光が俺の人生から逃げていく。
網膜色素変性症。
かつて絵を描くことだけが生き甲斐だった俺にとって、それは世界の終わりに等しかった。
あの頃の俺は、キャンバスに向かう毎日が眩しいほどに輝いていた。
それが今では、その輝きが俺の目を焼き、蝕む。
視野は針穴のように狭まり、周囲の輪郭はぼやけ、色彩は鈍く霞んでいく。
そして白内障。
医者は
「まだ手術するほど深刻ではない」
と笑ったが、俺にとっては致命的だった。
わずかに残された視界が白い闇に染まっていく。
光を浴びると激しい痛みに襲われる。羞明というらしい。
だから俺は太陽の下を歩くことができなくなった。
日中はカーテンを閉め切り、電灯もつけずに暗闇の中で過ごす。
まるで、夜の住人の気分だ。
いや、生きながらにして埋葬された、死人の気分が近いだろうか。
光の差さない暗い土の中に、俺は閉じ込められている。
そこには冷たさと、死の匂いが漂っている。
もちろん、絵を描くことなんてとうに諦めた。
生活費は雀の涙ほどの障害年金と、昔の貯金を切り崩してなんとか凌いでいる。
生活はなんとかできる。
外出できないということは、同時に多くの出費も抑えるという皮肉な結果になった。
取り上げられ、奪われたからこそ金はそれほど必要ない。
奴隷の生活が安く済むのと同じ理屈だ。
ただ、この生活で一番辛いのは、孤独だった。
「ごめん、もう限界だわ」
友人のユウキからそう告げられた。
ユウキは、俺が病を発症して以来、ずっと俺を支えてくれた。
通院の付き添い、週に一度の買い物、役所の手続き。夜なら大丈夫だと、一緒に散歩にも付き合ってくれた。
それでも、いつかこんな日が来ることは薄々気づいていた。
それがたまたま今日だった。
それだけのことだ。
終電を逃した。
春の桜が芽吹く少し前、ちょっと早い花見で少しだけ羽目を外してしまったのがいけなかった。
いや、俺がもう少し早く「帰ろう」と言えばよかったのかもしれない。
久しぶりの酒。
友人たちとともに楽しむ酒は、俺にとっては数年ぶりに出会ったオアシスのようだった。
乾ききった俺には、酒より友人とともにいられる、そのことが何より俺を酔わせた。
酒が強いわけでもないのに、飲むペースはどんどん早くなった。
完全に俺の失敗だ。
ユウキは、「もう歩けない」と俺が言ったとき、露骨に嫌そうな顔をした。
いや、顔はもう見えないが、雰囲気で分かる。漂う空気が、明らかに「拒絶」と「嫌悪」の気配を漂わせたのだ。
「タクシー呼ぶか……いや、でもなぁ……」
泥酔してうまく回らない舌でそう言って、スマホを取り出しては、すぐにポケットにしまう。その仕草は、さらに惨めになった。
「悪い、俺、先帰るわ」
そう言って、ユウキは駅の階段を駆け上がっていく。
「おい、ユウキ!」
俺が呼んでも、彼は一度も振り返らなかった。
少し歩けば別の鉄道がある。ユウキはそこに向かったのだろう。
酔っ払いの、まして目も見えない足手まといが一緒では絶対に間に合わない距離だ。
今なら、自分ひとりだけなら帰ることができる。
そう考えたのだろう。
無理もない。
誰だって羽目を外したバカな酔っ払いの介抱などしたくない。自分が帰れなくなるリスクがあるならなおさらだ。
その場に、俺は一人残された。
俺の世界は、外も内も真っ暗な闇に包まれた。
目が見えなくなるのは俺のせいじゃない。病気のせいだ。遺伝子が、俺の運命がそうしろと命令してしまったからだ。
だが、酔いつぶれたのは完全に俺の責任だ。
寂しかった。
寂しかったから、久々の酒に溺れた。
何どどう言いつくろっても、全ては俺が悪い。
友人は消えた。
もう取り戻すことはできない。
壁にもたれかかり、そのままズルズルと地面に座り込んだ。足を投げ出す。
膝を抱える気にもなれなかった。まるで死体だ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
俺はどんな悪いことをしたのだろう?
