5月。ゴールデンウィークが終わると、桜の花びらはすっかり消え去り、校舎前の木々は青々とした葉で覆われていた。空気も少しずつ夏の気配を帯び始めていて、外にいるとじんわりと汗がにじんでくる。

そんな中、僕――和田陽介は、グラウンドを全力で駆けていた。

部活の時間、まだ楽器の練習が本格的に始まらない1年生に与えられた“恒例”とも言えるのが、基礎体力づくりの走り込みと筋トレ的なものだ。最初は文句を言っていたやつらも、今ではだいぶ慣れてきたみたいで、無言でトラックをぐるぐると回っている。まあ、喋りながら走っている人もいるけど。

「それじゃ、1年生は今日はトラック3周ね。今日は、終わったら、空き教室に移動してもらうから。」

いつもの校歌斉唱と点呼が終わり(一年生だけ)、顧問の先生がそう言うと、僕ら1年生はグラウンドへと散っていった。

走るのは3周。全力じゃなくていい。呼吸を整えて、一定のペースを保つのがコツ。
――そう、頭ではわかっていた。けれど。

僕はというと、やることが他にないのなら走るしかない、というある意味、単純な思考のまま、ひたすら足を動かしていた。
楽器にまだ触れられないもどかしさが、僕の背中を押していた。
ずっと吹いてきたトロンボーン。あれは僕にとって運命の楽器なんだ。あの感覚をずっと味わっていたい…!

だから僕は、走った。

1周目は周囲と並ぶようにスタートした。
2周目になるとみんなより少しだけペースを上げる。
3周目は他の子が足を緩め始めたのに、僕の脚は止まらない。もう前には最後列と思われる人たちが走っている。

「和田、まだ走ってんの?」

「まじかよ、4周目入った……」

周りの1年生がそろそろ終わりに差し掛かり、バテ始めているのを横目に、僕は5周目に突入する。ゼーゼーと音を立てる呼吸。太ももが重くなってくる。それでも、不思議と止まりたいとは思わなかった。

「ずっと走ってるよ、和田……」

「ストイックすぎて逆に怖い……」

そんな声が後ろから聞こえた気がしたけど、僕は構わず6周目へ。

すでに脚は鉛のようで、肺も焼けるように熱い。
けれど、止まらなかった。誰も見ていないのに、止まりたくなかった。
僕自身に証明したかったのだ。あの6月の“退部届”を書いた自分とは違うということを。

ついにゴールラインを踏む。

汗が頬を伝い、地面にぽたりと落ちた。

「……つ、かれた……」

地面に倒れ込み、空を見ると、まぶしい青空が視界いっぱいに広がっていた。

「あ、腹筋とかしなきゃ…1人でどうやろう…?」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

数分後、腹筋などの筋トレも終え、疲れがまだ残っている体だが、息を整えながら、ゆっくりと階段を上がり教室へ戻ると、すでに先生の話が始まっていた。

僕が教室の扉を開けた瞬間、顧問の先生がこちらを見て声をかける。

「和田くん、ずいぶん遅かったですね。もう筋トレ、終わってますよ。」

「す、すみません……ちょっと走ってて……」

「ちょっと……?3周をみんなと走ったんじゃないの?」

と聞かれる。僕が答えるよりも早くみんなが、

「先生、こいつ6周走ってました!」

「マジで走ってたんです!」

「途中で追い抜かれました……」

教室内に軽い笑いと驚きが広がる。
僕は苦笑いしながら、そっと誰も座っていない前の席に座った。汗がまだ完全には引いていないのが自分でもわかる。

「あら、そうなの。」

と先生は僕をちらりと見てそう言ったあと、手元のプリントを僕に渡し、話を続けた。

「さっきも話しましたが、吹奏楽部の楽器決定に向けて、第5希望までをこの紙に記入してください。明日と明後日で個別に面談を行って、仮決定したいと思います。」

その言葉に、ざわっ、と教室が揺れた。

「ついに吹ける〜!」

「やっと楽器吹けるの!?」

「神じゃん!」

教室中から歓声があがる。仮入部のとき以来、ずっと触れることのなかった本格的な“楽器”に、ようやく近づけるという期待感に、みんなの顔が自然と明るくなっていた。

「だけど練習に入れるのはリコーダーとリズムのテストが終わった和田くんだけですからね。」

と先生が言う。

「え〜、いいな〜。」

と声が上がる。
ようやく、やっと、自分の楽器に触れられる――そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
手元の紙に視線を落とし、希望を書く。

1番目に書いたのは、もちろん「トロンボーン」だった。

その後ろには、「ホルン」「クラリネット」「ユーフォニアム」「パーカッション」と続ける。
過去にやった経験からして、この楽器だったらできる。というものを並べている。
でも、毎回違う楽器を第一希望に書いたってトロンボーンになるので、諦めている。

それに――

僕の中で、トロンボーンといえば、やっぱりあの人の顔が浮かんでしまう。

宮坂先輩。優しくて、時に厳しそうなあの性格が好きだ。いつしかのループでの入部初日のあの言葉が、今でも心に残っている。

「トロンボーン希望なんだって?嬉しいなぁ〜。」

――あの笑顔を、忘れたくない。

そして、もう一人。

あの時ぶつかった先輩。名前は荒垣だっただろうか?フルートパートの人で、少しだけ寂しげな笑顔が印象に残っている。

そして、なぜだかこの人が、助けを待ってる気がする。
根拠なんてない。けれど、本能的にそう思った。

音楽は、言葉よりも人の心に届く。
だからこそ――同じ音を、誰かと重ねる時間の中で、その人のことも、いや、みんなのことを、もっと知れるんじゃないか。
そんな気がした。

あの人とも、いつか同じ音楽を奏でられるのだろうか――

「よし、今度こそ……」

自分に言い聞かせるように、小さく呟いてから楽器希望の紙をかばんにしまった。

5月の風は、もう初夏の匂いを運んでいた。