「ちょっと!まだここに埃があるじゃない!何度言えば分かるの!? この愚図女!」
「うっ……」
怒鳴り声に肩をびくりと震わせたのも束の間、華やかな装いの娘は右手を上げて、目の前の相手へと振りかざす。
そしてぱんっという音が辺りに響き、頬を叩かれた娘は小さく呻き声を上げながら床に倒れ込んだ。
そして、その光景をすぐ近くで見ていた母親は制止することなく、ふんと鼻を鳴らした。
「これくらいで倒れるなんて、まったくだらしない。ほら、さっさと起き上がりなさい!」
「……はい、お母さま。ただいま」
じんじんと熱く痛む頬を抑えながら必死に上体を起こす。
蹌踉けながらも立ち上がると二人の女性がこちらを見て嘲笑っていた。
「何て醜い姿なのかしら。私たちと同じ波音家の血が流れているとは到底思えないわ」
「本当に、お母さまのおっしゃる通りだわ。要領の悪さも、その気味の悪い髪色も。忌み子の名にふさわしいわ」
矢継ぎ早に侮辱された娘──波音暁乃は恐怖のあまり、正面を見られずに俯いた。
それでも涙は流れない。
何故ならとうの昔に涸れ果ててしまったから。
(もし、わたしがこんな髪色でなければ、ここまでされることはなかったのかしら)
はらりと落ちる一房の髪。
それを一瞥し暁乃は唇を固く結んだ。
彼女たちが暮らす町──玉水。
玉水は古来より龍神により守られており、加護を受けている民たちは権勢を振るっていた。
その身に宿す特別な力で瘴気から生まれる妖魔を祓うのが生業。
権力や財力も普通の人間の比ではなく国からも重宝されていた。
由緒正しい家が連なる中でも筆頭なのが波音家である。
暁乃は波音家の長女で現在、十八歳。
この年齢ならば、女学校を卒業し嫁いでいてもおかしくない。
しかし、赤髪のせいで家族から使用人同然の扱いを受けていた。
結婚どころか世間の目を気にして学校にも通わせてはもらえなかった。
波音家に生まれながらも加護の力を使えない暁乃。
毎日のように役立たず、忌み子と罵られていた。
出来損ないの姉とは対称的に妹の彩佳は生まれてからずっと周囲から愛されていた。
艶やかな黒髪にぱちりとした大きな瞳、ぷるりとした唇。
愛嬌と要領の良さに誰もが彼女の虜になる。
そして強い神力も備わっていて優秀な巫女としても評価を受けていた。
両親は完璧な妹だけを愛し、欠陥品の姉は不条理なほどに虐げる。
使用人は見て見ぬふりで誰も暁乃を助けようとしない。
もし彼女を庇えば雇用主である両親の怒りを買い、解雇されるのを恐れているからだ。
──味方などいない世界で一人、孤独に生きている。
家族から見れば、波音家に生まれたにも関わらず、無能の娘はただの邪魔者。
「まるで血のような髪ね。龍神さまから加護ではなく呪いを授かったんじゃない?」
「いっ……」
髪を強く引っ張られ、感じたことのない痛みが暁乃を襲う。
「あらあら。駄目よ、彩佳。可愛い貴女の手が汚れちゃう」
「それもそうね。嫌だわ、私ったら。急いで手を洗わなくちゃ」
髪を掴んでいた手がぱっと離されて、その反動で再び床に倒れ込む。
痛みを感じる箇所にすぐに両手を当てる。
そして手のひらが赤く染まっていないことを確認すると少し胸をなで下ろした。
不幸中の幸いで頭皮からは出血はしていないようだ。
怪我を負ってしまえば、薬を分けてもらい手当をしなくてはいけないからだ。
とりあえず二人の苛立ちを静めるためには謝るしか方法はない。
暁乃は何一つ悪さなどしていないけれど、それがこの場を収める最善策である。
額を床にこすりつけて謝罪をしようとしたとき。
「何の騒ぎだ?」
低い声に顔を上げれば、廊下の奥から波音家の当主である父がこちらへと歩いてくる。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
眉間にしわを寄せて厳しい顔つきをしている。
あんなに屋敷中に響き渡る声と物音を出していれば何事かと様子を見に来るのは必然だ。
この家で一番の権力をもつ人物。
恐怖に怯える暁乃に対し、彩佳と母は萎縮するどころか、助けを求めるように父へと駆け寄った。
二人は彼の両隣にぴたりと並ぶと、びしっと人差し指をこちらへとつきつけた。
