「おはよう、章人。今日も可愛いなあ」
 翌日からもとの里村に戻ってくれて、ほっとしたと言っていいのか、やはり腹が立つと言うべきか。
「おはよ」
 嫌がるから余計に増長するのかもしれない。なんでもない顔をして挨拶を返すと、里村は笑みを深くした。
「俺の章人はやっぱり可愛いなあ。素直じゃなくて素直でも、全部可愛い」
「……」
 判断を誤ったかもしれない。でも自分の気持ちに嘘はつけない。これが当たり前である学校生活が、一番しっくりくる。
「俺は可愛くない!」
 効果なんてないのはわかっている。それでもいい。ただ言い返したいだけ。こんなやり取りができることが、嬉しくてたまらなかった。


 里村とすごすと、一日一日を数えることもできないくらいに、毎日があっという間にすぎていく。
「いらっしゃいませ」
 猫耳をつけた里村の笑顔に、女性客がぽうっと頬を赤く染める。これは猫耳でなくてもいいんじゃ、と思ったことは内緒だ。
 文化祭当日、猫耳喫茶はたくさんの客で賑わっている。もちろんみんな里村目当てだ。そんな男が自分の恋人だという事実を、ほんの少しだけ自慢したくなってしまう自分に呆れる。毎日の可愛い攻撃を躱すこともできるようになって、日々成長を感じる。でも、里村と言い合っているのが楽しいのも本当だ。これも胸の内にしまっておく。
「行ってらっしゃーい」
 そんなばたばたした中でも、接客係の里村と会計係の章人は同じ時間に休憩をもらえた。そりゃそうだ、みんな『証人』なのだから。
 背を押されて教室から追い出され、里村とふたりで廊下に出る。
「章人はどこ見たい?」
「うーん……これといってないんだけど」
 ちらりと振り向くと、教室の扉の影から、クラスメイトたちが覗いている。もう少し離れたら見えないだろうから、なるべく早足で歩く。見守られているのか面白がられているのかわからないが、里村といられることは嬉しかった。
 最近の俺、けっこう素直じゃないか?
 自画自賛だとわかりながら、自分の行動を褒めてみる。口を開くと里村に言い返したくなるのを、こらえることも覚えた。言いたいことをこらえて、口がもごもごする章人を見た里村が、「可愛いなあ」と頬を緩めるのまでがセットだ。それも悔しいけれど。
「あ、お化け屋敷だって」
「へ、へえ」
 ひくり、と喉が震えて顔が引き攣る。動揺をごまかすために平静を装うが、里村に気がつかれないはずはないのだ。
「面白そう。入ろうよ」
「嫌だ」
 即拒否すると、里村が頭を撫でてきた。慌てて逃げようとしたことさえ見破られ、手を握って留められる。
「怖いんだね」
「そうじゃない」
 里村相手に、もう強がる必要なんてないとわかっていても、簡単には素直になれない。むきになる章人に、里村はずっと笑顔を向けている。それもまた余裕を感じさせてむっとなる。
「大丈夫だ。全然怖くない」
 章人も手を握り返し、『お化け屋敷』と書かれた看板を横目に見ながら扉を開ける。
「ひっ」
 真っ暗な中、懐中電灯だけで照らした机にぼんやりとした人影がある。思わず出た声をごまかすように、咳払いをした。里村はうしろで噴き出している。文句を言おうとしたら暗がりの中から悲鳴が聞こえてきて、背筋がびくんとなった。おそるおそる目をこらしても、暗闇が広がるばかりだ。
「章人、無理しなくていいよ」
「無理じゃない。行くぞ」
 先導して進むが、すぐに足が遅くなって、気がつけば里村が一歩先にいた。姿勢のいい背中だけを見ながら進んでも、怖いものは怖い。
「うわっ!」
 声を抑えようにも勝手に出る。章人が怖がれば怖がるほどに里村が楽しそうにする。けっこう意地悪な男じゃないのか。文句を言いたくなったけれど、すぐにそんなものはどこかに行った。お化け係も本気でやっているのだ。怖くないわけがない。
