暁乃が水を呷った瞬間、古い記憶が次々と頭の中に流れ込むように入ってきた。
(あの人ってわたし……!? で、でも髪色が違うわ)
暁乃の視線の先には、波打つようなふわりとした青色の髪が特徴的な女性が立っている。
彼女と暁乃は髪色は違えど顔はうりふたつだった。
眷属たちから『蒼乃』と呼ばれるたびにまるで大輪の花を咲かせたような笑みを浮かべている。
そしていつも隣にいるのは龍神の白蓮だった。
二人は手をつなぎ、肩を寄せ合い、ときには口づけを交わしあって幸せに満ち溢れていた。
『お前だけを永遠に愛すると誓うよ。俺の花嫁──』
その言葉を聞いて嬉しそうに頬を染めた蒼乃は想いに応えるかのように白蓮の背中に手を回す。
(あのお二人は夫婦だったのね。それなら尚更、似ているとはいえ、どうしてわたしに優しくしてくださるの? 蒼乃さんの面影を重ねているのかしら……)
そこで描写が変わり、急に辺りに嵐が吹き荒れる。
強い雨風が希望に満ちた記憶を消し去り、代わりに現れたのは、とても悲しくつらい記憶だった。
『蒼乃さま!地上に妖魔の大群が押し寄せています!』
『それに一部の妖魔が水聖の存在に気がついてこちらに向かってきています!』
『白蓮さまが天界に赴いている隙を狙って襲撃してくるなんて……』
『皆、落ち着いて。まずは白蓮に連絡を。澪、お願いできる?』
『はい!すぐに行ってまいります!』
少女は大きく頷くと勢いよく駆けだしていった。
そして蒼乃は集まった大勢の眷属たちを見渡す。
不安のあまり涙を浮かべる者、唇を噛んで悔しそうに表情を歪める者、慌てふためく者……。
混乱した状況を断ち切るように彼女は力強く、凛とした声を響かせた。
『大丈夫よ、皆。必ず貴方たちはわたしが守るわ』
『蒼乃さま……』
落ち着きを取り戻していく。
『わたしは祈りの間に行って地上の巫女たちに力を与える。皆は結界の強化をしてもらいたいの』
『かしこまりました!』
蒼乃の指示を受けて眷属たちは一斉にその場から散っていく。
(白蓮が戻ってくる間、何とかしてこの状況を食い止めないと)
龍神である白蓮の方が水の女神である蒼乃よりも力がある。
それに妖魔との実践経験が多いのも彼だ。
戦えないわけではないが、どちらかといえば補佐を主にしていたので、今回は難しい対決になるだろう。
だからといって何もせずに逃げるという選択肢は最初からない。
蒼乃は覚悟を決めると祈りの間へと急ぐのだった。
*
(聖なる力を地上の人々に──)
祭壇の前に立った蒼乃は胸の前で両手を組み、祈りを捧げる。
すると辺りが柔らかい光に包まれ、その煌めきが舞い上がっていく。
これが地上で妖魔と戦う神力者や巫女たちに届けば対抗する力となり、争いも鎮静化するだろう。
(次は結界の外の様子を見に行かないと)
水聖は強固な結界で守られているとはいえ、妖魔は日に日に脅威を増しているのだ。
それが大群で襲ってくるのならば油断はできない。
眷属たちが結界を守ってくれているうちに、こちらに向かってきている妖魔を退治するのが今出来る最善の策だ。
