20日締めの25日払い。

それは、この会社で働く人に対しての誓約。

明日の朝一には銀行に2000人分の給与データを送らないといけない。

ああ、でもまだ金額が合わないよ。

間に合わなかったら、どうしょう。

給与が遅れてしまうなんて、人事部としてあってはならないこと。

労働基準法第24条
賃金支払いの5原則のうちのひとつ。
「賃金は一定の期日を定めて支払わなければならない」

こんな時に、入社時の研修で教わった基本的な条文が頭に浮かぶ。

パニックになりながら、PCの中の数字と格闘する。

ただいまの時間は午後11時35分、今日はもう終電には間に合わないかもしれない。

人事部のデスクの片隅で一人そっと項垂れる。

だけど、目の前の仕事を投げ出すわけにはいかない。

パーテーションで区切られたフロアは閑散としていて誰もいない。

そうわたし以外は誰も。

どうしてこうなったんだろう。

2ヶ月前に部署の先輩が、産前産後の休業を取得してで会社に来なくなった。

優しくて頼りがいがある大好きな小雪さん。

彼女がいなくなって寂しいだけじゃなく、業務量が倍になり私は急激に疲弊していった。

特にこの給与締めの日は、地獄のようなハードスケジュールに突入するのだ。

山積みのタイムカードと早朝から睨めっこし、各部署に問い合わせにかかった。

OAにより業務効率化とは名ばかりで今だに地道な手作業が大半なのだ。

しかも今月は7月昇給、夏期賞与支給も同時にこなさなければいけない。

それなのに同じ部署の契約社員の2人は定時に退社してしまった。

残業をしてもらえるようにお願いしたけれどそれぞれ大事な用事があるからと断られてしまい。

実は今夜2人が他部署との合コンに行くことを偶然知っていたんだよね。

合コンが、仕事よりも大事な用事だなんて。

だけど、無理強いするわけにもいかず諦めるしかなくて。

しかも、上司はこんな日にかぎって役員と飲みに行ってしまった。

「清水さんさぁ、入社してもう1年も過ぎてるんだからいつまでも新入社員のつもりでいちゃいかんよ。
大丈夫、君なら出来る」

行かないで欲しいと、とりすがる私を部長は無情に見捨てた。

誰もあてになんてできない、私1人で乗り切らないといけないんだ。

肩に重くのしかかる責任に嘆息していると、スマホのアラームが遠慮がちに鳴る。

「あ、やっぱり終電、間に合わない。どうしよう」

弱々しく呟いて、数ヶ月まえまでの締め作業を思い出していた。

まだ小雪さんがいる時でもこんなふうに2人で終電を逃してしまうことが一度だけあった。

あの時は、うちの会社の近くにある社員寮で泊まらせてもらい助かったんだ。

小雪さんの同期入社の友人が一人暮らしをするその部屋にいきなり押しかけて行ったっけ。

それでも、部屋の主人は嫌な顔ひとつせずに迎えいれてくれたのだ。

ふとその人の端正な顔が朧げに浮かんできて頭を振る。

ダメダメ、彼は小雪先輩の友達であって私が気軽に頼っていい相手じゃない。

と、そこまで考えた時、再びスマホの画面が光り今度は優雅にショパンを奏でた。

この着信音は、たしか。

急いで画面に目を向けた。

「小雪せんぱぁい」

自分でも情けなくなるくらいの弱々しい声が出てしまう。

「夏帆ちゃん、大丈夫?もしかしてまだ会社?」

懐かしい声を聞いて胸がじんわり熱くなる。

「はい」

妊婦の小雪先輩にこんな夜中に連絡するわけにも行かず諦めていたけれど、まさか向こうからかけてきてくれるなんて。

嬉しくて泣きそうだった。

「今、どのあたりまで進めてる?」

「えと、賞与の方はなんとか終わらせたんですが、給与の金額が合わなくて、控除金が。社会保険料も何回も確認してるのにダメで。だから経理にだす伝票も出来なくて」

たどたどしい私の説明に答える声は優しい。

「わかった、一旦落ち着こうか」

「はい」

それからは魔法のように絡まった糸がほどけていった。

先輩の指示のもと効率よく業務を進めることが出来て、なんとかめどがついた。

その頃には1時を過ぎていた。

「ごめんね、私が急に休業にはいったから、きちんと引き継ぎが出来なくて」

「いえ、こうしてお電話をいただいて助かりました」

1時間ちかく電話越しに見守ってくれていた先輩に感謝してもしきれない。

「ところでさ、この後なんだけど」

「はあ」

達成感で高揚していた私に先輩はおずおずといった風情で語を継いだ。

「終電を逃しちゃってるでしょ、どうやって朝まで過ごす?夏帆ちゃんち遠いしタクシー使って帰るのもキツイよね」

「あ、そうですね」

仕事のことで頭が一杯で、すっかり忘れていた。

これからどうしたらいいんだろう。

急に現実感が湧いてきた。

こんな時1人でどうやって朝まで乗り切ればいいと言うのだろう。

私の家は遠くてタクシーなんてもってのほか。

それじゃあ朝までどう過ごす?