「聞いてください、お父さま!暁乃が掃除すらまともにしなくて私たちを困らせるの」
「この屋敷から追い出してもおかしくない無能の娘を居場所を与えて働かせてやっているというのにこの始末……。貴方からも叱ってやってくださいませんか」
「またか、暁乃」
「……っ」
彩佳と母とは違う憤り方。
あまりの恐ろしさに声も出ず、体が硬直して動かそうとするが言うことをまったく聞かない。
相手が男性だからという理由だけではない。
迫り来る気迫、鋭い眼差し。
父から放たれる威厳がすべてを支配しているようだった。
「お前と違って我々の時間は貴重だというのに手前をとらせよって。掃除の一つくらい、こなせなくてどうする。罰として今日の食事は無しだ」
食事といっても暁乃が食べるのは、決まって残り物である。
家族は御膳で出されるけれど、彼女は食卓を囲むことを許されていない。
運良く料理に余りがあれば口に出来るのだ。
しかし今日の朝食では家族に提供した分で鍋も釜も綺麗に底をついた。
現在の時刻は昼前。
この時点で昼食も夕食も食べられないことは確定してしまった。
最後に食べたのは昨夜なので暁乃を空腹が襲うが泣き言は言ってられない。
口答えをすれば今日だけでなく当分の間は食事は抜きだろう。
それに、これは波音家の常なので慣れてしまった、というのもある。
本当はこんなことに慣れるだなんて世間からすればおかしいけれど、それを声に出して訴えてくれる人間はここにはいない。
「……はい。申し訳ありませんでした」
ただ素直に受け入れて謝罪をすることで家が上手く回るのであれば、その方がずっと良い。
深々と頭を下げた暁乃を父は蔑むような目で見ると、怖い表情を和らげて、愛娘の彩佳へと視線を移した。
「二人も、もうこんな奴は死んだものだと思って放っておけ。構っているだけ時間と金の無駄だ。彩佳は将来、この波音家の立派な当主となるのだから余計なことは考えず、務めに励みなさい」
「それに彩佳は午後に、煌太くんに会うのでしょう? 未来の旦那さまを待たせてはいけないわ。余裕をもって早めに準備しましょう」
「はい。お父さま、お母さま。私、波音家の名前に恥じぬ淑女になってみせますわ。そして愛する殿方と幸せな家庭を築きます」
不機嫌はどこにいったのか彩佳は『当主』や『煌太』という言葉を聞いた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
波音家には男児は生まれなかった。
そうなれば長女である暁乃が父親の跡を継げる権利をもっているのだが、いかんせんこんな状況だ。
妹である彩佳が母親のお腹にいることが判明した瞬間から暁乃は跡継ぎ候補から外れたらしい。
それでも不思議と当主の座を奪われて悔しいとか羨ましいとは思わなかった。
そう感じさせるほど彩佳は優秀で巫女としては一流だったから。
性格には難があるけれど、それは屋敷内だけ。
表向きは誰にでも優しく振る舞っていて女学生たちの憧れの的になっているようだ。
裏の顔を皆は知らない。
本当のことを伝えたところで暁乃の言葉など誰も信じないだろう。
煌太──泉煌太は波音家の次に名高い泉家の次男。
彩佳が女学校を卒業次第、彼がこの家に婿に入り結婚する予定だ。
久しぶりに会えるとあって随分と嬉しそうだ。
醜い姉を虐めて両親から期待されてご満悦な妹はこちらへとくるりと振り返る。
目を細めて微笑む姿はとても人を虐めているとは思えない。
震えるほど恐ろしく、そして美しかった。
「忌み子は忌み子らしく一生、わたくしたちのために奉公してね」
きらりと光りながら揺れる蝶々の簪が眩しく見える。
対して自分は陽光さえ当たらない陰にしか立てない。
分かってはいたけれど、今の言葉でより実感した気がする。
「貴女はここの掃除が終わり次第、他の使用人と昼食の準備をしてちょうだい。休憩なんかしていたら承知しないわよ」
「……はい」
母からの命令に暁乃は静かに返事をする。
とりあえずは気が済んだのか三人は背を向けてその場を離れていった。
重くだるい体にふと俯くと、ぼろぼろのお仕着せ服が目に入った。
