勝手に頼まれたカシオレは、三分の一も飲めなかった。

 「八巻(やまき)ぜんぜん飲んでないじゃ~ん。ちゃんと楽しめてるぅ?」

 盛り下がっていたテンションが更に下降する。

 男同士だからと、無神経に肩を組んで来る同期に愛想笑いを返したのも今日何回目のことだろう。
 入学当初は俺と同じ黒髪で落ち着いた雰囲気だったのに、すっかり栗色に頭を染めてピアスを耳に六つも開けている。
 だが変わってしまったのはこいつだけではない。

 「もう柳先輩、八巻先輩困ってるじゃないですかぁ」

 慣れた動きで彼を引き離しながら、後輩の女子が距離を詰めてくる。

 「まったく酔っぱらっちゃって。八巻先輩も大変ですよねぇ?」

 「いや、はは……」

 大人しくて穏やかな文学少女だった後輩も、今ではすっかり色香を漂わせていた。
 周囲の笑いを誘いながら、流れるように彼女は耳元でささやく。

 「先輩、少ししたら一緒に抜けませんか?」

 使いまわしであろう口説き文句と共に、手の甲に細い指が伸びる。
 その指先が触れる前に、俺は立ち上がった。

 「ごめん、少しお手洗いに」

 今までにない反応だったのか、後輩は不思議そうに首を傾げていた。
 その隙にこっそりと自分のポーチを取り、テーブルから離れた。

 本当はトイレに駆け込みたいほど気分が優れなかったが、一刻も早く離れたかった。
 店員へ頼んで先に支払い、「体調が悪くて先に帰った」と伝えてもらうようお願いをして去った。



 「何が文芸サークルだよ」

 二年弱が経っても、八巻彬人(あきと)の名前が文集の表紙に載る機会なんてなかった。

 仲間がいると思って入ってみたら、本の一冊も読んだことないような大学生の集まりだった。
 一部は大人のラブストーリーだとか、色に狂った文豪の作品を好むメンバーもいたものの、結局は文芸を免罪符に爛れた欲を満たしたいだけだった。

 若くて浅いインモラルな集まりでも、あの中じゃ俺だけが異分子だ。
 今日だって、創作談話の名目にまんまと釣られて飲みに連行されたぐらいだ。

 「あれで大人なつもりかね」

 深夜の電車に揺られても分厚い文庫本を読んでいる自分が偏屈なだけなんだろうか。

 『次は幕戸谷、幕戸谷。終点です』

 「……えっ、ここで止まるの?」

 それでも子供なのは俺の方だったらしい。
 深夜まで遊ぶ生活と無縁だったせいで、自分の終電まで把握してなかったのだから。

 『本日もご利用ありがとうございました』

 虚しく響くアナウンスの中、俺は朝までの過ごし方を考えていた。



 「歩く、なんて距離じゃないもんな」

 初めて降りた駅のホーム。夜風に震えながらマップアプリで入れる店を探した。

 「こんな時間にやってるの、カラオケぐらいしかないよな。ネカフェのが良いけど、高いしな」

 家へ帰れない上に、財布の中身はついさっき四千円も失った。
 苛立ちなんて通り越して、虚しかった。

 「なんのために、こんな――」

 「彬人?」

 突然呼ばれ、肩が跳ねた。
 人がいたことにも驚いたけど、何より久々に自分の下の名前で呼ばれた事が衝撃だった。

 真横に目を向けると、ホームのベンチに腰かけるダッフルコートの女性がいた。

 「……未奈(みな)?」

 「奇遇、だね。やっほ。そっちも終電逃がしちゃった感じ?」

 胃に溜まっていたアルコールが一気に全身を巡った。
 大人の女性になりつつある初恋の人を前に、心臓は静まり方を知らなかった。

 「飲み会で、遅くなっちゃって。早めに出たんだけど、終電わかんなくて」

 「そっかぁ。彬人もすっかり大学生だね」

 その言葉に胸を刺された気がした。
 今日は特に見られたくなかった。整えてない髭と髪に、だらしない着回しパーカーで、おまけに疲れ切った顔だ。
 こんなくたびれた大人の象徴じみた格好なんて、みっともなくて仕方がない。