酔ってバカをしたからだ。
誰かを傷つけたのか?
友人に手間を取らせ、帰る権利さえ奪った。
でもそれは全部病気のせい……というのはただの言い訳なのは分かっている。
でも言い訳せずにはいられない。
他にどうしようがあった!?
俺を責めるのなら、お前も目を潰して生きてみるがいい。
日々、生きることを、できることを徐々に奪われるという苦痛は、実際に体験しないと決して理解できるものじゃない。
では、なぜ俺の遺伝子はこんな呪いを俺に刻みつけたのだ?
前世でよほど悪いことでもしたのだろうか?
だとしたら、いったいどんなヒドイ悪事をやらかしたのだろう。
人を殺したのか。
国家を破滅させたのか。
人類を滅亡させようとしたのか。
いや、違う。
たぶん、どれも違う。
ただ、運が悪かっただけ。それだけだ。
「生きてるのか、俺」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく、闇の中に吸い込まれていった。
そりゃ心臓は動いている。
心臓が止まっていないだけ。
ただ死んでいないだけ。
それは本当に生きていると言えるのだろうか?
このまま死んだほうが楽になれる、そんな考えがよぎる。
病気を宣告された時に、最初に思い浮かんだことだ。
でもどうやって?
電車に飛び込もうにも、その電車がどこにあるか分からないし、今日はもう走っていない。
明日の朝まで待って、音を頼りにフラフラ歩けば電車のそばまではいけるかもしれない。
だが盲人用の白杖をもって一人で頼りなく歩く俺を周囲が見逃してくれるわけがない。
飛び込む前に止められるのが関の山だ。
普段は誰も助けてくれないくせに、自分で始末をつけようとした時だけは全力で邪魔してくる。
偽善者どもめ。
いや、でも自分でも同じことをする。
何が正しいんだ。
俺が間違っているのか。
周りが間違っているのか。
あるいは世の中そのものが、何もかもが間違っているのか。
自分で終わらせることもできないのか。
ここまで考えると、最初の頃は涙が流れた気がする。だが今は涙も零れない。ただ乾いた笑いが漏れるだけ。
もう惨めだとか、悲しいとか、そんな気持ちすらない。
空っぽだ。
俺は空っぽな、何も入ってない入れ物だ。それも壊れた入れ物。ひびが入り、ついに穴が空いた。
もう入れ物としては使えない。
ふと、冷たい風が頬を撫でる。
どこからか、甘い香りが漂ってきた。
誰かいるのか?
顔を上げると、目の前に誰かが立っているのがぼんやりと見えた。
いや、違う。
立っているのは、誰かじゃない。
……女の子?
その少女は、白い肌と、長く艶やかな黒髪を持っていた。まるで、夜の闇を人の形にしたような、神秘的な美しさ。
髪の両サイドに桃色の小さな桜の髪飾りが印象的だ。
俺は思わず息をのむ。
恐怖だ。
彼女の目が赤く、仄かに光っていたからだ。
吸血鬼。
そんな馬鹿げた言葉が頭に浮かんだ。
幼い頃に読んだ、絵本の中に出てくるような存在。
しかし、彼女が醸し出す雰囲気は、絵本とは全く違う。
ただただ、美しい。そして、恐ろしい。
俺は、反射的に後ずさりしようとした。が、後ろは壁だ。逃げようがない。
「大丈夫?」
彼女の声は、夜の静けさに溶け込むように優しかった。
髪飾りにそっと触れながら、前かがみになって俺の顔を覗き込む。
「……誰?」
震える声でそう言うのが精一杯の俺に、彼女は静かに微笑んだ。
「サクラ。通りすがり。終電に乗れなかったの?」
まるで、俺の状況をすべて見透かしているかのように。
「ああ。でも、君は?」
俺の問いに、彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「私も、行き場をなくしたから。だからここにいる」
彼女は、俺の隣にそっと座った。
彼女から漂う甘い香りが、俺の不安を少しだけ和らげる。
桜の香りだ。
「君も、夜にしか歩けないの?」
虐待。
最初にそう考えた。
彼女は明らかに未成年だ。本来こんな時間に、それも一人で出歩いているはずがない。
