翌日。

 暁乃は朝食を済ませると父から渡された生贄用の着物に着替えていた。

 こうして朝から何かを口に出来るのはかなり珍しい。
 
 父は龍神さまに不味いものは捧げられないと、まるで料亭のような食事を使用人たちに用意させたのだ。

 残さずに全部食べろと言われ、小食な暁乃にとっては苦労し、今はお腹がはち切れてしまいそう。

 何とか完食はしたが、予定の時間よりも遅くなってしまったので父は若干、機嫌が悪い。

 着付けが終わり、襖を開けると待っていた母と妹の彩佳がこちらに気づく。

 二人は雪のように白い肌を真っ青にさせ憂いを帯びている姉を心配するそぶりなど一切見せることはない。

 そして胸の前でぱんっと両手を合わせると花が満開に咲いたかのように顔をほころばせた。

 「まあ、とっても素敵よ。彩佳には遠く及ばないけれど」

 「お姉さまは白がよく似合うわ。その気味の悪い赤髪がよく映えるもの」

 もうどれだけ悪口を吐き捨てられようが、どうでもよかった。

 深く抉るように傷つかれようとも、どうせ数時間後には自分は死んでしまうのだから。

 「そろそろ出発の時間だ」

 「はーい、お父さま」

 「もう、そんな時間なのね。龍神さまをお待たせさせるわけにはいかないわ。すぐそちらに参りますね」

 弾むような明るい声色で返事をすると呼びにきた父のあとを追っていく。

 家族がこれから死ぬというのに、まるで百貨店に買い物でも行くかのような雰囲気だ。

 ぽつんと一人、廊下に残された暁乃。

 (あと少しの辛抱よ、波音暁乃。もう少し我慢すれば楽になれるわ)

 頭の中で何度も自分に言い聞かせる。

 そして恐怖と悲しみに暮れながらも、ゆっくりと歩き出したのだった。

          *

 玉水の町の北の方角に巨大な滝がある。

 そこの滝壺の奥底に龍神が住んでいると言い伝えられており、暁乃は到着次第、上から突き落とされる予定だ。

 生贄を差し出したところで本当に妖魔の大量発生が治まるかは分からない。

 何百年も前に暁乃と同じく、一人の娘が生贄となったことで妖魔問題は解消されたらしい。

 どうやら、その言い伝えが書かれている古い書物を会議に参加した男が見つけ、それでもう一度、生贄制度を復活させようと父が先導をきって決定したようだ。

 (誰を選出するか議論することなくすぐに決められたようだし、それほどわたしの命は軽く見られているのね)

 自動車に乗り、後方へ流れていく景色を窓からぼんやりと眺める。

 生まれてからずっと屋敷に閉じ込められていたので暁乃にとっては初めての外だ。

 雲一つない青空も色鮮やかな花々もすべてが新鮮のはずなのにこれから死ぬ彼女にとってはもうどうでも良かった。

 (……こんなにも外の世界が眩しかったなんて)

 降りそそぐ日差しが容赦なく暁乃に襲いかかる。

 ただでさえ少ない体力だというのに、外に慣れていないからか、どんどん奪われていく。

 改めて日の当たる明るい場所より暗い日陰の方がお似合いだと実感してしまった。

 窓から外の景色を見るのはやめて視線を車内へ戻す。

 そして目を瞑り、自ら暗闇の中に入り込んだのだった。

          *

 「降りろ」

 「……はい」

 同じ自動車に乗っていた父は暁乃にぶっきらぼうにそう命じるとすぐに外へと出る。

 目的地が滝の上ということもあって、町中からここまで来るのにかなりの時間を必要とした。

 さすがに崖付近まで自動車を走らせるのは危険だと判断したのだろう。

 やや離れた広い場所に止め、そこから先は歩いていくようだ。

 よほど早く用件を終わらせたいのか、三人は暁乃を気遣うことなく、前へ前へと進んでいく。

 そして息を切らしながらしばらく行くと生い茂っていた草木から視界が開ける。

 (なんて大きな滝なの……)

