金曜日の二十二時半を少し過ぎた時間。私はとある三階建ての建物の前に立っていた。
 黒の外壁で、テラスや外階段には所々、ブラウンの木目調の素材が使われている。おしゃれなデザイナーズアパートだ。外階段を上って、二階にある“205”と書かれた部屋の前で足を止める。

 ピンポンピンポーンッ。

 チャイムを続けて二回鳴らすのは、すっかりお決まりになっている。
 待つこと十数秒。開いた扉の先では、それは端正な顔立ちをした黒髪の男が、物言いたげな顔をして眉根を寄せていた。せっかくの美丈夫が台無しである。
 だけど私はそんなのお構いなしで、これまたお決まりの台詞を口にした。

「ま~みやくん! とーめーてっ!」
「帰れ」

 にこりと最上級の笑みを浮かべ、小首を傾げてプラス上目遣いという仕草も添えてお願いしてみる。だけど、そんな私の可愛い攻撃なんて全く意に介さない真宮は、ピシャリと容赦のない一言を吐き出した。私はわざとらしく項垂れてみせる。

「くっ、今回もだめだったか……」
「今回もじゃねーよ。こんな時間に訪ねてくるとか、どう考えても非常識だろうが」
「えー、いいじゃん。私と真宮の仲でしょ~」

 真宮の肩あたりを肘で小突いた。そしたら仕返しとばかりに脳天にチョップをかまされた。加減してくれているのか、全然痛くはないんだけどね。

「ったく、毎週毎週、お前も飽きねぇな。どうせまた飲みに行ってたんだろ?」
「そう! 亜里沙たちと飲んでたら、つい話に夢中になっちゃって……終電逃しちゃったんだもん。いやぁ、うっかりですね」
「うっかりですね、じゃねーよ。時間くらい自分で管理できるようになれ、このバカ」
「あいたっ」

 真宮に頭を小突かれた。だけどやっぱり、全然痛くない。

「ほら、行くぞ。送ってってやるから」

 真宮は面倒くさそうな顔をしながらも、こうして律儀に私を家まで送り届けてくれる。私と真宮の住むアパートは一駅分しか離れていないから、徒歩十五分くらいで着く距離だ。


 °˖✧°˖✧°˖

 私、佐倉陽菜乃。二十一歳。県内の私立大に通う、大学三年生。自分で言うのも何だけど、私はわりと人当たりがよくて、誰とでもすぐに仲良くなれるタイプだと思う。

 だけど、目の前であきれたような顔をしている真宮俊は、私とは正反対の性格をしている。真面目でクールでドライ。合理主義。あと、結構口が悪くて不愛想。
 はじめて声をかけた時なんか、話しかけるなオーラがすごかったし。だけど私は、そんな真宮のことがむしろ気になってしまって、大学構内で見かける度に積極的に話しかけにいった。初めはウザそうな顔をしていた真宮も、少しずつ私に心を開いてくれたみたいで、今では時々ご飯を食べに行くくらいの友人関係になることができた。

 まぁ私は、真宮に対してそれ以上の気持ちを抱いているわけなんだけど――多分、真宮は気づいていないだろうな。

 大学の友人である亜里沙たち三人とよく飲んでいるお店は、真宮の住むアパートから徒歩二分の場所にある。串焼きが美味しい、小さな隠れ家のような居酒屋だ。
 私はわざと終電を過ぎた時間までお店に居座って、こうして金曜日の夜、真宮の家を訪ねている。

 金曜日の夜に真宮の家を訪ねるのも、これで五回目だ。
 きっかけは、真宮に好意を持っていることを知っている亜里沙たちに背中を押されたから。あの時も亜里沙たちと飲んでいて、気づけば終電を過ぎた時間になっていた。だけど亜里沙たちと私は、家の方向が真逆なんだよね。

「あ、そーだ。真宮の家、近くだしさ。いっそのこと泊めさせてもらえば?」
「泊めてって……いやいや、そんなの無理に決まってるじゃん」
「まぁ、あの真宮だしねぇ。でも、メッセージだけでも送ってみなよ。真宮のやつ、陽菜乃にはめちゃくちゃ甘いし。案外オッケーもらえたりして」
「……それじゃあ、メッセージだけでも送ってみようかな」