蒼乃は覚悟を決めると祈りの間を出て、ふわりと空へと飛び立った。
水聖は水中に存在する場所。
しかし、その周辺は特別な術がかけられていて地上の世界と同じような天候だ。
空を飛んでいる蒼乃は青空に浮かぶ雲と雲のすき間を抜ける。
そして一時的な解術をすると巨大な結界が現れた。
「蒼乃さま!妖魔の元へ行くのならわたくしもお供いたします!」
「貴女さまはこの世界になくてはならない御方なのです。もし何か危険な目にあったら……」
眷属たちが結界の強化を行いながら外へ出ようとする蒼乃を心配そうに見ている。
確かに白蓮が天界から帰ってくる間、水聖を内側から守るという策もあるが、凶暴になり続ける妖魔を途中で食い止めなければ、一気にすべてが終わる。
たとえ自分が滅んでも白蓮や眷属たちが生き残れば水聖と地上の未来はある。
蒼乃はもう分かっていた。
大丈夫と言っているが本当は一人で結界の外に出れば無事では済まないことを。
「それは皆も同じよ。わたしや白蓮にとって貴方たちは家族も同然。水の女神として妖魔と戦い、守護する責任がある。だからこそ大切な宝物には絶対、指一本触れさせないわ」
たとえこれが永遠の別れだとしても。
溢れ出しそうになる悲しみを表情に出して悟られないように必死に堪える。
出来る限り口角を上げて笑みを作ると背を向けた。
「……ごめんね、皆」
絞り出すような震える小さな声は誰にも届かずに風にのって消えていく。
結界の外へ行けるのは水の女神の蒼乃や龍神の白蓮といった神のみ。
眷属たちの制止を振り切り、蒼乃は妖魔の元へと急いだのだった。
*
しばらく進むと視線の先に妖魔の大群が見える。
(思っていたより数が多いわ)
妖魔を見るのは初めてではない。
以前もこうして奇襲をしかけてきて白蓮と共に祓ったことがある。
しかし今回はその時よりも数が倍以上いて思わずたじろいでしまった。
様子をうかがっているとこちらに気がついた妖魔と目が合う。
(いけない、怯んでいる場合ではないわ)
辺りを見渡せば瘴気の影響なのか水が黒く濁り始めており、このまま放置してしまえば多くの生物にまで危害を及ぼしてしまう。
そして妖魔たちは標的を蒼乃へと定めると一気に遅いかかってくる。
せめて白蓮が戻ってくる間は何としてでもここを食い止めなければ。
──たとえこの身が滅んだとしても。
「ここから先には行かせない!」
ばっと勢いよく両手を前にかざすと眩い光が溢れ、一面に広がっていき、その浄化の光に当たった妖魔たちは次々に霧散していく。
この力は神だけが行使出来る特別なもので龍神である白蓮よりは劣るが女神の中では蒼乃は抜き出ていた。
しかし日に日に脅威を増している妖魔はそう簡単には消えてくれやしない。
一体霧散したかと思えば次から次に新たな姿を現す。
そこに加えてあちらからの攻撃も受け続ける最悪の状況だ。
これでは力の限界を迎えてしまうのも時間の問題。
(せめて時間稼ぎくらいは……)
だがその思いも虚しく蒼乃から放たれる光は徐々に弱まっていく。
その隙を狙って数体の妖魔が横をすり抜けていくのが視界の端に映った。
(駄目っ!)
