遠くに水の音が聞こえた気がした。耳を澄ませる。間違いない、波が打ち寄せる音だ。同時に違和感を覚える。確かに展望台から夜の海が望めた。だけど高いところだから見えたのであって、海まで近いわけではない。此処まで響くほど、波って大きな音を立てるっけ。それとも本当に静かだとかなり遠くまで響くのか。疑問とそれに対する回答を考えつつ、ホームの際まで足を進める。どうせ電車は来ない。だって終電は終わっているのだ。
 次の瞬間、右手首を掴まれた。えっ、という暇も無く線路の側へ引っ張られる。ホームから落ちてしまった。体のあちこちをぶつけて痛む。体勢も崩してしまった。その間にも何処かへ引っ張られていく。抵抗しようにも横倒しになって右手首を引っ張られているからもがくことしか出来ない。いつの間にか波の音はひどく大きくなっていた。ヤバい、と本能が警鐘を鳴らす。すると左手が何かに引っ掛かった。離してはいけない、と必死で掴む。一体何が起きているのか、考える余裕もなくとにかく左手に力を籠める。
 だけど引っ張る力は更に強くなった。勢いをつけられて体が浮いてしまう。悲鳴を上げた、その時。
 襟首を掴まれた。体が強引に起こされる。
「何処にも行かないよね、田中徹君。君は私の大事な後輩だもの」
 聞き慣れた声に囁きかけられた。はいっ! と反射的に返事をする。途端に右手首を引っ張る力が消え失せた。ひどく息が上がっている。振り返ると真顔の先輩が俺を見詰めていた。
「今、何が」
 だけど唇に人差し指を当てられた。
「夜が明けるまで口に出さないでおきなさい」
 先輩の雰囲気はいつもの飄々とした感じではなく、真剣そのものだった。気圧されて、黙って頷く。戻ろう、と先輩は俺の手を握った。今ばかりは、恋ではなく恐怖と安堵で鼓動が高鳴った。
 ホームへよじ登った俺は、ちょっとだけ待っていて下さいと先輩にお願いをして再度お手洗いへ向かった。顔と、掴まれた場所を入念に洗う。あんなに強い力だったのに痕も残っていなくて余計に不気味になる。鏡を見るのも怖くて急いで先輩の元へと戻った。お帰り、といつもの調子で迎えてくれる。手を繋ぎ直して待合室へと向かった。中に入り、鍵を掛ける。ベンチに腰を下ろすと自然と息が漏れた。
「二人で一緒にいた方がいいでしょう」
 そう言われて、先輩は、と言葉が零れ落ちる。だけど続きが出て来なかった。あれが何なのか知っているのか。此処には変なものが出るとわかっていたのか。だから一人にしないで欲しいと頼み込んだのか。先輩はお化けが視えるのか。そんな、ぶつけたい疑問はたくさんあったけど、どれも口に出すのは止められる気がして言えなかった。
「……何でもありません」
 そっか、と目を細めた先輩は俺の好きな人には違いなく。だけどまだまだ知らない一面があるのだと理解した。その上で、先輩のことを一つも知らない状態で一目惚れをした俺の恋心は正しいのか、初めて自信が揺らいだ。先輩を好きだという気持ちを疑った瞬間なんて無かった。だけど先輩をわかっていないのに好きだと想うのは無責任が過ぎないか。
 深呼吸をして先輩を見詰める。いや、違う。そうじゃない。俺はこの人を間違いなく好きだ。だから新しい顔を見たい。もっと先輩を知りたい。その上で好きでいたい。落ち込む必要なんて無い。先輩の傍にいたい。
 よし、恋心の確認は完了だ。俺は変わらず先輩が好きだ。
「色々考えることもあるでしょう。なかなか寝付けないかもしれない。だけど二人で一緒にいれば大丈夫」
 俺の視線を不安と捉えたらしい。ね、と微笑み掛けてくれた。本当に俺の恋には一切気付かない。そういう目で見ていないから。いいんだ、それで。俺が先輩を好きでいるだけだもの。
「ありがとうございます。夜中、お手洗いに行きたくなったら遠慮なく起こさせて貰います」
「逆も然り、だよ」
「そうですね。離れないようにしましょう」
 情けないとは思いつつ、ハッキリと宣言をした。言葉に出しておけば揺らがない気がした。うん、と先輩はも頷く。黒い髪が揺れた。
 しばらくスマホをいじったり、雑談を交わした。ただ、今日撮った写真を見ましょうかと提案した時には明日にしようと断られた。そういえば海が写っているなと気付き、何となく察した。そしていよいよ、その時が来た。