深夜二時過ぎ。D大学の四年生、倉木カケルは、暗い中央キャンパス内を一人で歩いていた。
ポケットのスマートフォンがピロンと鳴る。取り出して画面を見ると、水泳部の全体チャットに、部長からの新着メッセージが来ていた。
『注意喚起です。
4月3日 23時ごろ、中央キャンパス内で不審な男が目撃されました。
長身で痩せ型、ベージュのロングコートに白いシャツ姿で、金属バットのようなものを所持。興奮した様子で正門付近をうろつき、目撃者に気づくとキャンパス外へと走って逃走したとのことです。
22時ごろにキャンパスから約2kmの地点で発生した通り魔事件との関連が疑われています。
目撃から3時間ほどしか経っておらず、まだキャンパス付近にいる可能性がありますので、外出には十分注意してください』
新着メッセージを読み終えると、倉木はチャットを少し遡り、あるメッセージに目を留めた。
送信時刻は十時間前で、送信者は朝比奈まどか。二年生の女子だ。
『私事で大変申し訳ありません。家の鍵を失くしてしまったようです…。
今朝の練習時に落としてしまった可能性が高いので、もし部室やロッカーなどで猫のストラップがついた鍵を見かけましたら、ご一報いただけますと幸いです』
メッセージに目を通し終えたところで、倉木はふと顔を上げた。いつの間にか、キャンパスの正門はすぐそこだ。門の向こうには、体育会の部室棟が見える。
「……今しかないか」
ぽつりと呟くと、倉木は速足で正門を抜けた。
部室棟はひっそりとしていた。どの部屋からも光は漏れていない。倉木は誘導灯を頼りに廊下を歩き、やがて水泳部の部室にたどり着いた。
部室の鍵をドアノブに差し込み、ガチャリと回す。扉を開くと、室内は真っ暗で何も見えない。倉木はスマホのライトをつけて、部室の中を一気に照らした。
その瞬間、倉木は思わず叫び声を上げた。
真っ暗な部室の中央で、ミーティング用の長机に誰かが突っ伏していたのだ。
「……んあ?」
男の声だ。ライトに照らされた人物は、ゆっくり顔を上げた。倉木は早鐘を打つ胸を押さえながら、その顔を確かめる。
それは、倉木のよく知る男だった。水泳部の二年、後輩の明井京弥だ。
「えーっと、メガネメガネ……あ、倉木先輩だ」
明井はシャツの胸ポケットに差していたメガネをかけた。切れ長の目に、シャープな輪郭。一見冷たい印象を与える男だが、倉木を見てへらっと笑った顔は、どこか気が抜けている。
「明井、こんな時間に部室で何してるんだ?」
「いやあ、飲んでたら、終電ギリギリ逃しちゃったんですよねえ。だから、部室で一夜を明かそうかなと」
そう言って、明井は長机に置いていた自身のスマートフォンを確認する。「まだ二時か」と呟く後輩を見ながら、倉木は動揺を落ち着けようと深呼吸をした。そんな倉木を見て、明井は再び笑った。
「びっくりさせちゃって、すんません」
口では謝りつつも、明井は全く悪びれた様子がない。この掴みどころのない後輩を、倉木は内心で少し苦手に思っていた。
倉木は電灯をつけず、ライトで足元を照らしながら室内に入った。
部室棟は本来、夜の十時以降は立ち入りが禁止されている。だから、深夜に部室を使う場合は電気をつけないのが、体育会全体の暗黙のルールなのだ。
「お前、終電なくした時って、いつも歩いて帰ってなかったっけ? たかが三駅分だろ」
倉木は、明井と机を挟んで反対側の椅子に座りながら尋ねた。ライトをつけたままのスマートフォンを机の真ん中に置き、照明替わりにする。構図だけ見れば、刑事ドラマの取り調べ室のようだ。
明井は肩をすくめながら、倉木の問いに答えた。
「それが、酔って歩いてたせいで、足首をひねっちゃったんですよね。たいしたことないんですけど、念のため無理しないでおこうかなって」
仮にも体育会系の学生が、間抜けな理由で怪我をしたものだ。呆れ顔の倉木を気にも留めず、明井は話題を変えた。
「先輩の方は、こんな時間にどうしたんですか?」
「……えーっと」
倉木は視線を泳がせながら、理由を述べた。
