夜明けとともに私は目覚める。

カーテンを開けるとほの明るい空が広がっていて、青のなかにかすかに残ったオレンジ色がまるで私の心のようだった。

まだ夜のなかにいたい私にはまぶしい。

窓の外から目を背けて、スマホを手に取る。画面には「過去の通知はありません」の文字が浮かび上がった。

私はまだ、いつかの自分に想いを馳せている。

どうして私は、こんな朝を迎えなければいけないんだろう。

まるで他人事のように心のなかでつぶやいて、夜から抜け出すようにして起き上がった。





私には、これだけはどうなんだろうと思うことがある。

たとえば、飲み会も終盤になって、料理を注文したくせに手をつけない人。それも、注文するのはもつ煮込みとか揚げ出し豆腐とか、絶妙に重たいやつ。

青田(あおた)さん料理きましたよ、と声をかけても、俺食べないからみんなで食べてどうぞって。

内海(うつみ)さん、時間大丈夫ですか?」

冷めていく揚げ出し豆腐をだれも食べようとしないから、仕方なく小皿によそって食べていると声をかけられた。

顔を上げると、梅原(うめはら)さんがいた。

「あ、はい。たぶん」
「時間やばそうだったら言ってください。全然抜けていいんで」

梅原さんはそれだけ伝えると、別のテーブル席に話しかけにいった。女性の多い席で、梅原くんやっと来た、と歓迎されている。

梅原さんは、今日の飲み会の幹事を任された、私よりひとつ歳が上の先輩だ。

社運を賭けたプロジェクトが成功に終わって、今日、時間を忘れる夜を過ごせているのは、ひとえに彼の采配あってのことだと、おそらくここにいるだれもが理解しているし、感謝もしている。

テーブルに残った料理を静かに処理するだけの私とは大違い。みんなにああやって声をかけて気を配って、会社だけじゃなく社会に必要とされるのは彼のような人なんだと思う。

まだ終電まで余裕があるだろうに……。

なにげなくスマートフォンで時間を確認すると、体感よりもずっと夜が深まっていて、思いのほか余裕がなかった。

いまから帰る支度をして、幹事の梅原さんに声をかけて、最寄りの駅まで歩いて一〇分くらいだとして――と、頭のなかで計算して、それでも乗れるのは終電になりそうだった。

やっぱり、帰ろう。みんなはまったく帰る雰囲気じゃないなかで出ていきづらいけど。と、テーブルに手をついて腰を上げようとしたときだった。

「ん、なんの音?」
「ハッピーバースデー、じゃない?」
「まさか、チーフマネの?」

人の雑多な声にかき消されていたBGMの音量が突然上がって、となりに座る壱岐(いき)さんと細田(ほそだ)さんが天井を見上げながら話す。

壱岐さんはちょうどビールを口に運ぼうとしていたところで、店内に流れているのがスティーヴィー・ワンダーの『ハッピー・バースデイ』だとわかるとジョッキを置いた。

男性の店員さんがパチパチと花火が弾けるプレートを持ってやってくる。みんなが戸惑いながらも音楽に乗せて手を叩くので、私も笑ってそれに合わせた。

首でリズムを刻み、おもちゃの猿がタンバリンを奏でるように手を叩きながら思う。

――これ、しばらく抜けられないやつだ。

終電まで残り二〇分のことだった。





終電を逃した。

もともとスタートが遅い飲み会だったし、明日は休日だからなんとなく予感してたのでダメージはないけれど、梅原さんから何度も謝られたときはさすがに申し訳なくなった。

自分の意思で残ったのに。

飲み会にはほとんどの人が最後まで残り、半数以上がこのまま二次会のカラオケへなだれこもうとしている。

正直な話、私はなんで呼ばれたのかわからないくらいプロジェクトに関わりがない人間なので、二次会は断ってタクシー帰宅組に交ぜてもらうことにした。

けれど実際には、お店を閉めてもなお光を取りこぼす街から逃げようとするタクシーに向かって手を振っている。

タクシー帰宅組には交ざれなかった。台数に限りがあるのに私なんかを乗せてもらうにはちょっとした勇気が必要で、それを振り絞るくらいなら歩いて帰ることを選んだ。

あまり飲んでないし、二駅くらいなら大丈夫。

「えっ! 梅原くん、カラオケ行かないの?」
「ほんと幹事として申し訳ないんですけど、ごめんなさい。うちの猫が心配なんで帰ります」
「幹事なんて二次会からが本番でしょー。猫だって、ひと晩くらい孤独を噛みしめたい夜があるよ、きっと」