家に居場所がないのだろうか。
俺の問いに、彼女は何も答えない。
ただ、静かに俺の顔を見つめている。
その視線が、なぜかとても心地よかった。
「俺は……もう、終わったから」
俺は、自分の病気のこと、ユウキに捨てられたこと、そして、もう生きる気力が湧かないことを、堰を切ったように話し始めた。
彼女だって親に放置されているのかもしれない。こんなことを言ってどうなるのか。むしろ、大人として彼女の身を案じるべきなのに、俺は自分の身の上を話すことばかり優先している。
彼女は、一言も口を挟まず、ただ静かに聞いてくれた。
俺は、話し終えると、彼女に尋ねた。
「君は──」
「吸血鬼」
俺の問いを遮るように、彼女は静かに答えた。
「……って言ったら信じる?」
「……うん」
俺は、恐怖よりも、どこか安心していた。
俺もまた、夜の住人だからだ。昼の世界に俺の居場所はもうない。
「俺も……君みたいになれるのかな」
彼女は、少しだけ驚いたような顔をした。
「……どうしてそう思うの」
「俺は、たぶん、太陽に嫌われたんだ……世界にも。人として必要とされてないんだ。昼の世界に、人間の世界で生きていけないんだったら、吸血鬼になって夜にだけ生きるのも同じかな、って」
自分でも本気なのか分からない。ただ、冗談で言っているわけではなかった。
生きる価値も、理由も、その必要も、もうない。
自分で終わらせることも。
どうせ絶望しかないなら吸血鬼になってもたいして変わりない。
「……こっちに来ちゃダメ」
彼女は、悲しそうに微笑んだ。桜の髪飾りにそっと触れる。
きっと彼女の癖なのだろう。
「どうして?」
「あなたは、まだ生きていける」
彼女の言葉に、俺は反発する。
「何が!? 俺はもう、何もできないよ! 絵も描けない、仕事もできない、友達も消えた! 生きてる意味なんて、どこにあるんだ!?」
俺は感情のままに叫んだ。
しかし、彼女は、俺の言葉を否定しなかった。
ただ、静かに、俺の目を見ていた。
「それでも、あなたは、まだ、世界を感じることができる」
「…どういう意味?」
「……あなたの香りはまだ生きている。風の冷たさを、肌で感じる。私の声も聞こえる。そして」
彼女の手が俺の手を握る。
一瞬、冷たい、と思ったがほんのりとぬくもりがある。
手の中に桜の花びらの感触がある。彼女の髪飾りは、作り物ではない本物の桜なのだろうか。
「あなたの手も、私の指も、花びらを感じることができる。分かるでしょ?」
感じる。
絹のような、滑らかで繊細な感触。
やわらかく、しっとりと潤いがある。
葉脈のように隆起してはいない花脈は、これまでは触れても気付きもしなかったろう。だが、今は繊細な一つ一つの線を、指先がしっかりと感じ取れる。見えていた頃には気付きもしなかった。
「それに、あなたは、まだ、世界を愛することができる」
「……愛?」
「そう。この世界には、まだ、あなたを待っている人がいるかもしれない。絵は描けなくても、あなたが造るなにかを待っている人がいるかもしれない」
「そんなの……分からないじゃないか。それに、会えなかったら、いないのと同じだ」
「あなたは、まだ、光の世界で生きられる。目で見えなくても、香りが、響きが、手触りが、なにより心が光を感じてる。 その光を、諦めないで」
彼女の言葉が、俺の胸に、暖かい光を灯したような気がした。
「でも、俺は……俺に、なにができるんだ。俺にできることなんて、もう何も──」
「……あなたは、まだ、終わっていないわ」
彼女は、そう言うと、立ち上がった。
「もう行かなきゃ」
そう言って、彼女は、夜の闇の中を歩いて行く。
「あ、待って──」
俺は立ち上がろうとしたが、なぜか出来なかった。
手を伸ばすことしかできない。
「吸血鬼なんて、いないわ。いもしない者に、会いたがったりしないで」
俺は耳障りな携帯のコール音で目を覚ました。
足を投げ出して座り込んだままの姿勢で眠っていたようだ。
夢だったのか?
