俺、東雲迅は今年史上最大の危機に陥っている。
もう何度確認したか覚えていない現在の時刻は夜中の0時7分。あと五分足らずで、俺が乗る最終電車が出発してしまう。
「まずいな……」
焦りと不安から吐き出された声は自分でも驚くほどに切羽詰まっていた。
俺は少しばかり混雑している人の大群を掻き分け、人目を憚ることなく走り続けた。
心臓の鼓動は激しく高鳴り、呼吸は浅く、久ぶりに走ったからか、足が縺れそうになった。
遂に最寄り駅に辿り着き、大仰に定期券を改札機にタッチして、構内の階段を一段ずつ飛ばしながら駆け上がった。
階段を駆け上がった瞬間、無慈悲にも終電の扉は閉ざされていた。
「はあ、はあ」
俺は荒れた息を整えるのと同時に、さっきまでの苦労が水の泡になってしまったことを悔やみながら天井を見上げ、目を閉じた。
視覚からの情報がなくても聴覚からの情報で事足りる。ブレーキ緩解音と共に電車は鈍い轟音をあげて動き出している。
息がある程度整い視線を戻すと、電車はホームから完全に姿を消し、赤いテールライトと車内のLEDライトが闇夜へと吸い込まれていくのが見えた。
しんと静まり返ったホームで、俺は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「はあ……」
深々と嘆息をつく。
こういう時は、一分一秒たりとも時刻通りに動く日本の鉄道に少し辟易した。
とことこと改札を出て、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
ここは世界一位の乗降客数を誇る駅であり、駅前には賑やかな繁華街や多くの深夜営業をする飲食店、エンターテイメント施設などがある。
どこか、世を明かせる場所がないかと探し始めたのだが、今日が給料日一日前ということを思い出した。
渋々、財布の中身を確認すると、危惧していたことが現実に起こってしまった。
財布の中身に入っていた残金は425円。クレジットカードは今月の利用可能金額の上限に達していた。
牛丼程度ならいけると思ったのだが、少し足らなかった。仮に足りたとしても牛丼を一杯だけ食べて、始発の時間まで居座り続けるのは店側としては迷惑極まりない。
次に、誰かに迎えに来てもらおうと、メッセージアプリを開いた。
しかし、両親や古くからの友人はみんな地元の新潟県在住なので、流石に気が引けた。とは言え、都内近郊に在住の友人は、かれこれ二年くらい音沙汰ない大学の頃の友人ばかりであり、今連絡したところで来てくれる可能性は非常に低い。
会社の人を頼る訳にも行かず、歩いて家に帰ろうとも思ったのだが、俺は都内でも比較的安価な場所に住んでいるため、ここから歩いたら片道三時間程度かかってしまう。
これほどの時間がかかると、帰ったところで睡眠時間もあまり確保できないと思ったので、今日は娯楽に満ち溢れたこの街で夜を明かすことを覚悟した。
ひとまず、この駅周辺は繁華街の数が多いことに比例して治安の悪さもあまり良くないので、比較的安全な駅の南側へと移動した。
そこには少人数ではあるが、俺と同じように終電を逃して為す術が無くなってしまった同志たちがいた。
とりあえず、彼らに倣ってベンチに腰掛けた。
座った瞬間、ふくらはぎから力が抜け、脱力と同時に夜風が頬を撫で、都会の喧騒を遠くに感じさせた。
最近は夏にも関わらず、連日曇りの日が続いており、猛暑日に比べたら過ごしやすい日だったが、夏の夜の独特な蒸し暑さは何とも気持ちが悪かった。
誰かが自動販売機で何かを購入した音が耳に入ると、自分も喉が渇いたことを思い出し、何かを購入することにした。
自動販売機に目を向けると、自動販売機の横に一人の若い女性が俯いて座っていた。
白いニットに青と白のギンガムチェックのスカートという無垢で素朴という印象を与え、肩までかかる長めの黒髪は、街灯に照らされてほんのり茶色がかっている。
彼女の小さい肩は小刻みに震えていた。こんな夏の日に寒さで震えているわけでもないので、状況から察するに大体検討はつく。
俺は関わったら面倒臭そうだと感じ、その場から逃げるようにして立ち去ろうとした。
しかし、思うように足が進まなかった。まるで彼女を見捨てるな。と、俺の理性が訴えかけるように思えた。