猫は大丈夫と言う人にかぎって家に子どもがいる。

「なんですかそれ」

つながれた手を払うようにして笑う梅原さんは最後まで上司たちの執拗な誘いを躱し、カラオケ参加組を見送った。

ざわざわと風のうねりが聞こえる。

あっという間にこの場には私と梅原さんだけになった。

「内海さんも歩いて帰るんですよね?」
「はい、まあ……」
「よかったらいっしょに歩きませんか?」

ああ、いいですね――なんて、私と梅原さんはそんな気楽な関係ではなく、どちらかといえば私は梅原さんに、街中で歩いているのを見かけたら遠回りしてしまうような苦手意識を抱えているので、

「あ、はい」

と、答える声が平坦なものになってしまった。

梅原さんは、こちらの真意なんてもとから興味がないかのように微笑んで歩きだした。



苦手といっても遠ざけたいわけじゃなくて、プライベートですれ違ったら気まずい知り合いに部類されるだけのこと。たとえば、いっしょに帰ることになってしまったら……。

「梅原さん、猫飼ってるんですね」

歩きだして数分。とりあえず、会話をしてみようとは試みる。

「種類はなんですか?」
「飼ってませんよ」
「……え?」
「飼ってません」
「……さらりと嘘つきましたね」

うちの猫が心配なんでと言ったときの声色は、まるで恋人を待たせているかのようなたゆみがあったのに。

「はやく帰りたいときとか、誘いを断りたいときに便利なんですよね、動物って」
「嫌いなんですか、動物」
「好きか嫌いかは別として、ペットが待ってるって言ってるのにそれでも引き止める人ってどう思います?」
「んー……なし、ですかね」
「でしょ?」
「いろんなことを正当化してそうな気がしますね」
「そうそう、そんな感じです。なので、あえて理由にしますよ、俺」

なるほど、と思った。梅原さんはそうやって人を推し量っているらしい。

注文した料理に手をつけるかつけないかで私がその人への印象を変えるように、梅原さんはペットが待ってると言われたときの対応でその人を見ているのかもしれない。

なにに対しても正攻法な人だと思っていたからちょっと意外だった。

ふいに、湿気を含むぬめりとした風が肌をなでた。雨っぽい匂いが鼻腔をくすぐって届く。船舶が早朝の海に繰り出すようにテールランプが遠ざかっていき、船を見送る私を鼓舞するようにトラックが近づいては通り過ぎていく。

夜の幹線道路は、静謐(せいひつ)のなかで賑わっている。
私たちが歩いているのはそんな夜だ。


「今日どうでした。楽しめましたか?」

大型トラックが通り過ぎるのを待ってから、梅原さんがふたたび口を開いた。

「はい。楽しかったです」
「俺がむりやり誘っちゃったみたいな感じだったのでどうかなって」
「そうでしたっけ?」
「あ、憶えてないですね。ならよかったです」

梅原さんがふっと笑いを零す。見上げると、よかったと言うわりにはよかったと思ってなさそうな顔をする梅原さんがヘッドライトに照らされている。

「……今日イチ笑ったのは、」

ごまかすつもりじゃないけれど、急いで今日の楽しかった思い出を回顧する。

すぐに見つけた。

「やっぱり、あれですかね。バースデープレート」
「ああ、あれは俺も笑いました。みんな戸惑ってましたもんね」
「戸惑いますよ、あれは」
「だれも指摘しないし」
「指摘できないです。まさか誕生日じゃなくて、退職のお祝いだなんて」

私が終電を逃す原因となったチーフマネージャーへのサプライズ。

店員さんはバースデーソングに合わせて「Happy Birthday」と綴られたプレートを持ってきてくれたけど、チーフマネージャーの誕生日は六ヶ月後の一月。なんなら、あの場にいた人のなかでいちばん遠いまである。

