竜樹には3分以内にやらなければならないことがあったというが、わたしのために分刻みのスケジュールを変更させた。
3分か。
幼いころ、竜樹が好きだった特撮ヒーローもの。なんという名前であったかも忘れた。地球に舞い降りたあのヒーローは、何分地球にいられたんだったっけ?
だけど物語のヒーローとは違って、竜樹は融通が利く。
今日は何分いられるか。
始発までだから、史上最高に長い。
わたしが始発電車に乗り遅れないよう、竜樹はスマホのタイマーをセットしてくれた。時間にこだわりがあるのは相変わらずだった。
※
大学の授業で行う課題発表の日が差し迫っていた。小難しい先生で、ちょっとやそっとじゃ通らない。グループごとの発表順もランダムだし、その中での発表者も直前に先生が指名する。質問事項も誰が当てられるかもわからない。全員がしっかり把握していなければならなかった。
終電まで頑張るって、粘りすぎてしまった。自分の体力の無さを痛感する。
そりゃあ仕方ない。だってもう深夜だもの。一日まるっと講義を受けて、居残って勉強して、そんな体力、残ってないよ。
一応は走ってきたんだけど、改札口に入るまでもなくあきらめた。
最終電車に乗ってきた人たちが改札口から出てくる。電車は時間通りに出発したようだった。
どうしよう。疲労困憊で呆然としていると、改札から出てくる人波に見知った顔を見つけた。体に合わない大きなリュックを背負い、スマホを読み取り口にかざして出てくる。そのままスマホ画面で時間を確認していた。いや、ここからは見えないけど、確実に時間を見ている。彼の性格を、わたしは熟知していた。
改札口の正面にいたものだがら、向こうもこっちに気づいた。あれ?ってかんじでふらりとやってくる。
「志帆じゃない?」
「そうだけど」
高校を卒業して以来だから、1年ぶりくらいだった。さして感動もなく再会しているのがわたしたちらしい。
竜樹はぼそっともらす。
「大学デビューでもしちゃってたら気まずかったけど」
たしかにと、わたしは笑いをこらえながら答える。
「知り過ぎてるがゆえにね」
向こうから見ても、なんの印象も変わってないらしい。竜樹も竜樹で変わらない。なんだったら竜樹はずっと変わらず竜樹のままあり続けてほしいと、勝手に願ってさえいる。
まんまるの瞳はいつも好奇心に満ちていた。知り過ぎたわたしのことはどうだろう、さほど興味はなさそうかな。
わたしとこんなところで出会ってしまったのは予定外にちがいないけど、あわてて立ち去る様子もなかった。
「なにしてるの」
相変わらずのすっとぼけた質問に、お手上げポーズで返す。
「見てのとおり」
「走ってたようだね」
「一応ね」
「途方に暮れているようだね」
「終電に乗り遅れたからね」
「そういうことか」
「ほんとうに気づいてなかったとはびっくりだよ」
あきれた物言いにも竜樹は動じてなかった。謎がひとつ解けた、ただそれだけかもしれない。
「それで、そっちはこの辺に住んでるんだっけ?」
竜樹は一人暮らしをはじめたと聞いている。それも、竜樹のお母さんから聞いた。本人はなにもいわずに、そのまま出て行ったから。そもそもなにかを報告し合うような間柄でもない。たんなる幼なじみだ。
もしかしたらこの駅で。
顔を合わせることがあるのかもしれない。
そんなことはぼんやり思っていた。
お互いに気づきながら、通りすがるのはどんな気持ちだろうって。いっそのこと、ぜんぜん交わりのない世界で、うっすら想い出になじんでいったらいいのに。
あっさり竜樹はわたしを見つけた。
スマホをポケットにしまう、その腕にも時計が巻かれていた。愛用の時計だった。それもかわらない。
歯車が見えるようにデザインされた、針が回る時計。時刻を表すものとは別に、小さな文字盤と針もついたクロノグラフという機能がついた時計だった。
「そうだよ。自転車にまたがってからおよそ8分20秒で今住んでいるところに着く」
竜樹はよどみなくいった。
「徒歩ならその3倍はかかるかな。うちはこっちだよ」
わたしが走ってきた方を指した。そして躊躇なくいう。
「一緒にくる?」
そういわれて、催促してしまったかなと、ちょっと気恥ずかしくなった。それに、実家の竜樹の部屋と、一人暮らしの竜樹の部屋とではまるで異空間だ。