空が少しずつ白み始めている。
東の空から、優しい光が差し込んでいる。
携帯のコール音は、ユウキのものだ。
「ごめん、本当ごめん、俺も、どうかしてた。今から迎えに行くから……!」
ユウキは電話越しの声で泣いているのが分かった。
あいつも限界だったんだ。
「大丈夫。駅員さんに聞いてなんとか帰るよ」
俺はそう言って電話を切った。
……光の世界。
俺は、彼女の言葉を反芻する。
俺は、まだ、この世界で生きていけるのだろうか。
俺は朝の光に、少しだけ目を細めた。
これまでは苦痛と絶望しかもたさなかった眩しさ。
今は、少しだけ違うものを感じる。
暖かい。
ほんの少しの陽の光の暖かさ。今までは感じる余裕もなかった。
「……まだ、何かできるのかな」
誰に聞かれるでもなく、俺は呟いた。
手のひらに、何かがあった。
花びらだ。
夢で感じた桜の花びらと同じ感触。
指そっとなぞる。
今の俺の指でなら感じ取れる。小さな花脈の感触。
見えない目に、脳裏にくっきりと花びらが蘇る。
近いうちに目は見えなくなるだろう。
それでも、俺にはまだこの指がある。風にそよぐ花びらの、微かな震えさえも指先が捉える。
まずはこの小さく香る花びらをこの指が感じるままに形にしたい。
絵ではない、指先で感じ取れる何かで。粘土でも、木彫りでも、彫刻でも陶芸でもなんでもいい。
それが俺の、なくしてしまった光になるかもしれない。
頬をなでる優しい風に桜の香りがした。彼女と同じ匂い。
桜が、咲いているのだ。
目には映らなくても、はっきりと分かる。
俺はまだ、感じることができる。
網膜色素変性症。
かつて絵を描くことだけが生き甲斐だった俺にとって、それは世界の終わりに等しかった。
あの頃の俺は、キャンバスに向かう毎日が眩しいほどに輝いていた。
それが今では、その輝きが俺の目を焼き、蝕む。
視野は針穴のように狭まり、周囲の輪郭はぼやけ、色彩は鈍く霞んでいく。
そして白内障。
医者は
「まだ手術するほど深刻ではない」
と笑ったが、俺にとっては致命的だった。
わずかに残された視界が白い闇に染まっていく。
光を浴びると激しい痛みに襲われる。羞明というらしい。
だから俺は太陽の下を歩くことができなくなった。
日中はカーテンを閉め切り、電灯もつけずに暗闇の中で過ごす。
まるで、夜の住人の気分だ。
いや、生きながらにして埋葬された、死人の気分が近いだろうか。
光の差さない暗い土の中に、俺は閉じ込められている。
そこには冷たさと、死の匂いが漂っている。
もちろん、絵を描くことなんてとうに諦めた。
生活費は雀の涙ほどの障害年金と、昔の貯金を切り崩してなんとか凌いでいる。
生活はなんとかできる。
外出できないということは、同時に多くの出費も抑えるという皮肉な結果になった。
取り上げられ、奪われたからこそ金はそれほど必要ない。
奴隷の生活が安く済むのと同じ理屈だ。
ただ、この生活で一番辛いのは、孤独だった。
「ごめん、もう限界だわ」
友人のユウキからそう告げられた。
ユウキは、俺が病を発症して以来、ずっと俺を支えてくれた。
通院の付き添い、週に一度の買い物、役所の手続き。夜なら大丈夫だと、一緒に散歩にも付き合ってくれた。
それでも、いつかこんな日が来ることは薄々気づいていた。
それがたまたま今日だった。
それだけのことだ。
終電を逃した。
春の桜が芽吹く少し前、ちょっと早い花見で少しだけ羽目を外してしまったのがいけなかった。
いや、俺がもう少し早く「帰ろう」と言えばよかったのかもしれない。
久しぶりの酒。
友人たちとともに楽しむ酒は、俺にとっては数年ぶりに出会ったオアシスのようだった。
乾ききった俺には、酒より友人とともにいられる、そのことが何より俺を酔わせた。
酒が強いわけでもないのに、飲むペースはどんどん早くなった。
完全に俺の失敗だ。
ユウキは、「もう歩けない」と俺が言ったとき、露骨に嫌そうな顔をした。
いや、顔はもう見えないが、雰囲気で分かる。漂う空気が、明らかに「拒絶」と「嫌悪」の気配を漂わせたのだ。