心を真っ黒に染め尽くすような絶望に苦しくなる。
しかし暁乃自身はそれを追い払う余裕などなく受け入れるしか他ない。
(……もういいの。どれだけ嘆いても悔やんでも、この運命は変えられないのだから)
落ち着かせるために深く息を吸って吐き出すと前を向いて掃除の続きを始めたのだった。
*
それから数日後。
普段通りに仕事をしていた暁乃は突然、使用人頭に『旦那さまがお呼びです』と言われ、廊下を歩いていた。
(用って何かしら……。仕事の言いつけなら、わざわざ呼ばなくても伝言で済むわ)
叱られるほどの失敗をしてしまっただろうか。
先日の掃除のときのように気づかないうちに三人の怒りに触れてしまったのか。
理由が分からず、ただ首を傾げることしか出来ない。
呼ばれた先は居間。
到着するまで、これまでのことを遡ってみるが結局、分からずじまいだった。
襖の前に立ち、緊張を緩和するためにゆっくりと深呼吸をして心の準備をする。
そして意を決すると口を開いた。
「お父さま、暁乃です」
「入れ」
「失礼いたします」
そっと襖を開けると室内には呼び出した張本人の父の他に母と彩佳も座って待っていた。
(どうして……)
入ってきた暁乃を見るなり、三人は何かを企むように、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべている。
「そこに座れ」
「は、はい」
困惑しながらも指定された座卓の前に座った。
そして着席してすぐに父は本題を切り出す。
「よく聞け、暁乃。無能のお前がようやく役に立つときがきた」
「え……? それは一体、どういうことですか、お父さま?」
神力がなければ欠陥品扱いが当たり前。
そうなると巫女としてではなく生身の人間として役目を果たすということだろうか。
結婚、いやこんな奇妙な娘などよほどの変わり者でなければ娶ってはくれない。
それが違うとなると、好事家たちに売られるという可能性もある。
暁乃は察した。
どちらにせよ、良い話をされないことは。
「ここ近年、玉水周辺で妖魔が大量発生しているのはお前も耳にしたことくらいあるだろう」
「はい。それが原因で巫女たちに負担が生じていると……」
「その問題を緩和するために龍神さまに生贄を差し出すことが会議で決定した」
「……生贄? もしかしてそれは」
ぞくりと背中が震え、嫌な予感が頭を過る。
「そう!お姉さまが選ばれたのよ!おめでとう!」
「……!」
今まで黙っていた彩佳が一番重要な報告をした後、きらきらと目を輝かせながら拍手をする。
生贄だなんてそんな祝福されるようなことではないのに。
「民を守るためにその身を差し出すなんて、わたくし初めて貴女を誇らしく思うわ、暁乃」
「お母さま……」
人生で初めて母から褒められたけれどまったく嬉しくはなかった。
やはり忌み子はこの世から消えることでしか家族を喜ばせられないのか。
「決行は明日。龍神さまの生贄となるのだ、万全な状態でその時を迎えられるように今日はもう仕事をしなくていい。夕食もお前の分も使用人たちに用意させる。あとは……」
「お父さま、お待ちください……!わたしっ」
今まではどんな命令にも意見せずに従ってきた。
しかしこれは家事の言いつけとはわけが違う。
話す内容など決まっていないのに咄嗟に父の話を遮ってしまった。
しかし、思いを伝えることなど出来なかった。
ぎろりと鋭い目つきで睨まれたせいで。
「まさか異論を唱えるわけではないだろうな?」
「これはもう決定事項なのよ。他の神力者や巫女も是非と言ってくれてるの。絶対に取り消して覆すことは出来ないわ」
「やっぱりこの家に生まれて波音家の血を受け継いでいるからには、相応の働きをしてくれないと困っちゃうのよ。だからその命を使ってわたくしたちを妖魔から守って? お姉さま」
彩佳は甘えるような声と上目遣いでこちらを見てくる。
もう何も考えられなかった。
奴隷のように働かされていたと思えば勝手に生贄にされる。
改めて自分に意思は必要なかったのだと思い知らされた。
もう心も体も疲弊して俯き、そっと目を閉じた。
そこから先はよく覚えていない。
唯一、記憶にあるのはただただ早く楽になりたいと願いながら眠りについたこと──。
