――終電は、とうに行ってしまっていた。
スマホの画面には、0:52。
この時間の電車が逃げたら、あとは朝まで待つしかない。
それでも坂井和樹は、あまり焦っていなかった。
──なんとなく、こうなるような気がしてた。
久しぶりの同窓会。
懐かしい顔ぶれと、予想以上に飲みすぎた甘いチューハイの残り香。
人恋しさだけが、心の奥に残っている。
それを持て余したまま、足が勝手に向かっていた。
子どものころ、毎日のように通った公園へ。
昼間は家族連れでにぎわうその場所も、今は静まり返っている。
ブランコが、風もないのにわずかに揺れていた。
その金属の軋みに、ふと──視線が止まった。
ブランコに、誰かが座っていた。
薄いカーディガンに、膝丈のスカート。
髪は肩でふんわり揺れていて、背中越しに見える輪郭にどこか見覚えがあった。
そのまま声もかけずに立ち止まっていると、彼女がふいに振り返る。
「……坂井くん?」
耳の奥で、何かが弾けたような気がした。
風が吹いていたのかも、しれない。
それとも、ただ記憶が揺れたのか。
「千春ちゃん……?」
口に出してから、なんだか照れくさくて目をそらす。
「うん。びっくりした。こんなとこで会うなんて」
言葉の調子は、昔と変わらない。
でも声は少し、大人びていた。
千春ちゃん──和樹が小学生のころ、よく一緒に遊んだ女の子。名前は南千春。
放課後になると、ふたりで駆け回っていた記憶が、遠く滲む。
「こんな夜中に、何してんの?」
「終電、逃しちゃって」
和樹がそう言うと、千春はふっと笑った。
「……おんなじだね」
そう言って、わずかに空けた隣のブランコをぽんぽんと叩く。
そこに腰を下ろしたとき、
夏の終わりの風が、どこか懐かしく吹いた。
◆
少しだけ、風が強くなった気がした。
ブランコの鎖が軋む音と、遠くで犬が吠える声。
住宅街の奥にあるこの公園は、夜になると世界から切り離されたみたいに静かだった。
「このブランコ、まだあったんだね」
「うん。意外と変わってないな」
ふたりで並んで座ったまま、会話はぽつり、ぽつりと。
思い出話をするには、少し時間が経ちすぎた。
かといって他人行儀になるには、思い出が多すぎた。
「覚えてる? この木のとこにさ……昔、秘密基地作ったじゃん」
「うわ、あったあった。空き缶とか並べてたよな」
笑い声が漏れて、ふたりの間にある夜の静けさが少しだけやわらぐ。
「……いつからだっけ? 遊ばなくなったの」
「うーん……中学、入ったあたり?」
「そうだったっけ……」
和樹は、遠くの街灯を見つめた。
記憶を探すように目を細めるけど、肝心なところだけ霞んでいる。
千春はなにも言わなかった。
けれど、指先でそっとブランコの鎖を撫でていた。
「……あの頃、もうちょっと話したかったかも」
「え?」
「ううん。なんでもない」
声は小さくて、たぶん聞こえないように言ったのだと思う。
沈黙が訪れた。
けれど、その沈黙はどこか優しくて、帰らなきゃいけない理由が見つからなくなる。
──夜風が冷たくなる。
そのとき、ふいに千春が立ち上がった。
「ねえ」
「ん?」
「……かくれんぼ、しない?」
「……は?」
予想外の提案に、思わず聞き返してしまう。
「深夜の公園って、ちょっと怖いじゃん。だから……かくれんぼっていうか、鬼ごっこっていうか。……なんか、そういうの。したくなっただけ」
「酔ってんの?」
「うん、ちょっとだけ」
そう言って、千春は小さく笑った。
その笑顔は、どこか懐かしくて、そして少しだけ、寂しそうだった。
「でもさ、ひとりで隠れるの、ちょっと怖いかも」
「じゃあ、通話つなげとく? イヤホンあるし」
「うん。小声で、ね? 見つかっちゃったら意味ないし」
ふたりだけの、ちいさなルールができた。
それは、声が届くぶん、心の距離も少し近くなる気がした。
「じゃあ、じゃんけん。負けた方が鬼ね」
「いや、話早っ……」
「最初はグー、ね?」
手が伸びてきた。
気づけば、和樹にもう逃げ場はなかった。
「最初はグー、じゃんけん──ぽん!」
パーとチョキ。
和樹の負けだった。
「……じゃあ、わたしが鬼ね」
「まじか。ほんとにやるんだな」
「うん。和樹くんは、隠れる人。……10分以内に見つけるから」
千春がスマホのタイマーをセットする。
ぴっ、と音が鳴って、数字がカウントを始めた。
「電話、つないどこ?」
「ああ、よろしく」
そう言って、和樹は公園の奥へと歩き出した。
夜の風が背中を押すように吹いている。
隠れたのは、トイレの横の小さな茂みの陰。
小学生のときにも何度か隠れたことがある場所だ。
今思えば、あの頃からセンスなかった気がする。
『……もう隠れた?』
「うん」
『ヒントなし?』
「なし。せめてもの意地」
『ふふ。……和樹くんって、昔から隠れるの下手だったよね』
「うるせぇ」
小声で返す。
けれど、通話越しの声はやわらかく、どこか楽しそうだった。
『なんかさ、気配で分かるんだよね。……今も、どっかですぐ見つけられそうな気がしてる』
「こわ」
『ふふん。10分、ちゃんと使って探すよ』
携帯を胸元に押し当てながら、和樹は息をひそめる。
風が少し強くなってきた。
ブランコの軋む音がやけに近くに感じる。
隠れてるのに、気配を感じてしまう。
──まるで、もう近くに千春が来ているような、そんな錯覚。
『……ねえ』
「ん?」
『……なんか、ちょっとドキドキする』
「そりゃ、夜中に通話しながらかくれんぼとか……ちょっと異常だよな」
