気づけば、駅の待合室のベンチに座っていた。手には覚えのないジュースのペットボトルが握られている。
改札を出入りする人波をいくつ見送っただろう。待合室を出て、階段を下りて、自転車に乗って、そして家に帰らないといけない。それなのに、身体はすっかり錆びついてしまって動きそうになかった。
視界の端の違和感に、天井を見上げる。待合室の電灯がい一か所点滅していた。僕と一緒の、壊れものだった。視線を戻すと改札を抜けたばかりの速水がいた。紺色の髪を結った彼が、不思議そうに僕を見る。
「悠?」
ぶつかった視線に、思わず目を逸らしてしまった。軽く返事をすればいいだけなのに、そうはできなかった。速水と目を合わせることが怖い。忘れていた心のわだかまりを、思い切りぶつけてしまいたくなる。抱くだけ無駄な期待を、ぶつけてしまいたくなる。
「悠、誰か待ってんの?」
目の前に立った速水の靴が視界に入る。僕が履くスニーカーよりも一回り以上大きいサイズだった。
「明日も学校だしさ、誰も待ってないなら帰ろうよ」
上から降ってきた言葉は、今までと何一つ変わらない調子だった。自分の心臓の音だけが聞こえる空間で、僕はゆっくりと頷いて立ち上がる。
遠くなって、また近づいて、また少し遠くなった宙ぶらりんな友人関係。ぎこちない空気は不安定で、簡単に壊れてしまいそうだ。速水から何度拒絶されても、それでも近くいたいと思ってしまう。誘われたまま、隣を歩いてしまう。
僕たちは並んでゆっくりと駅を出た。月明りがアスファルトを冷やす。速水が自転車の鍵を外す様子を見て、僕も同じように鍵を外した。ハンドルを握った自分の手が緊張している。
鍵を外す音。
自転車のスタンドを蹴り上げる音。
チェーンがからからと回る音。
そうした日常の動作の中で、少し前を歩く速水がそっと呟く。
「話、きく?」
その声は小さく揺れていた。誘われているというより、確認に近い声色。僕を拒絶したくせにどういうつもりなんだろうと考えてしまうほど、速水の言葉の真意は分からない。
少しの沈黙。考えてもやはり速水のことは分からず、僕は短く「うん」と返した。
自転車のライトが夜道を照らす。なにも話すきっかけはないまま、僕たちは近くのコンビニに入った。麦茶を選んだ僕の隣で、速水はスポーツドリンクを選んでいた。会計を済ませ、出入口の横にあるベンチに並んで座る。
「坂田さ」
口火を切ったのは、速水だった。
「なんか言ってた?」
僕は思わず速水を見た。速水はペットボトルを見つめて俯きがちに座っている。誰かから聞いたのか、それともあの場を見られていたのか。心臓を撫でつけられるような気味悪さに、速水をじっと見つめてしまう。
「小倉から、悠が坂田と教室を出て行ったらしいって聞いたんだ」
速水は薄く笑った。一輝からの情報なら、たしかに速水の耳に入る可能性はあった。一輝は一年生の頃から速水と同じクラスで過ごしているから、クラスメイトとしての速水をよく知っている。それに一輝は学年内でも、とくに顔が広い部類の人だ。おもしろい噂話があるなら、すぐにそうした情報が集まってくる存在でもある。
知らないところで、坂田に呼び出されたとバレているのは少しだけ恥ずかしい。
「なんかいろいろ、速水のこと気にしてるみたいだったよ」
あの子にとっては、まだ私の七瀬らしいよ、なんて伝えられない。
「……もう別れて結構経つんだけどな」
速水が夜に溶けてしまいそうな優しい声色で言うけれど、ある種の笑いが含まれていた。それが僕を笑われているように感じてしまう。気まずくなって距離ができても、一人で勝手に速水の音を探していた自分と、あの坂田の姿が重なっている。今までの思い出に浸って、縋ろうとしている僕自身も嘲られた錯覚がする。
古い思い出に身体が軋む。隣でピアノを弾いていた速水の笑顔も、あの日一緒に弾いたピアノの音も、きっかけの冬の日も。もう結構経つのにと、そう言われてしまったら、僕はもうすっかり錆びて朽ちてしまう。