 自動車を降りたときから微かに聞こえていたが近くに立つと分かる。

 辺りに響く、人の声もかき消されるような水の轟音。

 昨夜に雨が降ったせいか想像していたより水量が多く、落ちる勢いが凄まじい。

 ここから落ちてしまえば、まず命は無いのはすぐに分かった。

 「暁乃、こちらに来るんだ」

 崖の先端に行けば行くほど足場が狭くなっており、体勢を崩せば滝壺へ真っ逆さまだ。

 そしてあと一歩踏み出せば落下してしまう位置まで進むと一度、その場で止まった。

 すぐ背後に父が、その後ろに彩佳と母が立つ。

 たとえ今、この状況を変えようと足掻いたとしても、もう逃げ場はない。

 「喜べ、暁乃。無能なお前がようやく波音家の役に立つ日がきたんだ。命をかけて己の義務を果たせ」

 「お姉さまがいなくなるなんてわたくし、とても寂しいわ。でもこれはすべて妖魔問題のため……。死ぬまで苦しいと思うけれど頑張ってくださいね」

 「貴女の犠牲は決して無駄にしないわ。その分、わたくしたちがうんと幸せになるから安心してちょうだい」

 彩佳と母のいかにもわざとらしい嘆き。

 邪魔者が消えて清々するのだろう。

 隠し切れていない喜びがばれてしまっている。

 「何も言い残すことはないな、暁乃」

 「……はい」

 今さら意思を示したところで生贄になることに変わりはない。

 暁乃が頷いたのを確認すると、父がじりっとこちらに近づく。

 ついに時が来たのだと察して三人に背を向ける。

 「ねぇ、お父さま。わたくしがお姉さまを突き落としてもいい?」

 「ああ、別に構わないが」

 最後の最後までどれだけ姉を不幸を味あわせれば気が済むのだろう。

 二人の会話が気になって、ちらりと後ろを見ると父と入れ替わった彩佳がすぐ傍に立っていた。

 目が合ってにやりと笑った瞬間、勢いよく両手が伸ばされる。

 「さよなら、可哀想なお姉さま」

 「っ!」

 背中を強く押されて身体がぐらりと傾き、そして一気に真下の滝壺へと落下していく。

 感じたことのない体感に何も考えられず、ただこのまま身を任せることしか出来ない。

 そして水面で衝撃を受けると、深く暗い底へと沈んでいくのだった。

          *

 「──乃」

 (……誰?)

 ゆっくりと目を開けると暁乃は横たわっていて、すぐ近くで誰かがこちらを覗き込んでいる。

 しかし瞼が重たい上に視界がぼやけていた暁乃は男性の声であることは分かったけれど、その主までは特定出来なかった。

 「蒼乃」

 (あお、の……? 違う、わたしは)

 自分ではない女性の名前を呼ばれ、心の中で否定した瞬間、睡魔に襲われて再び深い眠りについたのだった。

          *

 少しだけ瞼が軽くなって、暁乃は長い眠りからようやく目を覚ました。

 視界に入るのは木目調の天井。

 しかし、普段過ごしている自分の部屋のものではない。

 (ここはどこ……?)

 起き上がりたくても身体が鉛のように重く、横たわったまま視線を動かすことしか出来ない。

 思考もぼんやりとしていて長時間、眠っていたことは分かった。

 どれくらい眠っていたのだろう。

 いや、もしくは気絶したか実際はここは天国で死んでしまったか──。

 (わたし、あれからどうなったの……?)

