タクシーに乗るまでは、多少の期待はあった。だが、日付が変わったあたりで期待よりも諦めがまさっていき、駅が見えた頃には終電を逃したことを認めざるを得なくなっていた。
――やってしまったな
黒のネクタイをゆるめながら人もまばらな駅の構内にため息を残し、とりあえずの算段をしながら駅前の通りに目を向けてみる。都会にいたころは、終電を逃しても始発までの時間を潰せる場所がいくらでもあった。だが、地方住まいに戻った今は、目の前には申し訳ない程度のイルミネーションを纏った街路樹が並んでいるだけだった。
――さてと、どうやって時間を潰すか
スマホで近くにホテルかネカフェがないか検索するも、期待に応えてくれるものはありそうになかった。代わりに見つけたコンビニにとりあえず向かうことにして、歩行者信号が点滅する歩道を足早に渡った。
――なんだ、先客か
頼りない街灯の中でひときわ明るさを主張するコンビニが目に入り、胸ポケットに入れた煙草に手を伸ばしたところで、灰皿の前に先客がいることに気づいた。
――仕方ない、消えるまで待つか
電子タバコを手にしたまま栗色のショートカットの髪を掴み、スマホを睨みつける姿には鬼気迫る雰囲気が漂っていた。キャミソールと短パンの見た目から、二十歳を過ぎたぐらいと推察できる。よく見るとすらりとした美形の女性なだけに、近づくには多少気後れするものがあった。
君子危うきには近づかずと判断し、やや強引に入口へと方向転換した時だった。遅れて呼び止める声がし、それが自分に対してだとわかるのに間があり、何事かと振り返った先には、不機嫌そうに口をへの字にした彼女の顔があった。
「えっと……」
「ねえ、今あからさまに私のこと避けたでしょ?」
「いや、避けたつもりはないが」
「ウソ。だって胸ポケットに手を入れてたよね?」
突然詰問してきた彼女が、遠慮もなしに俺の胸ポケットにある煙草を人差し指でつついてきた。
「どうせ、終電逃してとりあえず一服しようとコンビニ来たけど、先客いたから面倒くさくて店内で私がいなくなるのを待つことにしたんでしょ?」
きりっと睨みながら俺の心中を言い当てる様は、まさにエスパーだった。ここまでずばりと当てられたら言い逃れすることもできず、俺は降参を示すように頭をかいた。
「まったく、最初から素直になればいいのに」
やけくその思いで煙草を取り出したところで、彼女のぼやきが聞こえてくる。とりあえず彼女を無視して灰皿の場所へ移動すると、彼女は煙草の煙にも負けないほどの壮大なため息をついた。
「おじさん、名前なんていうの?」
「名前?」
「そう。こんな美人が煙草につきあってやるんだから、自己紹介ぐらいしてよ」
自分の容姿に自信があるのか、彼女はさらりと美人と言ってのけた。一緒に煙草を吸うことを頼んだ覚えはないと言いたかったが、それよりも先にその自信たっぷりの態度がおかしくてつい笑ってしまったことで、彼女から容赦ない制裁パンチがとんできた。
「倉田真司だ。年齢は、まあおじさんと呼ばれても言い返せないな」
彼女の人懐こい仕草にほだされて仕方なく名乗ると、彼女も五十嵐乃愛と名乗ってきた。年齢は二十一歳。昨日四十を迎えた俺には、遠い世界のことのように聞こえた。
「真司は、仕事はなにしてるの?」
「仕事? 見ての通り冴えないサラリーマンだ。毎日朝から晩までブラック企業で働いてる」
「なるほどね。それで今日は終電逃しちゃったってわけ?」
「いや、そういうわけではないんだ」
適当に会話を取り繕ってやりすごすつもりだったが、乃愛の質問によって記憶が数時間前にとんでいった。
終電を逃した理由は、会社の残業ではなく通夜に参列したからだった。もちろん、単に通夜に参列しただけが原因ではない。亡くなったのが高校の同級生ということもあり、久しぶりに友人と再会して軽く一杯のつもりで居酒屋に寄って昔話に花を咲かせたのが主な原因だった。
「高校の同級生が亡くなって通夜に出たんだ。その帰りに同窓会のようになって、気がついたら終電逃して変な奴にからまれてるってわけだ」
