川に向かって再び歩き出し、視界が住宅街から一転して田園風景に変わり始めたところで、俺は奇妙な胸騒ぎを感じ始めていた。

 ――乃愛は、なぜこんな真似をしているんだ?

 不意にわいた疑問は、当然すぎるぐらいの疑問だった。きっかけとなる話をしたのは俺だが、乃愛と亡くなった同級生とは関係はないはず。にもかかわらず、その現場に行こうと考えた動機を今さらながら気になって仕方がなかった。

「なんで川に行こうと言い出したのか気になってるでしょ?」

 少しだけ元気を取り戻し、相変わらず手をつないできた乃愛から、再びエスパーを確信させる質問が飛び出てきた。

「君は、人の頭の中を見る力があるのか?」

 冗談半分、本気半分で聞き返すと、乃愛は笑いながら俺の顔にそう書いてあったと茶化した。

「真司って、なんか単純だよね。だから、考えてることがわかるんだよ」

「悪かったな、単純な奴で。まあ、そのおかげでこんな目にあってるからしょうがないか」

「あのね、せっかくこんなに美人でかわいい女の子がつきあってるのに、なんでそんなこと言うかな」

「美人でかわいいは置いといて、せっかくだからその動機を教えてくれないか?」

「あの、一番大事なことさらりと置いとかないでくれる?」

 動機を聞こうとした俺の横腹に、不満顔の乃愛が制裁の肘打ちを連打してくる。軽い冗談のつもりだったが、この年齢の冗談は若い子には通用しないようだった。

「実はね、真司に見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの?」

「ていうか、一緒に見たいものがあるって言うのが正解かな」

「まさか、川は川でも三途の川とか言わないよな?」

 その問は、冗談とはいえ本気でもあった。まさかとは思うが、乃愛が俺を誘った理由が心中のためという可能性がなくもなかった。

 あっけらかんとしているとはいえ、乃愛は繊細で感情豊かな心を持っているのがわかる。だが、それは傷つきやすいという意味でもあり、彼氏の浮気を知ってやけになっているとしたら、最悪なことを考えていてもおかしくはなかった。

「心配しないで。別に真司を巻き込んで心中とか考えてないから」

「そうか、だったらよかった。それで、一緒に見たいものってのはなんだ?」

「それはまだ内緒」

 意味深に笑みを浮かべる乃愛は、結局詳しくは教えてくれなかった。だが、それよりも不意に見せた無防備な笑顔に一瞬胸がざわついたことに、俺は自分でも自分がわからなくなりかけていた。

「そういえば、乃愛は仕事はなにをしているんだ?」

 意識せず高鳴る鼓動に慌てつつ、誤魔化すように乃愛のことを聞いてみる。大学生には見えないから働いてはいるだろう。その想像通り、乃愛は居酒屋でアルバイトをしていると答えた。

「私ね、イラストレーターになりたくて専門学校を卒業して就職したの。小さな広告系の会社だったんだけど、一年ももたずに退職代行使って逃げちゃったんだ」

 乃愛の口調は明るかったが、その言葉からは乃愛の苦悩が滲み出ているように感じられた。幼い頃から勉強もスポーツも不得意だった乃愛が、唯一自慢できたのが絵だったという。そして、高校時代にネットのイラストレーターに影響を受けてその道を目指すと決めたものの、夢と現実には大きな乖離があったようだった。

「私、本当は誰かが幸せを感じられるようなイラストを描きたかったの。でも、仕事ではそんなものは求められなかった。毎日毎日、誰かのエゴや利益のために描きたくもないもの描かされて、気づいたらどんどん惨めな気分になってたんだ」

「でも、それが仕事だろ?」

「それはそうなんだけど。ていうか、真司に真顔で言われたらなにも言い返せなくてなんかむかつく」

 当たり前のつもりで軽く言い返した言葉に、乃愛が眉間にシワを寄せて睨んできた。なにに怒ったか一瞬わからなかったが、よくよく考えたら無慈悲な言葉を口にしていたことに気づいた。