「坂田のことだけどさ」
そう言ってから、速水はスポーツドリンクを一口飲む。ペットボトルのふたを閉める動作を、黙って待った。
「悠のこととは関係なく別れたんだ」
僕は静かに、速水の言葉を聞いていた。静かに次の言葉を待つ。速水が結っていた髪のゴムを外すと、髪がさらりと肩に落ちた。
「坂田は俺だから良かったってわけじゃなかっただろうし。俺と付き合いたいってよりは、あの子のアクセサリーになる彼氏がいてほしいってだけで。たまたまそれが俺だっただけだよ」
アクセサリーとしての恋人。あの坂田の口調や速水に対するこだわりは、たしかに手元に置いておきたいという気持ちからきているのかもしれない。けれど、分からない。彼女も僕と同じように、何も言葉を返されないまま未練だけを残された可能性だってあるんじゃないのか。
勝手に坂田の立場を自分に重ねてしまう。速水はいつだって大事なことを教えてくれない。黙って静かに時が流れていくのを待って、気がついた時には取り戻せない距離が生まれてしまう。僕はたまたま距離を取り戻せただけで、坂田はきっとそうじゃなかった。それだけの違いで、きっと僕と坂田はよく似ている。
「もうわりと潮時だったから、クラス替えがある年度末に別れた」
「うん」
僕はそう返すしかなかった。速水から坂田の話を聞きたいわけではなかったけれど、まだ言葉が見つけられない。元恋人として坂田の話をしてもらうために、僕はここに座っているんじゃない。短く相槌をする間も、速水は彼女の話を続けている。
速水が話す横顔を、僕はただ見ていた。速水の後ろにあるコンビニの自動ドアが開いて、誰かが中へ、誰かが外へと出入りする。そのたびに誰かの目が、僕らをすっと撫でていく。
こんな時間に高校生が、と思われているのかもしれない。学校の近くにいたなら、補導されてもおかしくない時間になってしまっている。
「……ねえ、速水」
どうでもいい女の話なんて聞きたくなくて、僕はようやく口を開いた。速水は話すのを止めて僕を見る。今日初めて、はっきりと目を合わせられた。
「ピアノ気にしてるって聞いたけど、僕が速水に連弾の話をしたから?」
速水が目を瞬いた。左の空を見て、速水が「あー……」と声を漏らす。
「……それもあるけど。前、学校でピアノ聞こえてさ」
速水の言葉に記憶をたどる。たしか、ヤマ先が牡蠣に当たった時、学校で弾いた覚えがある。
「耳に残ったんだ。あれ『きらきら星変奏曲』だったよね。部活中に音楽室から聴こえてきて、気づいたら口ずさんでるみたいでさ。たぶん坂田にも聞かれてたんだと思う」
その言い方は淡々としていて、無関心さすら感じてしまう。誰が弾いているかではなく、どの曲だったのかということしか速水の中には残っていない。僕が弾いていたと、速水は気づいていないのかもしれない。僕のピアノの音が好きだと話したあの速水を、記憶の片隅から消してしまいたかった。
「そっか。まあ、名曲だもんな」
僕は俯いて、まだ中身の残ったペットボトルのラベルを剥がす。僕が弾いたピアノの音色だから、耳に残ったわけではなかった。誰しもが一度は聞いたことのある『きらきら星』をアレンジした名曲だから、速水の記憶に残っていただけ。
昔の速水なら――一緒にピアノを弾いていた頃の速水だったら、なんて言葉をかけてくれただろう。
僕だけがまだ、ピアノを弾いていた頃の速水の面影から離れることができていない。ぎゅうと、心が苦しくなる。からからに乾ききった心に、暗い色がしみこんでいく。空っぽのように思っていた心の奥から、最後に残っていた感情が滲み出して、目頭を熱くした。
七瀬。速水のことをそう呼んで、一緒にピアノを弾いた時代をずっと追い求めている。楽しそうに鍵盤を触り、笑って、躓いて、満足そうに帰っていくあの姿を。