「朝比奈が、鍵失くしたって言うからさ。飲み会の帰りに、ついでに探してやろうかなって」
「それでこんな時間に? さすがですねえ、副部長」
からかうような口調に、倉木はむっとする。
「逆に、お前は探してやってないのか? 同期だろ」
「ああ……だって多分、ないでしょう、ここには。そんなことより、倉木先輩」
明井はニヤっと笑いながら、部室の隅にあるミニサイズの冷蔵庫を指差した。そこには、新歓や打ち上げ用の酒が常にストックされている。
「明日は朝練もないし、せっかくなので、ちょっとだけ付き合ってくださいよ」
数十分後。倉木は明井の誘いに乗ったことを後悔していた。
「先輩、俺、ダメなんです。マジで足りないんですよ、単位」
悪酔いしているのだろうか、今日の明井はやたらと愚痴っぽい。部内の人間関係についてボヤいたかと思えば、バイト先の店長への不満を並べ立て、今は学業が上手くいかないことへの弱音を吐いている。こんなやつだっけ、と思いながらも、倉木は辛抱強く明井の話を聞いてやっていた。
「このままだと俺、倉木先輩みたいに北部キャンパス送りになっちゃいますよ」
「おい、失礼すぎるぞ。俺は自分であっちの研究室を選んだんだよ」
倉木と明井の所属する工学部は、一部の研究室が別キャンパスにある。街中にある中央キャンパスとは違い、熊の目撃情報まで出るような田舎で、田んぼの他にはホームセンターがあるくらいだ。
「まあ確かに、配属されてくるのは成績が悪い奴が多いけどさ。遠くて人気ないから」
「ここからバスで一時間ですもんね。新田の実家があの辺で、遊びに行ったことあるんですけど、すげえ遠く感じましたよ」
新田は水泳部の二年で、明井の同期である。背が高くがっしりしており、迫力がある大男だ。明井も同じくらいの身長だが痩せ気味なので、二人が並ぶと新田のガタイの良さが際立つ。
「先輩、今日も北部キャンパスまで行ったんですよね?」
「研究室に用があったからな」
倉木はそう言って、ビールを煽った。倉木が飲み終えるのを待ってから、明井が再び尋ねる。
「朝練終わりにあそこまで行くの、めっちゃしんどくないですか?」
「初めの一か月くらいはしんどかったけど、慣れればなんとかなるよ」
倉木の返事に、明井は「そういうもんですか」と感心した様子で言った。
しかし、その表情にふと影が差す。明井は視線を机に落としながら、どこか卑屈さの滲んだ声でこぼした。
「でも、俺みたいな、ダメ人間には無理ですよ。我慢強くもないし、真面目でもない。まともじゃないですから」
思いがけない自虐に、倉木はしばらく言葉を失った。部室に沈黙が流れる。
「……お前、どうしたんだ? なんか嫌なことでもあったのか」
倉木がおそるおそる尋ねると、明井はハッとしたように顔を上げた。いつも通りのへらへら笑いを浮かべたあと、明井は露骨に話題を変えた。
「そんなことより、知ってました? 新田って、北部キャンパスの近くのホームセンターでバイト始めたんですよ」
「え、そうなの?」
先ほどの明井の発言が気になりつつも、倉木はいったん話題に乗ることにした。明井は軽い調子で続ける。
「倉木先輩、あそこのホームセンターって行くことあります?」
「……いや、ないかな。別に用事ないし」
「あっ、そうですか。まあ、普通はあんまり行かないですよね」
無理やりな話題だな、と心の中で思いながら、倉木はビールに口をつける。相変わらず、明井はへらへらと笑ったままだ。
その顔を見ているうちに、倉木はふと、明井の顔色がひどく悪いことに気がついた。室内が薄暗いせいかと思ったが、じっと見ていると、どうもそれだけではない気がしてくる。
「お前、もしかして寒いんじゃないか?」
明井の着ている白いシャツは、今の時期にしては薄手だ。倉木の指摘に、明井は初めて肌寒さに気がついたような驚いた顔をして、自分の腕をさすった。
「そうかもです。部室着いた時は暑かったんで、上着を脱いだんですよね。でも先輩、そんなことより」
「いや、とりあえず着たら? 上着」