軽い冗談のつもりだったが、再び乃愛のパンチが飛んできた。美人特有の冷たい雰囲気があるように思えたが、案外乃愛はノリがいい性格のように思えてきた。
「亡くなったって、病気で?」
「そうだな、病気ならまだよかったんだけどな」
興味津々の眼差しを向けてくる乃愛に含みを持たせて答えると、乃愛は首をかしげたまま固まってしまった。
「ここから少し離れたところに大きな川があるだろ? そこで遺体で発見されたんだ。警察の調べによると死因は溺死で、事件性はないと判断されたらしい」
あえて自殺という言葉を使わずに、通夜の席で聞きかじった情報を適当に並べていく。とはいえ、高校卒業後に亡くなった同級生とは疎遠となっており、詳しいことはほとんどわかっていなかった。
「同窓会になるくらい人が集まったってことは、その人は人気者だったの?」
「そうだな、頭もよくて明るい性格だったから男女問わずに人気だったのは間違いないな」
短くなった煙草を灰皿に捨てると、残った紫煙の先にかつての日々が蘇ってチクリと胸に痛みが走った。気さくなムードメーカーとしてクラス委員長だけでなく生徒会長も務めたほどみんなに慕われていただけに、ひとり寂しく自らこの世を去っていった結末には驚きしかなかった。
「ねえ、今から暇だよね?」
俺の話を黙って聞いていた乃愛が、なにかよからぬことを思いついたような顔でいきなり予定を聞いてきた。その唐突さに嫌な予感がした俺は、時間はあるがかまってやる暇はないと即答した。
「あのね、おじさんが若い子の誘いを断るのは重大な犯罪なんだよ?」
「そうか、日本はいつの間にかおっさんには厳しい国になったんだな」
「そういうこと。だから、今から私と一緒にその川に行ってみない?」
「あのな、よりにもよって今から川に行くとか正気か?」
なにを言い出すのかと警戒していた矢先、乃愛は唐突に同級生が亡くなった川を見に行きたいと言い出した。その理由を意味深に輝かせた乃愛の瞳に探したが、とりあえず最悪な理由ではないことだけはなんとなく伝わってきた。
「もちろん正気だよ。どうせ真司も始発まで暇でしょ? 聞く限りだと近くに駅もあるみたいだし、始発までつきあってよ」
なにか考えごとをしているようにも見えたが、まさかの提案をされるのは予想外だった。確かに現場の近くには駅はあるし、今から歩いて現場に行ったらいい時間帯になるだろう。だが、だからといってよくわからない人間と問題の場所に行く気にはさらさらなれなかった。
「もちろん、真司に拒否権はないからね」
「それでも嫌だと言ったら?」
「そのときは――」
俺の抵抗ににっこり笑った乃愛が、スマホを取り出して不敵に口元を歪めた。
「変質者にからまれてますって通報するから」
警戒する俺に対し、乃愛は悪びれる様子もないまま脅しともとれる口調で詰め寄ってきた。
「あのな、そんな嘘を警察が信じるかよ」
「それはわからないよ。演技には自信があるし、なにより冴えないおじさんとか弱い私とでは、警察がどっちを信じるかは一目瞭然だと思うけど?」
挑発的な態度で、乃愛が意地悪そうに攻めてくる。確かに警察が来て乃愛の演技とやらが成功したら、下手したら朝まで警察署で過ごすことになるだろう。
「そうだ、終電逃した者同士だし、せっかくだから朝まで恋人になって楽しもうよ」
「は? なに言ってるんだ?」
「真司は絶対結婚してないでしょ? 見た感じ恋人もいなさそうだし、私がワンナイトラブの相手してあげるから」
「あのな、勝手に決めつけるな。それに、ワンナイトラブの意味も間違えてるだろ」
的確に図星をついてくる乃愛の言葉に精神を削られた俺は、惨め過ぎるぐらいの幼稚な反抗しかできなかった。
そんな俺に対し、了解を得る間もなく乃愛が俺の手を握ってくる。さらには、『おやつは上限なしだからね』と言いながら上着から強引に財布を抜き取ると、有無を言わさずコンビニの中に俺を引きずり込んでいった。
――なんなんだよ一体