 『今、真宮の家の近くで飲んでるんだ』ってメッセージを送ってみた。
 返ってきたのは『もう終電すぎてんだろ。誰か一緒にいんの?』って、私を心配してくれるもので。

『亜里沙たちと飲んでた。話に夢中になってたら、終電逃しちゃった』
『アホ』
『アホじゃないし!』
『じゃあバカ』
『そんなバカな佐倉ちゃんを、真宮のお家に泊めてくれてもいいんだけどなぁ』
『泊めるわけねーだろ』

 はい、撃沈。分かってたけどね。

『だよねぇ』
『どうやって帰んの』
『んー、普通に歩いて? ここから一駅だしね』
『笹川たちも一緒なんだろ?』

 笹川は、亜里沙のことだ。

『亜里沙たちとは方向が反対だから。私は一人で帰るよ』
『は? 女が一人であぶねーだろ』
『でも、一駅だし』
『しかたねーから、送ってってやる。どこの店?』

「……真宮が、家まで送ってってくれるって」
「マジ? やったじゃん!」
「ほら、やっぱり陽菜乃には甘い!」

 真宮からの返事に、亜里沙たちは私以上にテンションを上げて喜んでくれた。
 こうしてあの日は、真宮にアパートまで送ってもらった。
 それから金曜日の夜、アルコールの力を借りた私は、酔った勢いで真宮のアパートに押し掛けるようになった。

 “また終電逃しちゃったから、泊めて”って。

 私なりのアプローチのつもりだった。友達だとしても、異性相手に気軽に泊めてだなんて私は言わない。真宮が一人の男の子として好きだから、お願いしてるんだよって。

 だけど真宮の返事はいつも“ノー”だった。

 私を出迎える真宮は、いつも面倒くさそうな顔をしている。
 でもね、口では文句を言いながらも、私を送り届けるためにわざわざパーカーを羽織って待っていてくれていることも、知ってるんだ。

 そんなの、少しは期待しちゃうでしょ? このまま家に泊めてくれてもいいじゃんって思うけど、真宮は真面目だから。彼女でもない女の子をほいほい家に泊めるような人じゃないってことは分かってる。だけど、そういうところも好きだなって思うんだ。


 °˖✧°˖✧°˖

「ねぇねぇ、コンビニ寄っていこうよ」
「いいけど、何買うんだよ」
「アイス!」
「お前なぁ、太るぞ」
「いいんです~。あ、そうだ、それなら真宮が半分食べてよ。そしたらカロリーも罪悪感も半分こでしょ」
「はいはい。ったく、仕方ねぇな」

 真宮は何だかんだ言いながらも、私の我儘にいつも付き合ってくれる。
 あきれたような顔で笑う真宮のこの表情が、私はすごく好きだ。

 本当は、うっかりなんかじゃないんだよって。真宮に会いたくて、わざと終電を逃してるんだよって言ったら、真宮はどう思うかな。
 私にとっては、毎週金曜日の夜が何よりも待ち遠しくて。真宮を独り占めできるこの時間を特別に思っているんだよって伝えたら、真宮は何て言うだろう。
 怒るかな。ため息吐かれちゃうかな。それとも、また「仕方ねぇな」って、私の好きなあきれ顔で笑ってくれるんだろうか。

「あ、そうだ」

 真宮は突然何かを思い出したみたいで、小さな声を漏らした。
 頬を人差し指でかいているその顔は、少しだけ気まずそうに見える。

「あー、来週の金曜日は、家にはくるなよ」
「え、何で? どこか出かける用事でもあるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……とにかく、来週はくんな」
「んー、よく分かんないけど、分かった!」

 何かあるのかなって思いながらも、この時はそこまで気にしてなかった。
 だから真宮の言葉に、元気よく頷いておいた。


 °˖✧°˖✧°˖

 ピンポンピンポーンッ。

 金曜日の夜。スマホを見れば、22:37と表示されている。
 真宮の部屋の前で、チャイムを続けて二回鳴らした。

「ま~みやくん、とーめーてっ!」

 ご近所迷惑にならない程度の小さな声で、今日も同じ言葉を口にする。

 いつもみたいに「帰れ」って言われるんだろうな。そう思いながらも、真宮が出てくるのをドキドキしながら待っていた。
 だけど、開いた扉の先。そこに立っていたのは、真宮じゃなかった。