 彩佳に崖から突き落とされて落下し、水面に身体を打ちつけてから記憶がない。

 目を覚ましてから時間が経過したこともあって、少しずつ霞んだ視界が晴れてきた。

 よく考えれば、もし死んでいるのだとしたら、この状況はおかしい。

 この身体の怠さが生きている証拠なのかもしれないと暁乃は心底、残念がった。

 あれから自分がどうなってしまったのか、まったく分からず、目を閉じて深くため息をついた。

 「蒼乃、目を覚ましたか」

 「……っ!?」

 襖が開く音がして視線を動かすと、部屋の入り口に一人の男性が立っていた。

 絹のような煌めく銀髪に、宝石のような紺青色の瞳。

 シミ一つない陶器のような肌と色香漂う薄い唇、すらりとした高い身長。

 見たこともない美丈夫に気がつけば暁乃は釘付けになっていた。

 (なんて美しい殿方なの……)

 返事もせず、ぼうっとしている暁乃が心配になったのか、美しい男は眉を八の字にさせた。

 「蒼乃? どうした、気分でも悪いのか」

 「えっ? あ、いや……」

 しまった、初対面の相手なのに見すぎていたと慌てて目を逸らす。

 それに自分は『蒼乃』という女性ではない。

 勘違いしている彼に早く説明しなくてはと意を決して口を開いた。

 「あの貴方さまがわたしを助けてくださったのですか? それにこの場所は一体……」

 男は不安そうにしている暁乃を安心させるように優しく微笑むとすぐ傍に腰かけた。

 さすがに話を聞くというのにこの状態では失礼だと、すぐに上体を起こそうとする。

 しかし、どれだけ頑張っても頭を持ち上げることしか出来ない。

 そこをすっと彼の手で制される。

 「無理しなくていい。そのまま寝ていなさい」

 「でも……」

 「少しでも休んでほしいんだ。君の身体が何よりも大切だから」

 「……ありがとうございます」

 正直つらかったので彼の言葉に甘えることにして、僅かに浮かしていた頭をそっと枕に降ろす。

 暁乃がしっかりと横たわったのを確認すると男はすべてを語り始めた。

 「俺はこの地、水聖と地上の玉水を守護する龍神、白蓮だ」

 「りゅ、龍神さま!?」

 玉水に伝わる龍神だが、その姿は誰も見たことがない。

 その名の通り神として信仰されているので架空にも近かったのかもしれない。

 しかし目の前の彼こそが、その存在だという事実に驚きを隠せなかった。

 それにどこからどう見ても人間でとても龍神には見えない。

 暁乃は衝撃を受けつつも、もう一つ引っかかることがあった。

 「あ、あの。水聖というのは? わたし、そのような町の名前を聞いたことがなくて」

 いくら暁乃が外の世界に疎いからといって、その町の情報を耳にしたことは一度もない。

 「君が突き落とされた滝壺の奥底に龍神やその眷属が住む水聖という地がある。俺が水中で意識を失った君にまじないをかけたことで一命を取り留めたんだ」

 「でも、いつかこの場所も地上の人々に知られてしまうのでは……」

 もし偶然にも誰かが発見して調査が入れば、神聖な世界が荒らされてしまうだろう。

 それに自分が生きていることが両親や彩佳が分かれば、このまま放っておくわけがない。

 あらゆる手を使い、どうにかして地上へ連れ戻すだろう。

 「水聖の周りには認めた者以外は認識出来ないように結界が張ってある。悪事を働こうとする敵は襲ってこないから気にする必要はないぞ」

 この地を統べる彼が言うのであれば、きっと心配することはない。

 ほっと胸をなで下ろすと勇気を出して次の話題を切り出した。

 「そうでしたか……。あの、助けていただいた身分で申し訳ないのですが、わたしは蒼乃という名前ではありません。波音暁乃と申します」

 「ああ、それはすまなかった。今の名前は暁乃というのか」

 「い、今の名前?」

 (わたしは生まれてからずっとこの名前だけれど……)