『でも、なんか落ち着く。……昔も、こんな風だったよね』
その声に、和樹は言葉を返せなかった。
心臓の鼓動だけが、イヤホンの内側でじっとしている。
──そろそろ、見つかる気がする。
でもなぜか、ほんの少しだけ、見つかりたくないとも思っていた。
◆
夜の風が、遊具の隙間を通り抜けていく。
千春はスマホを片手に、イヤホンを通して届く息づかいに耳を澄ませながら、ゆっくりと歩いていた。
通話の向こう──和樹は、どこかに隠れている。
しゃべるでもなく、動くでもなく、ただ、こちらの気配をじっと窺っているようだった。
「……どこにいるの?」
声を潜めて聞いてみる。
しばらくの沈黙のあと、くぐもった低い声が返ってきた。
「言うわけないだろ」
その一言に、千春はふっと笑みを漏らした。
少しぶっきらぼうで、照れ隠しの下手なところ──変わっていないな、とどこか懐かしく思う。
街灯の届かない茂みのそばで立ち止まり、耳を澄ませる。
風に揺れた葉の音が微かに鳴ったが、気配はなかった。
久しぶりだった。
二人こうして遊ぶのは。
小学生のころは、毎日のようにこの公園でかくれんぼをしていた。
和樹は隠れるのが得意じゃなくて、すぐに見つけては、ふたりで笑い合って──
けれど、ある日を境に、ふたりで遊ぶことはなくなった。
──「ねえ、坂井って、南のこと好きなの?」
クラスの誰かがそう言った。
和樹はうまく答えられなかった。
否定するのも違ったし、肯定するのはこわかった。
曖昧に笑ったその瞬間、何かが変わってしまった。
次の日から、ふたりの間には、自然と距離ができていった。
あのとき、ちゃんと気持ちを伝えられていたら──
ふたりの関係は、少し違っていたのかもしれない。
「……ヒント、ないの?」
千春が、草むらの奥へ向かって問いかける。
風が通り抜け、葉が微かに揺れる。少し間を置いて、短い声が返ってきた。
「探すって言ったの、そっちだろ」
それきり、また沈黙が落ちる。
けれど千春の表情には、どこか穏やかな色が浮かんでいた。
いつもなら、こういう無言の時間は落ち着かないはずなのに。
今は、なぜだか心地よく感じられた。
気づけば、耳を澄ましながら、小さく笑っていた。
まるで──このまま、少しだけ探す時間が続けばいいと、願っているように。
◆
──足音が、止まった。
和樹は、息を止めるようにしてじっと茂みに身をひそめていた。
耳に押し当てたスマホからは、もう何も聞こえなかった。
ただ風の音と、夜のざわめきが残るばかり。
それでも、和樹には分かっていた。気配がある。ほんの数メートル先──彼女は、そこにいる。
動いたら、見つかる。
でも、動かなければ、彼女はどうする?
──ざくっ。
草を踏む小さな音がして、懐中電灯の柔らかな光が差し込んできた。
「……見つけた」
その声は、静かで、でも真っ直ぐだった。
和樹は、観念したように笑みを浮かべる。
「よく気づいたな」
「ふふ……声、ちょっと近かったから」
草をかき分けて現れた千春の顔が、月明かりに照らされていた。
息が少し弾んでいる。緊張していたのか、走ったせいなのか。
けれどその表情は、どこか嬉しそうだった。
「ちゃんと、見つけたでしょ?」
懐中電灯の灯りの中、千春が少し得意げに笑ってみせた。
和樹は、草を払って立ち上がりながら、肩をすくめる。
「……ああ。完敗だ」
そう言いながらも、どこか嬉しそうに口元を緩める。
──昔と、変わっていない。
すぐに見つかる不器用さも、彼女のまっすぐなところも。
この時間が、もう少しだけ続けばいい。
和樹はそう思いながら、そっとスマホをポケットにしまった。
「怖くなかったのかよ」
「……ちょっとだけ。でも……話してたから、平気だった」
彼女はスマホを耳から外しながら、小さく笑った。
その仕草に、どこか昔のままの面影があって──和樹の胸が、ふっと熱くなる。
「……はい、交代」
「え?」
「今度は、和樹くんが鬼ね」
「まだやんのかよ」
「まだ“10分”も経ってないよ?」
懐中電灯を差し出され、仕方なくそれを受け取る。
和樹は苦笑しながらも、その手にそっと触れた指先に、少しだけ意識が向いてしまった。
「じゃあ、数えて?」
「……はいはい。数えるぞ」
彼が顔を手で覆いながらゆっくりと数を始めると、千春はぴょんと飛び跳ねるようにその場を離れていった。
『見つけられるかな〜』
声だけが残る。
けれど、それはどこか甘く、あたたかく響いて──
「……今度こそ、ちゃんと見つけてやるよ」
小さくつぶやいたその言葉は、風に乗って静かに消えていった。
◆
和樹は、懐中電灯を片手にゆっくりと歩き出した。
さっきまで千春が通ったはずの草の道には、わずかな足跡のような影が見える。だが、風に揺れる草に紛れて、その痕跡は心もとなかった。
耳に入ってくるのは、自分の靴音と、木々が擦れ合う微かな音。
スマホはイヤホンにつないだまま、胸ポケットの中に収まっている。
けれど、通話越しの音はすっかり静まり返っていた。
千春の気配は遠い。
それでも、どこかで見られているような妙な気配が、背中にひやりとまとわりついていた。
「──隠れるうまさ変わってないな」
昔も、いつも先に見つけられていた。
遊びに混じるあの集中力。息を殺して間合いを詰める、忍び寄るような気配。
懐中電灯の光を、ベンチの裏に向けてみる。
誰もいない。けれど、そこにも彼女の気配がある気がしてならなかった。
静けさのなか、突然、スマホから微かに何かが擦れるような音が聞こえた。
──息……か?