話題を変えようとした明井を、倉木が制する。
不自然な無言が続いた。部室の隅で、ミニサイズの冷蔵庫が稼働する音だけが低く響いている。
「……そうですね」
明井は観念したように頷き、長椅子に置いていた上着をのろのろと手に取った。
倉木の目からは机の陰に隠れて見えていなかったそれは、ベージュの春用コートだった。
「……なあ、明井」
呼びかけに、明井は返事をしなかった。
「お前さ。今晩、本当は何して――」
「そんなことより、倉木先輩」
倉木の問いに、明井が言葉を被せた。後輩に発言を遮られるとは思いもよらず、倉木は虚をつかれる。
明井は倉木の目をじっと見つめた後、出し抜けに「ははっ」と笑った。
「なんだよ、何がおかしい」
倉木がいよいよ不快感を露わにすると、明井はふっと笑顔を消した。
そのまま、ゆっくり口を開くと、ひどく低い声で倉木に問いかけた。
「先輩。さっきから、なんで嘘ばっかりつくんです?」
倉木は硬直した。明井の態度が急変したことに、頭が追い付かなかった。
それでも何か言わなければと、倉木はもつれそうな舌で、なんとか言葉を返した。
「別に、嘘なんてついてないけど」
倉木の返事に、明井は薄く笑った。いつものへらへら笑いではなく、紛れもない嘲りを含んだ笑みだった。
「先輩。今日、北部キャンパスって閉鎖されてるんですよ」
その一言に、倉木はアッと声を上げそうになった。
「熊の目撃情報があったって、大学から全体メールが来てたでしょ?」
明井が『確認してもいいですよ』とでも言いたげに、倉木のスマートフォンに目をやった。一拍置いて視線を戻し、再び倉木の顔を見つめる。
「だから、研究室に用があったっていうのは、嘘ですよね」
答えに窮する倉木をよそに、明井はさらに続ける。
「でも、北部キャンパスに行ったのは、本当でしょ?」
倉木の額に薄く汗が浮く。動揺を隠しきれていない様子を見て、明井は皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
「バイト中の新田が見てたんですよ。先輩が、ホームセンターの合鍵作成カウンターにいるところ」
合鍵というワードに反応したのか、倉木は自身の脇に置いていたリュックの外ポケットに手をやった。チャリ、と金属が擦れる音がする。
明井は長机に身を乗り出して、わざとらしく潜めた声で言った。
「俺、ずっと思ってたんですけど。倉木先輩って、朝比奈のこと好きですよね?」
「!」
倉木の顔が、かっと赤くなった。それを見て、明井は「やっぱり」と笑ってから、推理をさらに進めていく。
「先輩。本当は、朝比奈の鍵を探しに来たんじゃなくて、盗った朝比奈の鍵をこっそり戻しにきたんじゃないですか? 部室の、どこか適当な場所に」
「……何、言ってんだ、お前」
倉木の声は、かすかに震えている。明井は『往生際の悪い奴だな』とでも言いたげな視線を向けて、さらに畳みかけた。
「朝比奈の家の合鍵、作ったんでしょ?なら、鍵を変えられる前に、さっさと見つけてもらわなきゃ困りますもんね」
明井は倉木の目を真正面から見つめながら、とどめの一撃を放った。
「リュック、見せてください。入ってるんでしょう? 猫のストラップがついた、朝比奈の家の鍵」
――その瞬間、長机の中央に置かれた倉木のスマートフォンと、明井の手元にあるスマートフォンが、同時にピロンと通知音を立てた。
二人は目を合わせたまま、それぞれのスマートフォンを手に取った。そうしてほぼ同時に、光る画面に視線を落とした。
来ていたのは、水泳部全体チャットへの新着メッセージだった。
送信者は、朝比奈まどか。
『夜分遅くに大変申し訳ございません。家の鍵ですが、教科書の間に挟まっていました…。
ご心配をおかけして、本当にすみませんでした』
「……あれ?」
明井は情けない声で呟いた後、そろそろと顔を上げた。
視線の先の倉木は、呆れを通り越し、半ば憐れむような目で明井を見ていた。
「明井。さっきから、何を言ってんだ、お前?」
「あっ、あれえ? おかしいな、てっきり……」
