人の気配がなく、静かに眠った街並みを乃愛と手をつないだまま歩き始める。車道には泥酔者を乗せたタクシーとトラックかたまに通るだけで、初夏の蒸し暑さ以外にこの奇妙な二人組を阻害するものはなかった。
「真司は、ずっとこの町に住んでるの?」
会話のペースは相変わらず乃愛が握っていて、途切れる間もなく話題は再び俺のことになった。
「いや、生まれはこっちだが、大学に進学してからは都会にいた。で、色々あって半年前にこっちに帰ってきたんだ」
「なになに、わけありってこと?」
「そんな大したことじゃない。仕事でミスして左遷になっただけだ」
大げさに反応する乃愛に苦笑しつつ、自虐的に答える。仕事でミスしての左遷とはいっても、実情はもう少し厄介だった。
大学卒業後、大手の不動産関係の会社に就職した俺は、関東一円を転々としながら朝から晩まで走り回っていた。
その生活は、当初思い描いていたものとは全く違っていた。だが、なにかを考えることも悲観する余裕もなく、ただ山のように積まれていく仕事に溺れないように足掻くだけで精一杯だった。
そんな生活を続けていくうちに、俺は次第に世間の流れに順応できなくなっていった。さらには、ものすごいスピードで変化していく価値観や世代ギャップにもついていけなくなっていた。
その結果、仕事で大事なプレゼンを失敗した部下を叱責したことをパワハラと認定された俺は、故郷でしばらく休んでこいという言葉と共に、半ば強制的に左遷させられるはめになった。
ただ、左遷というのは表向きの話で、実際は遠回しの退職勧告だった。それに気づいたのは異動してからしばらくした後のことで、支社長の冷たい態度や仕打ちは、俺を辞めさせるための本社からの指示でもあった。
「がむしゃらに働いていろんなものを犠牲にした結果が今なわけだから、若い君に言うのもなんだが、人生はろくでもないな」
乃愛の明るい雰囲気に緊張がとけたせいか、いつの間にか愚痴が止まらなくなっていた。中年の仕事の愚痴など乃愛にしてみれば百害あって一理なしだろう。乃愛が呆然と眺めていることに気づき、無理やり作り笑いを浮かべて話を打ち切った。
「なんか、真司は大変そうだね。ていうか、真司たちの年代の人たちはみんな大変そうに見えるんだけど。てことは、その亡くなった人も大変な思いを抱えていたかもしれないってことだよね?」
「さあ、どうだろうな。どんな人生を歩んでたかはわからないが、自らこの世を去るぐらいだから色々抱えてはいたんだろな」
再び同級生の話題になり、くすぶっていた感情がわずかにうねり始める。同級生が大学に進学した後のことは、俺も友人も把握していないから実際のことはわからない。だが、同級生がどんな人生だったかはなんとなく想像つかなくもなかった。
「君はどうなんだ?」
「私?」
「人生ちゃんと楽しんでるか?」
「そうね、彼氏の浮気に気づいて問い詰めてたら終電逃しちゃうくらいは人生楽しんでるよ」
さり気なく聞いた問いに、乃愛が顔をしかめて答えてくる。コンビニで鬼の形相になっていたことを思い出し、余計なことを聞いてしまったと軽く後悔した。
「あ、別に真司が気をつかわなくてもいいから。なんとなくわかってたことだし、さっさとケリつけられてよかったんだから」
続く言葉を失った俺に気をつかってか、乃愛が変に笑いながら重い空気を変えようとしてきた。だが、それがつよがりなのは、握った手がふるえていることでなんとなくわかった。
「ケリをつけられるならよかったじゃないか。ときにはケリをつけられないこともあるからな」
「なになに、どういうこと?」
慰めるつもりはさらさらなかった。だが、なんとなくゆるんだ想いが口から出てしまい、当然のように乃愛がくいついてきた。
「別に深い意味はない。ただ、俺は簡単にケリをつけられなかったことがあるって話だ」
「なにそれ? ちょっと詳しく聞きたいんだけど」
大通りに出て交差点を渡ると、一気に景色と街明かりが寂しくなっていく。雲間から射し込む月明かりだけでは足元が頼りなかったが、それを気にすることもなく、乃愛は興味津々の眼差しを向けてきた。