彼女が喋ろうとして、やめた。そんなふうに聞こえた。
まるで、声を出したら見つかってしまうというルールに、自ら従っているような。
和樹は、思わずその場に立ち止まった。
懐中電灯を構え直す。けれど、光をどこに向けても、決定的な影は見つからない。
「……どこだよ」
小さく呟いて、首を傾ける。
“見つけたい”と“見つからないでほしい”が、同時に胸を揺らす。
まるで、10年前の気持ちがそのまま残っているようだった。
どこかで風が吹いた。木々の隙間を縫って、懐かしい夏のにおいがした。
あの頃と同じ夜の匂い。だけど、少しだけ違って感じられるのは、なぜなのだろう。
◆
風が止み、あたりの気配がふっと静まった。
そのとき、イヤホンから微かに声が聞こえた。
『……ねえ、覚えてる?』
和樹は思わず足を止めた。
イヤホン越しに聞こえたその声は、千春のものだった。
けれど、どこか少しだけ──ためらうような響きがあった。
「なんで、ふたりで遊ばなくなったのか……あのとき、私、ちょっとだけ悲しかったんだ」
和樹は返事をしない。
というより、言葉が出てこなかった。
千春の声が、どこか遠くから届くような気がして、ただ耳を澄ませる。
「クラスで言われたよね。『坂井くん、千春と仲良すぎじゃない?』って」
その言葉が、胸の奥にひっかかった。
「……私、それが嫌だったわけじゃないの。ただ、和樹くんが――」
少しだけ、間が空く。風の音が重なった。
『“ちがうし”って、言ったんだよ』
和樹の喉が、無意識に動いた。
あのときの場面が、鮮明に蘇る。
教室で、数人に囲まれて。笑い混じりにからかわれて。
恥ずかしさと戸惑いが混じったまま、反射的にそう返してしまった。
「……ごめん」
やっとのことで、声が出た。
「ほんとは、そんな気持ちじゃなかったんだ。でも、言葉がうまく出てこなくて……」
静かに、スマホ越しに千春の呼吸が聞こえる。
怒っているわけじゃない。寂しさのようなものが、そこにあるだけだった。
『ううん。わかってた。でも、やっぱりちょっとだけ、残ってた。ひっかかってたの、ずっと』
ふたりの間に、また少しだけ沈黙が落ちる。
だけど、それはもう苦しいものではなかった。
『見つけられそう?』
スマホ越しに届いた声は、少しだけ照れたようだった。
和樹は、そっと笑みを浮かべる。
「……見つけたい。ちゃんと」
そして、懐中電灯の光を前へ向けた。
◆
そして……十分が経っていた。
どこを探しても、千春の姿はなかった。
スマホ越しの通話も、もう静かだった。
何かを話していたような気もするが、途中から和樹はそれをうまく聞き取れなかった。
──なんで、見つからないんだろう。
どこかにいるはずなのに。さっきまで、確かに一緒にいたのに。
気づけば空が、ほんのりと明るくなっていた。
夜が終わる。そう思った瞬間、心に、妙な焦りが押し寄せる。
ブランコに戻ると、千春はそこに座っていた。
笑っていた。懐かしいような、寂しいような、あのときと同じ笑い方だった。
「……そろそろ、始発、来る時間だよ」
和樹は何も言えなかった。
ただ、自分が“負けた”ことだけが、はっきりと胸に刻まれていた。
「ねえ、今日はありがとう。楽しかった」
千春が立ち上がり、スカートの裾を払う。
歩き出しながら、ふっと振り返った。
「また、どこかで──会えたらね」
そう言って、和樹に手を振った。
その笑顔は、本当に嬉しそうで──
けれど、和樹は言葉を返せなかった。
まるで、何かが喉の奥に詰まったようだった。
追いかけたいという想いだけが、心の奥で強く響いていた。
けれど、それを声にすることは、どうしてもできなかった。 たった一言が言えない。あのときと同じように、今もまた。
風が吹いていた。
春の匂いが混じる、夜明け前の風だった。
◆
和樹は、彼女の背を追って歩き出していた。
足は勝手に動いていたけど、胸の中は迷子のままだ。
公園の出口近く。
千春は、柵の向こうでふっと空を見上げていた。
空はすっかり色を変えていて、藍色から薄桃色へと、静かに朝を連れてきていた。
──あのときと同じだ。
あの日も、彼女はああやって笑っていた。
さびしそうに、でも嬉しそうに。
自分に手を振って、そのままいなくなってしまった。
だからこそ、今日も同じふうに終わってしまった気がして、苦しくて仕方がなかった。
けど、ふと思い出した。
さっきのかくれんぼ。
彼女の声が、ずっとスマホ越しに聞こえていた。
「見つけられないね」と笑う声も、「ヒント、ほしい?」なんて言う声も──
あれって、本当に“隠れてた”だけなんだろうか。
和樹の中で、何かが小さく弾けた。
胸の奥がざわついて、気づきたくなかった気持ちが輪郭を帯びてくる。
──あれ、もしかして。
彼女も、同じだったんじゃないか。
見つけてほしくて、隠れてたんじゃないのか。
だったら。だったら、今度は──。
◆
「千春ちゃん!」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
目が少し驚いていたけれど、それよりも、期待してしまっているような光が見えた。
和樹は一歩、踏み出した。
もう、臆病なままではいられなかった。
「まだ、ちょっとだけ時間あるよね?」
「え……うん。始発、まだ……」
彼は息を飲んで、続ける。
「もう一回、やらない? かくれんぼ」
「え……」
「次は、絶対に見つけるから。……今度は、ちゃんと」
風が吹いた。
彼女の髪がふわりと揺れて、その目がわずかに潤んで見えた。
──言えた。やっと。
たったそれだけの言葉に、どれだけの時間がかかったんだろう。
千春は、ほんの少し唇を噛んで、頷いた。
「……うん。じゃあ、今度はちゃんと隠れるね」
「ちゃんと探すよ」
ふたりの足音が、公園へと戻っていく。
夜は明けていくけれど、彼らの物語は、まだ──これからだった。
◆
「じゃあ……三十秒、数えてて」
そう言って、千春はふっと微笑んだ。
けれどその笑顔には、どこか覚悟めいた色が混じっていた。
「うん」とだけ返し、和樹はそっと目を閉じる。
すう、と静かに息を吸いながら、数を刻み始めた。
千春の足音が、再び遠ざかっていく。
もしかすると、これが最後の“かくれんぼ”になるのかもしれない──
そんな想いが、彼の胸の奥をかすめていく。
三十を数え終えたとき、ゆっくりと目を開ける。