目をきょろきょろさせる明井を見て、倉木は大きなため息をついた。そんな倉木に、明井が焦った様子で尋ねる。
「あの、じゃあなんで、北部キャンパスまで行って合鍵なんか作ったんです?」
「うっ……そ、それは」
明井に痛いところを突かれ、倉木は口ごもった。しかし、こうなっては白状するほかない。
倉木はズボンのポケットとリュックのポケットから、鍵を一本ずつ取り出した。リュックから出された鍵についている『水泳部』というタグを見て、明井が「えっ」と声を上げる。
「これって、部室のマスターキーですか?」
「そうだよ。俺用の部室の合鍵、失くしちまったから、マスターキーで新しい合鍵を作ったんだ」
倉木の説明を聞いても、明井はまだ腑に落ちないようだ。前のめりになって、さらに質問を重ねる。
「そんなの、この辺の店で作ればいいじゃないですか。なんでわざわざ、北部キャンパスまで行ったんですか?」
「俺、もう四回も合鍵失くしててさ。さすがにこれ以上は同期に怒られるし、後輩にも示しがつかないから、誰にも見られないように北部まで行ったんだ」
ようやく納得がいったのか、明井は浮かしていた腰を椅子に降ろす。そして、「怪しいことしないでくださいよ!」と叫んで机に突っ伏した。
倉木は明井のつむじを見ながら、少し迷った後、「怪しいと言えばさ」と切り出した。
「なんすか? 俺もう恥ずかしすぎて消えたいんで、そっとしといてほしいんですけど」
「いや、さあ……ちょっと、言いづらいんだけど」
倉木は口ごもりながら、明井の風貌を見直した。
長身で、痩せ型。ベージュのロングコートに白いシャツ姿。
「お前じゃないよな? 部長がチャットに送ってきた注意喚起の、不審者って」
明井は机に突っ伏したまま、何も答えない。
しばらく黙り込んだ後、明井は小さな声で、ぼそりと言った。
「……た」
「え?」
倉木が聞き返すと、明井はバッと顔を上げた。その表情は、すこぶる晴れやかだ。
「よかった! 先輩も恥ずかしい勘違いしてて!」
満面の笑みを浮かべる明井を見て、倉木は自分が的外れなことを言ったのだと気がついた。今度は倉木が焦る番だ。
「だってお前、書いてあった特徴と全く同じ格好してんだろ!」
「春なんだから、ベージュのコートに白シャツの男なんて山ほどいますよ! 倉木先輩だって先週、同じようなやつ着てたじゃないですか」
返す言葉が見つからず、倉木は黙り込んだ。明井は嬉しそうに「ああ、よかった」と繰り返している。
「ね、ね! 先輩、飲みましょ! 恥ずかしさは飲んで忘れましょうよ」
机に置いていたビール缶を、明井が無理やり持たせてくる。倉木はげんなりした表情を浮かべた。
「明日は午前から研究室に行くんだよ」
「そんなこと言わずに! 後輩の誘いですよ」
体育会の先輩として、そう言われれば断れない。こうなればヤケだ、と倉木はすっかりぬるくなったビールを一気に飲んだ。
それから倉木は、明井と飲み明かした。色々な話をした。部内の裏事情から、浪人生時代の苦労話、趣味や恋愛のことまで。
明井の推理のうち、倉木が朝比奈に片思いをしていることだけは当たっていた。倉木がそれを認めると、明井は勝手なアドバイスを好き放題に並べ立てた。
気がつけば、倉木の明井に対する苦手意識はすっかり消えていた。つかみどころのない男だと思っていたが、話せば普通にいいやつだ。トンデモ推理を得意げに披露していた姿も、思い返せば愛嬌がある。
倉木はいつの間にか、机に突っ伏して眠ってしまっていた。
夢の中で、倉木は『カランカラン』という高い音を聞いた。金属でできた何かが、床に倒れたような音だ。
午前八時。倉木が目を覚ました時、明井はもういなかった。
机の上を見ると、空き缶の類は綺麗に片付けられていた。夢で聞いたのは、片付けの最中に明井が缶を落とした音だったのかもしれない。
次に会ったら礼を言おうと思いながら、倉木はあくびを嚙み殺す。
楽しい夜だった。たまには、こんな時間も悪くない。
そんなことを考えながら、倉木は部室を後にする。そうして、いつもの日常へと戻っていった。