学生時代でさえ、終電を逃すほどハメを外すことなんてなかった私。

こういう時の対処法が全くわからない。

「……」

それに、朝から脳が焼き切れそうなくらいフル回転していたんだもん、もう限界だ。

なんにも考えたくない。

「小雪先輩……私、どうしたらいいでしょう」

半泣き寸前で電話の向こうに助けを求めていた。

休業中の小雪さんを私の残業に付き合わた挙げ句、助けまでもとめてしまった。

申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、私には彼女しか頼れる相手がいない。

「大丈夫だよ夏帆ちゃん、私に任せて」

だけど小雪さんは自信満々に応じてくれて。

「いいんですか」

「もちろんよ、私にいい考えがあるから」

「小雪センパイ、女神様ー」

私は電話の前で両手を合わせた。


夏真っ盛りの夜風の生暖かさが、今の私にはどうしょうもなく眠気を誘う。

ふあっと、大口を開けてあくびをする自分が会社の玄関ガラスに映る。

髪の毛を一つに束ねて、分厚いメガネをかけた疲れ切った顔。

もうすぐある人に会わなきゃいけないというのに、身だしなみに構う気力はもはや皆無だ。

いいもん、どう思われたって。

強がってそう思った瞬間、後ろから声がして振り返った。

「清水さん、お疲れ様」

口をポカンとあけたままで思わずその場に固まる私。

無理もない、だって目の前に現れた彼は鬱陶しい夏の夜気を一瞬で追い払うくらいの爽やかさだったから。

「こんな時間まで大変だったね。話は奥村から聞いてる。今夜は僕の部屋でゆっくりやすんでくれていいからね」

小雪さんが同期の彼に私を一晩社員寮に泊めてもらえるように頼んでくれたのだった。

「は、はい。お世話になります。工藤さん」

目が合いそうになったから慌てて頭を下げた。

どうしてこんな真夜中でもキラキラしていられるんだろう。

彼はクリエイター部門で社長賞を2回も獲得していて将来有望らしい。

クリエイト系の人特有の外見で普段から茶髪にお洒落カジュアル服。

スーツ姿なんて滅多に見ない。

だけど嫌味のないイケメンですらっとした長身だからなんでも着こなしてしまう。

今だってハイブランドのレモン色のシャツに薄いベージュの短パンがよく似合ってる。

相変わらず、いちぶの隙もないチャラさだ。

心身ともにボロ雑巾のような自分が、彼のお目汚しになるんじゃなかろうかと卑屈に感じてしまう。

私はもともとこういう表舞台で脚光を浴びまくっている男性が苦手。

偏見とは自覚しつつも私のような地味と真面目で型作られたような人間にはおよそ縁の無いタイプの人なのだ。

実を言うと彼に対して私には後ろめたいことがあって。

以前に小雪先輩と泊まりに行かせてもらった時も、人見知りをしてあまり話せなかった。

その後、社内で数回でくわした時も目を伏せて気が付かないフリをしてしまっていた。

なにせいつ見ても彼の周りには彼を慕う人がとりまいていたから、なんとなく気後れしてしまう。

小雪先輩には、「いい奴だからそんなに警戒しなくても大丈夫」って言われたけど「なんだか住む世界が違いすぎて緊張するんです」と返していた。

ああ、どうか感じの悪い態度をとってしまったことを気づかれていませんように。

と心のなかでそっと祈った。

だけど、どんなに気まずかろうと今はこの人を頼るしかないのだ。

「大丈夫?顔色がよくないね。
お腹空いてる?」

「は、はい」

「じゃあ、どこかで軽くなんか食う?この時間だからラーメンか牛丼くらいかな、あ、ファミレスもあったな」

言うが早いか、もと来た道をすたすた歩き出す彼。

私はその後を少しの距離をあけて、のろのろと追いかけた。

そんな私を返り見た彼が苦笑を漏らした。

「あ、すみません。会社の近くなので」

「オッケー」

工藤さんは気を悪くした風でもなく、にっこり笑う。