「随分昔の話だ。高校時代、初めてつきあった彼女がいたんだが、そのことを恥ずかしくなるくらい長く引きずったって話だ」
年甲斐なく自分語りをするうちに、不意に乃愛の瞳にかつての恋人が重なっていくように見えた。恋人の名前は優子。乃愛と見た目やタイプは違うが、なんとなく優子と乃愛は雰囲気が似ていた。そのせいか、こうして手をつないで歩いていると欠けていた心の一部が蘇ってくるようで、なんとなく気分が高まるものがあった。
「それって、忘れきれなかったってこと?」
「そういうことになるだろうな。彼女は、正直俺には不似合いなくらいに素敵な人だった。ダメ元で告白したら、まさかのオーケーだった。それからの日々は、本当に夢のようだった」
高校時代のこととはいえ、今でも優子とすごした日々は覚えている。初めての彼女ということもあり、全てが新鮮で、そして、全てが残酷だった。思い描いていた夢の日々は最初だけで、つきあった期間の大半が後悔と苦悩しかなかった。
「その分、終わりは辛かった。友達はみんな予想していたが、彼女の存在があまりにも俺には大き過ぎた。気づくと、無理やり俺の形になるように彼女に無理強いしたりして、それが結果的に彼女に別れを決断させたってわけだ。まあ、よくも悪くも彼女を好きなあまり空回りし続けていたんだ」
別れを切り出されたときのことを思い出し、長年封印していた痛みが久しぶりに蘇ってくる。『真司には見えてるものが見えてないんだよ』という謎めいた言葉を最後に、長いようで短い日々はあっけなく終わりを迎えた。
その後は、高校を卒業して環境が変われば忘れるだろうと慰める友人の言葉も虚しく、まさか大学を卒業して働き出してもケリをつけられないとは思わなかった。
おかげで、次の恋愛もうまくいかず、結婚を意識した相手とも実ることがないまま独身の四十代に突入するはめになっていた。
「なんか、真司って意外だね」
単調な住宅街を抜けた先にある小さなスーパーが見え、かすかな明かりを放つ自販機に足を向けた乃愛がなんとも言えない表情で呟いた。
「意外って、どういう意味だ?」
「なんかさ、真司って変に斜めに構えているというか、ちょっと変わってる雰囲気があるんだよね。なんか生きているようで生きていないみたいな悲壮感みたいなのもあるし、まさか忘れられない恋をしたなんて話がでてくるなんて思わなかった」
「ずいぶんな印象なんだな。まあ、左遷させられる程度の人生だから、あながち間違いではないな」
自販機で買ったコーヒーを手に、自然と並んで座ったところで自虐的に答える。思えば、最近は自虐的なことしか口にしていない気がした。さらには、その自虐的な言葉さえも抵抗なく受け入れてしまえるほど、今の人生に意味を見い出せずにいることもわかっていた。
「でもさ、なんか偏屈な真司にも純粋なとこがあったんだって思ったら、ちょっと感動しちゃったよ。ずっと忘れられないくらいに人を好きになれるって聞いたら、あんな男を選んで、気づいたら都合のいい女になってた自分が馬鹿みたいに思えてきた」
「でも、そいつと一緒にいたときは楽しかったんだろ?」
「そうだね……」
缶コーヒーを手に空を見上げだ乃愛の横顔に、わずかな陰が広がっていく。つよがりの言葉の裏に見える乃愛の本音は、やはり浮気されたとはいえその男への純粋な気持ちだった。
「また、気が向いたら新しい人を見つけたらいい。よく言うだろ? 恋愛の傷の一番の薬は、新しい恋だって」
「なにそれ? 聞いたことないんだけど。てか、真司みたいなおじさんが言ったらキモくしか聞こえないんだけど」
「悪かったな、キモくて」
急に吹き出して笑い出した乃愛に、棘を含めて言い返す。今にも泣きそうな乃愛を慰めるためとはいえ、昔聞きかじった音楽の歌詞を利用したのがまずかったらしい。気取るつもりはなかったが、乃愛には変なことを言うおっさんにしか見えなかったようだった。
そのことに気づき、急に恥ずかしくなった俺は、無理して乃愛を慰めようとしたことが馬鹿らしくなって煙草に火をつけた。
「でも、真司といるおかげで少しは楽になったかも」
そっぽをむいて一服する俺の肩に、乃愛が急にもたれかかってきた。
もちろん、押し返すのは簡単だった。