白蓮の気配はまだ感じない。
ということはまだ人間界に帰ってきていない証拠だ。
ここを突破されてしまえば水聖を守る結界が壊され、すぐに妖魔たちに支配されるだろう。
そんな想像をした瞬間、蒼乃の脳裏には走馬灯が過り始めた。
──龍神と水の女神、そしてその眷属が生きる水聖の地。
──人間が暮らす豊かで平和な地上の世界、玉水。
何千年もの長い時で守り、築いてきた大切な場所を今ここで失うわけにはいかなかった。
蒼乃は目を瞑り、身体に宿るすべての力を放出させた。
妖魔たちの悲鳴が聞こえ、目を開けると大群のほとんどが霧散し、残っているのは数体のみ。
あれくらいならばここを突破されても結界は破られないだろう。
しかしそれさえも対処出来るほどの力は蒼乃にもう残されていなかった。
急激な息切れを起こし、違和感をおぼえれば、自分の身体が半透明になり消えかかっている。
そして指先から徐々に泡となりそれは水と一体となる。
蒼乃は驚きはしなかった。
限界を越えた力をすべて使うということはすなわち身を滅ぼすということ。
(……これで良かったの。大切な人たちと場所を守れれば悔いはないわ)
脳裏に走馬灯が走ると一筋の涙が頬を伝う。
もう全身が鉛のように重く、一歩も動けなかった。
(ごめんなさい、白蓮。何も言わずにいなくなったりして……)
目を瞑り、このまま身を委ね始めると──。
「蒼乃!」
突如、頭上から男性のこちらを呼ぶ声が聞こえ、ふっと顔を上げる。
そこにいたのは愛しい旦那さま──白蓮だった。
端正な顔には汗を滲ませ、目を見開く表情から、辺りに広がる状況に動揺しているようだ。
「白蓮……!」
蒼乃も駆け寄りたくなったが足がその場に固定されてしまったかのように動かないので腕を必死に伸ばす。
そして白蓮は彼女の白く細い手をしっかりと両手で取った。
「遅くなってしまった、すまない」
「そんなことないわ。それに必ず帰ってきてくれるって信じていたもの」
「俺が不在だったせいでその姿に……。今すぐ、龍神の力を分け与えて戻すから」
白蓮が手をかざすと眩い光に蒼乃は包まれる。
しかしいくら待っても彼女の身体は元に戻ることはなかった。
もう少し到着が早ければ彼の力で復活出来たのかもしれない。
しかしときすでに遅く、器である身体が壊れ始めているので、どれだけ注ぎ込もうとも元通りは不可能なのだ。
蒼乃は現在もなお、続けようとする白蓮の手にそっと優しく触れて押し返した。
「蒼乃?」
「ありがとう、白蓮。でも、もういいの」
「そんな悲しいことを言うな。あと少し続ければ必ず元に──」
「最高神である貴方の力をもってさえも、この段階で身体は治ってはいない。それに少しずつわたしの体力も失っていくのを感じる。……もうそろそろお別れの時間みたい」
「諦めるな!」
「っ!」
蒼乃は初めて目にした。
普段は穏やかな白蓮が怒りを露わにする姿を。
「俺は絶対に許さない。お前が死ぬことも、お前を一人で妖魔と戦わせた俺自身も」
離れた手が再びきつく握りしめられ力を分け与えられるが、その強い思いも虚しく身体は消えていくばかり。
「そんなに自分を責めないで。こうなってしまったのは全部わたしの判断が招いた結果。もっとわたしが強ければ貴方や皆を残して死ぬことはなかった」
「嫌だ、お前がいない世界だなんて!お前が隣にいなければ生きている意味などない!」
「白蓮。わたしたちはたとえ離ればなれでも気持ちはずっと繋がっているわ。いつか運命が巡ったらまたきっと……」
手を握っていた感覚もなくなって、視界が歪み始める。
白蓮は手を伸ばすが身体のほとんどが泡となり消えている蒼乃に触れることはかなわなかった。
「蒼乃!」
「愛しているわ、白蓮」
そして泡となった彼女は天へと昇っていったのだった。
*
「はじめまして、暁乃さん」
気がつけば今まで見ていた光景はがらりと変わり、雲一つない澄み切った青空の下、暁乃は水面の上に立っていた。
そして目の前には先ほどの青い髪色が美しい女性。
「貴方は……蒼乃さん」
女神の力を極限まで行使して泡となって消えてしまったはずの蒼乃がそこにいた。
どうしてここに、と疑問が浮かんだがこの世界は神秘に溢れている。
これはそれらの一つに過ぎないのだと不思議と自然と受け入れられた。