「うっ……」
怒鳴り声に肩をびくりと震わせたのも束の間、華やかな装いの娘は右手を上げて、目の前の相手へと振りかざす。
そしてぱんっという音が辺りに響き、頬を叩かれた娘は小さく呻き声を上げながら床に倒れ込んだ。
そして、その光景をすぐ近くで見ていた母親は制止することなく、ふんと鼻を鳴らした。
「これくらいで倒れるなんて、まったくだらしない。ほら、さっさと起き上がりなさい!」
「……はい、お母さま。ただいま」
じんじんと熱く痛む頬を抑えながら必死に上体を起こす。
蹌踉けながらも立ち上がると二人の女性がこちらを見て嘲笑っていた。
「何て醜い姿なのかしら。私たちと同じ波音家の血が流れているとは到底思えないわ」
「本当に、お母さまのおっしゃる通りだわ。要領の悪さも、その気味の悪い髪色も。忌み子の名にふさわしいわ」
矢継ぎ早に侮辱された娘──波音暁乃は恐怖のあまり、正面を見られずに俯いた。
それでも涙は流れない。
何故ならとうの昔に涸れ果ててしまったから。
(もし、わたしがこんな髪色でなければ、ここまでされることはなかったのかしら)
はらりと落ちる一房の髪。
それを一瞥し暁乃は唇を固く結んだ。
彼女たちが暮らす町──玉水。
玉水は古来より龍神により守られており、加護を受けている民たちは権勢を振るっていた。
その身に宿す特別な力で瘴気から生まれる妖魔を祓うのが生業。
権力や財力も普通の人間の比ではなく国からも重宝されていた。
由緒正しい家が連なる中でも筆頭なのが波音家である。
暁乃は波音家の長女で現在、十八歳。
この年齢ならば、女学校を卒業し嫁いでいてもおかしくない。
しかし、赤髪のせいで家族から使用人同然の扱いを受けていた。
結婚どころか世間の目を気にして学校にも通わせてはもらえなかった。
波音家に生まれながらも加護の力を使えない暁乃。
毎日のように役立たず、忌み子と罵られていた。
出来損ないの姉とは対称的に妹の彩佳は生まれてからずっと周囲から愛されていた。
艶やかな黒髪にぱちりとした大きな瞳、ぷるりとした唇。
愛嬌と要領の良さに誰もが彼女の虜になる。
そして強い神力も備わっていて優秀な巫女としても評価を受けていた。
両親は完璧な妹だけを愛し、欠陥品の姉は不条理なほどに虐げる。
使用人は見て見ぬふりで誰も暁乃を助けようとしない。
もし彼女を庇えば雇用主である両親の怒りを買い、解雇されるのを恐れているからだ。
──味方などいない世界で一人、孤独に生きている。
家族から見れば、波音家に生まれたにも関わらず、無能の娘はただの邪魔者。
「まるで血のような髪ね。龍神さまから加護ではなく呪いを授かったんじゃない?」
「いっ……」
髪を強く引っ張られ、感じたことのない痛みが暁乃を襲う。
「あらあら。駄目よ、彩佳。可愛い貴女の手が汚れちゃう」
「それもそうね。嫌だわ、私ったら。急いで手を洗わなくちゃ」
髪を掴んでいた手がぱっと離されて、その反動で再び床に倒れ込む。
痛みを感じる箇所にすぐに両手を当てる。
そして手のひらが赤く染まっていないことを確認すると少し胸をなで下ろした。
不幸中の幸いで頭皮からは出血はしていないようだ。
怪我を負ってしまえば、薬を分けてもらい手当をしなくてはいけないからだ。
とりあえず二人の苛立ちを静めるためには謝るしか方法はない。
暁乃は何一つ悪さなどしていないけれど、それがこの場を収める最善策である。
額を床にこすりつけて謝罪をしようとしたとき。
「何の騒ぎだ?」
低い声に顔を上げれば、廊下の奥から波音家の当主である父がこちらへと歩いてくる。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
眉間にしわを寄せて厳しい顔つきをしている。
あんなに屋敷中に響き渡る声と物音を出していれば何事かと様子を見に来るのは必然だ。
この家で一番の権力をもつ人物。
恐怖に怯える暁乃に対し、彩佳と母は萎縮するどころか、助けを求めるように父へと駆け寄った。
二人は彼の両隣にぴたりと並ぶと、びしっと人差し指をこちらへとつきつけた。