「はーい、こんな時間にどなたですか? ……って、女の子?」

 出てきたのは、綺麗な黒髪ロングの美人さんだった。大人っぽい雰囲気で、その髪はしっとり濡れている。お風呂上りなのかな。花のようないい匂いがしてきた。

「もしかして、俊の知り合い?」

 “俊”

 真宮のことを名前で呼んだ黒髪美人さんは、訝しそうな顔で私を見ている。

「あ、あの、私……「おい、何勝手に出てんだよ、って……佐倉?」

 黒髪美人さんの後ろから現れたのは、真宮だった。私を見て目を見開いたかと思えば、頭の痛そうな顔をしてため息を漏らす。

「おまっ……はぁ。今日はくるなって言ったのに……」

 そういえば、そうだった。真宮には「くるな」って言われていたのに、すっかり忘れていた。――そっか。真宮、彼女がいたんだ。だから私には、会わせたくなかったんだ。

 それを理解した瞬間、重たい石でも詰め込まれたみたいに胸の辺りが苦しくなった。

 うん、それはそうだよね。だって勘違いされたら困るだろうし。私のことを頑なに部屋に入れてくれなかったのも、彼女がいるなら当たり前だ。

「あー……ごめんごめん、近くを通ったついでに借りてたDVDを返そうと思ってさ。でも、こんな遅い時間に押しかけるとか普通に迷惑だったよね! しかも邪魔しちゃったみたいだし、もー、本当にごめん! あ、DVDはまた大学で渡すから!」
「は? おい、何言っ……「それじゃあ、また大学でね!」

 何か言おうとしていた真宮の言葉をわざと遮って、扉を閉めた。階段を駆け下りて、そのまま早足で歩く。

(あー、ほんっとに、私のバカ。大バカ野郎だよ。真宮も、もしかしたら少しは私のことを、なんて、勝手に期待してさ。真宮も迷惑だっただろうな。ただの友達としか思ってない女が、毎週深夜に訪ねてきて。あー、もう……本当に、恥ずかしい。今すぐ消えちゃいたい)

 羞恥心、罪悪感、自己嫌悪。色んな感情で胸がいっぱいになって、ぐるぐる回ってる。
 だけど、胸を占める一番の感情は“後悔”だ。
 真宮の言う通り、今日、行かなきゃよかったなって。そうしたら、まだ気づかずにすんだのに。失恋することもなかったのにって。

 金曜日の夜、真宮と二人きりで過ごせる時間は、もう終わっちゃったんだ。
 それが寂しくて、悲しい。勝手に涙があふれてくる。

 ――すると、後ろから駆けてくる足音が聞こえてきた。
 もしかして、真宮が追いかけてきてくれたのかな。真宮は優しいから。夜道を女一人は危ないだろって、心配して追いかけてきてくれたのかもしれない。
 でもさ、その優しさのせいで、私がバカな勘違いをしちゃったんだよ。彼女がいるなら、これ以上優しくしないで。……期待させるようなことしないでよ、バカ。

 足音は、すぐ真後ろまで迫ってきている。私は観念して、後ろに振り返った。

「やーっと追いついた。もう、何で逃げちゃうわけ?」
「……え、っと、あの……?」

 ――どうして黒髪美人さんの方が、私を追いかけてきたんだろう?

「え、もしかして泣いてる!? っ、あー、もう、ごめんね! 何か色々誤解させちゃったみたいで」
「え、あの、誤解って一体何のことで…「とりあえず、部屋に戻りましょ!」
「え? あの、ちょっと……!」

 何故だか黒髪美人さんに手を引かれて、アパートに逆戻りすることになった。
 え、本当に、これってどういう状況? 理解できないまま足を進めれば、アパートの前で真宮が待っていた。

「俊、連れてきたよ~」
「はえーな」
「まぁ私、足には自信があるからね」
「さすが元陸上部」
「ふふん、咄嗟に追いかけてあげたお姉さまに感謝なさい」
「……お姉さま?」