「逃げたって言ったよな?」

「そうだけど」

「でも、今もアルバイトしながらイラストは続けているんだろ?」

「まあ、続けているというか、趣味でsnsとかにアップしてるくらいだけどね」

「だったらまだいいじゃないか。一番まずいのは、どんなことでも諦めてしまうことだ。たとえ形を変えたとしても、やり続けているなら逃げたとは言わないさ」

「じゃあ、なんて言うの?」

「そうだな、逃げでも遠回りでもなく、ただ迂回しただけってのはどうだ?」

「なにそれ?」

「目的地に向かって旅をしているとして、君は旅をやめたわけではない。ただ自分の信念に従って道を変えただけって話だ」

 乃愛にそう言い聞かせるうちに、ふと、自分はどうなんだという疑問がわいてきた。子供の頃からサッカーが大好きで、プロの選手になる夢は大学生の頃まで本気で抱き続けていた。

 だが、現実はそう甘いものではなかった。成長を重ねるごとに周囲との才能の違いを思い知らされるようになり、やがて就職活動を言い訳にして夢を諦めていた。

 そんな自分が、乃愛に偉そうなことを言える立場にないのはわかっていた。だが、それでも乃愛に伝えようとしたのには、夢を諦めたあとの後悔を味わってほしくない思いがあったからだった。

「なんか、真司の言葉が重く響いてくる気がするんだけど。真司にも、夢を真剣に追いかけていたときがあったんだ?」

「君ほどではないが、まあ本気で追いかけた夢はあったかな。だが、夢は叶うことなく諦めてしがない人生を細々生きているところだ」

「じゃあ、今はどうなの?」

「あ? 今ってどういう意味だ?」

「そのまんまだよ。夢を諦めた過去があったとしても、大切なのは今でしょ? なにか一つくらい熱くなるようなことはないの?」

 不意の乃愛の質問に、再び鼓動が乱されていく。しがない人生を生きているとはいえ、もちろん現状に納得しているわけではなかった。仕事だけの人生を送りながらも、密かに見つけた目指してみたいと思える道があることにはあった。

 だが、その道を本気で目指しているかと言われると、胸を張って首を縦には振れなかった。乃愛と違い、俺は既に人生の折り返し地点を過ぎて四十代に突入している。そのため、今さら新しいことに挑戦するには気が引ける思いがあった。

「やりたいことはあるが、今さら生き方を変えるのには抵抗がある」

「なにそれ? 仕事でやらかして左遷させられたんでしょ? だったらこの機会に挑戦したらいいんじゃないの?」

「まあ、口で言うのは簡単だ。だが、実際にやるとなるとそう簡単にはいかないさ。君と違って俺はもうおっさんの領域に入ってしまっているしな」

「あのね、おじさんの領域に入っているのは認めるけど、だからといって挑戦しない理由にはならないでしょ?」

 拗ねたように言葉に棘を含ませた乃愛が、力一杯俺を睨んでくる。確かに乃愛の年齢であれば、人生の舵取りも簡単に変更がきくだろう。

 だが、この歳になるとそうはいかないのが現状だ。仕事を辞めて新しい分野に挑むには、若い頃には想像もできなかったようなエネルギーを必要とする。仮に舵取りができたとしても、その道で生活できる保証があるわけでもない。経験を積んだ分野で転職するのと、一から新たな分野に転職するのとではわけが違うからだ。

 とはいえ、このままこの人生を歩むことに抵抗がないわけではなかった。一生浮上することなく、ただ会社の日陰を彷徨うだけの日々に、当然ながら嫌気がさしているのも事実だった。

 だから、乃愛の言うとおりに挑戦したい気持ちもある。だが、それに抵抗する自分もいる。その板挟みにあいながら、結局考えるだけ考えてなにもしないのが今の俺だった。

「あ、見えてきたよ!」

 機嫌悪そうに頬を膨らませていた乃愛が、急に川沿いの土手を見つけてはしゃぎ始めた。

 ――切り替えが早い奴だな

 一気に俺の手を引っ張りながら歩むスピードをあげる乃愛に、つい苦笑が漏れる。

 こうして悩んでいることさえ馬鹿らしくなるくらい明るくさせてくれる乃愛に、不思議と悪い気はしなくなっていた。