白くなり始めた空の下、農道を抜けて草刈りがされた土手をふたりで上っていく。早朝の柔らかい風にはかすかに川の匂いが混ざっていて、本当にここまで来たという実感が急にわいてきた。

 ――ここで、最後を迎えたのか……

 土手に上がり、目前に広がる雄大で静かに流れる川の景色に小さくため息をつく。正確にはここよりもう少し海側の場所だったらしいが、それでも、この目前に広がる川の景色は同じだっただろう。

「ねえ、そろそろ答え合わせが始まるよ」

「答え合わせ?」

 黙って隣で川を眺めていた乃愛が、急に腕をからませてくると同時に遠くを指さし始めた。どういうことかと思案しつつ、乃愛が指さした方に目を向けたところで疑問の答えがゆっくりと姿を現した。

「きれいだよね……」

 目の前に広がり出した圧巻の景色にぽつりと呟いた乃愛に、俺は返す言葉が出なかった。目の前には山間から姿を現した太陽の光が降り注ぎ、瞬く間に暗闇でしかなかった景色に波のように色彩が広がっていった。

「朝日って、こんなに綺麗だったんだな」

 目が眩むような力強い太陽の光が田園風景を照らしながら、やがて遠くに見える俺が暮らす街並みさえも浮き彫りにしていく。そんな当たり前の光景が、なぜか今は神秘的な光景に見えていた。

「でしょ? 私もひどく落ち込んだときにこうして朝日を眺めて立ち直ったことがあったの。だから、真司と一緒に見たかったんだ」

 遠くを見つめたまま語る乃愛の横顔に、言葉にできないような感情の昂りを感じた。それは、決して口にはできないもので、俺はこのとき初めて乃愛のことを美しい人だと思えた。

「真司の亡くなった同級生って、真司の大切な人だったんでしょ?」

 突然の乃愛の問いは、俺にとって不意打ち同然だった。そのため、俺はごまかしがきかないほど激しく動揺してしまった。

「なんでそう思う?」

「だって、初めて真司を見たとき、今にも死にそうなくらい辛い顔をしてた。だから、つい声をかけたの。そしたら、同級生が亡くなったって言ったから、そういうことなんだって思ったわけ」

 あっけらかんと語っているが、相変わらず乃愛はしっかりと俺を読み解いていたようだった。確かに俺は同級生の訃報に動揺し、激しく落ち込んでいたのは事実だった。

 ただ、訃報の知らせが単なる同級生ならそこまで影響なかっただろう。だが、その名前が優子だったからこそ、俺は信じられない気持ちと絶望的な気持ちで訃報を受けとめるはめになっていた。

「私もショックで落ち込んでたし、せっかくなら一緒にこの景色を見て真司も立ち直ってくれたらと思ったわけ」

 息がつまりそうになるくらいの柔らかな笑みを浮かべた乃愛が、奇妙な誘いをした理由を教えてくれた。その気持ちは素直に嬉しかったし、なによりこの景色に気づかせてくれたことには感謝しかなかった。

「乃愛の言うとおり、ここで亡くなったのは俺が初めてつきあった人なんだ」

 乃愛の気持ちにふれてそう口にした瞬間、えぐるような強烈な痛みが胸の中で暴れだした。優子は、別れたあともケリをつけられず、ふとした瞬間にどうしても思い出してしまう存在だった。その存在が、どういった人生を歩んだのかはわからないが、ただわかっているのは、ひとりでこの場所を最期の場所に選んだということだった。

「その人も、今の景色を見れたら違う結果になってたかもしれないね」

 ひとり呟くように口にした乃愛の言葉。その意味を考えた瞬間、遠くでいつかの優子の声が聞こえたような気がした。

『真司には、見えてるものが見えてないんだよ』

 別れ際、優子が涙ながらに訴えた言葉。その意味をこの瞬間まで理解できていなかった。だが、乃愛のおかげでようやくその意味を理解できた気がした。

「朝日なんて毎日見ていたはずなのに、こんなに綺麗だなんて思うことはなかったな」

 既に丸い体を現した太陽は、今日の始まりをいつものように告げていた。そんな当たり前のことや、こうして輝くような綺麗な景色さえも、これまで何度も目にしていたはずなのに、なぜか俺は気づかないまま生きてきた。

 その感覚は、優子に対しても同じだったのだろう。優子はいつも俺のことを想っていてくれたのに、俺は優子の気持ちに気づかず自分のことしか考えていない馬鹿な奴でしかなかった。

 そのことに気づいた瞬間、長い間くすぶっていた疑問の答えがようやく出た気がして、俺はこみ上げてくる感情のうねりをおさえきれずに両手で顔をふさいだ。

 ――なあ優子、あれから君はどんな人生を送ったんだ?

 立っていられなくなってその場にしゃがみ込んだ俺は、乱暴に涙を拭いながらただ静かに流れる川面に問いかけてみた。

 ――俺はさ、色々と辛いこともあったが、それなりに生きてきたよ

 そんなやりとりを続けるうちに、脳裏につきあっていた日々がスライドショーのように蘇ってくる。終わりは残酷だったが、優子との思い出の映像はどれも輝いて見えた。

 ――優子、君もこの景色を見ることができていたら、結果はまた違っていたか?

 返事のないやりとりの最後に、素朴な疑問をぶつけてみる。もちろん答えは返ってくることはなかった。ただ、わかっていることは、優子はここで終わりを迎え、俺は乃愛に救われたということだけだった。

「やっぱり、真司はその人が好きだったんだね?」

「ああ、今も思い出したら泣けるくらいに好きだった」

 俺の肩にそっと手を置いた乃愛に、素直に言葉を口にしてみる。もう少し声が震えるくらいに感極まるかと思ったが、意外にもあっさりと口にすることができたことに自分でも驚きしかなかった。

「でも、これで彼女とはお別れだ。ずいぶんと長く引きずったが、それも今日で終わりにするよ」

 訃報を聞き、通夜が終わったあとも受け入れられなかった現実。長い間、いつかどこかで再会できたらという淡い期待も虚しく、突如迎えた本当の終わりにどうすることもできなかった。それが、乃愛のおかげで今は向かい合うことができた。

「君のおかげだな」

「急になに?」

「君がこの景色を教えてくれなかったら、俺も暗い夜のまま川に飛び込んでたところだ」

「ちょっと、いきなり変なこと言わないでよね」

「いや、実際に君の言うとおり俺は今にも死にそうだったかもしれない。だが、それを救ってくれたのは君だ。そのことに、すごく感謝しているよ」

「ほんと? ならよかった。だったらいっぱい感謝してよね」

 急に気まずそうに照れだした乃愛が、かすかに顔を赤くした。その様子がおかしくてつい笑うと、目を吊り上げた乃愛が制裁のパンチを容赦なく繰り出してきた。

 ――さよなら、優子。君と出会えてよかったと思うし、君とつきあえたことは誇りに思う。君は、本当に俺にとって最高の人だった

 ひとしきり乃愛とじゃれあったあと、最後に優子に向けて手を合わせる。

 この瞬間、長い間言えなかった言葉をようやく吐き出すことができ、ようやく肩が軽くなったのを実感することができた。