あの冬の日、白い息を吐きながら話した短い時間。まだ、速水のことを七瀬を呼ぶことができていた。二人とも髪は染めているのか分からないほどの黒髪で、一年生らしくおとなしい風貌でいた。粉雪が舞う、鋭い冷たさのある残冬の夜だった。
当時、速水に言いたいことばかりがあった。けれど、その時に伝えることができた言葉は、たった数文字の思いの丈だった。どうしても伝えずにはいられなかった。
だけど、速水は何も言わなかった。僕を見ていた目線を逸らして、俯いて。それだけだった。それだけが、僕と速水が親友として過ごすことができた最後の日の全てだった。
なにもなかったことにするように、僕たちはなにも話さなくなった。時間だけが、ただゆるやかに流れているはずだった。こうしてまた交わる予定なんてなく、静かに密やかに、速水と過ごした時間は過去の思い出になるはずだった。
これまでの思い出が、さまざまな色になって乾いた心に染みていく。
「悠でしょ、弾いてたの。……悠の音ならたくさん聴いてたから、悠の演奏だって分かったよ」
あたたかな言葉が向けられる。速水の言葉は一つも響かない。錆びついて乾いた心はさまざまな思い出で色づいて、何一つ変わらない黒に染まっている。
だからきっと、思ってもいない言葉を止められなかった。
「速水には、本当になんにも伝わってないんだ」
自分に向けて、乾いた笑いが出てしまう。冷たく、棘のある言い方だった。僕を見る速水が眉尻を下げる。僕にとって速水と連弾することがどれだけ嬉しいことなのか、速水と過ごした日々がどれだけ大切なことなのか、速水には一つも伝わっていない。
「ずるい男だよ、お前」
速水は黙っていた。目を見開いた後、困ったように微笑んだ。言われた本人は、なにが悪いのかきっと分かっていない。言ってしまった僕も、なにがずるいのかを言語化できるわけではなかった。
ただ速水のあの顔が――何気ない声が、つかみどころのない態度が、なにも知らない振りをする表情が、全て堪らなく憎らしかった。
「どうしてなにも言ってくれなかったんだよ」
数ヶ月の間、僕を悩ませていた大輪がはらはらと散っていくような感覚。速水に問いかけたつもりだった。少しでも冷静に、落ち着いて、速水と対話をしたいと考えているのに。口から出て行く言葉は弱々しいまま、速水を責めるようなものになってしまった。
夜中のコンビニの軒先。
電灯の白い光に照らされる深緑のベンチと僕たち。
通り過ぎていく車のエンジン音。
虫と蛙の鳴き声。
それら全てが、僕たちの沈黙を色濃く映し出す。
「あの時全部言ったと思ってる。僕がなにを感じて、どう考えてたのかとか。なにを思ってるのか、とか」
僕の目の前には、粉雪が舞う厳しい冬の日があった。マフラーとコートで防寒対策をして、速水と並んで帰ったあの日。鼻先を赤くして、震える息は真っ白で、意を決して思いを伝えたあの日。
速水の眉がピクリと動く。僕はそっと目を伏せた。顔を見ていたら、なにも言えなくなってしまいそうだった。何度も何度も僕からこの日のことは訊かないと決めていたのに、もう止められない。
ずっと心にくすぶり続けていた気持ちが溢れてしまうけれど、今言わないと、僕たちはきっとなにも変わらない。
「速水さ、何も言わなかったじゃんか」
「そ、れは……」
喉の奥が焼けるように痛む。声が掠れる。
自分の呼吸が少しだけ速くなっていることには、気づくことができなかった。
「一言でもなんか言ってくれたらよかった! 冗談だろとか、今のままでいようよとか、そうやって言ってくれたらよかった! 何も言ってくれないくらいなら、昔のうちに俺のことを拒絶してくれたらよかったのに!」
苦しい。喘ぐように息を吐けば、止められない言葉がこぼれていく。真っ黒な心から、ぽたぽたとこぼれ落ちていく。
「そうしてくれたら、もう全部過去の思い出としてしまったまま、お前とまだ親友でいられたかもしれないのに」