「いいよ。わたしはファミレスで時間つぶして始発で帰る。だからここで――」
「ファミレスならこっちだ。4分以内に着く」
竜樹は反対方向へ歩き出した。それにはたぶん、わたしと一悶着する時間は含まれていなかった。わたしはあわててあとを追う。
「大丈夫だよ。送ってくれなくても」
「改札を出てから3分以内にやることがあったけど、大丈夫、この先の予定を変更させるのは簡単だ。ファミレスで始発を待とう」
こんな時間でも席は半分くらい埋まっていた。終電を逃さなくても、はなっから一晩過ごすつもりのひともいるのかも。
わたちたちは4人掛けのボックス席に腰掛けた。
おなかすいたけど、深夜料金とられちゃうな。ドリンクバーでいいかな。竜樹の分はおごらないとな。
タッチパネルを操作して、「ドリンクバーでいい?」とたずねる。
「あと、ハンバーガー」
「ああ、あれでいい?」
「あれでいい」
チェーン店だからメニューは同じだった。ハンバーガーはご飯を別に頼む必要ないからこんなときにいいよねと、お決まりのメニューだった。わたしも同じ物を頼む。
これだけ頼めば始発までねばっても、文句は言われまい。
竜樹は早速腕時計をいじっていた。つきあいはじめの恋人の前でこれをやっていたら、時間を気にしているようで、ちょっといやな気持ちになるかも。
クロノグラフとはストップウォッチのように時間を計測できる機能だ。料理が届くまでの時間を計っていることは、わたしなら聞かなくてもわかっていた。
「本当はなにするつもりだったの」
と聞いてみる。嫌味かなとも思ったけど、竜樹がこういうことを気にすることはない。腕時計の操作が終わって顔を上げた。
「電車から降りて自転車にまたがるまでが3分。自宅のドアを開けるまで10分。風呂を沸かして、入って、髪の毛が乾くころに布団に入って、そこまでが――」
「ああ、もういいや。とくに用事はなかったのね」
「今日は予定外なことが起こりすぎて、帳尻あわせに苦労したんだよ」
「ごめんね。わたしが現れてまたもぶち壊しだね」
「大丈夫だよ。もう予定は組み直された。そっちは? 始発で帰って、またとんぼ返りなの?」
「ええと……」
まだ計算できてなくて考える。そもそも始発って何時だ? バッグの中を探ってスマホを取り出す。
「大丈夫。朝から講義があってもいける」
わたしより早く竜樹が結論を出していた。
「あ、そうなんだ」
「終電逃したのはじめて?」
「こんなに遅くまでいることないし」
なぜだかムキになってしまった。いつも夜遊びしているみたいに思われたくなくて。竜樹が相手なんだから、どうでもいいのに。
「始発は乗り遅れないようにね」
竜樹は自分のスマホでタイマーをセットしてくれた。たぶん、会計をして、ホームにたどり着くまでの時間も全部加味してる。竜樹に任せておけば間違いない。
竜樹は時間に取り憑かれている。
なぜなのか。明晰そうな竜樹でもきっとわかってないし、小さいころからずっとそばで見てきたわたしもわからない。
記憶の最初にあるのはおもちゃの時計。算数の授業だったか、長針と短針がついてる時計を読むときに使っていた教材にやたらと関心を示していた。
長針をぐるぐる回しながら、短針が少しずつ動くのを見届け、裏に返して歯車が回っているのを不思議そうに見ていた。
それから――そうだ、あれはねだって買ってもらったというストップウォッチ。
わたしの中のそれまでの竜樹といったら大雑把の気分屋だった。そのくせ、百分の一秒まで測定したいという熱におかされて、並んだ数字に謎の一喜一憂をしていたっけ。
ストップウォッチを使いたくてたまらない竜樹は、ストラップをつけて首から下げて常に持ち歩き、電柱から電柱までの歩行タイムをはかったり、不意に息を止めて記録を取ったり、校長先生のありがたいお話しの最中も、ずっと計測をして増えていく数字を見ていた。
おもむろに立ち上がって、各自ドリンクバーを自由に入れる。
あの頃のわたしたちが急によみがえってきて、めっきり飲まなくなったメロンソーダを注いだ。
戦隊ヒーローの写真がプリントされた、特別仕様のメロンソーダを売っていたことがあった。