 「白蓮さま、澪です。頼まれていたものをお持ちしました」

 不思議そうに首を傾げていると襖の外から鈴の音のような声がかかる。

 白蓮は襖へと視線を向けて返事をした。

 「入りなさい」

 「失礼いたします」

 襖が開き、部屋に入ってきたのは可愛らしい少女だった。

 外見からして十歳前後だろうか。

 肩まで伸びた艶やかな黒髪にぱちりとした青色の瞳、そして雪のように真っ白な肌が何とも目を引く。

 紅葉色の着物姿の彼女はおぼんを手にしていて、その上には一つの杯が載せてあった。

 ふと、目が合うと彼女は大輪の花を咲かせたような笑みを浮かべた。

 「お目覚めになられたのですね、蒼乃さま!またお会いできて澪は嬉しいです!」

 「えっと……」

 『また』という一言を聞いて暁乃は地上にいた頃の記憶を辿る。

 波音家の屋敷には頻繁に来客があった。

 しかし赤髪の娘を人前に出すわけにはいかないと両親に部屋にいるよう、きつく命じられていたので、この少女とは面識はないはずだった。

 ただこうも二人から勘違いをされていると、もはや自分が間違っているのではと思ってしまう。

 「えっと……」

 何て答えたら良いか分からずうろたえていると、それを見かねて白蓮が口を開いた。

 「澪。彼女は現在、蒼乃ではなく暁乃という名前らしい。新たな存在として人間の娘に生まれ変わったのだ。それも金魚姫にな」

 「まあ、そうでしたか!まさかあの金魚姫さまとして再びお戻りになってくださるなんて!気配は蒼乃さまと同じでしたのでつい私としたことが……。失礼いたしました」

 頭を下げられてこちらに謝罪する澪に暁乃は慌てて首を横に振った。

 自分よりも年下の小さな子供に何をさせてしまったのかと罪悪感が芽生える。

 「い、いえ。気になさらないでください」

 声をかけると澪はゆっくりと顔を上げて、うっとりとした様子で暁乃を見つめた。

 「お優しいところもあの頃のまま……。またお仕えできるなんて澪は恐悦至極でございます」

 (またお仕えをする……? この方たちは一体何をおっしゃっているの?)

 波音家で働く使用人は誰一人として暁乃に近づこうとしなかった。

 出会ったことがあるのならばここまで優しくしてくれる人を忘れるわけがない。

 それだけは揺るぎない確信があった。

 「あの、申し訳ありません。わたし、本当に何も分からないのです。お二人のことを……」

 震える声で目を伏せながら謝ると右肩にそっと手が置かれた。

 それは細く長い指が特徴の白蓮のものだった。

 「忘れてしまうのも無理はない。あの悲劇から長い年月が経っているのだから。だがこれを口にすればすべて思い出せる」

 「それは?」

 白蓮は澪が持っていたおぼんの上に置かれていた杯を取ると暁乃の前に差し出す。

 覗き込めば中には透明な液体が入っていてぱちくりと瞬きをする自分の顔が写った。

 「水聖の水だ。君からすれば異界の水だな。これを飲めば君は本来の力を取り戻し、記憶もよみがえるだろう」

 まだ彼のことをすべて知っているわけではないし、すぐには信じられなくて、一度だけ唾をごくりと飲み込んだ。

 戸惑う暁乃に白蓮は杯を手前へと僅かに寄せた。

 「怖ければ無理に飲まなくてもいい。記憶がなくても暁乃が傍にいてくれるだけで十分だから」

 「龍神さま……」

 (でもこれを飲めばお二人との思い出も蒼乃さんのこともすべてよみがえる)

 正直、怖くないかといったら噓になるけれどそれよりも自分が抱える秘密を知ってみたいと思ってしまった。

 暁乃は顔を上げると隣に座る白蓮を見つめた。

 「わたし、飲みます」

 「不安であれば今すぐでなくても構わないが」

 「いいえ、これで忘れてしまった事実が知れるのならば、少しでも勇気を出してみます」

 「分かった。ありがとう、暁乃。そして何も恐れることはない。ずっと君の隣にいるから」

 そして暁乃は杯を受け取るとゆっくりと唇に寄せて水を呷ったのだった。