俺はまるで磁石に引き寄せられるかのように彼女に近ずき、腰を下ろした。気がつけば、勝手に口が動いていた。
「大丈夫ですか?」
すぐに返事はなかった。
ゆっくりと顔を上げた彼女の目元には、涙の痕がくっきりと残っていた。
「ごめんなさい、放っておいてくれませんか?」
その声には、余計なお節介だ。と、俺の気ずかいに憤慨するものではなく、一つのお願いのように聞こえた。
「いや、謝らなくていいです。終電逃して、うろちょろしてただけなんで」
「そうなんですね。終電、逃しちゃったんですか?」
「はい。あと一歩ぐらいだったんですけどね〜」
ふっと、彼女は軽い笑みを浮かべた。
「私も、終電逃したというか、逃げてきたんです」
「そうなんですか?」
「はい。自分でもよく分からないんですが、今日はなんだか帰りたくなかったんです……」
「なら、ちょうど良かったです」
「え?」
俺は彼女の横に腰掛けると、彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべていた。
「俺、始発の時あで暇なんで、これも何かのご縁だと思って、少し話しませんか?」
彼女は、少し悩んだ後に小さく頷いた。
「じゃあ、少しだけ……」
俺は彼女の横に座った。
「名前なんて言うんですか?」
「……澪。暁澪です」
「俺は東雲迅です」
「東雲って、夜明けの?」
「そうです。だから、夜明けって意味の二人が出会いましたね」
しばしの静寂のあと、彼女は照れくさそうに笑った。
「なんか……変な縁、ですね」
「変だけど、悪くないじゃなですか」
「……そうですね」
彼女は再び、俯いてしまった。
「飲み物、何がいい?」
「え?」
彼女は驚いたように顔を上げ、細い声で言った。
「……カフェオレ」
ただでさえ残金が少ないのに、俺は迷うことなく彼女のためにカフェオレを購入していた。ついでに走って失われた水分を補給するために、自分用にペットボトルの水も購入した。
「ありがとうございます……」
彼女にカフェオレの缶を差し出すと、彼女は両手で缶を受け取った。そのまま、ぎゅっと抱えるようにして胸の前で持った。
「……あったかい」
小さく呟くその声に、俺の胸が少し痛んだ。
ほんの少し、彼女の肩の力が抜けた気がした。
俺は再び、彼女の横に座ると、初めて彼女から話を切り出した。
「……私、仕事のことで泣いてたんです」
彼女方を一瞥すると、彼女は再び涙目になっていた。俺は開けようとしていたペットボトルのキャップをそっと戻した。
「大変な仕事なんですか?」
「はい。私、飛行機のCAやってるんです」
「え? すごいですね」
俺は素直に感心した。出張などでよく使用している飛行機に同乗するCA。彼女もそのうちの一人なのだと。
「小さい頃から憧れてて。私もああなりたいと思って……ほんとに頑張って、やっと憧れてた職業に就けたのに」
彼女の声が少し震え始めた。
「毎日理不尽なお客さんに怒鳴られて、先輩には詰められて。それでも、ずっと笑顔を取り繕わなきゃいけないのが辛くて……」
彼女は再び目尻から涙が出るほどになってしまい、必死に服の袖で涙を拭っていた。
「すいません。こんな話……」
彼女は力が抜けてしまったのかカフェオレの缶が手元から落ちてしまった。
俺は缶をそっと拾い上げ、プルタブを静かに開け、彼女に手渡した。
「飲んでください。落ち着きますよ」
彼女は再び、両手で缶を受け取り、自分の口元まで運んだ。カフェオレの温かさが彼女の心を落ち着かせたのか、彼女は少し震えた声で俺に話けてきた。
「東雲さんは、どうしてそんなに優しいんですか?」
それは自分でも分からない問いだった。そもそも自分を優しいだなんて思ったことはない。今のだって、ただ話を聞いただけ。慰めの言葉も何も言っていない。でも強いて言えることがあった。
「……俺も澪さんと似ているからかもしれません」
「え?」
彼女はこちらに顔を向けた。目元の赤みはまだ残っているが、さっきよりは落ち着いてるように見えた。
「俺、この近くの証券会社に勤めてるんです」
「すごい。なんか、バリバリって感じがします」
俺は少し笑って首を横に振った。