今日は、プロジェクトの成功祝いとチーフマネージャーの退職祝いを兼ねた飲み会だった。

「タイミングも謎だったし」
「タイミングは指定してあれだったんじゃないんですか?」
「じゃないです。頃合いを見てとは言いましたけど、まさかあんな後半に出てくるなんて思いませんでした。主役が帰ってたらどうしてたんですかね」

たしかに、主役が時間を気にする人だったら帰っていてもおかしくないタイミングだった。

主役のいないバースデーサプライズを想像する。

プレートが運ばれてきて、だれの?とみんなが顔を見合わせて気まずい顔をしている。バースデープレートは、婚活パーティーで話し相手の見つからない人のようにぽつんとテーブルに置かれている。

極めつけに、BGMの『ハッピー・バースデイ』が哀愁のように漂ってくる。

想像したらおかしかった。
おかしくて、可笑しかった。

「内海さんはあれのせいで帰れなかったんですよね。……なんで笑ってるんですか?」

探しあてるのに難しい私のツボに嵌ったようで、笑いがこみ上げて抑えられなかった。梅原さんが店員さんと打ち合わせする光景も思い浮かべたら涙まで溢れてきた。

ひとしきり笑って、咳きこむ。

「ごめんなさい、なんでもないです」

咳きこんだら急に頭が冴えて、ひゅんっと笑顔が引っこんだ。

動物の癒し動画を観ていたのにスワイプしたらまったく関連のない動画が出てきたとき、人はきっとこんな顔をするだろうという表情だったと思う。

「マジすか。内海さん、感情の落差が激しいっすね」

あまりに急に笑顔を引っこめたものだから梅原さんに引かれたかと思ったけれど、梅原さんは「意外」と言って頬をゆるめている。

その表情には少しだけ絆されてしまう。

梅原さんから目を背けると、ちょうどコンビニの前を通りがかろうとしていた。駐車場に充分なスペースを設けるコンビニだ。

なぜか、娯楽施設に来たときのように目がぱちぱちして胸が疼いた。

汗がじんわりと滲むくらい歩いてきたこれまでの道では、ファミレスもスーパーも焼肉屋も自動車販売店も明かりを落としていた。

ここだけが夜の住人を迎えている。

きっと異世界に迷いこむとこんな感覚なんだろうなと、そんな気にさせてくるのだ。

「コンビニ寄りますか?」

心を惹かれている――と、コンビニをじっと見つめる私が梅原さんにはそう見えたのかもしれない。やわらかい声で尋ねてきた。

「いえ、大丈夫です」

そう答えて、顔の向きを正面に戻したとき。

「あ、信号。梅原さん、走りましょう」

梅原さんの腕をとって走る。歩行者信号が点滅を始めていた。

長い横断歩道のわりには青信号の点滅が短くて、パンプスの足音が夜に響く。もうひとつの足音は静かだった。

「内海さん、手」
「あ、ごめんなさい……」

無意識に彼に触れてしまっていたと渡り終えてから気づき、すぐに手を離す。梅原さんはこちらに顔を向けずに歩きだした。

やっちゃった……。迂闊だった。

赤信号で立ち止まりたくなかったからといって、梅原さんの腕を引っ張ってまで渡るのはいけなかった。これだけは違う。最悪だ。

自分の頬を引っぱたきなる衝動を抑えて、私もふたたび歩みを進める。

「あ、」
「あの、」

となりに並んでも梅原さんの顔は見られなくて、夜の静寂とは違う種類の沈黙から逃れようと口を開いたら、梅原さんと話しかけるタイミングが被ってしまった。

なにを話そうか決まらないまま衝動に任せた私はひと文字で、梅原さんがふた文字。どっちが勝ちとかないけれど、ひと文字違うだけで話す権利は梅原さんにあるような気がして私は譲った。