 でも未奈はあの頃と同じように俺の目を見て、安心させてくれる穏やかな眼差しを向けてくれる。

 「未奈の方も電車使うなんて珍しいね。車の免許取ってなかったっけ?」

 「普段は車乗ってるよ。今日はノノちゃん達と買い物の約束あったから、電車で遠出してたの」

 「卒業後も仲良いんだね」

 「普段はチャットばっかりだけどね。ほら、私は地元組だから」

 彼女の実家の篠木(しのぎ)家はそこそこ顔の広い地主で、今でも広い土地で農業を続けている。
 動物や植物の世話が好きだった未奈は進学せず、家で牛と野菜の面倒を見ている。
 多忙なようで、卒業してからは俺も話す機会が数度しかなかった。

 「ところでさ、彬人ってこの後予定ある?」

 「朝が来るまで時間を潰すって予定以外、ない」

 「よし、じゃあ朝まで付き合ってよ。ちょうど暇で困ってたし」

 ――付き合って。文脈も違うのにその単語だけで胸がドギマギするのは、やはり俺の心がお子様なせいかもしれない。


 駅から歩いて十五分ほどの場所を案内され、俺は未奈とファミリーレストランに入った。
 今どきのチェーン店にしては珍しく深夜営業をしていることを初めて知る。
 他の人もそうなのか、店内はネクタイを外したサラリーマンと派手な格好のギャルだけだった。