乃愛の強引さと握った手から伝わってくるやわらかいぬくもりに戸惑いながらも、結局乃愛の奇妙な提案に抗うことができなかった。
――やってしまったな
黒のネクタイをゆるめながら人もまばらな駅の構内にため息を残し、とりあえずの算段をしながら駅前の通りに目を向けてみる。都会にいたころは、終電を逃しても始発までの時間を潰せる場所がいくらでもあった。だが、地方住まいに戻った今は、目の前には申し訳ない程度のイルミネーションを纏った街路樹が並んでいるだけだった。
――さてと、どうやって時間を潰すか
スマホで近くにホテルかネカフェがないか検索するも、期待に応えてくれるものはありそうになかった。代わりに見つけたコンビニにとりあえず向かうことにして、歩行者信号が点滅する歩道を足早に渡った。
――なんだ、先客か
頼りない街灯の中でひときわ明るさを主張するコンビニが目に入り、胸ポケットに入れた煙草に手を伸ばしたところで、灰皿の前に先客がいることに気づいた。
――仕方ない、消えるまで待つか
電子タバコを手にしたまま栗色のショートカットの髪を掴み、スマホを睨みつける姿には鬼気迫る雰囲気が漂っていた。キャミソールと短パンの見た目から、二十歳を過ぎたぐらいと推察できる。よく見るとすらりとした美形の女性なだけに、近づくには多少気後れするものがあった。
君子危うきには近づかずと判断し、やや強引に入口へと方向転換した時だった。遅れて呼び止める声がし、それが自分に対してだとわかるのに間があり、何事かと振り返った先には、不機嫌そうに口をへの字にした彼女の顔があった。
「えっと……」
「ねえ、今あからさまに私のこと避けたでしょ?」
「いや、避けたつもりはないが」
「ウソ。だって胸ポケットに手を入れてたよね?」
突然詰問してきた彼女が、遠慮もなしに俺の胸ポケットにある煙草を人差し指でつついてきた。
「どうせ、終電逃してとりあえず一服しようとコンビニ来たけど、先客いたから面倒くさくて店内で私がいなくなるのを待つことにしたんでしょ?」
きりっと睨みながら俺の心中を言い当てる様は、まさにエスパーだった。ここまでずばりと当てられたら言い逃れすることもできず、俺は降参を示すように頭をかいた。
「まったく、最初から素直になればいいのに」
やけくその思いで煙草を取り出したところで、彼女のぼやきが聞こえてくる。とりあえず彼女を無視して灰皿の場所へ移動すると、彼女は煙草の煙にも負けないほどの壮大なため息をついた。
「おじさん、名前なんていうの?」
「名前?」
「そう。こんな美人が煙草につきあってやるんだから、自己紹介ぐらいしてよ」
自分の容姿に自信があるのか、彼女はさらりと美人と言ってのけた。一緒に煙草を吸うことを頼んだ覚えはないと言いたかったが、それよりも先にその自信たっぷりの態度がおかしくてつい笑ってしまったことで、彼女から容赦ない制裁パンチがとんできた。
「倉田真司だ。年齢は、まあおじさんと呼ばれても言い返せないな」
彼女の人懐こい仕草にほだされて仕方なく名乗ると、彼女も五十嵐乃愛と名乗ってきた。年齢は二十一歳。昨日四十を迎えた俺には、遠い世界のことのように聞こえた。
「真司は、仕事はなにしてるの?」
「仕事? 見ての通り冴えないサラリーマンだ。毎日朝から晩までブラック企業で働いてる」
「なるほどね。それで今日は終電逃しちゃったってわけ?」
「いや、そういうわけではないんだ」
適当に会話を取り繕ってやりすごすつもりだったが、乃愛の質問によって記憶が数時間前にとんでいった。
終電を逃した理由は、会社の残業ではなく通夜に参列したからだった。もちろん、単に通夜に参列しただけが原因ではない。亡くなったのが高校の同級生ということもあり、久しぶりに友人と再会して軽く一杯のつもりで居酒屋に寄って昔話に花を咲かせたのが主な原因だった。
「高校の同級生が亡くなって通夜に出たんだ。その帰りに同窓会のようになって、気がついたら終電逃して変な奴にからまれてるってわけだ」