「あ、どうぞ」
「どうも。あ、よかったらこれどうぞ」

梅原さんがポケットに入れていた手をこちらに差し出してきた。

「あ、どうも」

いただいたのは、コーヒー味の飴だった。

ポケットに入っていたにしては袋がよれてない。というか、このパッケージには見覚えがある。

お店を出るとき、ふとレジ横に目をやった。そこに飴のカゴが置いてあって、中に同じものが入っていたのを覚えている。

この飴はおそらく、レジで精算する人だけがもらえる特権だ。ちょうど口が甘いものを欲していたからありがたい。

「あの、ひとつだけ訊いてもいいですか?」
「なんでしょうか」

飴の袋を開けようとして、ふいに意識が別のほうへと奪われる。

ヘッドライトよりも強い光が目に飛びこんできた。そのそばで、白いヘルメットをかぶり、蛍光のベストを着るおじさんが棒状の誘導灯を持って立っている。中心では、金切り声のような音を鳴らす機械が激しく動いている。

まるで夢のなかにぽつんと佇んでいるような感覚に陥った。

「なんでバースデープレートを出す時間を、あの時間に指定したんですか?」

工事よりもずっとそばにいる梅原さんの声が、ひどく遠くのほうから聞こえてくる。壁を一枚隔てているかのような。あるいは、人混みの向こうから呼び止められるかのような。

夜を歩くことで、道路の工事が深夜に行われていると知った。こうして終電を逃していなかったら、そんなこと知ろうとも思わなかった。

終電を逃して知れる夜がある。
切羽詰まって初めて知る自分の一面がある。

私があんなことをする人間だったと、今日、初めて知った。

工事の区間を抜けるまで私はなにも答えなかった。梅原さんを見ることもしなかった。

「どうして、わかったんですか?」

工事の音から遠ざかり、汗を拭うのも憚られるような沈黙を自ら破った。

慢心はしてなかったけど、ここまでなにも言ってこなかったからすっかり安心しきっていた。まさか、ここで変化球を投げてくるとは……。

梅原さんはストレート勝負の投手だと、見誤っていたらしい。

「わかりますよ。ほかのだれかならともかく、俺は。今日の俺、役職なんだか知ってます?」
「幹事、ですね」
「バースデープレートを手配するのは俺の役目です。これでもすげー気を張ってたんですよ。あちこち目を配って、問題が起きたら自分の責任になるんで、マジでみんな変なことすんなよってずっと祈って」
「はい」
「だから、バースデープレートを出すタイミングをミスるなんてことは絶対にしないんですよね」
「言いきりますね」
「サプライズなんて、いちばん気を張るところでしょ」
「たしかに」
「なかなか出てこないなと思ったので、店員さんに訊きました。プレートはいつ頃出ますか?って。店員さん、困った顔してましたよ。入店してすぐにお時間の指定をされてますがって……」
「そうですよね。困りますよね」
「だれがそんなことを?って訊いたら、内海さんを指してました」
「顔、覚えられてましたか……。そのときに変更しようとは思わなかったんですか?」
「思いましたけど、何度も変更するのは店員さんに申し訳ないでしょう。あっちだってスケジュールがあるだろうに」

梅原さんが額に八の字を寄せて笑みを作る。ああ、彼はこういう人なんだ、と思った。

梅原さんはだれを前にしても明るく振る舞える気負いのない人だけど、各方面に気を配っていて、ひとりよがりにならないよう見え方を考える。それをまわりには微塵も感じさせない。

落ち着く人だと、まるでいまわかったような気がする私は最低な人間なのかもしれない。

「それに、内海さんの思惑も知りたかったし」
「思惑?」
「どうして、黙ってサプライズの時間を指定するようなことをしたのか。このまま内海さんの術中に嵌れば、その理由もわかるかなって」
「術中ですか……」

今度は私の顔が引きつる。術中なんて大層な意図があるわけじゃないと、むりに口角を上げてみたけれど、うまく表情を管理できている気がしない。


次の歩行者信号までまだ距離がある。お店がなくてマンションが建ち並ぶこの先の道は、明るさが目を冴えさせてくる。

昼間を閉じこめたような風がさっと走り抜けて、私は唇にすき間を作った。

「青田さ――チーフマネは、家で猫が待ってると言っても帰さない人でした」

持て余していた飴を口の中に押しこんだ。ふわりとコーヒーの味が広がって、すうーっと息を吸うと、淀みのある暖かい空気がいっしょに入ってきた。

「動物が嫌いなわけじゃないけど、ペットはペットとしか思ってなくて、『一日分のえさを置いておけばその日はもつだろう』とか言うんです。人がとっておいてるいちごを勝手に食べるし、ラーメンのひと口目は麺からいくしで、そういう小さな亀裂がだんだん大きくなっていったんだと思います。別れました」