「もう薄々勘づいているかもしれないけれど、わたしは貴女の前世の存在、水の女神、蒼乃よ。そして今の暁乃さんは水聖に祝福をもたらす伝説の金魚姫」
「金魚姫……?」
暁乃は意味が分からず首を傾げると蒼乃はこくりと頷いた。
「わたしは生前、水聖を守護する役目を担っていたの。でも死んでしまったあとは龍神である白蓮がその務めを引き継ぐことになる。もちろん彼の力は信じていたけれど、きっとしばらくはわたしを失った喪失感に苛まれる。そうなれば水聖を守るのに支障をきたすかもしれない。だから完全に消える直前に別の存在として生まれ変わることを決めたの」
「それがわたし……」
「ええ。その暁色の髪色がその証拠。わたしの予想通り、悲しみに暮れてしまった白蓮は龍宮に閉じこもってしまって務めを行うのがままならなかった。水聖は昔より酷く荒れてしまってそれは地上にも影響が出ているの」
「だから最近、妖魔が出現しやすくなって生贄の存在が必要だった、ということですね」
「本当にごめんなさい。貴方につらい思いをさせてしまって。その髪色のせいで家族から酷い扱いを受けていたのでしょう? 水聖や地上を守るためとはいえ、大変な役目を受け継がせてしまったわ」
蒼乃は申し訳なさそうに表情を歪め、目を伏せた。
罪悪感のあまり暁乃をまっすぐに見られないのだろう。
真相が明らかになったが何故か怒りは湧かなかった。
逆にその姿に心が切なくなって気がつけば手を伸ばし、謝る彼女を抱き締めていた。
「……暁乃さん?」
不思議そうに訊ねる蒼乃の背中に両手を回したまま浮かんだ想いを一つ一つ丁寧に紡いで言葉へと変えた。
「確かにつらくて悲しい思いはたくさんしてきました。このまま消えてしまいたいと願うほどに……。でもこの髪色は誇って良いのだと貴方の記憶を見て知ることが出来ました。とても優しい蒼乃さんが残してくれた大切な宝物なんだと」
「こんなわたしを許してくれるの?」
「許すも何も初めから怒っていませんよ。わたし、貴方のように強くなれるか分からないけれど自分に出来ることを探して頑張ってみようと思います」
「大丈夫、きっと暁乃さんなら出来るわ。異界の水を飲んだ貴女は眠っていた本来の力を目覚めさせたはず。ずっと見守っているわ。……ありがとう、本当にありがとう」
そして蒼乃は涙を流しながら煌めく光の粒となって消えていったのだった。
(あの人ってわたし……!? で、でも髪色が違うわ)
暁乃の視線の先には、波打つようなふわりとした青色の髪が特徴的な女性が立っている。
彼女と暁乃は髪色は違えど顔はうりふたつだった。
眷属たちから『蒼乃』と呼ばれるたびにまるで大輪の花を咲かせたような笑みを浮かべている。
そしていつも隣にいるのは龍神の白蓮だった。
二人は手をつなぎ、肩を寄せ合い、ときには口づけを交わしあって幸せに満ち溢れていた。
『お前だけを永遠に愛すると誓うよ。俺の花嫁──』
その言葉を聞いて嬉しそうに頬を染めた蒼乃は想いに応えるかのように白蓮の背中に手を回す。
(あのお二人は夫婦だったのね。それなら尚更、似ているとはいえ、どうしてわたしに優しくしてくださるの? 蒼乃さんの面影を重ねているのかしら……)
そこで描写が変わり、急に辺りに嵐が吹き荒れる。
強い雨風が希望に満ちた記憶を消し去り、代わりに現れたのは、とても悲しくつらい記憶だった。
『蒼乃さま!地上に妖魔の大群が押し寄せています!』
『それに一部の妖魔が水聖の存在に気がついてこちらに向かってきています!』
『白蓮さまが天界に赴いている隙を狙って襲撃してくるなんて……』
『皆、落ち着いて。まずは白蓮に連絡を。澪、お願いできる?』
『はい!すぐに行ってまいります!』
少女は大きく頷くと勢いよく駆けだしていった。
そして蒼乃は集まった大勢の眷属たちを見渡す。
不安のあまり涙を浮かべる者、唇を噛んで悔しそうに表情を歪める者、慌てふためく者……。
混乱した状況を断ち切るように彼女は力強く、凛とした声を響かせた。
『大丈夫よ、皆。必ず貴方たちはわたしが守るわ』
『蒼乃さま……』
落ち着きを取り戻していく。
『わたしは祈りの間に行って地上の巫女たちに力を与える。皆は結界の強化をしてもらいたいの』
『かしこまりました!』