おもっていたより優しい雰囲気のある人みたいで安堵する。

会社から社員寮までの道すがら、ラーメン屋と牛丼屋とファミレスがあるらしい。

ファミレスがよかったけど牛丼屋さんの灯りが見えて来た時にいい匂いがして、急激に食欲をそそられた。

「あ、ここがいいです」

「うん」

「お金は私が払いますので」

「いやいや、そんなわけにはいかないよ」

「でも」

「俺の方が年上だし、この時間まで会社のために頑張ってくれていたんだから、せめてものご褒美だよ」

「……」

やばい、優しい言葉が身に沁みる。

「って言っても、まあほんとにささやかだけどね」

言いながら食券を買うために財布から小銭を出す工藤さん。

「いえ、充分です」

なんとなく緊張してしまい、気の利いた返しができないまま1番奥のテーブル席に着いた。

店内は私達以外の客はいないようだ。

「心配してるだろうから奥村に連絡しておくよ」

「はい」

彼は小雪先輩にメールをしはじめた。

なぜかその姿が急激にぼやけた。

視界からは光が消え失せ私は意識を手放していた。

「おーい、清水さん」

「……」

「牛丼きたよ、冷めないうちに食べようか」

「……」

「ほんとに疲れ切ってるみたいだな。テイクアウトにしてもらうか」

彼の優しい声音が耳をくすぐる。

「ごめんな、もっと早く気がついてあげられたらよかったのに」

私は一瞬ハッとして目を見開いていた。

「あれ、ここ、は」

夢と現実がうまく噛み合わない、だって目の前には俳優さながらの美丈夫がいるんだもん。

ええっと、この人誰だっけ……。

「どちらさま、ですか?」

言ってしまった直後に失敗したと気づいた。

さいあく、失礼極まりないよ私ったら。

カアッと顔が熱くなる。

恥ずかしい、穴があったら埋まりたい。

彼は一瞬困った顔をしたけれど、次の瞬間目が覚めるような綺麗な微笑をうかべた。

「では改めて自己紹介させてもらうね。
工藤海斗(くどうかいと)28才、独身です」

彼は茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

「え、えと、ごめんなさい」

「いいよ、謝らないで。昔から存在感が薄いんだ俺」

「そ、そんなことは」

「いいから、いいから、さあ食べて」

すると彼が割り箸をパチンと割って私に手渡してくれた。

それに、冷たいお水までガラスコップにそそいでくれた。

疲れた私の介助をしてくれている感じでありがたくも申し訳ない。

「す、すいません」

いたたまれないような気分になりつつ、私はおもむろに牛丼にがっついた。

そう言えば朝からろくに食べていなかったんだった。

漬け込んだお肉と玉ねぎの甘みが、信じられないくらいに美味しかった。

それから私も彼も店を出るまでずっと無言だった。

道すがら先に口を開いたのは彼だった。

「夜中に食う牛丼ってどうしてあんなに美味いんだろ」

しみじみと言われて大きく頷いた。

「はい、同感です」

今ちょうど、全く同じことを思っていたから。

そんな私を見て、彼は安堵したように笑う。

「ちょっとは元気になった?」

「はい、やはり人間は肉を食べると力が湧きますね。
夜中に高カロリーを摂取する背徳感もたまりません」

思わず握り拳を作って力説してしまった。

「そっか」

口元を隠しながら眉を下げてクッと笑う彼。

「あ、あの」

「いや、奥村が言ってたとおりだから」

「はあ、小雪先輩がなんて?」

「面白い子だって。そこが可愛いんだって」

「え、先輩が?」

「俺もそう思う」

なぜかポッと頬が熱くなった気がした。

面白い子、はまあわかる。
よく変わってるね、とか言われるから。

だけど、可愛いなんてついぞ言われたことは無い。

小雪先輩が私を可愛いと言ってたことを、俺もそう思うですって?

つまり、私のことを可愛いと一瞬でも思ったってこと?