 「懐かしいね。店舗は地元だけど、昔よく一緒に入ったよね」

 「そうだったよな。いつから通い始めたんだっけ?」

 「中学の時だよ。テスト勉強で歴史のノート持ち込んだ時!」

 「あれか! 懐かしいな。室町時代のとこで大河ドラマの話に脱線して結局進まなかったとこ」

 六年以上も前の記憶だというのに、お互い内容はよく思い出せた。
 語った将軍の珍エピソードから学習ノートの隅に書いた相関図まで。

 「ところで何頼む? ドリンクバーは付けるとして」

 「そうだな。あんま飲み会で食わなかったし、少し口に入れたいかも」

 話ながらメニュー表を流し見していた最中、緑色のパスタが目についた。
 見た途端、俺は迷いなく注文する品を決めた。

 「……ジェノベーゼ」

 「あ! そうだ、よく頼んでたよね!」

 未奈と来るときは毎回ジェノベーゼを頼んでいた。
 別に味が好きでもないし、ファミレスのパスタは少し脂っこくて苦手でもあった。

 それでも欠かさず、ずっと頼んでた。

 「なんとなく、香りが好きだからさ」

 匂いなんて気にしたことはない。
 ただファミレスのメニューでは小洒落ていて、大人っぽく見られるかと思って注文していただけだ。

 「じゃあ私はドリアたのむー」

 「いいね。一口分けてもらえる?」

 「えー? 良いよ」

 「ごめんごめん、流石に冗談」

 学生時代となんら変わらないノリでやり取りしながら、店員へ注文を伝えた。
 厨房に戻っていく背中を眺めながら、深夜の静寂が一層店内に立ち込めた気がした。

 「大学はさ、楽しんでるかな?」

 「……そこそこ」

 「お、さてはエンジョイしてる感じ?」

 「あっはは、まさか。ちょっと見栄張っただけ」

 聞かれた時にはどんよりした気持ちが胸の中で渦巻いていた。
 未奈の手前、辛気臭い空気にしたくなくて、自虐的に笑いながら口にする。

 「同期もサークルも、テストの過去問貰うための人間関係としてキープしてるだけで、普段は全然。今日だって飲み会の空気がキツ過ぎて、さっさと退散してきたってわけ」

 コップを傾け、カランとお冷の氷を鳴らす。酒でも呑んでるような空気で水道水を飲むのは少し恥ずかしいものがあった。

 「電車で時間かかるとこにわざわざ通ってるってのに、こんなじゃ行って損してる気分だよ。ははっ」

 「そうだったんだ。ちょっと意外かも。彬人って誰とも仲良くしてるイメージだったから」

 「中高の環境がたまたま良かっただけ。あんな気の良いやつばっかじゃなかったら、きっと人付き合いしようとも思わなかったよ」

 「じゃあ少し無理して、私と仲良くしてたってこと?」

 声のトーンが急に変わって、何か追及されているような思いに駆られる。

 「ど、どうしたの急に? それに未奈と一緒にいたのは無理してたとかじゃ……」

 「高二からクラス別れたら、急につるんでくれなくなったじゃん」

 当時の感情が蘇って、心臓が別の痛みを訴える。
 淡くて苦い春の味が口の中で広がった。

 「ほら、クラスのやつらと未奈が仲良かったからさ。たまに会ってくれてたし、あんま誘うのも悪いかなって」

 「一言もそんなのお願いしてない。それに後半、なんか避けてなかった?」

 「あれはっ、違うよ。身の丈を弁えてたっていうか、邪魔にならないように気を付けてたんだ……」

 中学の奴らは本当に良いヤツばかりだった。

 未奈は当時から明るくて、人懐っこくて、男子からも人気があった。おまけに彼氏もいなかったとか。
 そんな未奈を俺が好きだと知って、仲間内で冷やかしながらも陰から応援してくれたやつらばかりだった。

 でも当然、高校に入ってからは話も変わった。
 影が薄くて根暗な俺の恋路まで配慮する人間なんていない。
 常に誰かしら未奈に惚れてたし、学年でもイケメンと噂だったやつに告られたって話も聞いたことがある。

 俺は今まで運良く、高嶺の花の隣にいたってことを受け入れたんだ。
 ましてや男子が噂する度に募るのは劣情ばかり。そんな俺がまともに未奈といられる資格なんてないと、今でも思ってる。

 「邪魔だって私が言った事あった? 彬人との時間が煩わしいとか、一度も思った事ないよ」

 「未奈は昔から、その……び、美人だったしさ。性格も良くて、頭も良かったし、俺みたいなのが近くにいたら迷惑なんじゃないかって」

 「やっぱり、変だよそれ。ずっと一緒に楽しくやってたのにさ」

 「俺も楽しかった。本当だよ。未奈と居れた時間で楽しくない時なんてなかった」

 「そういうのちゃんと、教えてよ……」

 鼻の詰まって掠れ始めた声音が鼓膜を震わせた。
 唇を小刻みに震わせた未奈はテーブルに向って呟く。

 「もっと、沢山過ごしたかったの……彬人は、出て行っちゃう人だから」

 「……えっ」

 数滴の涙がメニュー表の上に落ちる。絞り出した声は酷くしゃくり上げていた。

 「私は家の仕事を継ぎたいって思ってたし、彬人は大学行くつもりだったでしょ。だから短いあの三年間、ちゃんと思い出作りたかった」

 「三年間、って……」

 「大学行って、もっと綺麗で素敵な女の子を知って、彬人も大人になっちゃう。私のことなんて、地元の仲良かった女の子で終わっちゃうって分かってた」

 落涙は収まらない。未奈は体を小さくし、何度も狭めた肩を跳ねさせた。

 「一緒にいないといつか心って離れちゃうから、そうなる前にしっかり、伝えておきたかったの」

 今になって、俺は自分の過ちと愚かさに気が付いた。
 自分の弱さしか見えなくて、惚れた女の子の事を考えられていなかった。それが罪だったのだと知った。

 「だから、俺なんかとも……」

 「じゃなかったら、頑張って理由付けて、休み時間や放課後までついて回ったりしないよ」

 思うように止まらない涙を未奈は手で拭う。
 一粒、また一粒と涙が彼女の頬を伝うたびに、俺の後悔は募っていった。
 もともと低かった自己肯定感に、自己嫌悪が加算される。