どこかにこの感情をぶつけてしまいたい衝動。ベンチを殴りつけてやりたいと思う気持ちをなんとか抑え、こぶしを握り締めて自分の膝に押し付ける。速水はただ僕を見ていた。心配しているような、困惑しているような、なにも考えていないような、よく分からない視線が苦しい。
「なにも言わなかったのはお前だったから僕は距離を取ったのに、僕が話しかけたら今まで通りです、みたいな顔してさ……。話してくれるのは嬉しいよ。今日も、話してくれたのは嬉しかったけど」
目が滲む。声が震えて、鼻をすする音が混ざった。
「あの時驚かせたかもしれないし、困らせたり、嫌な思いをさせたりしたかもしれないけど、それでも伝えたいって思ったから僕は伝えたんだよ」
喉が、胸が、ぎゅうと痛んだ。もうなにを言っても意味がないと、脳が警鐘を鳴らす。これ以上傷つく必要なんかないと、理性に諭されている感覚がする。
それでも痛みの塊は大きく育っていて、言葉に変わって出ようとする。
「僕はお前のこと親友として、戦友として好きだし大事な仲間だと思ってたから、好きだって伝えたんだよ」
二度と言わないように気を付けていた言葉が、自然と口をついて出た。速水のことは好きだった。だった、というより、今も変わらず速水七瀬という人間に好意がある。
九歳の頃から七年以上もピアノを一緒に弾いて、放課後はほぼ毎日一緒に過ごしていた。速水と過ごしていた思い出ばかりが僕の中にある。友達として、かけがえのない親友として大事で、大切で、好きだった。
「一緒にピアノをひって、また明日って言い合ってるだけで楽しかったんだ。その時間が大切で、なによりも好きだった。お前の傍にいれることがただ嬉しくて、ずっとこのまま親友でいたいって思ってたんだよ」
視界が歪んでいる。もう速水の視線も分からない。
「だから」
声が震えた。
「だから、僕はあの日好きだって伝えたんだ」
唇が震えてしまう。なかったことにされたあの日の言葉が、心が、思い出される。悔しくて、苦しくて、言葉にできないほど悲しかった。
「ずっとなにも、言わなかったくせに、今更、昔みたいに、親友ヅラしないでくれよ」
嗚咽が混じりそうになるのを、必死に之い混む。数えきれないほど心に蓋をしてきた感情。重たい蓋を占めて、何重にも鍵をかけて、見ない振りをしてきた思い出が溢れて止まらない。鍵はもう壊れてしまった。
「せめて、なんか言ってくれてたら、速水がちゃんと言ってくれたら、僕はまだ親友としていられたのかなって、思うよ。お互い、暇なときにピアノ弾いたり、遊んだりとか。連弾だって、もっと早く相談しにいけたかもしれない」
速水は、まだ言葉を発さなかった。ただ僕を見ていることだけが分かる。なにかを言おうとして、でも言葉にならないまま、速水は開きかけた口を閉じた。申し訳なさそうにする表情に、苛立ちを覚える。
「そんな顔しないでよ。待ってればお前から、いつか、なんでもいいから返事があるのかなって期待してた。僕が間違ってたんだ。速水にとっては、もう過ぎたことなんだろうしな」
口が止められない。
「でもさ、まさか、こんなに惨めな気持ちになるとか……」
やっと、言葉が、途切れた。もう心はすっかり透けて空っぽになってしまっていた。
「僕なにしてんだろ」
もれた独白は、自嘲にも似ていた。
速水の前で、一方的に思いをぶつけて泣くような姿を見せたくなかった。責め立てたかったわけでもない。ただ、短くていいから、言葉をもらいたかった。わだかまりつづけているあの日を、きれいな思い出として終わらせるために。
「ごめん。速水」
目頭を拭う余裕はなかった。
静かに僕は立ち上がる。飲みかけのペットボトルを持ったまま、明るい電灯の下から逃げ出す。自転車のロックを外す音が、やけに大きく響いた。速水は僕の背中になにも言わない。
ペダルを踏む。チェーンが軽い音を立てる。ハンドルを、きつく握った。夜の風が、少しだけあたたかなそれが、涙の痕を撫でていく。
大きな牙が、僕の心と、僕たちの仲を引き裂いた。深く深く傷を残して、ぽっかりと暗い穴が開く。夜風がそっと心の穴を抜けていく。