「聞いてください、お父さま!暁乃が掃除すらまともにしなくて私たちを困らせるの」
「この屋敷から追い出してもおかしくない無能の娘を居場所を与えて働かせてやっているというのにこの始末……。貴方からも叱ってやってくださいませんか」
「またか、暁乃」
「……っ」
彩佳と母とは違う憤り方。
あまりの恐ろしさに声も出ず、体が硬直して動かそうとするが言うことをまったく聞かない。
相手が男性だからという理由だけではない。
迫り来る気迫、鋭い眼差し。
父から放たれる威厳がすべてを支配しているようだった。
「お前と違って我々の時間は貴重だというのに手前をとらせよって。掃除の一つくらい、こなせなくてどうする。罰として今日の食事は無しだ」
食事といっても暁乃が食べるのは、決まって残り物である。
家族は御膳で出されるけれど、彼女は食卓を囲むことを許されていない。
運良く料理に余りがあれば口に出来るのだ。
しかし今日の朝食では家族に提供した分で鍋も釜も綺麗に底をついた。
現在の時刻は昼前。
この時点で昼食も夕食も食べられないことは確定してしまった。
最後に食べたのは昨夜なので暁乃を空腹が襲うが泣き言は言ってられない。
口答えをすれば今日だけでなく当分の間は食事は抜きだろう。
それに、これは波音家の常なので慣れてしまった、というのもある。
本当はこんなことに慣れるだなんて世間からすればおかしいけれど、それを声に出して訴えてくれる人間はここにはいない。
「……はい。申し訳ありませんでした」
ただ素直に受け入れて謝罪をすることで家が上手く回るのであれば、その方がずっと良い。
深々と頭を下げた暁乃を父は蔑むような目で見ると、怖い表情を和らげて、愛娘の彩佳へと視線を移した。
「二人も、もうこんな奴は死んだものだと思って放っておけ。構っているだけ時間と金の無駄だ。彩佳は将来、この波音家の立派な当主となるのだから余計なことは考えず、務めに励みなさい」
「それに彩佳は午後に、煌太くんに会うのでしょう? 未来の旦那さまを待たせてはいけないわ。余裕をもって早めに準備しましょう」
「はい。お父さま、お母さま。私、波音家の名前に恥じぬ淑女になってみせますわ。そして愛する殿方と幸せな家庭を築きます」
不機嫌はどこにいったのか彩佳は『当主』や『煌太』という言葉を聞いた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
波音家には男児は生まれなかった。
そうなれば長女である暁乃が父親の跡を継げる権利をもっているのだが、いかんせんこんな状況だ。
妹である彩佳が母親のお腹にいることが判明した瞬間から暁乃は跡継ぎ候補から外れたらしい。
それでも不思議と当主の座を奪われて悔しいとか羨ましいとは思わなかった。
そう感じさせるほど彩佳は優秀で巫女としては一流だったから。
性格には難があるけれど、それは屋敷内だけ。
表向きは誰にでも優しく振る舞っていて女学生たちの憧れの的になっているようだ。
裏の顔を皆は知らない。
本当のことを伝えたところで暁乃の言葉など誰も信じないだろう。
煌太──泉煌太は波音家の次に名高い泉家の次男。
彩佳が女学校を卒業次第、彼がこの家に婿に入り結婚する予定だ。
久しぶりに会えるとあって随分と嬉しそうだ。
醜い姉を虐めて両親から期待されてご満悦な妹はこちらへとくるりと振り返る。
目を細めて微笑む姿はとても人を虐めているとは思えない。
震えるほど恐ろしく、そして美しかった。
「忌み子は忌み子らしく一生、わたくしたちのために奉公してね」
きらりと光りながら揺れる蝶々の簪が眩しく見える。
対して自分は陽光さえ当たらない陰にしか立てない。
分かってはいたけれど、今の言葉でより実感した気がする。
「貴女はここの掃除が終わり次第、他の使用人と昼食の準備をしてちょうだい。休憩なんかしていたら承知しないわよ」
「……はい」
母からの命令に暁乃は静かに返事をする。
とりあえずは気が済んだのか三人は背を向けてその場を離れていった。
重くだるい体にふと俯くと、ぼろぼろのお仕着せ服が目に入った。
心を真っ黒に染め尽くすような絶望に苦しくなる。