いやいや、それは違うよね。

たぶん、彼みたいな人にしてみれば「可愛い」なんて、女の子に対して挨拶程度の言葉なんだろう。

いけない、危うくときめいてしまうところだった。

私はささーっと数歩後退りをした。

「どうぞ、先に行ってください。まだ会社の近くなので」

夜中に会社の人が近くをうろついているはずも無いけれど、こんなところを見られたら大変だ。

付き合ってると勘違いされてしまうかも。

いや、あるいはカップルになんか見られはしないかもしれないけど。

「うん、わかった」

改めて警戒モードになる感じの悪い私に、彼は気づいているのかいないのか。

その後、着替えや洗顔を買うためにコンビニに立ち寄ってくれた。

言い出したのは彼の方だったので、こんな場合の女子の都合なんかをきちんとわかってる人なんだろうなと、ぼんやり感じた。

つまり、こういった状況に慣れてるのかなって。

いったいこれまで彼の部屋にお泊まりした女性は私で何人目なんだろ。

ふと、そう思ってブンブンと首を振る。

いや、だから何だって言うの。私はそんなんじゃないから。

たまたま終電を逃しちゃって、知り合いに泊めてもらうだけ、それだけなんだから。

と自分に言い聞かせつつも、下着を選びながら胸がドキドキしてしまう。

彼の姿を目で追うと、外国人の店員のお姉さんに話しかけられて英語で何やら話している。

キャラキャラと嬉しそうに笑う店員さん。

ふとその店員さんが私のほうにチラッと視線を向ける。

それから、何事かを彼に尋ねているみたいでガールフレンド、って単語が聞き取れて慌てて下着コーナーから離れた。

うわっ、一体私達ってどんなふうに見えてるんだろう。

こんなことでも胸の奥が跳ねたように騒がしくなってしまう。

あの後、彼はなんて答えたのかな?

そこまで考えたら、ちょっと恥ずかしくなってきた。

私ったらなにを浮かれているんだろう。

真夜中にイケメンに迎えに来てもらい牛丼を食べて、コンビニでお泊まりセットを買い込んだりして。

何もかも私の人生で初めてのことだらけ。

だけど、怖いって思いながらも、惹かれてしまうんだ。

終電を逃した先の未知な世界にちょっとだけワクワクしてしまっている。

人一倍、臆病なのに。

「行こうか」

「はい」

コンビニを出てまた歩き出した私達はさっきよりも離れて歩いている。

まともに顔を直視するのがむずかしい。

彼の背中を見つめながら、今更ながら迷っていた。

このままついていって、本当にいいのかな。

そんなに親しくも無い男の人の部屋に泊めてもらうなんて軽率すぎない?

優しすぎる態度も気にならないと言えば嘘になる。

見るからに女性の扱いに慣れていそうだし。

彼からしたら私なんて、チョロい女に見えてるかもしれないのに。

ちょっと優しい言葉をかけたら簡単に落とせるとか思われてたらやだな。

もしも、彼がそんな人だったら嫌だ。

待てよ、そもそも私にそんな魅力なんてあるわけないって。

思考はあちらこちらに飛んでしまい出口の無い迷路に迷い込みそうになった、その時。

「お姉さん、どこの大学?ひとり?」

「いや高校生でしょ、どう見ても」

頭の上から異様に陽気な声が降ってきた。

目をあげれば、明らかに泥酔状態のサラリーマン風のおじさんが2人。

「お兄さん達が美味しいお店に連れて行ってあげようか?」

「お兄さんだってよ、ガハハ」

酔っ払い達は酒臭い息を吐きながら意味不明に笑っている。

ふと、人事部の部長のことを思い出してしまいイラっとした。

私を1人残して無責任に飲み歩いている鬼畜上司。

目の前のおじさん達が同年齢くらいだったこともあり、重なってしまった。

私は思わず目を見開き、叫んでいた。

「おじさん達、間違えないでください。
私は学生じゃなくてれっきとした社会人ですからね。今の今まであくせく働いて終電を逃してしまった哀れな社畜ですよ。わかったなら、私に構わないで」

八つ当たりにあった酔っ払い2人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。

その隙に彼らの横をすり抜けて逃げようとした、だけど。

「おい、ちょっと待ちなさい社畜のおねえちゃん」

おじさんの1人が息を吹き返したように揚々と口を開く。

「かわいそうに。おじさん達が飲みに連れて行ってあげるよ。朝までだって付き合おうじゃないか」

「俺たちの若い頃は仕事で徹夜だって当たり前の時代だったんだよ。最近のわかいもんは」

そしてもう1人はというと、おきまりの説教口調に。

「ちょ、離してくださいったら」

思いのほか、おじさんに強く掴まれて腕が痛い。

「聞き分けが悪いおねえちゃんだ」

抵抗する私を見つめるおじさんの目が仄暗い光を放つ。

「やめてください、はなして」

振りはらってもびくともしないので、にわかに怖くなった。

と、その時だった。

「おっさん、何してんねん、その子をはなせや」

「え?」

思わず問い返しそうになったのは私。

どうして関西弁?