改札を出入りする人波をいくつ見送っただろう。待合室を出て、階段を下りて、自転車に乗って、そして家に帰らないといけない。それなのに、身体はすっかり錆びついてしまって動きそうになかった。
視界の端の違和感に、天井を見上げる。待合室の電灯がい一か所点滅していた。僕と一緒の、壊れものだった。視線を戻すと改札を抜けたばかりの速水がいた。紺色の髪を結った彼が、不思議そうに僕を見る。
「悠?」
ぶつかった視線に、思わず目を逸らしてしまった。軽く返事をすればいいだけなのに、そうはできなかった。速水と目を合わせることが怖い。忘れていた心のわだかまりを、思い切りぶつけてしまいたくなる。抱くだけ無駄な期待を、ぶつけてしまいたくなる。
「悠、誰か待ってんの?」
目の前に立った速水の靴が視界に入る。僕が履くスニーカーよりも一回り以上大きいサイズだった。
「明日も学校だしさ、誰も待ってないなら帰ろうよ」
上から降ってきた言葉は、今までと何一つ変わらない調子だった。自分の心臓の音だけが聞こえる空間で、僕はゆっくりと頷いて立ち上がる。
遠くなって、また近づいて、また少し遠くなった宙ぶらりんな友人関係。ぎこちない空気は不安定で、簡単に壊れてしまいそうだ。速水から何度拒絶されても、それでも近くいたいと思ってしまう。誘われたまま、隣を歩いてしまう。
僕たちは並んでゆっくりと駅を出た。月明りがアスファルトを冷やす。速水が自転車の鍵を外す様子を見て、僕も同じように鍵を外した。ハンドルを握った自分の手が緊張している。
鍵を外す音。
自転車のスタンドを蹴り上げる音。
チェーンがからからと回る音。
そうした日常の動作の中で、少し前を歩く速水がそっと呟く。
「話、きく?」
その声は小さく揺れていた。誘われているというより、確認に近い声色。僕を拒絶したくせにどういうつもりなんだろうと考えてしまうほど、速水の言葉の真意は分からない。
少しの沈黙。考えてもやはり速水のことは分からず、僕は短く「うん」と返した。
自転車のライトが夜道を照らす。なにも話すきっかけはないまま、僕たちは近くのコンビニに入った。麦茶を選んだ僕の隣で、速水はスポーツドリンクを選んでいた。会計を済ませ、出入口の横にあるベンチに並んで座る。
「坂田さ」
口火を切ったのは、速水だった。
「なんか言ってた?」
僕は思わず速水を見た。速水はペットボトルを見つめて俯きがちに座っている。誰かから聞いたのか、それともあの場を見られていたのか。心臓を撫でつけられるような気味悪さに、速水をじっと見つめてしまう。
「小倉から、悠が坂田と教室を出て行ったらしいって聞いたんだ」
速水は薄く笑った。一輝からの情報なら、たしかに速水の耳に入る可能性はあった。一輝は一年生の頃から速水と同じクラスで過ごしているから、クラスメイトとしての速水をよく知っている。それに一輝は学年内でも、とくに顔が広い部類の人だ。おもしろい噂話があるなら、すぐにそうした情報が集まってくる存在でもある。
知らないところで、坂田に呼び出されたとバレているのは少しだけ恥ずかしい。
「なんかいろいろ、速水のこと気にしてるみたいだったよ」
あの子にとっては、まだ私の七瀬らしいよ、なんて伝えられない。
「……もう別れて結構経つんだけどな」
速水が夜に溶けてしまいそうな優しい声色で言うけれど、ある種の笑いが含まれていた。それが僕を笑われているように感じてしまう。気まずくなって距離ができても、一人で勝手に速水の音を探していた自分と、あの坂田の姿が重なっている。今までの思い出に浸って、縋ろうとしている僕自身も嘲られた錯覚がする。
古い思い出に身体が軋む。隣でピアノを弾いていた速水の笑顔も、あの日一緒に弾いたピアノの音も、きっかけの冬の日も。もう結構経つのにと、そう言われてしまったら、僕はもうすっかり錆びて朽ちてしまう。
「坂田のことだけどさ」