少しの間を置いて、「あっ」と声を零す。

「違いますね。別れを言われました」
「うん」
「なんとなく、そうなるだろうなってわかってました。広がっていく亀裂に気づかないふりをしてたんだって、あとになってですけど気づきました。だけど、わかってたからって納得できるわけじゃなくて……」
「当然の感情だと思いますよ」
「……ごめんなさい、こんな話」
「聞かせてください。俺、内海さんの話ならなんでも聞きますよ」

梅原さんのそれには、舌で転がすコーヒー味の飴のような優しさとちょっぴりの苦みが混じっていた。

ああ、この人はこうやって心を言葉にしてくれる人なんだと思うと、目頭が熱くなって、ごまかすように飴を噛み砕いた。

「最後のあがきのつもりでした。かっこよく言うなら、最後の勝負です。ただ受け入れるのは納得できなくて、退職して遠くへ行っちゃう前のいましかできないことだと思いました」
「うん」
「私、終電を逃すようなタイプじゃないんですよね。家に猫いるし、家じゃない場所でひと晩を過ごせるのかわからなくて怖いし」
「わかります」
「だから、最終電車に乗ったこともありません。もしその電車が止まって、そのまま今日の運行が終わったら怖いじゃないですか」
「ホテルを見つけるにしても、見つかるかわからないと不安ですしね」
「それも怖いです。絶対に余裕をもって行動します」
「あー、内海さんはそんなイメージです」
「そんな人間が終電ギリギリまで席にいたら、心配しませんか? 終電大丈夫ですかって、心配して声をかけません? 終電を逃して歩いて帰ろうとしてたら、送りますって思いません? 期待したんです。そうやって話しかけてくれるのを……」

ふう、と吐き出した息が暖められた空気に消えていく。

「でも、私は終電を逃しません。乗れそうになかったら、終電を遅らせる勢いでなにがなんでも乗りこみます。そんな人間がこの時間までいる正当な理由がほしかったんです」
「たしかに、終電が迫ってるときにサプライズが始まったら抜けにくいですね。一服しようとしたタイミングで、花嫁のお色直しが終わったときのような絶望感」
「女性だとお化粧直しでしょうか。メイクが崩れてるとわかってても、抜けられないです」
「でも、ずいぶん大胆な方法を選びましたね」
「自分でも驚きです。これって、元カノが結婚式をぶち壊しにするのといっしょですかね?」
「俺しか気づいてないんでセーフじゃないですか」

申し訳なく思う気持ちは、もちろんあった。

個人的な事情でサプライズの時間を操って、もしかしたらあの場に私のような人がいたかもしれないと思うと、せめてタクシー代は出させてほしい。

それでも個人的な事情を止められなかったのは、最後だから、という気持ちが大きかった。

「心配してほしかったんです。声をかけてほしかった。終電は大丈夫ですかって、送りますよって。確認したかった。まだ……」

言葉に詰まる。私はなんて言おうとしたんだろう。

「まだってなんですかね。べつに先を望んでるわけでもないのに……」

乾いた笑みが零れる。

青田さんのなかにまだ私がいるのかを確かめたくてあんなことをしたけれど、もし帰りに送ってくれることになったとしてもやり直す気はなかった。

大丈夫ですかと声をかけられても、大丈夫ですと答えて終わり。やり直すつもりがないのに勝負をしていた。

バースデープレートが狙いどおりのタイミングで運ばれてきて、笑顔で手を叩いたけれど、結局はだれもいないバッターボックスに投球していただけだった。

「勝負は引き分けです。もともと結果に勝ちも負けもなかったんですよね。できればもっとはやくわかってたかったけど、遠くへ行く前に気づけてよかったです」
「本音ですか?」
「本音です」
「そっか。じゃあ俺は、今日、飲み会に内海さんを誘ってよかったんですかね」
「はい。それがなくても、飲み会自体が楽しかったですし。……あ、それで気になってたんですけど、大してプロジェクトに関わってない私を誘ってくれたのは、やっぱり退職祝いのためですか?」