見れば急いで駆け戻ってきた工藤さんが舌打ちしながらおじさんの手を私から引き剥がしてくれた。

「お、なんだよおまえ」

「なんや、やんのか?やったろうやないか。言うとくけど手加減でけへんで」

反撃しようとしたおじさんを冷たく見下ろしてすごむ工藤さん。

体格差もあってかおじさん達はひるんだ色を見せる。

工藤さん、ちょっとガラが悪いけど頼もしい。

「い、いやその」

「痛い目みんうちにさっさと帰りや」

「ぼ、僕らはなにも」

おじさん達は工藤さんの迫力に気押されて後退り、そして早足で逃げて行った。

「……」

私は思わず安堵の息を吐いた。

あたふたと走り去る2人の背中を見つめながら無意識に工藤さんに寄り添っていた。

今頃になってガタガタと身体が震えていることに気づく。

怖かった、工藤さんが来てくれなかったらどうなっていたろう。

真夜中で人気の無い場所だったから余計に嫌な想像が湧いてしまう。

「大丈夫?ごめん、少し離れすぎたね」

遠慮がちに私の背中を撫でる彼の手の感触が心地よかった。

そのせいか少し落ちつきを取り戻せた。

「ううん、私が離れて歩いたからです」

「もう大丈夫だよ。うちまですぐだから、急ごうか」

こくりと頷いて、至近距離で目があった瞬間慌てて離れた。

自分から抱きつかんばかりにくっついてしまったことが今更ながら恥ずかしくていたたまれない。

けれど、彼は気づかぬ振りをしてくれて柔らかく笑ってから話題を変えた。

「ああそうだ、さっきはごめんな、俺の両親が大阪出身でさ、俺も頭に血がのぼるとついついでちゃうんだよ。
清水さんも怖がらせちゃったかな」

私も恥ずかしくて死にそうだったので彼の出してくれた助け舟にすぐさま乗っかることにした。

「あ、だからなんですね。
ちょっとびっくりしちゃいました。
でも、意外でした」

わざとらしくならない程度にテンション高めに驚いてみせた。

「そう?」

「そうですよ、爽やか王子って感じの工藤さんの印象からはほど遠くて」

「はあ、爽やか王子って」

思い出したらクスクス笑ってしまった。

「あ、でもこういうのがギャップ萌えって言うのかな」

「なんだよそれ、からかってるだろ」

照れ臭そうに頬をかく彼。

「違いますよー」

「ギャップといえば清水さんこそ、あ、いやなんでもない」

「え、なんですか?私が、あっ」

思いあたることがあったのでにわかに、あたふたしてしまう。

ひょっとしてさっきのアレ聞かれてしまったんだろうか。

「忘れてください、今すぐ。お願いします」

「すっげー威勢のいい啖呵きってたね。いや、あれこそギャップ萌えだよ」

「もーそれ言わないでくださいよー」

私は小さく頬を膨らませて怒った顔をつくる。

けど長続きしなくてプッと吹き出した。

気づけば顔を見合わせ笑い合っていた。

一滴のお酒も飲んでいないのに、なぜか酔っ払っているようなフワフワと身体が浮くような気分。

なんだろう、こんな感覚は初めて。

「この前、奥村と一緒にきた時はあまり話せなかったけど清水さんって奥村にめちゃくちゃ懐いてるんだね」

「そうですね、先輩は私の憧れですから。あんな風に優しくなれたらなっていつも思ってます」

話題は小雪先輩のことになりますます話しやすくなる。

「清水さんだって、充分優しいと思うよ」

「はあ、そうですか?」

工藤さんが私の何を見てそう言ってくれてるのかさっぱりわからず曖昧に笑う。

「だってこの前うちに泊まりにきた時、奥村が腰が痛いって辛そうにしてたら、一晩中さすってやってたでしょ?」

「ええっ」

なんでそんなことを知っているんだろう。

私の怪訝な視線が伝わったみたいで彼はちょっと真面目な顔になる。

「明け方に水が飲みたくなって2人が寝てるリビングに行ったら、君が子守唄とか歌いながら一生懸命奥村を介抱してたから、なんとなく入っていけなかったんだけどね」

思い出した、あの時お腹が大きくなってきた小雪先輩は腰が痛くて寝苦しそうだったんだ。

子守唄というかお腹の子に話しかけてたんだよね、夜中に変な奴だと思われていたかもしれないな。

「清水さんはきっとすごくいい子なんだろうなって、あの時思ったんだ」

工藤さんはその時のことを思い出すように瞳を細める。

「あ、いえ、そんなことは」

そんな風に褒められたのは初めてだったからやたらと気恥ずかしくて空を見上げた。