そう言ってから、速水はスポーツドリンクを一口飲む。ペットボトルのふたを閉める動作を、黙って待った。
「悠のこととは関係なく別れたんだ」
僕は静かに、速水の言葉を聞いていた。静かに次の言葉を待つ。速水が結っていた髪のゴムを外すと、髪がさらりと肩に落ちた。
「坂田は俺だから良かったってわけじゃなかっただろうし。俺と付き合いたいってよりは、あの子のアクセサリーになる彼氏がいてほしいってだけで。たまたまそれが俺だっただけだよ」
アクセサリーとしての恋人。あの坂田の口調や速水に対するこだわりは、たしかに手元に置いておきたいという気持ちからきているのかもしれない。けれど、分からない。彼女も僕と同じように、何も言葉を返されないまま未練だけを残された可能性だってあるんじゃないのか。
勝手に坂田の立場を自分に重ねてしまう。速水はいつだって大事なことを教えてくれない。黙って静かに時が流れていくのを待って、気がついた時には取り戻せない距離が生まれてしまう。僕はたまたま距離を取り戻せただけで、坂田はきっとそうじゃなかった。それだけの違いで、きっと僕と坂田はよく似ている。
「もうわりと潮時だったから、クラス替えがある年度末に別れた」
「うん」
僕はそう返すしかなかった。速水から坂田の話を聞きたいわけではなかったけれど、まだ言葉が見つけられない。元恋人として坂田の話をしてもらうために、僕はここに座っているんじゃない。短く相槌をする間も、速水は彼女の話を続けている。
速水が話す横顔を、僕はただ見ていた。速水の後ろにあるコンビニの自動ドアが開いて、誰かが中へ、誰かが外へと出入りする。そのたびに誰かの目が、僕らをすっと撫でていく。
こんな時間に高校生が、と思われているのかもしれない。学校の近くにいたなら、補導されてもおかしくない時間になってしまっている。
「……ねえ、速水」
どうでもいい女の話なんて聞きたくなくて、僕はようやく口を開いた。速水は話すのを止めて僕を見る。今日初めて、はっきりと目を合わせられた。
「ピアノ気にしてるって聞いたけど、僕が速水に連弾の話をしたから?」
速水が目を瞬いた。左の空を見て、速水が「あー……」と声を漏らす。
「……それもあるけど。前、学校でピアノ聞こえてさ」
速水の言葉に記憶をたどる。たしか、ヤマ先が牡蠣に当たった時、学校で弾いた覚えがある。
「耳に残ったんだ。あれ『きらきら星変奏曲』だったよね。部活中に音楽室から聴こえてきて、気づいたら口ずさんでるみたいでさ。たぶん坂田にも聞かれてたんだと思う」
その言い方は淡々としていて、無関心さすら感じてしまう。誰が弾いているかではなく、どの曲だったのかということしか速水の中には残っていない。僕が弾いていたと、速水は気づいていないのかもしれない。僕のピアノの音が好きだと話したあの速水を、記憶の片隅から消してしまいたかった。
「そっか。まあ、名曲だもんな」
僕は俯いて、まだ中身の残ったペットボトルのラベルを剥がす。僕が弾いたピアノの音色だから、耳に残ったわけではなかった。誰しもが一度は聞いたことのある『きらきら星』をアレンジした名曲だから、速水の記憶に残っていただけ。
昔の速水なら――一緒にピアノを弾いていた頃の速水だったら、なんて言葉をかけてくれただろう。
僕だけがまだ、ピアノを弾いていた頃の速水の面影から離れることができていない。ぎゅうと、心が苦しくなる。からからに乾ききった心に、暗い色がしみこんでいく。空っぽのように思っていた心の奥から、最後に残っていた感情が滲み出して、目頭を熱くした。
七瀬。速水のことをそう呼んで、一緒にピアノを弾いた時代をずっと追い求めている。楽しそうに鍵盤を触り、笑って、躓いて、満足そうに帰っていくあの姿を。
あの冬の日、白い息を吐きながら話した短い時間。まだ、速水のことを七瀬を呼ぶことができていた。二人とも髪は染めているのか分からないほどの黒髪で、一年生らしくおとなしい風貌でいた。粉雪が舞う、鋭い冷たさのある残冬の夜だった。