だが、そうしなかったのは、今度こそ本当に乃愛が泣いていることがわかったからだった。
「真司は、ずっとこの町に住んでるの?」
会話のペースは相変わらず乃愛が握っていて、途切れる間もなく話題は再び俺のことになった。
「いや、生まれはこっちだが、大学に進学してからは都会にいた。で、色々あって半年前にこっちに帰ってきたんだ」
「なになに、わけありってこと?」
「そんな大したことじゃない。仕事でミスして左遷になっただけだ」
大げさに反応する乃愛に苦笑しつつ、自虐的に答える。仕事でミスしての左遷とはいっても、実情はもう少し厄介だった。
大学卒業後、大手の不動産関係の会社に就職した俺は、関東一円を転々としながら朝から晩まで走り回っていた。
その生活は、当初思い描いていたものとは全く違っていた。だが、なにかを考えることも悲観する余裕もなく、ただ山のように積まれていく仕事に溺れないように足掻くだけで精一杯だった。
そんな生活を続けていくうちに、俺は次第に世間の流れに順応できなくなっていった。さらには、ものすごいスピードで変化していく価値観や世代ギャップにもついていけなくなっていた。
その結果、仕事で大事なプレゼンを失敗した部下を叱責したことをパワハラと認定された俺は、故郷でしばらく休んでこいという言葉と共に、半ば強制的に左遷させられるはめになった。
ただ、左遷というのは表向きの話で、実際は遠回しの退職勧告だった。それに気づいたのは異動してからしばらくした後のことで、支社長の冷たい態度や仕打ちは、俺を辞めさせるための本社からの指示でもあった。
「がむしゃらに働いていろんなものを犠牲にした結果が今なわけだから、若い君に言うのもなんだが、人生はろくでもないな」
乃愛の明るい雰囲気に緊張がとけたせいか、いつの間にか愚痴が止まらなくなっていた。中年の仕事の愚痴など乃愛にしてみれば百害あって一理なしだろう。乃愛が呆然と眺めていることに気づき、無理やり作り笑いを浮かべて話を打ち切った。
「なんか、真司は大変そうだね。ていうか、真司たちの年代の人たちはみんな大変そうに見えるんだけど。てことは、その亡くなった人も大変な思いを抱えていたかもしれないってことだよね?」
「さあ、どうだろうな。どんな人生を歩んでたかはわからないが、自らこの世を去るぐらいだから色々抱えてはいたんだろな」
再び同級生の話題になり、くすぶっていた感情がわずかにうねり始める。同級生が大学に進学した後のことは、俺も友人も把握していないから実際のことはわからない。だが、同級生がどんな人生だったかはなんとなく想像つかなくもなかった。
「君はどうなんだ?」
「私?」
「人生ちゃんと楽しんでるか?」
「そうね、彼氏の浮気に気づいて問い詰めてたら終電逃しちゃうくらいは人生楽しんでるよ」
さり気なく聞いた問いに、乃愛が顔をしかめて答えてくる。コンビニで鬼の形相になっていたことを思い出し、余計なことを聞いてしまったと軽く後悔した。
「あ、別に真司が気をつかわなくてもいいから。なんとなくわかってたことだし、さっさとケリつけられてよかったんだから」
続く言葉を失った俺に気をつかってか、乃愛が変に笑いながら重い空気を変えようとしてきた。だが、それがつよがりなのは、握った手がふるえていることでなんとなくわかった。
「ケリをつけられるならよかったじゃないか。ときにはケリをつけられないこともあるからな」
「なになに、どういうこと?」
慰めるつもりはさらさらなかった。だが、なんとなくゆるんだ想いが口から出てしまい、当然のように乃愛がくいついてきた。
「別に深い意味はない。ただ、俺は簡単にケリをつけられなかったことがあるって話だ」
「なにそれ? ちょっと詳しく聞きたいんだけど」
大通りに出て交差点を渡ると、一気に景色と街明かりが寂しくなっていく。雲間から射し込む月明かりだけでは足元が頼りなかったが、それを気にすることもなく、乃愛は興味津々の眼差しを向けてきた。
「随分昔の話だ。高校時代、初めてつきあった彼女がいたんだが、そのことを恥ずかしくなるくらい長く引きずったって話だ」