空はもう夜の色を抜けつつあった。深い藍が、ほんのり紫を帯びている。
吹き抜ける風も、かすかに春の匂いをまとっていた。
「……行こう」
和樹は歩き出した。
けれど、足取りは軽くなかった。
和樹の足取りが、徐々に慎重になっていく。
今度こそ、見つけなければならない──
そんな思いが、彼の胸の内に静かに積もっていた。
ただの“かくれんぼ”ではない。
この一夜の終わりが、ふたりの関係を変える“鍵”になるような、そんな直感があった。
スマホの通話は、またつなげ、イヤホン越しに、息を潜めるような千春の気配がかすかに伝わる。
ときおり、小さく笑いをこらえるような息遣いが混ざっていて──
それすらも、今は愛おしく感じられた。
『ヒント、いる?』
スピーカー越しに、千春の声がそっと響く。
明るい声。でも、どこか寂しそうにも聞こえた。
和樹は小さく笑って答える。
「ヒントは……まだいいや。もう少し、自分で探したい」
『そっか。じゃあ……見つけてね? 今度はちゃんと』
言葉の奥に、微かな祈りのようなものが感じられた。
彼女もまた、試しているんだ。
和樹が、10年前のままなのか。それとも、今の自分と向き合ってくれるのか。
ふたりで歩いてきたこの夜の、最後の“心のかくれんぼ”。
彼女が本当に隠しているのは、きっと“気持ち”だ。
スマホ越しに声をかける。
ふたりはまだ、公園の小道に立っていた。
かくれんぼの終わりから、時間は少ししか経っていないのに、不思議と心の距離がずっと近づいたように思えた。
「あのさ、千春ちゃんさ──」
和樹の声は、ほんの少しだけ掠れていた。
その言葉の続きを待つように、スマホ越しの声が返ってくる。
『ん?』
深夜の静けさが、ふたりの言葉を際立たせていた。
「……さっき、ありがとう。もう一回やろうって言ったとき、受けてくれて」
言い終えてから、和樹は小さく息を吐いた。
どこか照れくさそうな沈黙が一拍だけ流れる。
『ううん。……わたし、すごく、嬉しかったよ。』
千春の声は、どこか照れと本音が入り混じったような、やわらかい響きだった。
『ほんとはね、負けるつもりだった。次は見つけてもらえなくていいって……思ってたのに』
それは、彼女がやっとこぼした弱さだった。
あの夜のかくれんぼの奥に、そんな想いが隠れていたことを、和樹はこのとき初めて知った。
「なんで?」
和樹の問いに、千春は少しだけ間を置いた。
声のトーンが、ほんのわずかに下がる。
『だって、また“見つけてもらえない”のが怖くて。』
その言葉に、春の風がひとつ吹き抜ける。
和樹は黙って、スマホを耳に当てたまま空を見上げた。
『そうしたら、やっぱりわたしたち、変わってないんだなって、思っちゃいそうで』
どこか震えるような声だった。
けれどその言葉には、あの夜、もう一度逃げずにかくれんぼを始めた彼女なりの強さが滲んでいた。
和樹は足を止めた。
通話越しの声は、ほんの少し震えていた。
『でも、坂井くんが言ってくれたから……“ちゃんと見つける”って。だから、信じてみようって』
「信じて。……絶対、見つけるから」
そう口にしてみて、ようやくわかった。
彼自身も、ずっと同じだった。
言葉にするのが怖かった。気持ちを伝えるのが、壊れるのが怖くて。
でも、今はもう怖くない。
千春の言葉が、それを変えてくれた。
『じゃあ……頑張ってね?』
声が、優しく微笑んでいた。
──もう一度、ちゃんと見つけたい。
今度は、ちゃんと想いを届けたい。
そうして、和樹は再び歩き出した。
◆
通話はつながったまま。
声はもう聞こえないけれど、千春がどこかで息を潜めているのを、和樹は感じていた。
夜明けの公園は、少しずつ表情を変えていた。
影が淡くなり、草木が微かに光を含み始める。
時間は、彼に優しいようでいて、容赦もなかった。
スマホのタイマーが、残り一分を告げた。
見つけられないのかもしれない──そんな不安が、ふと胸をかすめる。
けれど、それでも彼は足を止めなかった。
たとえこの手が届かなくても、今の自分だけは信じていたかった。
ふと、視界の端に、揺れる影が見えた。
フェンスの脇。
わずかな死角。
そこに、小さくうずくまる人影──
「……千春ちゃん」
呼びかけた瞬間、影がびくりと揺れた。
彼女が、そっと顔を上げる。
目が合った。
「――見つけた。今度は、ちゃんと」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
目元が赤くなっていた。
でも、そこに浮かんでいたのは、涙と、それ以上の安堵だった。
「……すごいね。ほんとに見つけてくれた」
「当たり前じゃん。って言いたいけど、めっちゃギリギリだった」
笑い合う。
10年前にはできなかった、たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
千春が一歩、近づいてくる。
和樹も、歩みを寄せる。
立ち尽くすふたりのあいだに、微かな風が吹き抜けた。
夜の気配はすでに遠のき、淡い朝の光が、公園の茂みを優しく照らし始めていた。
「昔のこと、ずっと気にしてた。見つけられなかったあの日も、“ちがうし”ってごまかしたことも」
和樹の声は、懐中電灯の光よりも静かに、けれどまっすぐに千春へと届いた。
心の奥で何度も繰り返した後悔の言葉が、ようやくかたちになった瞬間だった。
「わたしも……気づいてたよ。あのとき、坂井くん、目合わせてくれなかったし」
千春が、少しだけ笑う。苦い記憶を思い出すように、けれどその瞳はどこかやわらかかった。
「……ごめん」
言葉にしたとたん、肩の力が抜けるような感覚があった。
時間を越えてようやく届いたその一言に、千春は小さく首を振る。
「ううん。今、見つけてくれたから。だからもう、大丈夫」
彼女の声は、春の風みたいに優しかった。
その一言で、過去も、すれ違ってきた時間も、すっと胸の奥に落ち着いていくようだった。
彼女の声が、あたたかくて、ふるえていた。
和樹は、そっと手を伸ばした。
千春も、そっと自分の手を添える。
──指先が、ふれる。
それだけで、言葉以上のものが、たしかに伝わった。
「見つけた」って言葉は、ただの遊びのゴールじゃない。
「気持ちが届いたよ」って、そういう意味だった。
空が、少しだけ明るくなっていた。