「タクシー呼ぶか……いや、でもなぁ……」
泥酔してうまく回らない舌でそう言って、スマホを取り出しては、すぐにポケットにしまう。その仕草は、さらに惨めになった。
「悪い、俺、先帰るわ」
そう言って、ユウキは駅の階段を駆け上がっていく。
「おい、ユウキ!」
俺が呼んでも、彼は一度も振り返らなかった。
少し歩けば別の鉄道がある。ユウキはそこに向かったのだろう。
酔っ払いの、まして目も見えない足手まといが一緒では絶対に間に合わない距離だ。
今なら、自分ひとりだけなら帰ることができる。
そう考えたのだろう。
無理もない。
誰だって羽目を外したバカな酔っ払いの介抱などしたくない。自分が帰れなくなるリスクがあるならなおさらだ。
その場に、俺は一人残された。
俺の世界は、外も内も真っ暗な闇に包まれた。
目が見えなくなるのは俺のせいじゃない。病気のせいだ。遺伝子が、俺の運命がそうしろと命令してしまったからだ。
だが、酔いつぶれたのは完全に俺の責任だ。
寂しかった。
寂しかったから、久々の酒に溺れた。
何どどう言いつくろっても、全ては俺が悪い。
友人は消えた。
もう取り戻すことはできない。
壁にもたれかかり、そのままズルズルと地面に座り込んだ。足を投げ出す。
膝を抱える気にもなれなかった。まるで死体だ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
俺はどんな悪いことをしたのだろう?
酔ってバカをしたからだ。
誰かを傷つけたのか?
友人に手間を取らせ、帰る権利さえ奪った。
でもそれは全部病気のせい……というのはただの言い訳なのは分かっている。
でも言い訳せずにはいられない。
他にどうしようがあった!?
俺を責めるのなら、お前も目を潰して生きてみるがいい。
日々、生きることを、できることを徐々に奪われるという苦痛は、実際に体験しないと決して理解できるものじゃない。
では、なぜ俺の遺伝子はこんな呪いを俺に刻みつけたのだ?
前世でよほど悪いことでもしたのだろうか?
だとしたら、いったいどんなヒドイ悪事をやらかしたのだろう。
人を殺したのか。
国家を破滅させたのか。
人類を滅亡させようとしたのか。
いや、違う。
たぶん、どれも違う。
ただ、運が悪かっただけ。それだけだ。
「生きてるのか、俺」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく、闇の中に吸い込まれていった。
そりゃ心臓は動いている。
心臓が止まっていないだけ。
ただ死んでいないだけ。
それは本当に生きていると言えるのだろうか?
このまま死んだほうが楽になれる、そんな考えがよぎる。
病気を宣告された時に、最初に思い浮かんだことだ。
でもどうやって?
電車に飛び込もうにも、その電車がどこにあるか分からないし、今日はもう走っていない。
明日の朝まで待って、音を頼りにフラフラ歩けば電車のそばまではいけるかもしれない。
だが盲人用の白杖をもって一人で頼りなく歩く俺を周囲が見逃してくれるわけがない。
飛び込む前に止められるのが関の山だ。
普段は誰も助けてくれないくせに、自分で始末をつけようとした時だけは全力で邪魔してくる。
偽善者どもめ。
いや、でも自分でも同じことをする。
何が正しいんだ。
俺が間違っているのか。
周りが間違っているのか。
あるいは世の中そのものが、何もかもが間違っているのか。
自分で終わらせることもできないのか。
ここまで考えると、最初の頃は涙が流れた気がする。だが今は涙も零れない。ただ乾いた笑いが漏れるだけ。
もう惨めだとか、悲しいとか、そんな気持ちすらない。
空っぽだ。
俺は空っぽな、何も入ってない入れ物だ。それも壊れた入れ物。ひびが入り、ついに穴が空いた。
もう入れ物としては使えない。
ふと、冷たい風が頬を撫でる。
どこからか、甘い香りが漂ってきた。
誰かいるのか?