そのヒーローがなんという名前かも忘れたけど、そのイラストは今でも、たぶん描ける。
『ヒーローが現れてヒーローが消えた』という認知も竜樹のさじ加減だった。
ざっくりとしたその時間、わたしは竜樹の隣に座っていたのだった。
自分の部屋でコソコソ描いていたのに、竜樹が好きなヒーローを画用紙以外にも描いてみようと思ったのはたまたまだった。
ひまわりの鉢植えに水をやったついでに、家の前の道路をキャンバスに絵を描いてみようと思い立った。
じょうろのノズルの先に着いたシャワーヘッドを上向きにすると、水がやさしく広がる。でも、線が太くなってしまうから想定外に大きな絵になっていった。
けれども、住人しか通らないような道だ。誰の邪魔にもならないし、誰も邪魔してこない。
竜樹以外は。
平屋の借家が何軒か並んでいて、隣に竜樹一家が住んでいた。
仲良くなったのがいつであったか覚えていない。
誤解を恐れずにいうと、あたかも竜樹が自分のものであるかのように、与えられたおもちゃと同じような感覚で、竜樹とよく遊ぶようになっていた。
遊ぶ約束なんてしなくてもすぐそこにいて、どちらかが外で何かをしていたらすぐに気がついた。
じょうろで水をまいていたらなにやってんのと聞かれ、本当はかまってほしかったのに、絵を描いてるからあっちに行っててとあしらった。
それでもすげぇ、すげぇと興奮し、ナスカの地上絵でしょと、だいぶ期待を膨らませて待っているので、描いているのは竜樹が好きなヒーローだと告げた。
「等身大ってこと?」
「本当の大きさなんて知らないよ。ここじゃ顔だけしか描けないし」
「うまく描けているか上空から見てみようよ」
「上空って?」
竜樹はわたしの家に向かった。
玄関先においてある陶器でできた頑丈な傘立てを動かすと、上に乗り、玄関のひさしに登り始めたのだった。
「ちょっと。ムリじゃない?」
竜樹の背ではひさしに手がかかるくらいで、登ることができなかった。
「ハシゴだハシゴ」
自分の家に戻ると伸ばせるハシゴを持ってきてひさしの上に乗った。
「志帆も来いって。すごいから」
「すごいってなにがよ」
語彙力のなさに笑いながらも、その言葉の破壊力にやられてしまった。
すごいって、無邪気に竜樹が呼んでいる。
狭いひさしの上に、ふたり、ちょこんと腰掛けて、水で描いたヒーローを眺めた。
水が蒸発し、何分で描いたヒーローが消えるのか。竜樹はいつもストップウォッチ片手にタイムを計測していた。
ヒーローは天候に左右される。
ひどく暑い日は汗だくになりながらがんばって描くのだけど、蒸発するのが早くて数分と持たない。かといって、曇りの日はなかなか消えず、あきたのか一部が消えたくらいで切り上げるし、雨が降ってきたらそこで終わる。
結局のところ、ヒーローが地球にいられるという本家の設定と同じくらいの時間でストップウォッチが止められた。
いつの間にかやらなくなったあの遊びは、やっぱり同じようにいつの間にか思い出になって記憶の奥の方に綴じられていた。
そういえば、今日、わたしと一緒にいる時間は計測していないようだった。
これだけ長い時間、ふたりでさしでいるのはなかったかもしれない。いや、あったかな、小さいころは。
竜樹と一緒にいたトータルの時間はどれくらいだろう。きっと竜樹も知らない。一生涯のうちで増えることは、もうそうそうないかもしれないな。
始発電車が動くまでもうちょっと。
竜樹は少し眠たそうに羊を数え始めた。
「寝るつもりなの?」
「数字を数えれば逆に目が覚めるんだ」
そうだっけ?とわたしは笑いをこらえた。
「ちょっと数字熱が過ぎるんじゃない?」
「オレが数学に強いと思ったら大間違いだからな」
「知ってる」
いいながら、最近、あまり新しいことを知ってないなと、寂しいような不思議な感情がこみあげて、眠気覚ましのコーヒーをすすった。
夜が明ければまたそれぞれ。
気まずさと無縁のわたしたちは、夜が明けると、きっと、再会の約束もせずに別れるだろう。
それとも、一歩踏み出せばちがうのかな。
「0902865××××」
竜樹は羊の数から不意にでたらめな番号を読み上げた。
「090?」
もしかして、携帯の番号?