ふたりの影が、やっと隣に並んだように見えた。
◆
ベンチに並んで座ったふたりの肩に、淡い朝の気配が静かに降りてきていた。
夜の気配はすっかり薄れて、公園の景色はほんのりと色を取り戻していた。
「終わったね」
千春がぽつりと呟く。
和樹も頷いて、小さく笑う。
「うん、終わったね」
沈黙。
けれど、それは気まずいものじゃなかった。
ふたりの間を流れる空気は、どこか心地よくて、ほどよく温かかった。
「「……なんかさ」」
同時に言葉が重なって、思わず顔を見合わせる。
「「わたしたち、なにやってたんだろうね、こんな時間に」」
一拍置いて──
ふたりの笑い声が、静かな公園にふわりと溶けていく。
「変わってないね、私たち」
「……変わってなかったら、嬉しいな」
ふと、和樹がポケットからスマホを取り出して、時間を確認する。
もうすぐ始発が来る時間だった。
この時間が終われば、また日常に戻る。
だけど、今日は──なにかが変わった気がしていた。
だから、勇気を出してみた。
ほんの少し、間を置いて、ふたりが同時に口を開いた。
「「……ねえ、恋人とか、いる?」」
一瞬の沈黙。
目を見開いて、そしてまた、笑う。
「……言いたいこと、同じだったね」
「うん。びっくりした……でも、なんか、嬉しい」
もう一度だけ、確かめるように、ふたりが声を揃える。
「「いないよ」」
指先が、そっと触れ合った。
ただそれだけのことで、言葉よりも深く、たしかなものが伝わった。
和樹が、そっと問いかける。
「……じゃあさ」
朝日が、ほんのりと東の空を染め始める。
「今日から、どうかな――?」
千春は、迷うことなく頷いた。
「うん」
その声が、今日という一日に、やさしく灯りをともした――。
スマホの画面には、0:52。
この時間の電車が逃げたら、あとは朝まで待つしかない。
それでも坂井和樹は、あまり焦っていなかった。
──なんとなく、こうなるような気がしてた。
久しぶりの同窓会。
懐かしい顔ぶれと、予想以上に飲みすぎた甘いチューハイの残り香。
人恋しさだけが、心の奥に残っている。
それを持て余したまま、足が勝手に向かっていた。
子どものころ、毎日のように通った公園へ。
昼間は家族連れでにぎわうその場所も、今は静まり返っている。
ブランコが、風もないのにわずかに揺れていた。
その金属の軋みに、ふと──視線が止まった。
ブランコに、誰かが座っていた。
薄いカーディガンに、膝丈のスカート。
髪は肩でふんわり揺れていて、背中越しに見える輪郭にどこか見覚えがあった。
そのまま声もかけずに立ち止まっていると、彼女がふいに振り返る。
「……坂井くん?」
耳の奥で、何かが弾けたような気がした。
風が吹いていたのかも、しれない。
それとも、ただ記憶が揺れたのか。
「千春ちゃん……?」
口に出してから、なんだか照れくさくて目をそらす。
「うん。びっくりした。こんなとこで会うなんて」
言葉の調子は、昔と変わらない。
でも声は少し、大人びていた。
千春ちゃん──和樹が小学生のころ、よく一緒に遊んだ女の子。名前は南千春。
放課後になると、ふたりで駆け回っていた記憶が、遠く滲む。
「こんな夜中に、何してんの?」
「終電、逃しちゃって」
和樹がそう言うと、千春はふっと笑った。
「……おんなじだね」
そう言って、わずかに空けた隣のブランコをぽんぽんと叩く。
そこに腰を下ろしたとき、
夏の終わりの風が、どこか懐かしく吹いた。
◆
少しだけ、風が強くなった気がした。
ブランコの鎖が軋む音と、遠くで犬が吠える声。
住宅街の奥にあるこの公園は、夜になると世界から切り離されたみたいに静かだった。
「このブランコ、まだあったんだね」
「うん。意外と変わってないな」
ふたりで並んで座ったまま、会話はぽつり、ぽつりと。
思い出話をするには、少し時間が経ちすぎた。
かといって他人行儀になるには、思い出が多すぎた。
「覚えてる? この木のとこにさ……昔、秘密基地作ったじゃん」
「うわ、あったあった。空き缶とか並べてたよな」
笑い声が漏れて、ふたりの間にある夜の静けさが少しだけやわらぐ。
「……いつからだっけ? 遊ばなくなったの」
「うーん……中学、入ったあたり?」
「そうだったっけ……」
和樹は、遠くの街灯を見つめた。
記憶を探すように目を細めるけど、肝心なところだけ霞んでいる。
千春はなにも言わなかった。
けれど、指先でそっとブランコの鎖を撫でていた。
「……あの頃、もうちょっと話したかったかも」
「え?」
「ううん。なんでもない」
声は小さくて、たぶん聞こえないように言ったのだと思う。
沈黙が訪れた。
けれど、その沈黙はどこか優しくて、帰らなきゃいけない理由が見つからなくなる。
──夜風が冷たくなる。
そのとき、ふいに千春が立ち上がった。
「ねえ」
「ん?」
「……かくれんぼ、しない?」
「……は?」
予想外の提案に、思わず聞き返してしまう。
「深夜の公園って、ちょっと怖いじゃん。だから……かくれんぼっていうか、鬼ごっこっていうか。……なんか、そういうの。したくなっただけ」
「酔ってんの?」
「うん、ちょっとだけ」
そう言って、千春は小さく笑った。
その笑顔は、どこか懐かしくて、そして少しだけ、寂しそうだった。
「でもさ、ひとりで隠れるの、ちょっと怖いかも」
「じゃあ、通話つなげとく? イヤホンあるし」
「うん。小声で、ね? 見つかっちゃったら意味ないし」
ふたりだけの、ちいさなルールができた。
それは、声が届くぶん、心の距離も少し近くなる気がした。
「じゃあ、じゃんけん。負けた方が鬼ね」
「いや、話早っ……」
「最初はグー、ね?」
手が伸びてきた。
気づけば、和樹にもう逃げ場はなかった。
「最初はグー、じゃんけん──ぽん!」
パーとチョキ。
和樹の負けだった。
「……じゃあ、わたしが鬼ね」
「まじか。ほんとにやるんだな」
「うん。和樹くんは、隠れる人。……10分以内に見つけるから」
千春がスマホのタイマーをセットする。
ぴっ、と音が鳴って、数字がカウントを始めた。
「電話、つないどこ?」
「ああ、よろしく」
そう言って、和樹は公園の奥へと歩き出した。
夜の風が背中を押すように吹いている。
隠れたのは、トイレの横の小さな茂みの陰。
小学生のときにも何度か隠れたことがある場所だ。
今思えば、あの頃からセンスなかった気がする。