ポケットのスマートフォンがピロンと鳴る。取り出して画面を見ると、水泳部の全体チャットに、部長からの新着メッセージが来ていた。
『注意喚起です。
4月3日 23時ごろ、中央キャンパス内で不審な男が目撃されました。
長身で痩せ型、ベージュのロングコートに白いシャツ姿で、金属バットのようなものを所持。興奮した様子で正門付近をうろつき、目撃者に気づくとキャンパス外へと走って逃走したとのことです。
22時ごろにキャンパスから約2kmの地点で発生した通り魔事件との関連が疑われています。
目撃から3時間ほどしか経っておらず、まだキャンパス付近にいる可能性がありますので、外出には十分注意してください』
新着メッセージを読み終えると、倉木はチャットを少し遡り、あるメッセージに目を留めた。
送信時刻は十時間前で、送信者は朝比奈まどか。二年生の女子だ。
『私事で大変申し訳ありません。家の鍵を失くしてしまったようです…。
今朝の練習時に落としてしまった可能性が高いので、もし部室やロッカーなどで猫のストラップがついた鍵を見かけましたら、ご一報いただけますと幸いです』
メッセージに目を通し終えたところで、倉木はふと顔を上げた。いつの間にか、キャンパスの正門はすぐそこだ。門の向こうには、体育会の部室棟が見える。
「……今しかないか」
ぽつりと呟くと、倉木は速足で正門を抜けた。
部室棟はひっそりとしていた。どの部屋からも光は漏れていない。倉木は誘導灯を頼りに廊下を歩き、やがて水泳部の部室にたどり着いた。
部室の鍵をドアノブに差し込み、ガチャリと回す。扉を開くと、室内は真っ暗で何も見えない。倉木はスマホのライトをつけて、部室の中を一気に照らした。
その瞬間、倉木は思わず叫び声を上げた。
真っ暗な部室の中央で、ミーティング用の長机に誰かが突っ伏していたのだ。
「……んあ?」
男の声だ。ライトに照らされた人物は、ゆっくり顔を上げた。倉木は早鐘を打つ胸を押さえながら、その顔を確かめる。
それは、倉木のよく知る男だった。水泳部の二年、後輩の明井京弥だ。
「えーっと、メガネメガネ……あ、倉木先輩だ」
明井はシャツの胸ポケットに差していたメガネをかけた。切れ長の目に、シャープな輪郭。一見冷たい印象を与える男だが、倉木を見てへらっと笑った顔は、どこか気が抜けている。
「明井、こんな時間に部室で何してるんだ?」
「いやあ、飲んでたら、終電ギリギリ逃しちゃったんですよねえ。だから、部室で一夜を明かそうかなと」
そう言って、明井は長机に置いていた自身のスマートフォンを確認する。「まだ二時か」と呟く後輩を見ながら、倉木は動揺を落ち着けようと深呼吸をした。そんな倉木を見て、明井は再び笑った。
「びっくりさせちゃって、すんません」
口では謝りつつも、明井は全く悪びれた様子がない。この掴みどころのない後輩を、倉木は内心で少し苦手に思っていた。
倉木は電灯をつけず、ライトで足元を照らしながら室内に入った。
部室棟は本来、夜の十時以降は立ち入りが禁止されている。だから、深夜に部室を使う場合は電気をつけないのが、体育会全体の暗黙のルールなのだ。
「お前、終電なくした時って、いつも歩いて帰ってなかったっけ? たかが三駅分だろ」
倉木は、明井と机を挟んで反対側の椅子に座りながら尋ねた。ライトをつけたままのスマートフォンを机の真ん中に置き、照明替わりにする。構図だけ見れば、刑事ドラマの取り調べ室のようだ。
明井は肩をすくめながら、倉木の問いに答えた。
「それが、酔って歩いてたせいで、足首をひねっちゃったんですよね。たいしたことないんですけど、念のため無理しないでおこうかなって」
仮にも体育会系の学生が、間抜けな理由で怪我をしたものだ。呆れ顔の倉木を気にも留めず、明井は話題を変えた。
「先輩の方は、こんな時間にどうしたんですか?」
「……えーっと」
倉木は視線を泳がせながら、理由を述べた。
「朝比奈が、鍵失くしたって言うからさ。飲み会の帰りに、ついでに探してやろうかなって」