 聞こえた単語を復唱すれば、私の手をつかんでいた美人さんが頷いた。

「ふふ、改めまして、俊の姉です。今は仕事で福岡の方に住んでるんだけどね、出張でこっちにくることになったから、俊の家に泊めてもらってたのよ。ほら、目元とかちょっと似てるでしょ?」
「そう、言われてみれば……確かに似てます」

 色素の薄い茶色の切れ長の目とか、筋の通った高い鼻とか。美人姉弟だ。

「いやー、俊ってば昔っから愛想は悪い癖に、この顔のおかげでモテてたからさぁ。てっきり俊に一方的に好意を寄せてる子が、勝手に家まで押しかけてきたのかと勘違いしちゃったのよ。ごめんね?」

 真宮のお姉さんは申し訳なさそうな顔をして謝ってくれるけど……どうしよう。それ、全然間違いじゃないんだけど。
 むしろその言葉通りだ。私が一方的に真宮に好意を寄せていて、迷惑を承知で家まで押しかけてるんだもん。

「……あの、ごめんなさい。お姉さんの言うことは、何にも間違ってないです」
「え? それじゃああなたが、一方的に俊のことを好いてるの?」
「えっと、それは……」

 どうしよう。真宮も見ている前で肯定してしまえば、それは告白したようなものだ。
 こんな形で思いを伝えたかったわけじゃない。だけど、ここまで口にしてしまった手前、もう誤魔化すことはできそうにないし。

「……ちげーだろ」
「え?」
「佐倉が一方的に好いてるわけじゃねーから」

 黙っていた真宮が、私の言葉を否定した。
 でも、違うっていうのは何が違うの? 一方通行じゃないってことを否定してくれたんだとしたら……それこそ、本当に勘違いしちゃいそうなんだけど。

「……あー、なるほどねぇ。そういうこと。とりあえず私、今日は近場のホテルに泊まるわ」
「え? あの、でも……」
「いいのいいの。今のあなたたちには、ちゃんと話し合う時間が必要でしょ? 不愛想でバカな弟だけど、よろしくね」

 物知り顔でうんうん頷いたお姉さんは、真宮の頭を雑に撫でると、タクシーを呼び、自分の荷物を持って早々にアパートを出ていってしまった。

「……」
「……」

 残された私と真宮の間に、何とも気まずい沈黙が落ちる。

「……家、上がっていけば」
「え!? でも……いいの?」
「何で」
「だ、だってこれまでは、頑なに家には上げてくれなかったじゃん」
「……それはそうだろ」

 真宮はフイッと視線を逸らして、ボソボソと話す。

「好きな女の子を家に上げて、手出さない自信とかないし」
「っ、何それ……そういうのは、もっと早く言ってよ」
「言えるわけねーだろ」
「でも、言ってくれなきゃわかんないし」
「……俺は、好きでもねー奴が深夜に訪ねてきても、わざわざ出たりしない。無視する」
「……ふふっ。まぁ確かに、真宮ならそうするかもね」

 真宮なら、友人が訪ねてきたとしても無視したり、冷たくあしらっていそうだ。そんな姿が想像できてしまう。
 だけど――私のことは、悪態を吐きながらも出迎えてくれた。いつも家まで送り届けてくれた。それは真宮なりの好意を示してくれた行動だったんだ。

 嬉しくて笑みを漏らせば、真宮に手を握られた。大きくて温かい手だ。そのまま手を引かれて、一緒に外階段を上っていく。前を歩く真宮の黒い髪が、さらりと揺れている。

「……別にいいのに」
「何が」
「手。出しくれていいのにって」

 本音がぽろりとこぼれる。

「……出さねーよ。まだ」

 真宮が足を止めた。“205”の部屋の前。
 繋がれた手に、ギュッて力がこもったのが分かった。

 ――もう一度、いつものあの台詞を、伝えてみようかな。

「ねぇ、真宮。……とーめーて」
「……いいよ」

 お決まりの台詞に、はじめて返ってきた“イエス”の答え。


 一週間でいちばん好きな曜日。待ち遠しい金曜日が、もうすぐ終わってしまう。
 だけどそれは、私と真宮の関係が変わった瞬間でもあった。


Fin.