今夜はやけに星が綺麗で神々しく輝いて見える。

彼と並んで歩いて辿り着いた社員寮は、築5年以内の新しい外観で一見するとアパートのようだった。

3階建ての最奥の部屋の前まで行くと、彼がガチャリと鍵を開けてくれた。

「どうぞ」

「お、お邪魔します」

とうとう来てしまった、と思い再び緊張感がよみがえる。

だけど、どうしてかな。

工藤さんに対して、少しも怖気付いてはいなかった。

室内は綺麗に整理整頓されていて、やたらと本が多く、パソコンが2台もあった。

2LDKの間取りは単身で暮らすには広いように思えた。

会社から期待されている工藤さんならこのくらい優遇されるのは当然かもしれないな。

「うちの部署の奴らも普段からたまに来てここで仕事をしたりするんだ。
だから、最近はあっちの部屋を客用の寝室にしてるんだよ」

「そうなんですか」

工藤さんが来客に慣れている様子だったので、なんとなくホッとする。

「それで、こっちが風呂でこっちがトイレ。さっき軽く掃除しといたから。
それと着替えはこれでも使って」

てきぱきと説明してくれる彼にコクコクと頷いた。

私は促されるままにお風呂をお借りすることにした。

「風呂に入る時は鍵かけるのを忘れずに」

「はい」

「けど、風呂では寝ちゃダメだからね。さすがに助けに行けないから」

「わかってますっ」

軽い調子で言われたので思わずにこやかに返していた。

さっきまで警戒心マックスだったくせに自分でもえらい変わりようだと思う。

清潔なお風呂でゆっくりと疲れが癒されてからリビングに戻ると、彼の姿がなくてちょっぴり残念に思った。

きっと自分の部屋で先に寝てしまったんだろうな。

そりゃそうだよね、明日も朝から仕事があるんだし。

私はというと、すっかり目が覚めてしまったみたい。

喉が渇いていたのでさっきコンビニで買った水をグビグビと飲みほしていた。

ガチャリと部屋の開く音がして振り返るとスエット姿の工藤さんが目に映る。

「言い忘れてたことがあって」

でも廊下に立ち尽くしたまま、こちらへこようとはしない。

彼の着ている黒いスウェットと私の借りているグレーのスウェットが色違いだと気づいた。

それだけでなんだか胸の奥がぽかぽかしてくる。

「俺、明日は早く会社へ行かないといけないから、清水さんが出る時に鍵をかけといてもらえるかな?」

「はいわかりました」

「あと、冷蔵庫にあるものはなんでも勝手に食べてもいいから」

「ありがとうございます」

「それと……」

一瞬彼は何か言おうとして黙り込む。

もしかしたら、これが本題なのかもしれない。

寝ようとしていたのにわざわざ起きてきてまで、伝えようとしてくれていることってなんだろう。

彼はひとつため息を落としてから意を決したように口を開いた。

「人事部のことなんだけどね」

「あ、はい」

そうか、と合点がいく。

その先に言われるであろうことが、だいたい想像がついた。

たぶん、彼はずっと気にかかっていたんだろうな。

「ごめん、他部署の俺が口を挟むことじゃないのはわかってるんだけど、どうしても気になって」

「あ、あのわかってます。でも大丈夫ですから」

私は会話を先回りして、そう言った。

「ほんとに?」

「はい」

「けど、こんな遅くまで1人で残業なんてちょっと心配だよ」

「今回はまだ要領が悪かったんだと思います。だけど、数ヶ月我慢すれば落ちつくと思いますから」

半分は願望、もう半分は労務担当としてのなけなしの矜持だ。

彼がそういう意味で嫌味を言ってるわけじゃないのはわかっている。

今の人事部の状況を言いふらしたりするような人じゃないことも。

だけど、給与とは人の命とも言える労働の対価だ。

支払いに関して間違いは絶対あってはならない。

少なくともそのくらいの気持ちで取り扱わなくては会社への信頼を損ねてしまう。

だからほんの少しでも、そこを不安にさせちゃいけない。

「安心してください。
みなさんの給与を間違えたり滞らせたりなんて絶対にしません」

「……」

沈黙が2人の間の廊下に重くたゆたう。

せっかく心配してくれたのに、自分から壁をつくってしまった。

だけど、仕方がないんだ。

ああ、でも私ってどうしてこんなに可愛くないんだろう。

嫌われてしまうかもしれないな。

「まったく……」

ふうっとため息をついた彼は前髪をかきあげる。