『……もう隠れた?』
「うん」
『ヒントなし?』
「なし。せめてもの意地」
『ふふ。……和樹くんって、昔から隠れるの下手だったよね』
「うるせぇ」
小声で返す。
けれど、通話越しの声はやわらかく、どこか楽しそうだった。
『なんかさ、気配で分かるんだよね。……今も、どっかですぐ見つけられそうな気がしてる』
「こわ」
『ふふん。10分、ちゃんと使って探すよ』
携帯を胸元に押し当てながら、和樹は息をひそめる。
風が少し強くなってきた。
ブランコの軋む音がやけに近くに感じる。
隠れてるのに、気配を感じてしまう。
──まるで、もう近くに千春が来ているような、そんな錯覚。
『……ねえ』
「ん?」
『……なんか、ちょっとドキドキする』
「そりゃ、夜中に通話しながらかくれんぼとか……ちょっと異常だよな」
『でも、なんか落ち着く。……昔も、こんな風だったよね』
その声に、和樹は言葉を返せなかった。
心臓の鼓動だけが、イヤホンの内側でじっとしている。
──そろそろ、見つかる気がする。
でもなぜか、ほんの少しだけ、見つかりたくないとも思っていた。
◆
夜の風が、遊具の隙間を通り抜けていく。
千春はスマホを片手に、イヤホンを通して届く息づかいに耳を澄ませながら、ゆっくりと歩いていた。
通話の向こう──和樹は、どこかに隠れている。
しゃべるでもなく、動くでもなく、ただ、こちらの気配をじっと窺っているようだった。
「……どこにいるの?」
声を潜めて聞いてみる。
しばらくの沈黙のあと、くぐもった低い声が返ってきた。
「言うわけないだろ」
その一言に、千春はふっと笑みを漏らした。
少しぶっきらぼうで、照れ隠しの下手なところ──変わっていないな、とどこか懐かしく思う。
街灯の届かない茂みのそばで立ち止まり、耳を澄ませる。
風に揺れた葉の音が微かに鳴ったが、気配はなかった。
久しぶりだった。
二人こうして遊ぶのは。
小学生のころは、毎日のようにこの公園でかくれんぼをしていた。
和樹は隠れるのが得意じゃなくて、すぐに見つけては、ふたりで笑い合って──
けれど、ある日を境に、ふたりで遊ぶことはなくなった。
──「ねえ、坂井って、南のこと好きなの?」
クラスの誰かがそう言った。
和樹はうまく答えられなかった。
否定するのも違ったし、肯定するのはこわかった。
曖昧に笑ったその瞬間、何かが変わってしまった。
次の日から、ふたりの間には、自然と距離ができていった。
あのとき、ちゃんと気持ちを伝えられていたら──
ふたりの関係は、少し違っていたのかもしれない。
「……ヒント、ないの?」
千春が、草むらの奥へ向かって問いかける。
風が通り抜け、葉が微かに揺れる。少し間を置いて、短い声が返ってきた。
「探すって言ったの、そっちだろ」
それきり、また沈黙が落ちる。
けれど千春の表情には、どこか穏やかな色が浮かんでいた。
いつもなら、こういう無言の時間は落ち着かないはずなのに。
今は、なぜだか心地よく感じられた。
気づけば、耳を澄ましながら、小さく笑っていた。
まるで──このまま、少しだけ探す時間が続けばいいと、願っているように。
◆
──足音が、止まった。
和樹は、息を止めるようにしてじっと茂みに身をひそめていた。
耳に押し当てたスマホからは、もう何も聞こえなかった。
ただ風の音と、夜のざわめきが残るばかり。
それでも、和樹には分かっていた。気配がある。ほんの数メートル先──彼女は、そこにいる。
動いたら、見つかる。
でも、動かなければ、彼女はどうする?
──ざくっ。
草を踏む小さな音がして、懐中電灯の柔らかな光が差し込んできた。
「……見つけた」
その声は、静かで、でも真っ直ぐだった。
和樹は、観念したように笑みを浮かべる。
「よく気づいたな」
「ふふ……声、ちょっと近かったから」
草をかき分けて現れた千春の顔が、月明かりに照らされていた。
息が少し弾んでいる。緊張していたのか、走ったせいなのか。
けれどその表情は、どこか嬉しそうだった。
「ちゃんと、見つけたでしょ?」
懐中電灯の灯りの中、千春が少し得意げに笑ってみせた。
和樹は、草を払って立ち上がりながら、肩をすくめる。
「……ああ。完敗だ」
そう言いながらも、どこか嬉しそうに口元を緩める。
──昔と、変わっていない。
すぐに見つかる不器用さも、彼女のまっすぐなところも。
この時間が、もう少しだけ続けばいい。
和樹はそう思いながら、そっとスマホをポケットにしまった。
「怖くなかったのかよ」
「……ちょっとだけ。でも……話してたから、平気だった」
彼女はスマホを耳から外しながら、小さく笑った。
その仕草に、どこか昔のままの面影があって──和樹の胸が、ふっと熱くなる。
「……はい、交代」
「え?」
「今度は、和樹くんが鬼ね」
「まだやんのかよ」
「まだ“10分”も経ってないよ?」
懐中電灯を差し出され、仕方なくそれを受け取る。
和樹は苦笑しながらも、その手にそっと触れた指先に、少しだけ意識が向いてしまった。
「じゃあ、数えて?」
「……はいはい。数えるぞ」
彼が顔を手で覆いながらゆっくりと数を始めると、千春はぴょんと飛び跳ねるようにその場を離れていった。
『見つけられるかな〜』
声だけが残る。
けれど、それはどこか甘く、あたたかく響いて──
「……今度こそ、ちゃんと見つけてやるよ」
小さくつぶやいたその言葉は、風に乗って静かに消えていった。
◆
和樹は、懐中電灯を片手にゆっくりと歩き出した。
さっきまで千春が通ったはずの草の道には、わずかな足跡のような影が見える。だが、風に揺れる草に紛れて、その痕跡は心もとなかった。
耳に入ってくるのは、自分の靴音と、木々が擦れ合う微かな音。
スマホはイヤホンにつないだまま、胸ポケットの中に収まっている。
けれど、通話越しの音はすっかり静まり返っていた。
千春の気配は遠い。
それでも、どこかで見られているような妙な気配が、背中にひやりとまとわりついていた。
「──隠れるうまさ変わってないな」
昔も、いつも先に見つけられていた。
遊びに混じるあの集中力。息を殺して間合いを詰める、忍び寄るような気配。
懐中電灯の光を、ベンチの裏に向けてみる。
誰もいない。けれど、そこにも彼女の気配がある気がしてならなかった。
静けさのなか、突然、スマホから微かに何かが擦れるような音が聞こえた。
──息……か?