「それでこんな時間に? さすがですねえ、副部長」
からかうような口調に、倉木はむっとする。
「逆に、お前は探してやってないのか? 同期だろ」
「ああ……だって多分、ないでしょう、ここには。そんなことより、倉木先輩」
明井はニヤっと笑いながら、部室の隅にあるミニサイズの冷蔵庫を指差した。そこには、新歓や打ち上げ用の酒が常にストックされている。
「明日は朝練もないし、せっかくなので、ちょっとだけ付き合ってくださいよ」
数十分後。倉木は明井の誘いに乗ったことを後悔していた。
「先輩、俺、ダメなんです。マジで足りないんですよ、単位」
悪酔いしているのだろうか、今日の明井はやたらと愚痴っぽい。部内の人間関係についてボヤいたかと思えば、バイト先の店長への不満を並べ立て、今は学業が上手くいかないことへの弱音を吐いている。こんなやつだっけ、と思いながらも、倉木は辛抱強く明井の話を聞いてやっていた。
「このままだと俺、倉木先輩みたいに北部キャンパス送りになっちゃいますよ」
「おい、失礼すぎるぞ。俺は自分であっちの研究室を選んだんだよ」
倉木と明井の所属する工学部は、一部の研究室が別キャンパスにある。街中にある中央キャンパスとは違い、熊の目撃情報まで出るような田舎で、田んぼの他にはホームセンターがあるくらいだ。
「まあ確かに、配属されてくるのは成績が悪い奴が多いけどさ。遠くて人気ないから」
「ここからバスで一時間ですもんね。新田の実家があの辺で、遊びに行ったことあるんですけど、すげえ遠く感じましたよ」
新田は水泳部の二年で、明井の同期である。背が高くがっしりしており、迫力がある大男だ。明井も同じくらいの身長だが痩せ気味なので、二人が並ぶと新田のガタイの良さが際立つ。
「先輩、今日も北部キャンパスまで行ったんですよね?」
「研究室に用があったからな」
倉木はそう言って、ビールを煽った。倉木が飲み終えるのを待ってから、明井が再び尋ねる。
「朝練終わりにあそこまで行くの、めっちゃしんどくないですか?」
「初めの一か月くらいはしんどかったけど、慣れればなんとかなるよ」
倉木の返事に、明井は「そういうもんですか」と感心した様子で言った。
しかし、その表情にふと影が差す。明井は視線を机に落としながら、どこか卑屈さの滲んだ声でこぼした。
「でも、俺みたいな、ダメ人間には無理ですよ。我慢強くもないし、真面目でもない。まともじゃないですから」
思いがけない自虐に、倉木はしばらく言葉を失った。部室に沈黙が流れる。
「……お前、どうしたんだ? なんか嫌なことでもあったのか」
倉木がおそるおそる尋ねると、明井はハッとしたように顔を上げた。いつも通りのへらへら笑いを浮かべたあと、明井は露骨に話題を変えた。
「そんなことより、知ってました? 新田って、北部キャンパスの近くのホームセンターでバイト始めたんですよ」
「え、そうなの?」
先ほどの明井の発言が気になりつつも、倉木はいったん話題に乗ることにした。明井は軽い調子で続ける。
「倉木先輩、あそこのホームセンターって行くことあります?」
「……いや、ないかな。別に用事ないし」
「あっ、そうですか。まあ、普通はあんまり行かないですよね」
無理やりな話題だな、と心の中で思いながら、倉木はビールに口をつける。相変わらず、明井はへらへらと笑ったままだ。
その顔を見ているうちに、倉木はふと、明井の顔色がひどく悪いことに気がついた。室内が薄暗いせいかと思ったが、じっと見ていると、どうもそれだけではない気がしてくる。
「お前、もしかして寒いんじゃないか?」
明井の着ている白いシャツは、今の時期にしては薄手だ。倉木の指摘に、明井は初めて肌寒さに気がついたような驚いた顔をして、自分の腕をさすった。
「そうかもです。部室着いた時は暑かったんで、上着を脱いだんですよね。でも先輩、そんなことより」
「いや、とりあえず着たら? 上着」
話題を変えようとした明井を、倉木が制する。