軽い冗談のつもりだったが、再び乃愛のパンチが飛んできた。美人特有の冷たい雰囲気があるように思えたが、案外乃愛はノリがいい性格のように思えてきた。
「亡くなったって、病気で?」
「そうだな、病気ならまだよかったんだけどな」
興味津々の眼差しを向けてくる乃愛に含みを持たせて答えると、乃愛は首をかしげたまま固まってしまった。
「ここから少し離れたところに大きな川があるだろ? そこで遺体で発見されたんだ。警察の調べによると死因は溺死で、事件性はないと判断されたらしい」
あえて自殺という言葉を使わずに、通夜の席で聞きかじった情報を適当に並べていく。とはいえ、高校卒業後に亡くなった同級生とは疎遠となっており、詳しいことはほとんどわかっていなかった。
「同窓会になるくらい人が集まったってことは、その人は人気者だったの?」
「そうだな、頭もよくて明るい性格だったから男女問わずに人気だったのは間違いないな」
短くなった煙草を灰皿に捨てると、残った紫煙の先にかつての日々が蘇ってチクリと胸に痛みが走った。気さくなムードメーカーとしてクラス委員長だけでなく生徒会長も務めたほどみんなに慕われていただけに、ひとり寂しく自らこの世を去っていった結末には驚きしかなかった。
「ねえ、今から暇だよね?」
俺の話を黙って聞いていた乃愛が、なにかよからぬことを思いついたような顔でいきなり予定を聞いてきた。その唐突さに嫌な予感がした俺は、時間はあるがかまってやる暇はないと即答した。
「あのね、おじさんが若い子の誘いを断るのは重大な犯罪なんだよ?」
「そうか、日本はいつの間にかおっさんには厳しい国になったんだな」
「そういうこと。だから、今から私と一緒にその川に行ってみない?」
「あのな、よりにもよって今から川に行くとか正気か?」
なにを言い出すのかと警戒していた矢先、乃愛は唐突に同級生が亡くなった川を見に行きたいと言い出した。その理由を意味深に輝かせた乃愛の瞳に探したが、とりあえず最悪な理由ではないことだけはなんとなく伝わってきた。
「もちろん正気だよ。どうせ真司も始発まで暇でしょ? 聞く限りだと近くに駅もあるみたいだし、始発までつきあってよ」
なにか考えごとをしているようにも見えたが、まさかの提案をされるのは予想外だった。確かに現場の近くには駅はあるし、今から歩いて現場に行ったらいい時間帯になるだろう。だが、だからといってよくわからない人間と問題の場所に行く気にはさらさらなれなかった。
「もちろん、真司に拒否権はないからね」
「それでも嫌だと言ったら?」
「そのときは――」
俺の抵抗ににっこり笑った乃愛が、スマホを取り出して不敵に口元を歪めた。
「変質者にからまれてますって通報するから」
警戒する俺に対し、乃愛は悪びれる様子もないまま脅しともとれる口調で詰め寄ってきた。
「あのな、そんな嘘を警察が信じるかよ」
「それはわからないよ。演技には自信があるし、なにより冴えないおじさんとか弱い私とでは、警察がどっちを信じるかは一目瞭然だと思うけど?」
挑発的な態度で、乃愛が意地悪そうに攻めてくる。確かに警察が来て乃愛の演技とやらが成功したら、下手したら朝まで警察署で過ごすことになるだろう。
「そうだ、終電逃した者同士だし、せっかくだから朝まで恋人になって楽しもうよ」
「は? なに言ってるんだ?」
「真司は絶対結婚してないでしょ? 見た感じ恋人もいなさそうだし、私がワンナイトラブの相手してあげるから」
「あのな、勝手に決めつけるな。それに、ワンナイトラブの意味も間違えてるだろ」
的確に図星をついてくる乃愛の言葉に精神を削られた俺は、惨め過ぎるぐらいの幼稚な反抗しかできなかった。
そんな俺に対し、了解を得る間もなく乃愛が俺の手を握ってくる。さらには、『おやつは上限なしだからね』と言いながら上着から強引に財布を抜き取ると、有無を言わさずコンビニの中に俺を引きずり込んでいった。
――なんなんだよ一体
乃愛の強引さと握った手から伝わってくるやわらかいぬくもりに戸惑いながらも、結局乃愛の奇妙な提案に抗うことができなかった。