しかし暁乃自身はそれを追い払う余裕などなく受け入れるしか他ない。
(……もういいの。どれだけ嘆いても悔やんでも、この運命は変えられないのだから)
落ち着かせるために深く息を吸って吐き出すと前を向いて掃除の続きを始めたのだった。
*
それから数日後。
普段通りに仕事をしていた暁乃は突然、使用人頭に『旦那さまがお呼びです』と言われ、廊下を歩いていた。
(用って何かしら……。仕事の言いつけなら、わざわざ呼ばなくても伝言で済むわ)
叱られるほどの失敗をしてしまっただろうか。
先日の掃除のときのように気づかないうちに三人の怒りに触れてしまったのか。
理由が分からず、ただ首を傾げることしか出来ない。
呼ばれた先は居間。
到着するまで、これまでのことを遡ってみるが結局、分からずじまいだった。
襖の前に立ち、緊張を緩和するためにゆっくりと深呼吸をして心の準備をする。
そして意を決すると口を開いた。
「お父さま、暁乃です」
「入れ」
「失礼いたします」
そっと襖を開けると室内には呼び出した張本人の父の他に母と彩佳も座って待っていた。
(どうして……)
入ってきた暁乃を見るなり、三人は何かを企むように、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべている。
「そこに座れ」
「は、はい」
困惑しながらも指定された座卓の前に座った。
そして着席してすぐに父は本題を切り出す。
「よく聞け、暁乃。無能のお前がようやく役に立つときがきた」
「え……? それは一体、どういうことですか、お父さま?」
神力がなければ欠陥品扱いが当たり前。
そうなると巫女としてではなく生身の人間として役目を果たすということだろうか。
結婚、いやこんな奇妙な娘などよほどの変わり者でなければ娶ってはくれない。
それが違うとなると、好事家たちに売られるという可能性もある。
暁乃は察した。
どちらにせよ、良い話をされないことは。
「ここ近年、玉水周辺で妖魔が大量発生しているのはお前も耳にしたことくらいあるだろう」
「はい。それが原因で巫女たちに負担が生じていると……」
「その問題を緩和するために龍神さまに生贄を差し出すことが会議で決定した」
「……生贄? もしかしてそれは」
ぞくりと背中が震え、嫌な予感が頭を過る。
「そう!お姉さまが選ばれたのよ!おめでとう!」
「……!」
今まで黙っていた彩佳が一番重要な報告をした後、きらきらと目を輝かせながら拍手をする。
生贄だなんてそんな祝福されるようなことではないのに。
「民を守るためにその身を差し出すなんて、わたくし初めて貴女を誇らしく思うわ、暁乃」
「お母さま……」
人生で初めて母から褒められたけれどまったく嬉しくはなかった。
やはり忌み子はこの世から消えることでしか家族を喜ばせられないのか。
「決行は明日。龍神さまの生贄となるのだ、万全な状態でその時を迎えられるように今日はもう仕事をしなくていい。夕食もお前の分も使用人たちに用意させる。あとは……」
「お父さま、お待ちください……!わたしっ」
今まではどんな命令にも意見せずに従ってきた。
しかしこれは家事の言いつけとはわけが違う。
話す内容など決まっていないのに咄嗟に父の話を遮ってしまった。
しかし、思いを伝えることなど出来なかった。
ぎろりと鋭い目つきで睨まれたせいで。
「まさか異論を唱えるわけではないだろうな?」
「これはもう決定事項なのよ。他の神力者や巫女も是非と言ってくれてるの。絶対に取り消して覆すことは出来ないわ」
「やっぱりこの家に生まれて波音家の血を受け継いでいるからには、相応の働きをしてくれないと困っちゃうのよ。だからその命を使ってわたくしたちを妖魔から守って? お姉さま」
彩佳は甘えるような声と上目遣いでこちらを見てくる。
もう何も考えられなかった。
奴隷のように働かされていたと思えば勝手に生贄にされる。
改めて自分に意思は必要なかったのだと思い知らされた。
もう心も体も疲弊して俯き、そっと目を閉じた。
そこから先はよく覚えていない。
唯一、記憶にあるのはただただ早く楽になりたいと願いながら眠りについたこと──。