不自然な無言が続いた。部室の隅で、ミニサイズの冷蔵庫が稼働する音だけが低く響いている。
「……そうですね」
明井は観念したように頷き、長椅子に置いていた上着をのろのろと手に取った。
倉木の目からは机の陰に隠れて見えていなかったそれは、ベージュの春用コートだった。
「……なあ、明井」
呼びかけに、明井は返事をしなかった。
「お前さ。今晩、本当は何して――」
「そんなことより、倉木先輩」
倉木の問いに、明井が言葉を被せた。後輩に発言を遮られるとは思いもよらず、倉木は虚をつかれる。
明井は倉木の目をじっと見つめた後、出し抜けに「ははっ」と笑った。
「なんだよ、何がおかしい」
倉木がいよいよ不快感を露わにすると、明井はふっと笑顔を消した。
そのまま、ゆっくり口を開くと、ひどく低い声で倉木に問いかけた。
「先輩。さっきから、なんで嘘ばっかりつくんです?」
倉木は硬直した。明井の態度が急変したことに、頭が追い付かなかった。
それでも何か言わなければと、倉木はもつれそうな舌で、なんとか言葉を返した。
「別に、嘘なんてついてないけど」
倉木の返事に、明井は薄く笑った。いつものへらへら笑いではなく、紛れもない嘲りを含んだ笑みだった。
「先輩。今日、北部キャンパスって閉鎖されてるんですよ」
その一言に、倉木はアッと声を上げそうになった。
「熊の目撃情報があったって、大学から全体メールが来てたでしょ?」
明井が『確認してもいいですよ』とでも言いたげに、倉木のスマートフォンに目をやった。一拍置いて視線を戻し、再び倉木の顔を見つめる。
「だから、研究室に用があったっていうのは、嘘ですよね」
答えに窮する倉木をよそに、明井はさらに続ける。
「でも、北部キャンパスに行ったのは、本当でしょ?」
倉木の額に薄く汗が浮く。動揺を隠しきれていない様子を見て、明井は皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
「バイト中の新田が見てたんですよ。先輩が、ホームセンターの合鍵作成カウンターにいるところ」
合鍵というワードに反応したのか、倉木は自身の脇に置いていたリュックの外ポケットに手をやった。チャリ、と金属が擦れる音がする。
明井は長机に身を乗り出して、わざとらしく潜めた声で言った。
「俺、ずっと思ってたんですけど。倉木先輩って、朝比奈のこと好きですよね?」
「!」
倉木の顔が、かっと赤くなった。それを見て、明井は「やっぱり」と笑ってから、推理をさらに進めていく。
「先輩。本当は、朝比奈の鍵を探しに来たんじゃなくて、盗った朝比奈の鍵をこっそり戻しにきたんじゃないですか? 部室の、どこか適当な場所に」
「……何、言ってんだ、お前」
倉木の声は、かすかに震えている。明井は『往生際の悪い奴だな』とでも言いたげな視線を向けて、さらに畳みかけた。
「朝比奈の家の合鍵、作ったんでしょ?なら、鍵を変えられる前に、さっさと見つけてもらわなきゃ困りますもんね」
明井は倉木の目を真正面から見つめながら、とどめの一撃を放った。
「リュック、見せてください。入ってるんでしょう? 猫のストラップがついた、朝比奈の家の鍵」
――その瞬間、長机の中央に置かれた倉木のスマートフォンと、明井の手元にあるスマートフォンが、同時にピロンと通知音を立てた。
二人は目を合わせたまま、それぞれのスマートフォンを手に取った。そうしてほぼ同時に、光る画面に視線を落とした。
来ていたのは、水泳部全体チャットへの新着メッセージだった。
送信者は、朝比奈まどか。
『夜分遅くに大変申し訳ございません。家の鍵ですが、教科書の間に挟まっていました…。
ご心配をおかけして、本当にすみませんでした』
「……あれ?」
明井は情けない声で呟いた後、そろそろと顔を上げた。
視線の先の倉木は、呆れを通り越し、半ば憐れむような目で明井を見ていた。
「明井。さっきから、何を言ってんだ、お前?」
「あっ、あれえ? おかしいな、てっきり……」