蒼乃の指示を受けて眷属たちは一斉にその場から散っていく。
(白蓮が戻ってくる間、何とかしてこの状況を食い止めないと)
龍神である白蓮の方が水の女神である蒼乃よりも力がある。
それに妖魔との実践経験が多いのも彼だ。
戦えないわけではないが、どちらかといえば補佐を主にしていたので、今回は難しい対決になるだろう。
だからといって何もせずに逃げるという選択肢は最初からない。
蒼乃は覚悟を決めると祈りの間へと急ぐのだった。
*
(聖なる力を地上の人々に──)
祭壇の前に立った蒼乃は胸の前で両手を組み、祈りを捧げる。
すると辺りが柔らかい光に包まれ、その煌めきが舞い上がっていく。
これが地上で妖魔と戦う神力者や巫女たちに届けば対抗する力となり、争いも鎮静化するだろう。
(次は結界の外の様子を見に行かないと)
水聖は強固な結界で守られているとはいえ、妖魔は日に日に脅威を増しているのだ。
それが大群で襲ってくるのならば油断はできない。
眷属たちが結界を守ってくれているうちに、こちらに向かってきている妖魔を退治するのが今出来る最善の策だ。
蒼乃は覚悟を決めると祈りの間を出て、ふわりと空へと飛び立った。
水聖は水中に存在する場所。
しかし、その周辺は特別な術がかけられていて地上の世界と同じような天候だ。
空を飛んでいる蒼乃は青空に浮かぶ雲と雲のすき間を抜ける。
そして一時的な解術をすると巨大な結界が現れた。
「蒼乃さま!妖魔の元へ行くのならわたくしもお供いたします!」
「貴女さまはこの世界になくてはならない御方なのです。もし何か危険な目にあったら……」
眷属たちが結界の強化を行いながら外へ出ようとする蒼乃を心配そうに見ている。
確かに白蓮が天界から帰ってくる間、水聖を内側から守るという策もあるが、凶暴になり続ける妖魔を途中で食い止めなければ、一気にすべてが終わる。
たとえ自分が滅んでも白蓮や眷属たちが生き残れば水聖と地上の未来はある。
蒼乃はもう分かっていた。
大丈夫と言っているが本当は一人で結界の外に出れば無事では済まないことを。
「それは皆も同じよ。わたしや白蓮にとって貴方たちは家族も同然。水の女神として妖魔と戦い、守護する責任がある。だからこそ大切な宝物には絶対、指一本触れさせないわ」
たとえこれが永遠の別れだとしても。
溢れ出しそうになる悲しみを表情に出して悟られないように必死に堪える。
出来る限り口角を上げて笑みを作ると背を向けた。
「……ごめんね、皆」
絞り出すような震える小さな声は誰にも届かずに風にのって消えていく。
結界の外へ行けるのは水の女神の蒼乃や龍神の白蓮といった神のみ。
眷属たちの制止を振り切り、蒼乃は妖魔の元へと急いだのだった。
*
しばらく進むと視線の先に妖魔の大群が見える。
(思っていたより数が多いわ)
妖魔を見るのは初めてではない。
以前もこうして奇襲をしかけてきて白蓮と共に祓ったことがある。
しかし今回はその時よりも数が倍以上いて思わずたじろいでしまった。
様子をうかがっているとこちらに気がついた妖魔と目が合う。
(いけない、怯んでいる場合ではないわ)
辺りを見渡せば瘴気の影響なのか水が黒く濁り始めており、このまま放置してしまえば多くの生物にまで危害を及ぼしてしまう。
そして妖魔たちは標的を蒼乃へと定めると一気に遅いかかってくる。
せめて白蓮が戻ってくる間は何としてでもここを食い止めなければ。
──たとえこの身が滅んだとしても。
「ここから先には行かせない!」
ばっと勢いよく両手を前にかざすと眩い光が溢れ、一面に広がっていき、その浄化の光に当たった妖魔たちは次々に霧散していく。
この力は神だけが行使出来る特別なもので龍神である白蓮よりは劣るが女神の中では蒼乃は抜き出ていた。
しかし日に日に脅威を増している妖魔はそう簡単には消えてくれやしない。
一体霧散したかと思えば次から次に新たな姿を現す。
そこに加えてあちらからの攻撃も受け続ける最悪の状況だ。
これでは力の限界を迎えてしまうのも時間の問題。
(せめて時間稼ぎくらいは……)
だがその思いも虚しく蒼乃から放たれる光は徐々に弱まっていく。
その隙を狙って数体の妖魔が横をすり抜けていくのが視界の端に映った。
(駄目っ!)