「ひゃっ」
 腕が引かれて今度はなにかと思ったら、里村が手をつないでくれた。暗がりの中なのに、整った顔がなぜか鮮明に見える。
「これなら怖くない?」
「……」
 悔しいけれど、小さく頷いた。心臓の音がうるさい。どきんどきんと鼓膜を叩く心音は、妙に弾んでいるようにも聞こえる。少し歩く速度をあげて、里村の隣に並んだ。と同時にギギギギ、となにかが開くような音がしてきた。
「うわっ、なになになになんだよ、もう!」
 なにに文句を言っているのかわからないが、勝手に口から出た。里村は笑っている。あやすように頭をぽんぽんと撫でられ、また心臓が跳ねる。
 里村と一緒でも、手をつないでいても、怖いものはやっぱり怖かった。
 なんとかお化け屋敷から生還し、よろよろしながら廊下を歩く。里村はずっと笑いをこらえている。悔しい。しかもなぜかつないだ手がそのままだ。
「里村、みんな見てる」
「見られてもいいじゃない」
「……」
 たしかにそうだけど、なんとなく気恥ずかしい。里村が章人に夢中なことは学校中の生徒が知っているが、まるで見せつけているみたいに感じてしまう。里村が自分の恋人だと言って歩いているようで、どきどきと鼓動が速まる。この拍動が緊張からくるものなのか、心が弾んでいるからなのかは章人自身にもわからない。
「迷路だって。里村、こういうの好きそう」
 なにげなく口にしてはっとする。これは――。
「俺のことわかってくれてるなんて嬉しいなあ」
 やっぱり。
 そうなるよな、と思いながらも、まあいいかと素直にそのとおりだと認められるようになったのも、大きな成長だ。里村といると、変な意地を張っている自分が馬鹿らしくなるときがある。だからきっと、少し力を抜いたくらいでちょうどいいのだ。
「章人が誘ってくれたから、迷路に入ろう」
「別に誘ったわけじゃないけど」
 でも、やはりこんな言葉が勝手に出てくるのだから、重症だ。
「中にはひとりずつ入ってください。先の方が行って五分後に次の方が入ります」
「え……」
 想像外だったのは里村のようで、目をまたたいて係の女子生徒に視線を向ける。女子は照れた表情を浮かべ、少し俯いた。その様子を見ていて、もやっとする。こういうところは、けっこう素直かもしれない。
「どうした?」
「章人が泣いちゃうから、ばらばらに入るのは困るよね」
 真面目にそんなことを言われたら、なにも答えられない。
「俺は別にはぐれても泣かないけど、迷路はやめとこう」
 里村の手を引いて、迷路をあとにする。お化け屋敷ではぐれたらさすがに涙が出るかもしれないが、迷路なら問題ない。それでも迷路はやめた。はぐれたら里村が泣いてしまうかもしれないから。
「どこ行く?」
 迷路の教室から離れたところで立ち止まり、顔を見あげると、里村は心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
 里村は悔しいくらいに笑顔が似合う。だからいつでも笑っていてほしい。
「そうだ。章人を自慢したいからクラスに戻ろうよ」
「は?」
「決まり。行こ行こ」
 背を押されるままに歩き出す。今さら自慢もなにもないだろう。それでも里村が楽しそうだから、まあいいか、となった。
「ふたりです」
 章人の肩を抱いた里村は、案内係ににこやかに告げた。もちろん教室内は急に賑やかになった。
「悠誠くん、デート楽しい?」
「最高。章人といたらどこでも天国」
「よかったねえ。里村くん、遊びに行ってもずっと河西くんのこと話すんだもん。呆れを通り越して感動しちゃったよ」
 注文を取りに来た、猫耳をつけた女子が目もとを緩める。遊びに行って、で思い出した。文化祭の準備期間に、里村は女子たちから誘われて遊びに行っていた。今さらどうしようもないのに、なんだかもやもやする。