彼女が喋ろうとして、やめた。そんなふうに聞こえた。
まるで、声を出したら見つかってしまうというルールに、自ら従っているような。
和樹は、思わずその場に立ち止まった。
懐中電灯を構え直す。けれど、光をどこに向けても、決定的な影は見つからない。
「……どこだよ」
小さく呟いて、首を傾ける。
“見つけたい”と“見つからないでほしい”が、同時に胸を揺らす。
まるで、10年前の気持ちがそのまま残っているようだった。
どこかで風が吹いた。木々の隙間を縫って、懐かしい夏のにおいがした。
あの頃と同じ夜の匂い。だけど、少しだけ違って感じられるのは、なぜなのだろう。
◆
風が止み、あたりの気配がふっと静まった。
そのとき、イヤホンから微かに声が聞こえた。
『……ねえ、覚えてる?』
和樹は思わず足を止めた。
イヤホン越しに聞こえたその声は、千春のものだった。
けれど、どこか少しだけ──ためらうような響きがあった。
「なんで、ふたりで遊ばなくなったのか……あのとき、私、ちょっとだけ悲しかったんだ」
和樹は返事をしない。
というより、言葉が出てこなかった。
千春の声が、どこか遠くから届くような気がして、ただ耳を澄ませる。
「クラスで言われたよね。『坂井くん、千春と仲良すぎじゃない?』って」
その言葉が、胸の奥にひっかかった。
「……私、それが嫌だったわけじゃないの。ただ、和樹くんが――」
少しだけ、間が空く。風の音が重なった。
『“ちがうし”って、言ったんだよ』
和樹の喉が、無意識に動いた。
あのときの場面が、鮮明に蘇る。
教室で、数人に囲まれて。笑い混じりにからかわれて。
恥ずかしさと戸惑いが混じったまま、反射的にそう返してしまった。
「……ごめん」
やっとのことで、声が出た。
「ほんとは、そんな気持ちじゃなかったんだ。でも、言葉がうまく出てこなくて……」
静かに、スマホ越しに千春の呼吸が聞こえる。
怒っているわけじゃない。寂しさのようなものが、そこにあるだけだった。
『ううん。わかってた。でも、やっぱりちょっとだけ、残ってた。ひっかかってたの、ずっと』
ふたりの間に、また少しだけ沈黙が落ちる。
だけど、それはもう苦しいものではなかった。
『見つけられそう?』
スマホ越しに届いた声は、少しだけ照れたようだった。
和樹は、そっと笑みを浮かべる。
「……見つけたい。ちゃんと」
そして、懐中電灯の光を前へ向けた。
◆
そして……十分が経っていた。
どこを探しても、千春の姿はなかった。
スマホ越しの通話も、もう静かだった。
何かを話していたような気もするが、途中から和樹はそれをうまく聞き取れなかった。
──なんで、見つからないんだろう。
どこかにいるはずなのに。さっきまで、確かに一緒にいたのに。
気づけば空が、ほんのりと明るくなっていた。
夜が終わる。そう思った瞬間、心に、妙な焦りが押し寄せる。
ブランコに戻ると、千春はそこに座っていた。
笑っていた。懐かしいような、寂しいような、あのときと同じ笑い方だった。
「……そろそろ、始発、来る時間だよ」
和樹は何も言えなかった。
ただ、自分が“負けた”ことだけが、はっきりと胸に刻まれていた。
「ねえ、今日はありがとう。楽しかった」
千春が立ち上がり、スカートの裾を払う。
歩き出しながら、ふっと振り返った。
「また、どこかで──会えたらね」
そう言って、和樹に手を振った。
その笑顔は、本当に嬉しそうで──
けれど、和樹は言葉を返せなかった。
まるで、何かが喉の奥に詰まったようだった。
追いかけたいという想いだけが、心の奥で強く響いていた。
けれど、それを声にすることは、どうしてもできなかった。 たった一言が言えない。あのときと同じように、今もまた。
風が吹いていた。
春の匂いが混じる、夜明け前の風だった。
◆
和樹は、彼女の背を追って歩き出していた。
足は勝手に動いていたけど、胸の中は迷子のままだ。
公園の出口近く。
千春は、柵の向こうでふっと空を見上げていた。
空はすっかり色を変えていて、藍色から薄桃色へと、静かに朝を連れてきていた。
──あのときと同じだ。
あの日も、彼女はああやって笑っていた。
さびしそうに、でも嬉しそうに。
自分に手を振って、そのままいなくなってしまった。
だからこそ、今日も同じふうに終わってしまった気がして、苦しくて仕方がなかった。
けど、ふと思い出した。
さっきのかくれんぼ。
彼女の声が、ずっとスマホ越しに聞こえていた。
「見つけられないね」と笑う声も、「ヒント、ほしい?」なんて言う声も──
あれって、本当に“隠れてた”だけなんだろうか。
和樹の中で、何かが小さく弾けた。
胸の奥がざわついて、気づきたくなかった気持ちが輪郭を帯びてくる。
──あれ、もしかして。
彼女も、同じだったんじゃないか。
見つけてほしくて、隠れてたんじゃないのか。
だったら。だったら、今度は──。
◆
「千春ちゃん!」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
目が少し驚いていたけれど、それよりも、期待してしまっているような光が見えた。
和樹は一歩、踏み出した。
もう、臆病なままではいられなかった。
「まだ、ちょっとだけ時間あるよね?」
「え……うん。始発、まだ……」
彼は息を飲んで、続ける。
「もう一回、やらない? かくれんぼ」
「え……」
「次は、絶対に見つけるから。……今度は、ちゃんと」
風が吹いた。
彼女の髪がふわりと揺れて、その目がわずかに潤んで見えた。
──言えた。やっと。
たったそれだけの言葉に、どれだけの時間がかかったんだろう。
千春は、ほんの少し唇を噛んで、頷いた。
「……うん。じゃあ、今度はちゃんと隠れるね」
「ちゃんと探すよ」
ふたりの足音が、公園へと戻っていく。
夜は明けていくけれど、彼らの物語は、まだ──これからだった。
◆
「じゃあ……三十秒、数えてて」
そう言って、千春はふっと微笑んだ。
けれどその笑顔には、どこか覚悟めいた色が混じっていた。
「うん」とだけ返し、和樹はそっと目を閉じる。
すう、と静かに息を吸いながら、数を刻み始めた。
千春の足音が、再び遠ざかっていく。
もしかすると、これが最後の“かくれんぼ”になるのかもしれない──
そんな想いが、彼の胸の奥をかすめていく。
三十を数え終えたとき、ゆっくりと目を開ける。
空はもう夜の色を抜けつつあった。深い藍が、ほんのり紫を帯びている。
吹き抜ける風も、かすかに春の匂いをまとっていた。
「……行こう」
和樹は歩き出した。
けれど、足取りは軽くなかった。
和樹の足取りが、徐々に慎重になっていく。
今度こそ、見つけなければならない──
そんな思いが、彼の胸の内に静かに積もっていた。
ただの“かくれんぼ”ではない。
この一夜の終わりが、ふたりの関係を変える“鍵”になるような、そんな直感があった。
スマホの通話は、またつなげ、イヤホン越しに、息を潜めるような千春の気配がかすかに伝わる。
ときおり、小さく笑いをこらえるような息遣いが混ざっていて──
それすらも、今は愛おしく感じられた。
『ヒント、いる?』
スピーカー越しに、千春の声がそっと響く。
明るい声。でも、どこか寂しそうにも聞こえた。