え、と梅原さんが声を洩らした。

「あお……チーフマネの退職をいっしょに祝えるようにって」
「青田さんでいいですよ」
「じゃあ、青田さんで。……違いましたか?」
「えっと、そうですね……」

私のほかにもプロジェクトに関わってない同僚がいた。端の席で永遠にウーロンハイを頼んでいた彼は、青田さんが教育を担当した人だったからあの場にいるのがふしぎじゃなかった。

私も同じ枠で誘われたのだろうと思ったけど、梅原さんの歯切れは悪かった。

「いや、違いますね」
「違うんですか。それじゃあ……」
「気まぐれですね。なんとなく、あの場に内海さんがいたらいいなって思っただけです」

彼の視線の先にある歩行者信号が、いつの間にか近づいていた。

また微妙なタイミングで赤信号に引っかかりそうだ。走ればうまい具合に切り抜けられそうだけど、この夜を駆けるのはなんだかもったいない気がして、私はわずかに歩調をゆるめた。

「そういえば、さっきなにか言おうとしてませんでした?」

私が口を開くよりもはやく、梅原さんが話題を逸らすように尋ねてきた。

「あ、はい。このタイミングでする話じゃないかもですけど、ずっと先延ばしにしてる返事を……」

返事をどうするのか。言葉が続かなかった。

返事をしたい、返事をしようと思う、返事をしてもいいですか――どれも違う気がして言葉を探すけれど、急に語彙力を失ったみたいに思考が沈む。

「返事って、俺がした告白へのですか?」

先に話を紡ぐ言葉を出したのは、黙る私をじっと窺っていた梅原さんだった。

「はい」
「ですよね。でも、返事はいいって……」
「いいとは聞いてないです」
「そうでしたっけ。じゃあ、聞きたくないっすね」
「……え?」

思わず驚きの声が低くなった。聞きたくないという激しい拒絶のわりに声は明るくて、いっそ微笑んでいるようにさえ感じられたからだ。

なんなら、聞き間違いかとも疑った。

正面からの強いトラックのヘッドライトが梅原さんの顔を照らすけれど、その横顔からはよく表情が読み取れなかった。

ステージに立つ推しのラストライブを噛みしめているようにも見えるし、なにかを決意して断崖絶壁に立っているようにも見える。

「たとえば」と、梅原さんの歩幅が逃げるようにわずかに大きくなった。

「俺が壱岐さんと帰ってて、『コンビニ寄りますか?』って訊かれたら『壱岐さんが寄りたいなら』と答えます」
「はい」
「信号が点滅してるのが見えて、あー間に合いそうだなあって思ったら走ります」
「はい」
「けど、同じことを内海さんに訊かれたら『寄りましょう』って答えるし、間に合いそうでも信号は待ちます。内海さんの答えは、つまりそういうことですよね? だから、聞きたくないです」

聞きたくない。まるで子どものわがままのようなセリフが、ざらりと心臓をなでる。彼が歩幅を大きくしたのは耳を塞ぐためだったと、言葉を最後まで聞いてわかった。

歩行者信号が点滅を始める。梅原さんが「急ぎましょう」と駆け出した。

梅原さんの言ったことは間違ってない。

コンビニに寄るかと尋ねられたとき、用がないから寄らないと答えた。信号が点滅したとき、赤信号で待つのも嫌だし間に合いそうだったから走った。

梅原さんといたからそうしたわけじゃなくて、無意識にいつもしている行動をとっただけだけど、もし仮に、いっしょにいたのが青田さんだったら私はどうしただろう。

同じようにしたかもしれないし、違う行動をとっていたかもしれない。

この人ともっといっしょにいたいという想いが無意識に行動に現れるのなら、私の梅原さんに対する答えはそうなんだと思う。

けれど、私は駆け出す梅原さんの腕を引くようにして止めた。

「待ちませんか?」



一ヶ月前、私は同じ日に別れと出会いを味わった。

別れは、その言葉のとおり、付き合っていた人と別れた。その帰りに偶然、知り合いと出会い、流れで「お茶しませんか」と誘われてカフェに入った。それが梅原さんだった。

梅原さんと対面で話すのはそれが初めてではなかったけれど、外で会社の人と会うのはふしぎな感覚があって心が落ち着かなく、加えて、ひとつの縁が切れたばかりだったから、私はいつも以上におしゃべりになっていた。