「どうしたの、不機嫌?」
 顔に出ていたようで、里村は心配げに表情を曇らせる。そんな顔をさせるつもりはないのに、素直に「なんでもない」と言えない。
「浮気はだめ」
 それしか言えなかったけれど、里村は理解してくれた。ふふ、と声に出して笑いはじめる。
「俺が浮気なんてするはずないでしょ。章人しか見えないんだから」
「……」
 わかっていても言いたかった。もちろんそのやり取りは全部、クラスメイトたちから見られている。
「お待たせいたしましたー、こちらサービスです」
 前に章人に「里村に振られたな」と声をかけてきた男子が、クッキーの盛りあわせをテーブルにのせる。もちろん猫耳をつけている。サッカー部の爽やかな男子も可愛くする猫耳はすごい。
「章人、食べて」
「里村だって食べろよ」
「俺は章人が食べてるところ見るのが、一番おいしい」
「おいしいとか言うな」
 軽く睨みつけてから、チョコチップクッキーのパッケージを破いてひと口かじる。
 このクッキーは、文化祭実行委員が学校の近くの洋菓子店でまとめて買ってきたものだ。男子高校生の手のひらよりひとまわり小さいくらいのサイズで、今日のために店側も多めに用意してくれたらしい。
 甘いチョコとほろ苦いクッキーのバランスがちょうどよくて、食べやすい。里村の手もとにも同じ袋をひとつ置いた。
「これ、おいしい」
 だから食べろ、という意味だったのに、里村は章人の手もとに袋を戻す。
「なんで?」
「おいしいものは、章人が食べて」
「里村は?」
「……実は、甘いもの苦手なんだよね」
 はじめて知った事実に驚き、目をまたたく。
「だから章人が食べて」
「おいしいのに」
 こうやって、ひとつひとつ里村を知れるのが嬉しい。マスクメロンパンになりたいと言っていたことを思い出し、苦手なものになりたがったのかとおかしくなる。
 視線を感じてもとを辿ると、教室中の目が里村と章人に向いている。クラスメイトではない客まで見ている。いたずら心が湧き、クッキーの袋を開けた。
「里村、あーん」
「え?」
「ほら」
 里村の口もとにクッキーを差し出すと、里村は目を見開いた。教室内も静かになり、いっそう視線が集まる。注目されていることで頬が熱を持つが、それでも目を逸らさず里村を見つめた。
「……」
 まだ信じられないという顔をしながらも、里村はクッキーをひと口かじる。咀嚼しながら、泣き出しそうな、だけど世界中の幸せをひとり占めしたような笑顔を向けられ、胸がきゅっと疼いた。前みたいな苦しさではない。むずがゆいような、くすぐったいとも言える疼きだ。
 見つめ合っていたら、突然明るい光がぱっと広がり、びくんと肩が上下する。光が何度も続いて、なにごとかと周囲を見まわしたら、なぜかみんなスマートフォンをこちらに向けている。
「いやいやいや、……え?」
「いい写真撮れた?」
「おい」
 慌てる章人と正反対に、里村はやはり嬉しそうだ。
「……もう」
 しょうがないな。
 こんな里村が好きなのだ。里村だけでなく、クラスメイトもみんな好きだ。
 いつの間にか、輪の中心にいることに慣れた自分が気恥ずかしい。撮った写真を見せてくれたが、やたらうまく撮れていて笑ってしまった。なにかのワンシーンのようだ。腕がいいのか、スマートフォンの性能がいいのか。
 章人の隣には里村がいて、優しく微笑んでくれる。笑顔を見ても思い出のゆうちゃんとはまったく重ならない。でもそれでいい、それがいい。だって里村とゆうちゃんが同一人物だから里村を好きになったわけではない。里村とゆうちゃんが別人でも、この気持ちは変わらなかった。今は素直になって、里村の隣で笑える自分でいたい。

(終)