「やっぱり君と奥村は似てるよな」

「え」

彼の声が柔らかかったことに安堵すると同時に、どういうことだろうと思った。

美人で活発で誰とでも仲良くなれる性格
の小雪先輩と私なんかが似ているわけなんてない。

「違いますよ、全然似ていません」

「似てるよ、そういうところ」

「仕事のことは絶対秘密保持、トップシークレットとか言ってどんなに辛くても愚痴も弱音も吐かなかったよ」

「小雪先輩が……そっか」

考えてみれば当たり前だ。私に労務担当としての心構えを叩きこんでくれたのは小雪先輩なんだから。

そう言えば小雪先輩がいた頃の私はいざとなれば助けてもらえると頼り切っていたから自分で考えたり悩んだりしてこなかったのかもしれない。

困った時は小雪先輩が教えてくれたから。それに従えばいいだけだった。

だけど、これからはそれじゃいけないんだ。

彼は似ていると言ってくれたけどまだまだ私は半人前。

「あの、私、頑張ります。
小雪先輩が私の目標だから」

顔を上げて、毅然として言った。

「それと、今夜は本当にありがとうございました」

そして私は深々と頭を下げた。

「うん、わかったよ。でもさこれだけは覚えててもらえるかな」

彼はゆっくりとこちらへ近づいてくる。

コクっと息を呑み両手をお腹の前で組み合わせて待つ私。

「君のことを見守りたいって思ってる奴がいることを知ってて欲しい」

工藤さんは手を伸ばせば届きそうな距離で立ちどまる。

私の頭に手をのせようとしたけれど、すぐにひっこめてしまう。

「もし今夜みたいに終電を逃すようなことがあれば、いつでも遠慮なくここにきて欲しい」

愛おしそうに見つめられて、胸が疼いた。

「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか?私のこと、たいして知りもしないのに」

「知ってるとこもあるよ」

「どんなところですか?」

「奥村に聞いてたこともあるし、実際に見てたから」

顎に手をあてて思案するような顔もカッコいいと思ってしまった。

「実は奥村から頼まれてたんだ。自分が休職したら君が1番困るだろうから
相談にのってあげて欲しいって。でも」

そこで彼は苦笑する。

「俺は君にちょっと警戒されてるのかもって思って。
だから、遠くからたまに見てるだけだった」

あ、そうか。私が彼を苦手な人認定して避けていたのがバレていたんだ。

「ご、ごめんなさい」

「いや、それはいいんだ。
俺も頼まれていたのになかなか話しかけられなかったのは悪いと思ってるから」

「そんな、工藤さんはなんにも悪くありません」

「でも清水さんがこんなになるまで1人で頑張ってたのをもっと早く気づいてあげたかった」

後悔を滲ませるように一瞬辛そうに眉を寄せる彼。

「いいんです、だって私たとえ話しかけてもらえてたとしても平気な顔をしていたと思います」

「確かに、会社ですれ違うだけの存在ならきっとそうだろうね」

きっとこの夜がなければ工藤さんのことを、遠くで見て勝手にイメージだけで決め付けてるだけだった。

終電を逃してしまったからこそ、見られた景色があるなんて思いもよらなかったな。

「あの、私……今日工藤さんと話せて良かったです。
もうほんとにひとりぼっちになった気分でいたけど、そうじゃないってわかったから」

私はまだ頑張れる、だって会社のなかに1人でも見守ってくれて心から気遣ってくれる人がいるんだもん。

その時、ふとある誘惑にかられた。

彼の強い引力に惹かれるままに、手を伸ばしてすがりついたら私はどうなってしまうだろう。

優しい彼なら一時、慰めてくれるかもしれない。

一瞬甘美な想像をしてみたけど、それは今じゃない気がした。

私はまだ誰によりかかるわけにもいかない。

頑張るって決めたばかりだから。

そう思って、2歩後ろへ下がった。

それは手を伸ばしても届かない距離。

彼が切なそうに瞳を細めるのを気がつかないふりをした。


「あー、もう腹立つなー、あの無責任上司めー」

ブツクサ文句を垂れながら屋上で昼食のパンにかじりつく。

あの夜から数ヶ月が経ち、またまた給与締めのハードモードに入っていた。

小雪さんがいない日々の業務はいろいろありつつも、どうにか慣れてきた今日この頃。

スマホを見れば小雪先輩からのメッセージが。

2ヶ月前に生まれた赤ちゃんの可愛らしい写真に心が癒された。