「確かに最初はバリバリ働くぞ!といきこんでいました。でも……入社して暫くたった頃、ここが本当の居場所なのか分からなくなってきたんです」
「………」
「ノルマに追われて、長時間働いて、上司は愛想良く振舞って、これが俺の本当にやりたいことなのかなって」
俺は正面を見つめたまま、淡々とした声でありのままの思いを口にした。
「だから、さっき澪さんが話していたことが少し分かる気がしたんです」
俺は正面を向いたまま、淡々とした声でありのままに思ったことを彼女に言い放った。
「でも、私は澪さんのこと、心の底から凄いと思っています」
彼女は目を伏せ、両手で握っている缶を強く握りしめた。
「……そんなこと、ないですよ」
「俺はそう思うんです。憧れた夢の職業が昔からあって、その目標に向かって一層努力した。でも、俺には何もないんです。努力した経験も何もかも」
「そんなこと……」
俺は彼女の言葉を遮るようにして続けた。
「それに、こうして誰かの前で泣けるのも、強さだと思います。俺、友人の前でも泣くのなんて無理で……」
「……私、強くなんかないです」
「強くなきゃ、きっと夢なんて追えないですよ」
静かだった。都会の喧騒は遮断され、まるでこの世界に俺たちしかいないような静謐な時間に包まれた。
でも、この沈黙の時間をを俺は気まずいとは思わなかった。
「……東雲さんって、なんか変ですね」
「よく言われます」
ふっと笑うと、彼女もつられてふっと笑った。今までの笑いとは違って、柔らかさが宿っていた。
「でも、ありがとうございます。なんだか気持ちが軽くなった気がします」
「それは良かったです」
そして俺たちは、黙って目の前にあるベンチに身体を預けた。まるで、それぞれの疲れた気持ちを隣に置くように。
「ねえ、東雲さん」
「ん?」
「さっき、自分には何もないって言ってましたけど……それ、本気で思ってます?」
俺は手に握られた水に反射する自分の顔を見て、少し考えてから答えを出した。
「思っているっていうか、もう、分からなくなっているのかもしれません」
「それ、私も分かる気がします」
彼女はカフェオレを少量口に含んだあと、小さく頷いた。
「私もそうだった。空の上では自分のことを取り繕ってばかり。理不尽なお客さんにも怒りを抑えて接客して、先輩には顔色を伺いながら話して……」
「………」
「だけど、誰にも言えなかった。家族にも応援してくれたし、友達にも〝夢が叶って良かったね〟って言われて。でも本当は今、辞めたいと思ってる」
俺は何も言えなかった。ただ頷くことしかできない赤べこのように。
「でも……」
彼女は今までにないくらいの笑顔で笑っていた。
「変ですよね。初対面の人に、こんなに話せるなんて」
「変かもしれないですけど、俺は嬉しいですよ」
「え?」
「なんか……ちょっと、俺も気持ちが軽くなった気がします」
「それは良かったです」
彼女はさっきまでの涙が嘘かのように、笑顔になっていた。
そこからは始発電車の時間が近づくまで、何の他愛のない話を交わした。
お互いの仕事で起こる、楽しいこと。嬉しかったこと。久しぶりにこんなに楽しく人と会話した気がした。
気づけば、駅前の喧騒はすっかり静まり返っていた。繁華街や深夜営業の飲食店、エンターテイメント施設は夜の仕事を終え、店のシャッターを下ろし始めた。
始発電車の案内が電光掲示板に表示され始め、どこか遠くで新聞配達のバイクの音がする。
「私、そろそろ帰ります」
彼女は立ち上がり、初めて会った時とは打って変わって、頼もしい姿だった。
「気をつけて」
「はい。……東雲さんも、ちゃんと休んでくださいね」
「また、どこかで会えたら」
「ええ。でも、また会える気がします」
二人の間に、確かなものはない。連絡先も、約束も、きっとまた出会えるという確証はどこにもない。
けれど、それでも。
この夜のことは、きっと心に残り続ける。
〝あの時、あの場所で出会えて良かった〟と、いつか思えるように。
彼女は改札を通り、軽く会釈をして、ホームへと向かった。彼女の後ろ姿を見て、振り返されるわけでもなく手を振った。
今日の空模様は連日の曇り空と違って快晴。
世界はもう一度、静かに、ゆっくりと動き出した。