顔を上げると、目の前に誰かが立っているのがぼんやりと見えた。
いや、違う。
立っているのは、誰かじゃない。
……女の子?
その少女は、白い肌と、長く艶やかな黒髪を持っていた。まるで、夜の闇を人の形にしたような、神秘的な美しさ。
髪の両サイドに桃色の小さな桜の髪飾りが印象的だ。
俺は思わず息をのむ。
恐怖だ。
彼女の目が赤く、仄かに光っていたからだ。
吸血鬼。
そんな馬鹿げた言葉が頭に浮かんだ。
幼い頃に読んだ、絵本の中に出てくるような存在。
しかし、彼女が醸し出す雰囲気は、絵本とは全く違う。
ただただ、美しい。そして、恐ろしい。
俺は、反射的に後ずさりしようとした。が、後ろは壁だ。逃げようがない。
「大丈夫?」
彼女の声は、夜の静けさに溶け込むように優しかった。
髪飾りにそっと触れながら、前かがみになって俺の顔を覗き込む。
「……誰?」
震える声でそう言うのが精一杯の俺に、彼女は静かに微笑んだ。
「サクラ。通りすがり。終電に乗れなかったの?」
まるで、俺の状況をすべて見透かしているかのように。
「ああ。でも、君は?」
俺の問いに、彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「私も、行き場をなくしたから。だからここにいる」
彼女は、俺の隣にそっと座った。
彼女から漂う甘い香りが、俺の不安を少しだけ和らげる。
桜の香りだ。
「君も、夜にしか歩けないの?」
虐待。
最初にそう考えた。
彼女は明らかに未成年だ。本来こんな時間に、それも一人で出歩いているはずがない。
家に居場所がないのだろうか。
俺の問いに、彼女は何も答えない。
ただ、静かに俺の顔を見つめている。
その視線が、なぜかとても心地よかった。
「俺は……もう、終わったから」
俺は、自分の病気のこと、ユウキに捨てられたこと、そして、もう生きる気力が湧かないことを、堰を切ったように話し始めた。
彼女だって親に放置されているのかもしれない。こんなことを言ってどうなるのか。むしろ、大人として彼女の身を案じるべきなのに、俺は自分の身の上を話すことばかり優先している。
彼女は、一言も口を挟まず、ただ静かに聞いてくれた。
俺は、話し終えると、彼女に尋ねた。
「君は──」
「吸血鬼」
俺の問いを遮るように、彼女は静かに答えた。
「……って言ったら信じる?」
「……うん」
俺は、恐怖よりも、どこか安心していた。
俺もまた、夜の住人だからだ。昼の世界に俺の居場所はもうない。
「俺も……君みたいになれるのかな」
彼女は、少しだけ驚いたような顔をした。
「……どうしてそう思うの」
「俺は、たぶん、太陽に嫌われたんだ……世界にも。人として必要とされてないんだ。昼の世界に、人間の世界で生きていけないんだったら、吸血鬼になって夜にだけ生きるのも同じかな、って」
自分でも本気なのか分からない。ただ、冗談で言っているわけではなかった。
生きる価値も、理由も、その必要も、もうない。
自分で終わらせることも。
どうせ絶望しかないなら吸血鬼になってもたいして変わりない。
「……こっちに来ちゃダメ」
彼女は、悲しそうに微笑んだ。桜の髪飾りにそっと触れる。
きっと彼女の癖なのだろう。
「どうして?」
「あなたは、まだ生きていける」
彼女の言葉に、俺は反発する。
「何が!? 俺はもう、何もできないよ! 絵も描けない、仕事もできない、友達も消えた! 生きてる意味なんて、どこにあるんだ!?」
俺は感情のままに叫んだ。
しかし、彼女は、俺の言葉を否定しなかった。
ただ、静かに、俺の目を見ていた。