和樹は小さく笑って答える。
「ヒントは……まだいいや。もう少し、自分で探したい」
『そっか。じゃあ……見つけてね? 今度はちゃんと』
言葉の奥に、微かな祈りのようなものが感じられた。
彼女もまた、試しているんだ。
和樹が、10年前のままなのか。それとも、今の自分と向き合ってくれるのか。
ふたりで歩いてきたこの夜の、最後の“心のかくれんぼ”。
彼女が本当に隠しているのは、きっと“気持ち”だ。
スマホ越しに声をかける。
ふたりはまだ、公園の小道に立っていた。
かくれんぼの終わりから、時間は少ししか経っていないのに、不思議と心の距離がずっと近づいたように思えた。
「あのさ、千春ちゃんさ──」
和樹の声は、ほんの少しだけ掠れていた。
その言葉の続きを待つように、スマホ越しの声が返ってくる。
『ん?』
深夜の静けさが、ふたりの言葉を際立たせていた。
「……さっき、ありがとう。もう一回やろうって言ったとき、受けてくれて」
言い終えてから、和樹は小さく息を吐いた。
どこか照れくさそうな沈黙が一拍だけ流れる。
『ううん。……わたし、すごく、嬉しかったよ。』
千春の声は、どこか照れと本音が入り混じったような、やわらかい響きだった。
『ほんとはね、負けるつもりだった。次は見つけてもらえなくていいって……思ってたのに』
それは、彼女がやっとこぼした弱さだった。
あの夜のかくれんぼの奥に、そんな想いが隠れていたことを、和樹はこのとき初めて知った。
「なんで?」
和樹の問いに、千春は少しだけ間を置いた。
声のトーンが、ほんのわずかに下がる。
『だって、また“見つけてもらえない”のが怖くて。』
その言葉に、春の風がひとつ吹き抜ける。
和樹は黙って、スマホを耳に当てたまま空を見上げた。
『そうしたら、やっぱりわたしたち、変わってないんだなって、思っちゃいそうで』
どこか震えるような声だった。
けれどその言葉には、あの夜、もう一度逃げずにかくれんぼを始めた彼女なりの強さが滲んでいた。
和樹は足を止めた。
通話越しの声は、ほんの少し震えていた。
『でも、坂井くんが言ってくれたから……“ちゃんと見つける”って。だから、信じてみようって』
「信じて。……絶対、見つけるから」
そう口にしてみて、ようやくわかった。
彼自身も、ずっと同じだった。
言葉にするのが怖かった。気持ちを伝えるのが、壊れるのが怖くて。
でも、今はもう怖くない。
千春の言葉が、それを変えてくれた。
『じゃあ……頑張ってね?』
声が、優しく微笑んでいた。
──もう一度、ちゃんと見つけたい。
今度は、ちゃんと想いを届けたい。
そうして、和樹は再び歩き出した。
◆
通話はつながったまま。
声はもう聞こえないけれど、千春がどこかで息を潜めているのを、和樹は感じていた。
夜明けの公園は、少しずつ表情を変えていた。
影が淡くなり、草木が微かに光を含み始める。
時間は、彼に優しいようでいて、容赦もなかった。
スマホのタイマーが、残り一分を告げた。
見つけられないのかもしれない──そんな不安が、ふと胸をかすめる。
けれど、それでも彼は足を止めなかった。
たとえこの手が届かなくても、今の自分だけは信じていたかった。
ふと、視界の端に、揺れる影が見えた。
フェンスの脇。
わずかな死角。
そこに、小さくうずくまる人影──
「……千春ちゃん」
呼びかけた瞬間、影がびくりと揺れた。
彼女が、そっと顔を上げる。
目が合った。
「――見つけた。今度は、ちゃんと」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
目元が赤くなっていた。
でも、そこに浮かんでいたのは、涙と、それ以上の安堵だった。
「……すごいね。ほんとに見つけてくれた」
「当たり前じゃん。って言いたいけど、めっちゃギリギリだった」
笑い合う。
10年前にはできなかった、たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
千春が一歩、近づいてくる。
和樹も、歩みを寄せる。
立ち尽くすふたりのあいだに、微かな風が吹き抜けた。
夜の気配はすでに遠のき、淡い朝の光が、公園の茂みを優しく照らし始めていた。
「昔のこと、ずっと気にしてた。見つけられなかったあの日も、“ちがうし”ってごまかしたことも」
和樹の声は、懐中電灯の光よりも静かに、けれどまっすぐに千春へと届いた。
心の奥で何度も繰り返した後悔の言葉が、ようやくかたちになった瞬間だった。
「わたしも……気づいてたよ。あのとき、坂井くん、目合わせてくれなかったし」
千春が、少しだけ笑う。苦い記憶を思い出すように、けれどその瞳はどこかやわらかかった。
「……ごめん」
言葉にしたとたん、肩の力が抜けるような感覚があった。
時間を越えてようやく届いたその一言に、千春は小さく首を振る。
「ううん。今、見つけてくれたから。だからもう、大丈夫」
彼女の声は、春の風みたいに優しかった。
その一言で、過去も、すれ違ってきた時間も、すっと胸の奥に落ち着いていくようだった。
彼女の声が、あたたかくて、ふるえていた。
和樹は、そっと手を伸ばした。
千春も、そっと自分の手を添える。
──指先が、ふれる。
それだけで、言葉以上のものが、たしかに伝わった。
「見つけた」って言葉は、ただの遊びのゴールじゃない。
「気持ちが届いたよ」って、そういう意味だった。
空が、少しだけ明るくなっていた。
ふたりの影が、やっと隣に並んだように見えた。
◆
ベンチに並んで座ったふたりの肩に、淡い朝の気配が静かに降りてきていた。
夜の気配はすっかり薄れて、公園の景色はほんのりと色を取り戻していた。
「終わったね」
千春がぽつりと呟く。
和樹も頷いて、小さく笑う。
「うん、終わったね」
沈黙。
けれど、それは気まずいものじゃなかった。
ふたりの間を流れる空気は、どこか心地よくて、ほどよく温かかった。
「「……なんかさ」」
同時に言葉が重なって、思わず顔を見合わせる。
「「わたしたち、なにやってたんだろうね、こんな時間に」」
一拍置いて──
ふたりの笑い声が、静かな公園にふわりと溶けていく。
「変わってないね、私たち」
「……変わってなかったら、嬉しいな」
ふと、和樹がポケットからスマホを取り出して、時間を確認する。
もうすぐ始発が来る時間だった。
この時間が終われば、また日常に戻る。
だけど、今日は──なにかが変わった気がしていた。
だから、勇気を出してみた。
ほんの少し、間を置いて、ふたりが同時に口を開いた。
「「……ねえ、恋人とか、いる?」」
一瞬の沈黙。
目を見開いて、そしてまた、笑う。
「……言いたいこと、同じだったね」
「うん。びっくりした……でも、なんか、嬉しい」
もう一度だけ、確かめるように、ふたりが声を揃える。
「「いないよ」」
指先が、そっと触れ合った。
ただそれだけのことで、言葉よりも深く、たしかなものが伝わった。
和樹が、そっと問いかける。
「……じゃあさ」
朝日が、ほんのりと東の空を染め始める。
「今日から、どうかな――?」
千春は、迷うことなく頷いた。
「うん」
その声が、今日という一日に、やさしく灯りをともした――。



