそうで羨ましいと思ってしまう。

「久しぶりにアルバムも出したの。見る?」

 母さんがテーブルに置いていたアルバムを僕に見せる。食器をシンクに下げ、水にうるかしてから、二人の間に治まる形でソファに座り、アルバムのページをめくる。トロフィーを掲げて笑う僕の隣で、緊張した面持ちで賞状を持つ速水。笑顔でピースをする僕の隣で、ぎこちないピースをする速水。
 どのページの写真も僕はめいっぱい楽しそうに笑っているけれど、速水は真顔だったり無表情だったり、カメラを怖がっているような姿で映っている。
 最後の連弾の写真だけだった。速水が、僕に負けないくらいの笑顔で映っていたのは。

「七瀬君たしか人見知りでさ、最初全然しゃべらなかったよな」
「そうだっけ? 結構喋ってた気するけど」
「それ、あんたがちょっかいかけてただけよ。最初はひやひやしたんだからね? 仲良くなってくれたからいいけど」

 発表会の写真以外にも、学校祭や体育祭といった学校行事の写真もアルバムには収められていた。ほとんどの写真で、僕は速水と一緒に映っている。困ったような表情ばかりだけど、速水は僕の隣にばかりいてくれていた。

「七瀬君小学生のころと比べるとどんどんかっこよくなってるわよねぇ。ピアノ辞めてから全然見ないけどかっこよくなってるんでしょ?」
「まあ、かっこいいよ」

 中学時代も女子から人気はあったけれど、高校に入ってそれが爆発したように感じる。きっと中学と違って高校に上がってからの方が、速水に声を掛ける女子が増えたからだろうけれど。

「七瀬君の良さは外見だけじゃないさ。あの子、口下手で無口だけど、すごく周りを見て気を遣うタイプだろう? そういう優しい子はいろんな人に愛されるんだよ」

 父さんがウィスキーの入ったグラスを傾ける。カランと氷がぶつかる音がした。たしかあの連弾は松田先生の提案だったけれど、悩んでいる速水に無理を言って弾いてもらったんだ。それなのに僕の音に応えようとしてくれて、嫌がる事なんてせずに、隣でずっとピアノを弾いてくれていた。
 記憶がどろりと溶け出す。当時の僕と速水の話から思い出した景色が滲み、今の現状と混ざって、歪んでいく。隣にいて、いつも言葉を向けてくれていた速水と、話の中の速水は違う。どっちの速水が本当なのか、自信が持てない。けれど、一つだけ分かったことがあった。
 僕はきっと、親友としての速水を美化している。
 アルバムのページをめくるたび、見覚えのある景色が現れる。学校の教室、ステージ、発表会の打ち上げでみんなと撮った写真。ツーショットではない写真にも速水は映っているが、どれも端の方にひっそりといる。遠慮がちに少し距離を取って、みんなの輪から半歩ほど引いたところで真顔で映っていた。
 それでも僕と肩を組んだ写真や、ふざけている写真では、速水もほんの少しだけ表情を崩している。写真の中ではぎこちない笑顔が残っているが、僕の中ではずっと楽しそうに笑っていると記憶していた。

「あんたといる時くらいだったんじゃない? 七瀬君が楽しそうに笑ったり、自分のことをがんばって離そうとしてたの」

 母さんの言葉に、父さんが同調するように頷く。僕は返事をすることができなかった。口を静かに引き結ぶ。奥歯に強く力が入った。
 テレビには二人で弾いた最後の発表会映像が流れていた。演奏後、舞台袖に戻る寸前、速水と僕がハイタッチを交わす瞬間が映っている。手を伸ばした僕に、速水が戸惑ったあと、そっと手を合わせる。
 その時の速水の表情は、僕が覚えていたよりもずっと緊張していて、嬉しそうで、不器用だった。記憶の中の速水はもっとやわらかく、自然に笑っていたような気がしていた。僕が勝手に、そうあってほしいと思った姿を投影していたのかもしれない。
 無理をして合わせてくれていた速水を、僕は見えていなかったのかもしれない。きっと、見ていなかった。
 言葉が足りていないのは、速水じゃなくて僕だったのかもしれない。母が台所に立った。父もしばらくしてから、仕事の続きをすると言って絵や屁を戻っていった。僕はテレビに映る発表会やプチコンサートを聴きながら、違うアルバムを開く。
 自室のピアノの前に座って笑顔を見せる僕と、隣でカメラを見上げる速水の写真。警戒したように口が結びながら、少しだけ身体を僕の方に傾けている。
 速水は僕の隣で何を思っていたんだろう。僕はずっと速水のことを知っている気持ちでいたけれど、あいつはどうだったんだろうか。
 一緒に笑い合った時間も、一緒に弾いたピアノも、あいつにとっては思い出したくない記憶だったのかもしれない。ぐらりと、視界が揺れた錯覚がした。
 僕の中の速水と、両親からの速水がこんなにも違うせいで、僕の中の速水像が崩れていく。積み上げてきた思い出が、ほんの少しずつ形を変えて、崩れていく。
 言葉足らずで、不器用で、でも僕の隣にずっといてくれようとしている。そんな速水のことを、もう一度知らなくてはいけないと思った。アルバムを持つ手に、力が入る。
 これまでの全部を崩して、溶かして、混ぜ合わせて。雨が降った後に地面が踏み固められるように、本当の速水の姿とよく向き合って知りたいと強く感じる。