そういえば、あまりに近く過ぎて聞いたことがなかったかも。
「また乗り遅れるまで勉強してたら連絡してよ」
竜樹は眠たそうな顔して、また羊を数え始めた。
3分か。
幼いころ、竜樹が好きだった特撮ヒーローもの。なんという名前であったかも忘れた。地球に舞い降りたあのヒーローは、何分地球にいられたんだったっけ?
だけど物語のヒーローとは違って、竜樹は融通が利く。
今日は何分いられるか。
始発までだから、史上最高に長い。
わたしが始発電車に乗り遅れないよう、竜樹はスマホのタイマーをセットしてくれた。時間にこだわりがあるのは相変わらずだった。
※
大学の授業で行う課題発表の日が差し迫っていた。小難しい先生で、ちょっとやそっとじゃ通らない。グループごとの発表順もランダムだし、その中での発表者も直前に先生が指名する。質問事項も誰が当てられるかもわからない。全員がしっかり把握していなければならなかった。
終電まで頑張るって、粘りすぎてしまった。自分の体力の無さを痛感する。
そりゃあ仕方ない。だってもう深夜だもの。一日まるっと講義を受けて、居残って勉強して、そんな体力、残ってないよ。
一応は走ってきたんだけど、改札口に入るまでもなくあきらめた。
最終電車に乗ってきた人たちが改札口から出てくる。電車は時間通りに出発したようだった。
どうしよう。疲労困憊で呆然としていると、改札から出てくる人波に見知った顔を見つけた。体に合わない大きなリュックを背負い、スマホを読み取り口にかざして出てくる。そのままスマホ画面で時間を確認していた。いや、ここからは見えないけど、確実に時間を見ている。彼の性格を、わたしは熟知していた。
改札口の正面にいたものだがら、向こうもこっちに気づいた。あれ?ってかんじでふらりとやってくる。
「志帆じゃない?」
「そうだけど」
高校を卒業して以来だから、1年ぶりくらいだった。さして感動もなく再会しているのがわたしたちらしい。
竜樹はぼそっともらす。
「大学デビューでもしちゃってたら気まずかったけど」
たしかにと、わたしは笑いをこらえながら答える。
「知り過ぎてるがゆえにね」
向こうから見ても、なんの印象も変わってないらしい。竜樹も竜樹で変わらない。なんだったら竜樹はずっと変わらず竜樹のままあり続けてほしいと、勝手に願ってさえいる。
まんまるの瞳はいつも好奇心に満ちていた。知り過ぎたわたしのことはどうだろう、さほど興味はなさそうかな。
わたしとこんなところで出会ってしまったのは予定外にちがいないけど、あわてて立ち去る様子もなかった。
「なにしてるの」
相変わらずのすっとぼけた質問に、お手上げポーズで返す。
「見てのとおり」
「走ってたようだね」
「一応ね」
「途方に暮れているようだね」
「終電に乗り遅れたからね」
「そういうことか」
「ほんとうに気づいてなかったとはびっくりだよ」
あきれた物言いにも竜樹は動じてなかった。謎がひとつ解けた、ただそれだけかもしれない。
「それで、そっちはこの辺に住んでるんだっけ?」
竜樹は一人暮らしをはじめたと聞いている。それも、竜樹のお母さんから聞いた。本人はなにもいわずに、そのまま出て行ったから。そもそもなにかを報告し合うような間柄でもない。たんなる幼なじみだ。
もしかしたらこの駅で。
顔を合わせることがあるのかもしれない。
そんなことはぼんやり思っていた。
お互いに気づきながら、通りすがるのはどんな気持ちだろうって。いっそのこと、ぜんぜん交わりのない世界で、うっすら想い出になじんでいったらいいのに。
あっさり竜樹はわたしを見つけた。
スマホをポケットにしまう、その腕にも時計が巻かれていた。愛用の時計だった。それもかわらない。
歯車が見えるようにデザインされた、針が回る時計。時刻を表すものとは別に、小さな文字盤と針もついたクロノグラフという機能がついた時計だった。
「そうだよ。自転車にまたがってからおよそ8分20秒で今住んでいるところに着く」
竜樹はよどみなくいった。
「徒歩ならその3倍はかかるかな。うちはこっちだよ」
わたしが走ってきた方を指した。そして躊躇なくいう。
「一緒にくる?」
そういわれて、催促してしまったかなと、ちょっと気恥ずかしくなった。それに、実家の竜樹の部屋と、一人暮らしの竜樹の部屋とではまるで異空間だ。