白蓮の気配はまだ感じない。
ということはまだ人間界に帰ってきていない証拠だ。
ここを突破されてしまえば水聖を守る結界が壊され、すぐに妖魔たちに支配されるだろう。
そんな想像をした瞬間、蒼乃の脳裏には走馬灯が過り始めた。
──龍神と水の女神、そしてその眷属が生きる水聖の地。
──人間が暮らす豊かで平和な地上の世界、玉水。
何千年もの長い時で守り、築いてきた大切な場所を今ここで失うわけにはいかなかった。
蒼乃は目を瞑り、身体に宿るすべての力を放出させた。
妖魔たちの悲鳴が聞こえ、目を開けると大群のほとんどが霧散し、残っているのは数体のみ。
あれくらいならばここを突破されても結界は破られないだろう。
しかしそれさえも対処出来るほどの力は蒼乃にもう残されていなかった。
急激な息切れを起こし、違和感をおぼえれば、自分の身体が半透明になり消えかかっている。
そして指先から徐々に泡となりそれは水と一体となる。
蒼乃は驚きはしなかった。
限界を越えた力をすべて使うということはすなわち身を滅ぼすということ。
(……これで良かったの。大切な人たちと場所を守れれば悔いはないわ)
脳裏に走馬灯が走ると一筋の涙が頬を伝う。
もう全身が鉛のように重く、一歩も動けなかった。
(ごめんなさい、白蓮。何も言わずにいなくなったりして……)
目を瞑り、このまま身を委ね始めると──。
「蒼乃!」
突如、頭上から男性のこちらを呼ぶ声が聞こえ、ふっと顔を上げる。
そこにいたのは愛しい旦那さま──白蓮だった。
端正な顔には汗を滲ませ、目を見開く表情から、辺りに広がる状況に動揺しているようだ。
「白蓮……!」
蒼乃も駆け寄りたくなったが足がその場に固定されてしまったかのように動かないので腕を必死に伸ばす。
そして白蓮は彼女の白く細い手をしっかりと両手で取った。
「遅くなってしまった、すまない」
「そんなことないわ。それに必ず帰ってきてくれるって信じていたもの」
「俺が不在だったせいでその姿に……。今すぐ、龍神の力を分け与えて戻すから」
白蓮が手をかざすと眩い光に蒼乃は包まれる。
しかしいくら待っても彼女の身体は元に戻ることはなかった。
もう少し到着が早ければ彼の力で復活出来たのかもしれない。
しかしときすでに遅く、器である身体が壊れ始めているので、どれだけ注ぎ込もうとも元通りは不可能なのだ。
蒼乃は現在もなお、続けようとする白蓮の手にそっと優しく触れて押し返した。
「蒼乃?」
「ありがとう、白蓮。でも、もういいの」
「そんな悲しいことを言うな。あと少し続ければ必ず元に──」
「最高神である貴方の力をもってさえも、この段階で身体は治ってはいない。それに少しずつわたしの体力も失っていくのを感じる。……もうそろそろお別れの時間みたい」
「諦めるな!」
「っ!」
蒼乃は初めて目にした。
普段は穏やかな白蓮が怒りを露わにする姿を。
「俺は絶対に許さない。お前が死ぬことも、お前を一人で妖魔と戦わせた俺自身も」
離れた手が再びきつく握りしめられ力を分け与えられるが、その強い思いも虚しく身体は消えていくばかり。
「そんなに自分を責めないで。こうなってしまったのは全部わたしの判断が招いた結果。もっとわたしが強ければ貴方や皆を残して死ぬことはなかった」
「嫌だ、お前がいない世界だなんて!お前が隣にいなければ生きている意味などない!」