『頑張ってるー?今夜また終電逃しちゃったら私に連絡しなよ。工藤くんにお願いしてあげるから。
あ、でももう私を挟まなくてもすっかり仲良くなってるかな?』

もうっ、小雪先輩ったらまたこの手のネタで私をからかってくるんだから。

『そんなんじゃありませんから。それより早く先輩に戻ってきて欲しいです』

私は先輩の復帰を熱望してる。

けど、もちろん先輩が安心して仕事と子育てを両立できるように、私自身がもっとスキルアップするつもりだ。

『工藤くん、かわいそ。いつまで待たせるつもりなのやら』

『だからー、待たせてるわけじゃありませんから』

『あの人、見かけによらず奥手だから』

小雪先輩が勝手に妄想しているようだけど、あれから私と工藤さんの間には何も無い。

ときどき、会社ですれ違った時に挨拶すると、あの優しく包み込むような笑顔をむけてくれる。

「大丈夫?」なんてそっと耳打ちされた日には女子社員達の嫉妬の矢が背中に突き刺さるのを感じてしまうけれど。

彼の姿を見かけるだけで充分癒されたり、もっと頑張ろうという気持ちが湧いてくるのだから不思議。

それに、たとえ終電を逃してしまっても、いく場所がある、迎えてくれる人がいると思うだけでなんとなく気分が違うんだ。

幸か不幸か、あれ以来終電を逃したことは一度もないけれど。

考えてみたらあれは奇跡の一夜だったのかもしれない。

ピコンと新たなメッセージがきて、読み進めるうちに身体の奥が熱くなってきた。

『実はね、あの終電を逃しちゃった夜に私に連絡してきたのは工藤くんなんだよ。
清水さんを助けてあげて欲しいって、自分じゃなんにもしてあげられないから頼むって必死な様子で」

「え、うそ……」

あの絶妙なタイミングで小雪先輩から連絡が来たことでどんなにありがたかったことか。

じゃあ、やっぱり彼は私のことをずっと見守っててくれたんだ。

きっと私が悲壮な顔をしていたのを放っておけなかったんだろうな。

その事実を聞いて無性に彼に会いたくなった。

今すぐ会ってあらためてありがとうって伝えたい。

どうしても、どうしても今すぐそうしたいと思った。

食堂に行けば会えるだろうか。

立ち上がりかけたその瞬間。

突然、屋上の扉が開いた。

「清水さんっ」

「えっ」

勢いよく飛び出してきたのは今まさに私が心に描いた人。

珍しく紺色のスーツを身に纏い伊達めがねをかけた彼はいつもの10倍増しにカッコよくて、私は失神してしまいそうだ。

「……っ」

あの夜のお礼を言わなくちゃと思ってもまごまごするばかりで上手く言葉にならない。

「ごめん、遅くなって。さっき出張から帰ってきたんだ」

「え、あ、はい。おかえりなさい」

「ただいま?
あれ、大丈夫なのか?もう泣き止んだ?」

「はあ、何がですか」

2人ともに噛み合わない会話に首を傾げる。

「いや、奥村から今キミが屋上で泣いているから今すぐ行ってあげてって言われて。心配で走ってきた」

「あ、そうなんですね」

彼は怪訝そうに私を覗きこみ、ふうと息を吐いた。

「やられた……」

そう言って彼はくしゃりと前髪をかきあげる。

どうやら、彼は小雪先輩の嘘にかつがれたみたい。

だけど、この嘘はきっと私に与えてくれたチャンスなのだろう。

そうですよね、小雪先輩。

私は拳をグッと握りしめる。

奇跡はつかみとるもの。

たとえ真夜中じゃなくても、太陽のあたる昼間であっても。

流されたくないと思ったあの夜を超えて
今なら、手を伸ばしてもいいですか。

私は大きく息を吸い込む。

「あ、あの私」

「ん?」

胸に手をあてて思いの丈をぶつける。

「工藤さんに会いたかったです。今すぐ。あれからずっと私のここに工藤さんがいました。もっとちゃんと強くなってからって思ってたけど、でも……」

ひゅって、私の唇から息が漏れた。

工藤さんが私をつよく抱きしめたから、心臓が跳ね心拍数が上がる。

「いつまでも待ってようと思ってたけど、そろそろ限界だった。
俺の方こそ、いつでも君に会いたかった」

お互いの心音が溶け合うくらいに近い。

工藤さんにこれからもずっと見ていて欲しいと思った。

いくつの夜を過ごし朝を迎えるだろう。

その時、隣にいるのは工藤さんがいいな。工藤さんであって欲しい。

その時、胸を張って並んで歩けたらいいなって思っていた。

雲ひとつない青い空を見上げなから。