 「……俺は未奈が想像してたような大人にはなってないよ。こんなくたびれて、だらしなくて、雑巾みたいなおじさん予備軍だ」

 「なんで、そんなこと言うの?」

 「ほら、見た目だって大学生っぽくないじゃん? 髭も整えてないし、服だって今どきの韓国風ファッションとか知らないし、そもそも若者らしい活気とは無縁だしさ」

 「どうして、そうやって自分を下げるの?」

 泣き腫らした目は昔のまま、無垢な瞳に俺を反射させていた。

 「彬人はずっと、彬人のままなのに」

 言われて心から恥ずかしくなる。
 答えなんてきっと最初から出てたっていうのに、こうして言われなきゃ勇気が出ないぐらい臆病なんだから。

 くわえて俺は最低だ。惚れた女の子を泣かせて、こんな意気地なしの根暗男のために二年……いや五年近くも心の棘を作らせていたんだから。

 「……俺、自信が欲しかったんだよ」

 罪を犯したなら懺悔しなければならない。
 俺はこれまでの謝罪と誠意を込め、告白を始めた。

 「自分じゃ未奈には釣り合わない。だから四年の猶予をもらって、その間に少しでも、また話しかけられるだけの男になろうって」

 所詮は問題の先延ばしに過ぎなかった。猶予期間も折り返しに入ってこの体たらくなのが証拠だ。

 「自分でもどっちつかずでさ。けど諦められなかったから、進路希望アンケート書いてる時から決めてたんだ」

 高嶺の花を潔く譲れるほど俺も大人じゃなかった。そんな花は今、再び涙を貯めて俺を見つめている。

 「大学の農業学部で農業のこと知ろうって。経営の授業とか単位低いのに取ったりして、ちゃんと卒業するために人間関係も完全シャットアウトしないでさ」

 言い訳がましくても、みっともなくても、正直に話し続けた。
 未奈はキュッと口を結んで、ゆっくり頷いている。

 「もしもまだ、地元に帰った時に未奈が俺と話してくれる気があったんなら」

 青春期に足りなかった勇気を言葉に込める。

 「ずっと好きだったって、伝えようと思ってた」

 自分でもダサくて情けない告白だと思ってる。
 それでも。いや、それだからこそ俺のありのままをさらけ出せた気がする。

 落ち着きかけていた未奈は堰を切ったように再び嗚咽を漏らした。

 「最初から、言葉で伝えろよぉ……」

 「遅くなってごめん。まだ立派な人間になれてないけど、また未奈と一緒にいても良いかな?」

 腕全体でグシグシと目元を擦りながら、ボソリと未奈は発する。

 「――ニンジン」

 「へ?」

 「人参! 最近トラクターの調子が悪いから、今手作業で収穫してるの!」

 ケホケホと咳き込みながら、震えた声を整えて未奈は俺を見る。

 「サークルの飲み会とかもあるんでしょ? なら大学ない日、うちの畑手伝ってよ」

 これまでの不満を全部込めたように、むくれ面で彼女は告げてきた。
 喜んで、と俺は首を縦に振る。

 「お待たせしました。ジェノベーゼパスタになります」

 タイミングを見計らったように店員が皿を運んできた。
 少し冷めてしまっているように見えたのは、きっと店員の心遣いの結果だろう。

 「もうすぐ私のも来ると思うから、先食べちゃって良いよ」

 「いや待つよ。女の子より先に食べるわけにいかないし」

 「良いから。そういう遠慮とか前はなかったじゃん」

 半ば強引な要求の元、一足早く遅めの晩飯にありついた。

 「いただきます」

 緑色の麺をフォークでクルクルまとめ、行儀よく一口サイズで口に入れる。

 昔は分からなかった香草の匂いが、ようやく理解できた気がした。