なにを話したのかは憶えてないけど、決して安いとはいえないアイスティーをおかわりするくらい口が渇いたのは憶えている。

そこから梅原さんに青田さんと別れたことを悟られて、告白された。

『好きです。それだけです』

世にも奇妙な告白だった。

たしかそのときは、別れた理由を話さずに事実だけを伝えたはずだから、もしかしたら、もともと答えをもらうつもりのない告白だったのかもしれない。

私も私で、返事はいらないんだと思って『わかりました』と答えたけれど、あとになって、もう少し言い方ってもんがあったんじゃないかと後悔した。

わかりましたってなに。業務の引き継ぎをしたわけじゃないんだから。

もしあそこで「ありがとうございます」と答えていたら、今日、梅原さんとふたりきりになったタイミングで返事をしようとは思わなかったかもしれない。

自分の立ち回りを後悔してしまったから、後悔を上書きしたくて返事を押しつけようと思った。「わかりました」よりも「ごめんなさい」のほうが、きれいだと思ったのだ。

「梅原さん。私はさっき、返事をしようとしました。なんて言うつもりだったか自分でもわかりません。でも、梅原さんが言ったようなことを言うつもりだったと思います」

赤信号のうちにすべてを話し終えようとしているのか、私の口調はなめらかだった。するりと言葉が出てくる。

梅原さんは聞きたくないと言ったくせに、私が話し始めるとなんだかんだ静かに耳を傾けてくれている。葛藤してるのか、若干険しい顔つきだけど。

こういうところにも梅原さんみを感じて、ほのかにお酒が残っていた私の頭は静かな夏の夜のように冴える。

「一ヶ月考えても、梅原さんへの印象は変わりませんでした。なんとなく遠い世界の人のようにずっと感じて、これもなんとなくですけど、これからも交わらないんだろうなって」

手を離すタイミングを見失って、私の右手はずっと梅原さんの腕を掴んだままだ。彼が握りこぶしを作ったのがわかって、私はなにか言われる前に言葉を続ける。

「それもそのはずですよね。だって、私、梅原さんのことなんにも知らないんです。いつも人に囲まれてて、頼られてて、梅原さんに幹事を任せたら安心だってみんなが口を揃えるほど頼りになって。全部、外から見た梅原さんしか私は知らないんです」

梅原さんが明らかな困惑を見せている。黒目を泳がせていて、えっ、と自分が声を洩らしたことにも気づいてないんじゃないだろうか。

こんな彼を見るのも初めてだった。

「今日うれしかったです。時間大丈夫ですかって心配してくれたことも、こうして送ってくれることも、私の話を聞きたいと言ってくれたことも、本当にうれしかったんです。梅原さんと歩く夜が――」

視界の端で信号がぱっと青に切り替わった。

「あっ……」
「タイミング悪いっすね。もうちょっと待ちます?」
「どうしてですか。歩きましょうよ」

くすりと笑って歩き出す。

じつは、この交差点を越えたら私の生活圏内に突入する。つまり、この先にどんなお店が出迎えてくれるのか、ばっちり頭に入っている。

私は、横断歩道を渡りきったところで両足を揃えて立ち止まった。

「梅原さん」
「はい」
「コンビニ寄りませんか?」

そう尋ねると、梅原さんは慈しむように微笑んだ。

「寄りたいです」

いっしょに歩く夜が名残惜しいと、私たちの気持ちが交わったような気がした。





どんなに前の日が遅かったとしても、夜明けとともに私は目覚める。

カーテンを開けるとほの明るい空が広がっていて、まだ夜のなかにいたい私にはまぶしかった。

窓の外から目を背けてスマホを手に取ると、画面には「過去の通知はありません」の文字が浮かび上がった。



顔を洗って歯を磨く。トーストを焼いて、マーマレードのジャムを塗る今日の朝はちょっぴり傲慢的だ。長野で背伸びして買ったマーマレードを開けてみたけど、気がはやっただろうか。

そんなときだった。

水を打ったような朝に、か細い通知音が届いた。ジャムを塗っていた右手を止めて、左の小指でスマホを操作する。

〈家に着きました。これから寝ます〉

梅原さんからのメッセージが、私をまた夜に引き戻してくれた。