当時、速水に言いたいことばかりがあった。けれど、その時に伝えることができた言葉は、たった数文字の思いの丈だった。どうしても伝えずにはいられなかった。
だけど、速水は何も言わなかった。僕を見ていた目線を逸らして、俯いて。それだけだった。それだけが、僕と速水が親友として過ごすことができた最後の日の全てだった。
なにもなかったことにするように、僕たちはなにも話さなくなった。時間だけが、ただゆるやかに流れているはずだった。こうしてまた交わる予定なんてなく、静かに密やかに、速水と過ごした時間は過去の思い出になるはずだった。
これまでの思い出が、さまざまな色になって乾いた心に染みていく。
「悠でしょ、弾いてたの。……悠の音ならたくさん聴いてたから、悠の演奏だって分かったよ」
あたたかな言葉が向けられる。速水の言葉は一つも響かない。錆びついて乾いた心はさまざまな思い出で色づいて、何一つ変わらない黒に染まっている。
だからきっと、思ってもいない言葉を止められなかった。
「速水には、本当になんにも伝わってないんだ」
自分に向けて、乾いた笑いが出てしまう。冷たく、棘のある言い方だった。僕を見る速水が眉尻を下げる。僕にとって速水と連弾することがどれだけ嬉しいことなのか、速水と過ごした日々がどれだけ大切なことなのか、速水には一つも伝わっていない。
「ずるい男だよ、お前」
速水は黙っていた。目を見開いた後、困ったように微笑んだ。言われた本人は、なにが悪いのかきっと分かっていない。言ってしまった僕も、なにがずるいのかを言語化できるわけではなかった。
ただ速水のあの顔が――何気ない声が、つかみどころのない態度が、なにも知らない振りをする表情が、全て堪らなく憎らしかった。
「どうしてなにも言ってくれなかったんだよ」
数ヶ月の間、僕を悩ませていた大輪がはらはらと散っていくような感覚。速水に問いかけたつもりだった。少しでも冷静に、落ち着いて、速水と対話をしたいと考えているのに。口から出て行く言葉は弱々しいまま、速水を責めるようなものになってしまった。
夜中のコンビニの軒先。
電灯の白い光に照らされる深緑のベンチと僕たち。
通り過ぎていく車のエンジン音。
虫と蛙の鳴き声。
それら全てが、僕たちの沈黙を色濃く映し出す。
「あの時全部言ったと思ってる。僕がなにを感じて、どう考えてたのかとか。なにを思ってるのか、とか」
僕の目の前には、粉雪が舞う厳しい冬の日があった。マフラーとコートで防寒対策をして、速水と並んで帰ったあの日。鼻先を赤くして、震える息は真っ白で、意を決して思いを伝えたあの日。
速水の眉がピクリと動く。僕はそっと目を伏せた。顔を見ていたら、なにも言えなくなってしまいそうだった。何度も何度も僕からこの日のことは訊かないと決めていたのに、もう止められない。
ずっと心にくすぶり続けていた気持ちが溢れてしまうけれど、今言わないと、僕たちはきっとなにも変わらない。
「速水さ、何も言わなかったじゃんか」
「そ、れは……」
喉の奥が焼けるように痛む。声が掠れる。
自分の呼吸が少しだけ速くなっていることには、気づくことができなかった。
「一言でもなんか言ってくれたらよかった! 冗談だろとか、今のままでいようよとか、そうやって言ってくれたらよかった! 何も言ってくれないくらいなら、昔のうちに俺のことを拒絶してくれたらよかったのに!」
苦しい。喘ぐように息を吐けば、止められない言葉がこぼれていく。真っ黒な心から、ぽたぽたとこぼれ落ちていく。
「そうしてくれたら、もう全部過去の思い出としてしまったまま、お前とまだ親友でいられたかもしれないのに」
どこかにこの感情をぶつけてしまいたい衝動。ベンチを殴りつけてやりたいと思う気持ちをなんとか抑え、こぶしを握り締めて自分の膝に押し付ける。速水はただ僕を見ていた。心配しているような、困惑しているような、なにも考えていないような、よく分からない視線が苦しい。