「いいよ。わたしはファミレスで時間つぶして始発で帰る。だからここで――」
「ファミレスならこっちだ。4分以内に着く」
竜樹は反対方向へ歩き出した。それにはたぶん、わたしと一悶着する時間は含まれていなかった。わたしはあわててあとを追う。
「大丈夫だよ。送ってくれなくても」
「改札を出てから3分以内にやることがあったけど、大丈夫、この先の予定を変更させるのは簡単だ。ファミレスで始発を待とう」
こんな時間でも席は半分くらい埋まっていた。終電を逃さなくても、はなっから一晩過ごすつもりのひともいるのかも。
わたちたちは4人掛けのボックス席に腰掛けた。
おなかすいたけど、深夜料金とられちゃうな。ドリンクバーでいいかな。竜樹の分はおごらないとな。
タッチパネルを操作して、「ドリンクバーでいい?」とたずねる。
「あと、ハンバーガー」
「ああ、あれでいい?」
「あれでいい」
チェーン店だからメニューは同じだった。ハンバーガーはご飯を別に頼む必要ないからこんなときにいいよねと、お決まりのメニューだった。わたしも同じ物を頼む。
これだけ頼めば始発までねばっても、文句は言われまい。
竜樹は早速腕時計をいじっていた。つきあいはじめの恋人の前でこれをやっていたら、時間を気にしているようで、ちょっといやな気持ちになるかも。
クロノグラフとはストップウォッチのように時間を計測できる機能だ。料理が届くまでの時間を計っていることは、わたしなら聞かなくてもわかっていた。
「本当はなにするつもりだったの」
と聞いてみる。嫌味かなとも思ったけど、竜樹がこういうことを気にすることはない。腕時計の操作が終わって顔を上げた。
「電車から降りて自転車にまたがるまでが3分。自宅のドアを開けるまで10分。風呂を沸かして、入って、髪の毛が乾くころに布団に入って、そこまでが――」
「ああ、もういいや。とくに用事はなかったのね」
「今日は予定外なことが起こりすぎて、帳尻あわせに苦労したんだよ」
「ごめんね。わたしが現れてまたもぶち壊しだね」
「大丈夫だよ。もう予定は組み直された。そっちは? 始発で帰って、またとんぼ返りなの?」
「ええと……」
まだ計算できてなくて考える。そもそも始発って何時だ? バッグの中を探ってスマホを取り出す。
「大丈夫。朝から講義があってもいける」
わたしより早く竜樹が結論を出していた。
「あ、そうなんだ」
「終電逃したのはじめて?」
「こんなに遅くまでいることないし」
なぜだかムキになってしまった。いつも夜遊びしているみたいに思われたくなくて。竜樹が相手なんだから、どうでもいいのに。
「始発は乗り遅れないようにね」
竜樹は自分のスマホでタイマーをセットしてくれた。たぶん、会計をして、ホームにたどり着くまでの時間も全部加味してる。竜樹に任せておけば間違いない。
竜樹は時間に取り憑かれている。
なぜなのか。明晰そうな竜樹でもきっとわかってないし、小さいころからずっとそばで見てきたわたしもわからない。
記憶の最初にあるのはおもちゃの時計。算数の授業だったか、長針と短針がついてる時計を読むときに使っていた教材にやたらと関心を示していた。
長針をぐるぐる回しながら、短針が少しずつ動くのを見届け、裏に返して歯車が回っているのを不思議そうに見ていた。
それから――そうだ、あれはねだって買ってもらったというストップウォッチ。
わたしの中のそれまでの竜樹といったら大雑把の気分屋だった。そのくせ、百分の一秒まで測定したいという熱におかされて、並んだ数字に謎の一喜一憂をしていたっけ。
ストップウォッチを使いたくてたまらない竜樹は、ストラップをつけて首から下げて常に持ち歩き、電柱から電柱までの歩行タイムをはかったり、不意に息を止めて記録を取ったり、校長先生のありがたいお話しの最中も、ずっと計測をして増えていく数字を見ていた。
おもむろに立ち上がって、各自ドリンクバーを自由に入れる。
あの頃のわたしたちが急によみがえってきて、めっきり飲まなくなったメロンソーダを注いだ。
戦隊ヒーローの写真がプリントされた、特別仕様のメロンソーダを売っていたことがあった。
そのヒーローがなんという名前かも忘れたけど、そのイラストは今でも、たぶん描ける。
