そして俺は深刻な問題にそろそろ向き合わなければいけない。
 次の授業は苦手な古典で『徒然草』の一節に入っていた。苦手といったが、得意な教科は別にない。
「兼好法師が書いたこの随筆、ただの古文だと思ったら大間違いだ。これはもう、平安時代のブログみたいなもんだな」
 ブログかよ、と笑いが起こる中で、俺はそれどころではない。
 背中をツンツンと後ろからされるたびに、まただ、と頭を抱えたくなる。寝ぐせもプリントの件もまだ許容範囲だ。
 けれど、このツンツン攻撃はなんなんだ。
 全くもって授業に集中ができない。兼好法師よりも朝宮が気になって仕方がない。
 その手は、一瞬ではなく、たまにツーっと背筋をなぞるように触れていく。人に背中を触られる経験なんてほとんどないからか、もしくは弱いところなのか、ピンと背筋を張るような反応をしてしまう。声を我慢できているだけマシだ。
 おそらくその反応を楽しんでいるのだろう。だめだ、これはちゃんと怒らなければいけない。
 顔だけ振り向けば、真顔の朝宮と目が合う。
 これだけ見れば、決して人の背中で遊んでいるようには見えない。それなのに、シャーペンを握る右手が、空中で浮かんだまま止まっている。これは証拠だ。取り押さえるには充分。
「朝宮、その、それはやめていただけるとうれしいと言いますか」
「それ?」
「だから、背中の、それで」
 あえて口にするのも憚られる。察してくれと思うが、朝宮は「それ」となぞるだけ。
 朝宮のことだ。分かってやっているに違いない。
「授業に、集中したいので」
「ああ、控えめにする」
「いや、控えめだとそれはそれで困るっていうか……」
 ただでさえ成績がやばいのに、これでは次のテストは赤点決定だ。一年はどの教科も赤点を取った歴史があり、「お前は何ならできるんだ」と担任には呆れられた。そんなことは俺のほうが知りたい。
 今年こそは赤点回避をするためにも、せめて授業だけは真面目に受けなければならないというのに、そこに朝宮という魔の手が潜んでいる。
「徒然草はただのブログって言っても、時には色気たっぷりな話も混ざってるんだよな」
 気づけば授業は進んでいく。教科担任の男性教師はニヤリと笑う。
「たとえば平安時代には、男女の色恋沙汰が今よりずっとストレートに書かれていた。ちょっと古いけど、『伊勢物語』なんかがいい例だな」
 伊勢物語は聞いたことがある。どんな内容だったかはさっぱりだが。
「で、その中でも有名な話が、このアリワラノナリヒラだ」
 黒板に『在原業平』と白いチョークで書き込まれる。
「この男はとにかくモテモテで、和歌の達人だっただけじゃなく、色気が半端なかったと言われている」
「色気……」
 思わずその言葉に反応してしまう。
 どう考えても後ろの席の男の顔がちらつく。現代の在原業平なのか。
「たとえば、こんな歌がある。『ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは』。これは、紅葉で真っ赤に染まった川の美しさを詠んだ歌だが、実はこれ、女性への情熱を遠回しに伝えているとも言われている」
 ……どこがどう情熱的だったんだ?
 遠回しすぎて全く分からない。俺に教養がないことが原因だとは思うけれど、それにしたって読解できない言葉ばかりが続いた。
「業平は比喩で相手を落とすのが得意だった。つまり情熱を控えめに、でも確実に伝えるっていうテクニックだな」
 そういうテクニックは朝宮も得意そうだ。
 いや、情熱という点では控えめどころか、朝宮のほうが過激だとは思う。背中ツンツンも、朝宮から言わせれば好意を示すアピールの一環なのかもしれない。
 ……っていう、都合のいい解釈をしたが、さすがに自分で思うのはドン引きだ。なんだよ、好意を示すアピールって。
 古典の授業が終わり、ここはしっかりと説教をしなければいけないと後ろを振り返った。