「それでも、あなたは、まだ、世界を感じることができる」
「…どういう意味?」
「……あなたの香りはまだ生きている。風の冷たさを、肌で感じる。私の声も聞こえる。そして」
彼女の手が俺の手を握る。
一瞬、冷たい、と思ったがほんのりとぬくもりがある。
手の中に桜の花びらの感触がある。彼女の髪飾りは、作り物ではない本物の桜なのだろうか。
「あなたの手も、私の指も、花びらを感じることができる。分かるでしょ?」
感じる。
絹のような、滑らかで繊細な感触。
やわらかく、しっとりと潤いがある。
葉脈のように隆起してはいない花脈は、これまでは触れても気付きもしなかったろう。だが、今は繊細な一つ一つの線を、指先がしっかりと感じ取れる。見えていた頃には気付きもしなかった。
「それに、あなたは、まだ、世界を愛することができる」
「……愛?」
「そう。この世界には、まだ、あなたを待っている人がいるかもしれない。絵は描けなくても、あなたが造るなにかを待っている人がいるかもしれない」
「そんなの……分からないじゃないか。それに、会えなかったら、いないのと同じだ」
「あなたは、まだ、光の世界で生きられる。目で見えなくても、香りが、響きが、手触りが、なにより心が光を感じてる。 その光を、諦めないで」
彼女の言葉が、俺の胸に、暖かい光を灯したような気がした。
「でも、俺は……俺に、なにができるんだ。俺にできることなんて、もう何も──」
「……あなたは、まだ、終わっていないわ」
彼女は、そう言うと、立ち上がった。
「もう行かなきゃ」
そう言って、彼女は、夜の闇の中を歩いて行く。
「あ、待って──」
俺は立ち上がろうとしたが、なぜか出来なかった。
手を伸ばすことしかできない。
「吸血鬼なんて、いないわ。いもしない者に、会いたがったりしないで」
俺は耳障りな携帯のコール音で目を覚ました。
足を投げ出して座り込んだままの姿勢で眠っていたようだ。
夢だったのか?
空が少しずつ白み始めている。
東の空から、優しい光が差し込んでいる。
携帯のコール音は、ユウキのものだ。
「ごめん、本当ごめん、俺も、どうかしてた。今から迎えに行くから……!」
ユウキは電話越しの声で泣いているのが分かった。
あいつも限界だったんだ。
「大丈夫。駅員さんに聞いてなんとか帰るよ」
俺はそう言って電話を切った。
……光の世界。
俺は、彼女の言葉を反芻する。
俺は、まだ、この世界で生きていけるのだろうか。
俺は朝の光に、少しだけ目を細めた。
これまでは苦痛と絶望しかもたさなかった眩しさ。
今は、少しだけ違うものを感じる。
暖かい。
ほんの少しの陽の光の暖かさ。今までは感じる余裕もなかった。
「……まだ、何かできるのかな」
誰に聞かれるでもなく、俺は呟いた。
手のひらに、何かがあった。
花びらだ。
夢で感じた桜の花びらと同じ感触。
指そっとなぞる。
今の俺の指でなら感じ取れる。小さな花脈の感触。
見えない目に、脳裏にくっきりと花びらが蘇る。
近いうちに目は見えなくなるだろう。
それでも、俺にはまだこの指がある。風にそよぐ花びらの、微かな震えさえも指先が捉える。
まずはこの小さく香る花びらをこの指が感じるままに形にしたい。
絵ではない、指先で感じ取れる何かで。粘土でも、木彫りでも、彫刻でも陶芸でもなんでもいい。
それが俺の、なくしてしまった光になるかもしれない。
頬をなでる優しい風に桜の香りがした。彼女と同じ匂い。
桜が、咲いているのだ。
目には映らなくても、はっきりと分かる。
俺はまだ、感じることができる。