目をきょろきょろさせる明井を見て、倉木は大きなため息をついた。そんな倉木に、明井が焦った様子で尋ねる。
「あの、じゃあなんで、北部キャンパスまで行って合鍵なんか作ったんです?」
「うっ……そ、それは」
明井に痛いところを突かれ、倉木は口ごもった。しかし、こうなっては白状するほかない。
倉木はズボンのポケットとリュックのポケットから、鍵を一本ずつ取り出した。リュックから出された鍵についている『水泳部』というタグを見て、明井が「えっ」と声を上げる。
「これって、部室のマスターキーですか?」
「そうだよ。俺用の部室の合鍵、失くしちまったから、マスターキーで新しい合鍵を作ったんだ」
倉木の説明を聞いても、明井はまだ腑に落ちないようだ。前のめりになって、さらに質問を重ねる。
「そんなの、この辺の店で作ればいいじゃないですか。なんでわざわざ、北部キャンパスまで行ったんですか?」
「俺、もう四回も合鍵失くしててさ。さすがにこれ以上は同期に怒られるし、後輩にも示しがつかないから、誰にも見られないように北部まで行ったんだ」
ようやく納得がいったのか、明井は浮かしていた腰を椅子に降ろす。そして、「怪しいことしないでくださいよ!」と叫んで机に突っ伏した。
倉木は明井のつむじを見ながら、少し迷った後、「怪しいと言えばさ」と切り出した。
「なんすか? 俺もう恥ずかしすぎて消えたいんで、そっとしといてほしいんですけど」
「いや、さあ……ちょっと、言いづらいんだけど」
倉木は口ごもりながら、明井の風貌を見直した。
長身で、痩せ型。ベージュのロングコートに白いシャツ姿。
「お前じゃないよな? 部長がチャットに送ってきた注意喚起の、不審者って」
明井は机に突っ伏したまま、何も答えない。
しばらく黙り込んだ後、明井は小さな声で、ぼそりと言った。
「……た」
「え?」
倉木が聞き返すと、明井はバッと顔を上げた。その表情は、すこぶる晴れやかだ。
「よかった! 先輩も恥ずかしい勘違いしてて!」
満面の笑みを浮かべる明井を見て、倉木は自分が的外れなことを言ったのだと気がついた。今度は倉木が焦る番だ。
「だってお前、書いてあった特徴と全く同じ格好してんだろ!」
「春なんだから、ベージュのコートに白シャツの男なんて山ほどいますよ! 倉木先輩だって先週、同じようなやつ着てたじゃないですか」
返す言葉が見つからず、倉木は黙り込んだ。明井は嬉しそうに「ああ、よかった」と繰り返している。
「ね、ね! 先輩、飲みましょ! 恥ずかしさは飲んで忘れましょうよ」
机に置いていたビール缶を、明井が無理やり持たせてくる。倉木はげんなりした表情を浮かべた。
「明日は午前から研究室に行くんだよ」
「そんなこと言わずに! 後輩の誘いですよ」
体育会の先輩として、そう言われれば断れない。こうなればヤケだ、と倉木はすっかりぬるくなったビールを一気に飲んだ。
それから倉木は、明井と飲み明かした。色々な話をした。部内の裏事情から、浪人生時代の苦労話、趣味や恋愛のことまで。
明井の推理のうち、倉木が朝比奈に片思いをしていることだけは当たっていた。倉木がそれを認めると、明井は勝手なアドバイスを好き放題に並べ立てた。
気がつけば、倉木の明井に対する苦手意識はすっかり消えていた。つかみどころのない男だと思っていたが、話せば普通にいいやつだ。トンデモ推理を得意げに披露していた姿も、思い返せば愛嬌がある。
倉木はいつの間にか、机に突っ伏して眠ってしまっていた。
夢の中で、倉木は『カランカラン』という高い音を聞いた。金属でできた何かが、床に倒れたような音だ。
午前八時。倉木が目を覚ました時、明井はもういなかった。
机の上を見ると、空き缶の類は綺麗に片付けられていた。夢で聞いたのは、片付けの最中に明井が缶を落とした音だったのかもしれない。
次に会ったら礼を言おうと思いながら、倉木はあくびを嚙み殺す。
楽しい夜だった。たまには、こんな時間も悪くない。
そんなことを考えながら、倉木は部室を後にする。そうして、いつもの日常へと戻っていった。