『ヒーローが現れてヒーローが消えた』という認知も竜樹のさじ加減だった。
ざっくりとしたその時間、わたしは竜樹の隣に座っていたのだった。
自分の部屋でコソコソ描いていたのに、竜樹が好きなヒーローを画用紙以外にも描いてみようと思ったのはたまたまだった。
ひまわりの鉢植えに水をやったついでに、家の前の道路をキャンバスに絵を描いてみようと思い立った。
じょうろのノズルの先に着いたシャワーヘッドを上向きにすると、水がやさしく広がる。でも、線が太くなってしまうから想定外に大きな絵になっていった。
けれども、住人しか通らないような道だ。誰の邪魔にもならないし、誰も邪魔してこない。
竜樹以外は。
平屋の借家が何軒か並んでいて、隣に竜樹一家が住んでいた。
仲良くなったのがいつであったか覚えていない。
誤解を恐れずにいうと、あたかも竜樹が自分のものであるかのように、与えられたおもちゃと同じような感覚で、竜樹とよく遊ぶようになっていた。
遊ぶ約束なんてしなくてもすぐそこにいて、どちらかが外で何かをしていたらすぐに気がついた。
じょうろで水をまいていたらなにやってんのと聞かれ、本当はかまってほしかったのに、絵を描いてるからあっちに行っててとあしらった。
それでもすげぇ、すげぇと興奮し、ナスカの地上絵でしょと、だいぶ期待を膨らませて待っているので、描いているのは竜樹が好きなヒーローだと告げた。
「等身大ってこと?」
「本当の大きさなんて知らないよ。ここじゃ顔だけしか描けないし」
「うまく描けているか上空から見てみようよ」
「上空って?」
竜樹はわたしの家に向かった。
玄関先においてある陶器でできた頑丈な傘立てを動かすと、上に乗り、玄関のひさしに登り始めたのだった。
「ちょっと。ムリじゃない?」
竜樹の背ではひさしに手がかかるくらいで、登ることができなかった。
「ハシゴだハシゴ」
自分の家に戻ると伸ばせるハシゴを持ってきてひさしの上に乗った。
「志帆も来いって。すごいから」
「すごいってなにがよ」
語彙力のなさに笑いながらも、その言葉の破壊力にやられてしまった。
すごいって、無邪気に竜樹が呼んでいる。
狭いひさしの上に、ふたり、ちょこんと腰掛けて、水で描いたヒーローを眺めた。
水が蒸発し、何分で描いたヒーローが消えるのか。竜樹はいつもストップウォッチ片手にタイムを計測していた。
ヒーローは天候に左右される。
ひどく暑い日は汗だくになりながらがんばって描くのだけど、蒸発するのが早くて数分と持たない。かといって、曇りの日はなかなか消えず、あきたのか一部が消えたくらいで切り上げるし、雨が降ってきたらそこで終わる。
結局のところ、ヒーローが地球にいられるという本家の設定と同じくらいの時間でストップウォッチが止められた。
いつの間にかやらなくなったあの遊びは、やっぱり同じようにいつの間にか思い出になって記憶の奥の方に綴じられていた。
そういえば、今日、わたしと一緒にいる時間は計測していないようだった。
これだけ長い時間、ふたりでさしでいるのはなかったかもしれない。いや、あったかな、小さいころは。
竜樹と一緒にいたトータルの時間はどれくらいだろう。きっと竜樹も知らない。一生涯のうちで増えることは、もうそうそうないかもしれないな。
始発電車が動くまでもうちょっと。
竜樹は少し眠たそうに羊を数え始めた。
「寝るつもりなの?」
「数字を数えれば逆に目が覚めるんだ」
そうだっけ?とわたしは笑いをこらえた。
「ちょっと数字熱が過ぎるんじゃない?」
「オレが数学に強いと思ったら大間違いだからな」
「知ってる」
いいながら、最近、あまり新しいことを知ってないなと、寂しいような不思議な感情がこみあげて、眠気覚ましのコーヒーをすすった。
夜が明ければまたそれぞれ。
気まずさと無縁のわたしたちは、夜が明けると、きっと、再会の約束もせずに別れるだろう。
それとも、一歩踏み出せばちがうのかな。
「0902865××××」
竜樹は羊の数から不意にでたらめな番号を読み上げた。
「090?」
もしかして、携帯の番号?
そういえば、あまりに近く過ぎて聞いたことがなかったかも。
「また乗り遅れるまで勉強してたら連絡してよ」
竜樹は眠たそうな顔して、また羊を数え始めた。