「なにも言わなかったのはお前だったから僕は距離を取ったのに、僕が話しかけたら今まで通りです、みたいな顔してさ……。話してくれるのは嬉しいよ。今日も、話してくれたのは嬉しかったけど」
目が滲む。声が震えて、鼻をすする音が混ざった。
「あの時驚かせたかもしれないし、困らせたり、嫌な思いをさせたりしたかもしれないけど、それでも伝えたいって思ったから僕は伝えたんだよ」
喉が、胸が、ぎゅうと痛んだ。もうなにを言っても意味がないと、脳が警鐘を鳴らす。これ以上傷つく必要なんかないと、理性に諭されている感覚がする。
それでも痛みの塊は大きく育っていて、言葉に変わって出ようとする。
「僕はお前のこと親友として、戦友として好きだし大事な仲間だと思ってたから、好きだって伝えたんだよ」
二度と言わないように気を付けていた言葉が、自然と口をついて出た。速水のことは好きだった。だった、というより、今も変わらず速水七瀬という人間に好意がある。
九歳の頃から七年以上もピアノを一緒に弾いて、放課後はほぼ毎日一緒に過ごしていた。速水と過ごしていた思い出ばかりが僕の中にある。友達として、かけがえのない親友として大事で、大切で、好きだった。
「一緒にピアノをひって、また明日って言い合ってるだけで楽しかったんだ。その時間が大切で、なによりも好きだった。お前の傍にいれることがただ嬉しくて、ずっとこのまま親友でいたいって思ってたんだよ」
視界が歪んでいる。もう速水の視線も分からない。
「だから」
声が震えた。
「だから、僕はあの日好きだって伝えたんだ」
唇が震えてしまう。なかったことにされたあの日の言葉が、心が、思い出される。悔しくて、苦しくて、言葉にできないほど悲しかった。
「ずっとなにも、言わなかったくせに、今更、昔みたいに、親友ヅラしないでくれよ」
嗚咽が混じりそうになるのを、必死に之い混む。数えきれないほど心に蓋をしてきた感情。重たい蓋を占めて、何重にも鍵をかけて、見ない振りをしてきた思い出が溢れて止まらない。鍵はもう壊れてしまった。
「せめて、なんか言ってくれてたら、速水がちゃんと言ってくれたら、僕はまだ親友としていられたのかなって、思うよ。お互い、暇なときにピアノ弾いたり、遊んだりとか。連弾だって、もっと早く相談しにいけたかもしれない」
速水は、まだ言葉を発さなかった。ただ僕を見ていることだけが分かる。なにかを言おうとして、でも言葉にならないまま、速水は開きかけた口を閉じた。申し訳なさそうにする表情に、苛立ちを覚える。
「そんな顔しないでよ。待ってればお前から、いつか、なんでもいいから返事があるのかなって期待してた。僕が間違ってたんだ。速水にとっては、もう過ぎたことなんだろうしな」
口が止められない。
「でもさ、まさか、こんなに惨めな気持ちになるとか……」
やっと、言葉が、途切れた。もう心はすっかり透けて空っぽになってしまっていた。
「僕なにしてんだろ」
もれた独白は、自嘲にも似ていた。
速水の前で、一方的に思いをぶつけて泣くような姿を見せたくなかった。責め立てたかったわけでもない。ただ、短くていいから、言葉をもらいたかった。わだかまりつづけているあの日を、きれいな思い出として終わらせるために。
「ごめん。速水」
目頭を拭う余裕はなかった。
静かに僕は立ち上がる。飲みかけのペットボトルを持ったまま、明るい電灯の下から逃げ出す。自転車のロックを外す音が、やけに大きく響いた。速水は僕の背中になにも言わない。
ペダルを踏む。チェーンが軽い音を立てる。ハンドルを、きつく握った。夜の風が、少しだけあたたかなそれが、涙の痕を撫でていく。
大きな牙が、僕の心と、僕たちの仲を引き裂いた。深く深く傷を残して、ぽっかりと暗い穴が開く。夜風がそっと心の穴を抜けていく。