「白蓮。わたしたちはたとえ離ればなれでも気持ちはずっと繋がっているわ。いつか運命が巡ったらまたきっと……」
手を握っていた感覚もなくなって、視界が歪み始める。
白蓮は手を伸ばすが身体のほとんどが泡となり消えている蒼乃に触れることはかなわなかった。
「蒼乃!」
「愛しているわ、白蓮」
そして泡となった彼女は天へと昇っていったのだった。
*
「はじめまして、暁乃さん」
気がつけば今まで見ていた光景はがらりと変わり、雲一つない澄み切った青空の下、暁乃は水面の上に立っていた。
そして目の前には先ほどの青い髪色が美しい女性。
「貴方は……蒼乃さん」
女神の力を極限まで行使して泡となって消えてしまったはずの蒼乃がそこにいた。
どうしてここに、と疑問が浮かんだがこの世界は神秘に溢れている。
これはそれらの一つに過ぎないのだと不思議と自然と受け入れられた。
「もう薄々勘づいているかもしれないけれど、わたしは貴女の前世の存在、水の女神、蒼乃よ。そして今の暁乃さんは水聖に祝福をもたらす伝説の金魚姫」
「金魚姫……?」
暁乃は意味が分からず首を傾げると蒼乃はこくりと頷いた。
「わたしは生前、水聖を守護する役目を担っていたの。でも死んでしまったあとは龍神である白蓮がその務めを引き継ぐことになる。もちろん彼の力は信じていたけれど、きっとしばらくはわたしを失った喪失感に苛まれる。そうなれば水聖を守るのに支障をきたすかもしれない。だから完全に消える直前に別の存在として生まれ変わることを決めたの」
「それがわたし……」
「ええ。その暁色の髪色がその証拠。わたしの予想通り、悲しみに暮れてしまった白蓮は龍宮に閉じこもってしまって務めを行うのがままならなかった。水聖は昔より酷く荒れてしまってそれは地上にも影響が出ているの」
「だから最近、妖魔が出現しやすくなって生贄の存在が必要だった、ということですね」
「本当にごめんなさい。貴方につらい思いをさせてしまって。その髪色のせいで家族から酷い扱いを受けていたのでしょう? 水聖や地上を守るためとはいえ、大変な役目を受け継がせてしまったわ」
蒼乃は申し訳なさそうに表情を歪め、目を伏せた。
罪悪感のあまり暁乃をまっすぐに見られないのだろう。
真相が明らかになったが何故か怒りは湧かなかった。
逆にその姿に心が切なくなって気がつけば手を伸ばし、謝る彼女を抱き締めていた。
「……暁乃さん?」
不思議そうに訊ねる蒼乃の背中に両手を回したまま浮かんだ想いを一つ一つ丁寧に紡いで言葉へと変えた。
「確かにつらくて悲しい思いはたくさんしてきました。このまま消えてしまいたいと願うほどに……。でもこの髪色は誇って良いのだと貴方の記憶を見て知ることが出来ました。とても優しい蒼乃さんが残してくれた大切な宝物なんだと」
「こんなわたしを許してくれるの?」
「許すも何も初めから怒っていませんよ。わたし、貴方のように強くなれるか分からないけれど自分に出来ることを探して頑張ってみようと思います」
「大丈夫、きっと暁乃さんなら出来るわ。異界の水を飲んだ貴女は眠っていた本来の力を目覚めさせたはず。ずっと見守っているわ。……ありがとう、本当にありがとう」
そして蒼乃は涙を流しながら煌めく光の粒となって消えていったのだった。