年甲斐なく自分語りをするうちに、不意に乃愛の瞳にかつての恋人が重なっていくように見えた。恋人の名前は優子。乃愛と見た目やタイプは違うが、なんとなく優子と乃愛は雰囲気が似ていた。そのせいか、こうして手をつないで歩いていると欠けていた心の一部が蘇ってくるようで、なんとなく気分が高まるものがあった。
「それって、忘れきれなかったってこと?」
「そういうことになるだろうな。彼女は、正直俺には不似合いなくらいに素敵な人だった。ダメ元で告白したら、まさかのオーケーだった。それからの日々は、本当に夢のようだった」
高校時代のこととはいえ、今でも優子とすごした日々は覚えている。初めての彼女ということもあり、全てが新鮮で、そして、全てが残酷だった。思い描いていた夢の日々は最初だけで、つきあった期間の大半が後悔と苦悩しかなかった。
「その分、終わりは辛かった。友達はみんな予想していたが、彼女の存在があまりにも俺には大き過ぎた。気づくと、無理やり俺の形になるように彼女に無理強いしたりして、それが結果的に彼女に別れを決断させたってわけだ。まあ、よくも悪くも彼女を好きなあまり空回りし続けていたんだ」
別れを切り出されたときのことを思い出し、長年封印していた痛みが久しぶりに蘇ってくる。『真司には見えてるものが見えてないんだよ』という謎めいた言葉を最後に、長いようで短い日々はあっけなく終わりを迎えた。
その後は、高校を卒業して環境が変われば忘れるだろうと慰める友人の言葉も虚しく、まさか大学を卒業して働き出してもケリをつけられないとは思わなかった。
おかげで、次の恋愛もうまくいかず、結婚を意識した相手とも実ることがないまま独身の四十代に突入するはめになっていた。
「なんか、真司って意外だね」
単調な住宅街を抜けた先にある小さなスーパーが見え、かすかな明かりを放つ自販機に足を向けた乃愛がなんとも言えない表情で呟いた。
「意外って、どういう意味だ?」
「なんかさ、真司って変に斜めに構えているというか、ちょっと変わってる雰囲気があるんだよね。なんか生きているようで生きていないみたいな悲壮感みたいなのもあるし、まさか忘れられない恋をしたなんて話がでてくるなんて思わなかった」
「ずいぶんな印象なんだな。まあ、左遷させられる程度の人生だから、あながち間違いではないな」
自販機で買ったコーヒーを手に、自然と並んで座ったところで自虐的に答える。思えば、最近は自虐的なことしか口にしていない気がした。さらには、その自虐的な言葉さえも抵抗なく受け入れてしまえるほど、今の人生に意味を見い出せずにいることもわかっていた。
「でもさ、なんか偏屈な真司にも純粋なとこがあったんだって思ったら、ちょっと感動しちゃったよ。ずっと忘れられないくらいに人を好きになれるって聞いたら、あんな男を選んで、気づいたら都合のいい女になってた自分が馬鹿みたいに思えてきた」
「でも、そいつと一緒にいたときは楽しかったんだろ?」
「そうだね……」
缶コーヒーを手に空を見上げだ乃愛の横顔に、わずかな陰が広がっていく。つよがりの言葉の裏に見える乃愛の本音は、やはり浮気されたとはいえその男への純粋な気持ちだった。
「また、気が向いたら新しい人を見つけたらいい。よく言うだろ? 恋愛の傷の一番の薬は、新しい恋だって」
「なにそれ? 聞いたことないんだけど。てか、真司みたいなおじさんが言ったらキモくしか聞こえないんだけど」
「悪かったな、キモくて」
急に吹き出して笑い出した乃愛に、棘を含めて言い返す。今にも泣きそうな乃愛を慰めるためとはいえ、昔聞きかじった音楽の歌詞を利用したのがまずかったらしい。気取るつもりはなかったが、乃愛には変なことを言うおっさんにしか見えなかったようだった。
そのことに気づき、急に恥ずかしくなった俺は、無理して乃愛を慰めようとしたことが馬鹿らしくなって煙草に火をつけた。
「でも、真司といるおかげで少しは楽になったかも」
そっぽをむいて一服する俺の肩に、乃愛が急にもたれかかってきた。
もちろん、押し返すのは簡単だった。
だが、そうしなかったのは、今度こそ本当に乃愛が泣いていることがわかったからだった。


