「里村、ちょっと来て」
今日も先に帰ろうとする里村を捕まえた。以前と立場が逆だ。里村は胡乱げな瞳を向けながらも、黙ってついてくる。教室から離れ、どこにしようか悩みながら校舎をぐるりとまわって、校舎裏にした。一応周囲を見まわして、他に誰もいないことを確認する。
今日は晴れていて暖かいけれど、校舎裏で陽が当たらないことに静けさも手伝って、外気がひんやりと感じる。
「なに?」
連れ出したときから、里村はずっとスマートフォンをいじっている。ちらりとだけ見てくれたけれど、すぐにまた画面に視線を戻した。そのそっけなさに胸が痛くなる。でも勇気を出すと決めたのだ。もう引きさがれないし、逃げるつもりもない。ぎゅっと目をつぶって手を握り込んでから、ゆっくりと瞼をあげて里村をとらえる。
「ごめん!」
意気込みすぎたのか、思ったより大きな声が出て、自分でもびっくりしてしまった。里村はぴくりと反応して、スマートフォンから章人に視線をあげてくれた。
「なにが?」
冷えた口調に、また胸がきゅっと痛む。でも逃げない。
「無神経なこと言ってごめん。ずっと嫌なやつって思ってたこともごめん。可愛いって言うなって怒ってごめん。全部ごめん」
「……」
深く頭をさげて、相手の顔色を窺いながら姿勢を戻す。なにも答えてくれないけれど、スマートフォンはポケットにしまってくれた。里村がきちんと聞く体勢になってくれたことに緊張し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お願いだから、前の里村に戻ってほしい。前みたいに『可愛い』って言いながら、俺にかまってくれ」
勝手なことを言っているとわかっている。でももう耐えられないのだ。里村の目が章人をとらえないこと、里村がそばにいないこと。
里村はわずかに目を細め、見定めるような表情を見せる。背筋が伸びる鋭い視線に、身体が竦んだ。
「それをしたら、章人は俺をもっと嫌いになるでしょ」
まっすぐに向けられる視線にぶつけるように、章人も一直線に里村を見つめる。目を逸らしたいくらいに緊張するし、答えが怖い。だけど、目を逸らしたら本心だと思ってもらえないかもしれない。
「ならない。むしろ、そうしてくれないと俺は――」
俺は……。
離れた時間で確信した自分の気持ちが届くかわからない。それでも伝えないといけない。
「……俺、おかしいんだ。里村が離れていってすっきりするはずなのに、逆にもやもやして。どうしたらいいかわからなくなる」
整った顔が訝る表情に変わり、一瞬目を逸らされた。唇を噛んだ里村は、すぐに章人に視線を戻してくれた。困っているのが、その小さな動きから感じ取れてしまった。
「それは俺が好きってこと?」
「……好き……」
あれほどしっかりと自分の気持ちを確認したにもかかわらず、本人から問われると自信がなくなった。それに、不確定なことを口にするのも憚られる。
「まだ……断言はできない。でも、ずっとこのままなのは嫌だ」
「……」
「お願いだからもとの里村に戻って、可愛いって言ってくれ」
里村がまた視線を逸らした。胸に鋭い痛みが走り、答えを聞く前に逃げ出したくなったけれど、こらえた。里村の視線は自身の足もとに落ちている。やや俯き気味の表情に、翳りが見える気がした。
「だめ、か……?」
視線が再び章人に戻り、大きなため息をつかれた。表情は苦々しい。
「……やっぱりだめだよな。こんな都合のいいこと、聞いてもらえないか」
それでも心のどこかで、里村なら聞いてくれるんじゃないか、と思っていたところがある。期待は崩れ、喉が震える。動揺がそのまま表れそうで、次の言葉が出せない。
しばしの沈黙がふたりのあいだに流れた。それを破ったのは里村のため息だった。
「章人が俺とつき合う気になってくれたのはいいんだけど」
「え?」
つき合う?
そんな話をしただろうかと、頭の中に疑問符が浮かぶ。前の里村に戻ってほしいとは言ったけれど、趣旨が違う。
「里村?」
「肝心なことを言ってくれないと、俺だってどうしたらいいかわからないよ」
「……っ」
厳しい瞳に射竦められ、言葉が詰まる。『肝心なこと』がわからなくて脳内の疑問符が増える。里村はそんな思考を読んだのか、胸の前で腕を組む。威圧されているかのようで、また緊張してきた。
「もとの俺に戻ってほしい、そばにいたい、可愛いって言ってほしい――章人はなんでそうしてほしいの?」
「……えっと」
そこまで言うつもりはなかったから、それについての言葉をなにも用意していなかった。前の里村に戻ってもらうことだけが、今日の目的だった。
里村がいつかのように、一歩近づいてくる。
「俺が好きなんでしょ?」
「そ、それは……。そう、なのかな」
疑問形になってしまった。里村は鋭い視線を緩めない。それでも言葉に感情が見えて、先ほどまでの冷めたものより柔らかい。あやすように促される。
「そうだよ。ほら、言ってみて」
こんな話になるはずじゃなかったのに。
心臓がどきんどきんと激しく暴れる。
「『里村が好き』って、言って」
頬が尋常ではないくらいに熱くなり、里村から目を逸らして俯く。それを言う勇気はなかった。でももう逃げないと決めたのだ。
意思を確認しながら唾を飲んだら、喉が鳴った。そんなわずかな音にさえ緊張が表れる。強張った顔をゆっくりとあげ、里村を見ると、彼は綺麗な眉を片方ぴくりとあげた。
「言わないならそれでいいけど。章人がその態度なら、俺もこのままでいる」
里村がまた冷めた口調に戻って、感情のなさに胃が絞られるようなぎゅうっとした痛みが鈍く響く。
「どうしても、言わないとだめ?」
「俺は言ってもらわないとわからない。今はまだ章人の気持ちがはっきりしてないんだ。嫌われてるかもしれないのにつきまとえるほど、神経図太くないよ」
「そ」
咄嗟に言葉を呑み込む。「そうなの?」と聞きそうになった。里村なら章人の気持ちなど関係なくいくらでもつきまといそうだけど、なんて失礼なことを考えてしまった。章人の気持ちがはっきりと伝わらないと、里村はもとに戻ってくれない。
もう逃げないんだろ。
自分に言い聞かせ、口を開く。耳まで熱いから、たぶん真っ赤だ。でもそれを見せつけるように、里村に顔を向ける。真正面からとらえた相手の瞳は、まだ疑いの色がある。
「…………里村が、好き、かも」
意気込んだわりには小声になってしまった。鼓膜を叩く心音が徐々に激しくなり、顔を見られていることが恥ずかしい。
「『かも』はずして」
「っ……」
里村はさらに追い討ちをかけてくる。これ以上熱くならないだろうというくらい火照った頬が、まだ熱を増すのを感じる。熱すぎて火が出そうだ。
「まあ、無理にとは言わないけど」
背を向けようとしているのがわかる。すうっと通りすぎた心細さを追い払うために頭を小さく振り、握り込んだ手に力を込めて、腹から声を出した。
「里村が好き!」
勢いよく言いきると、なぜかわあっと拍手が起こった。なにごとかと周囲を見まわしても、誰もいない。幻聴かと疑問符を浮かべると、里村が人差し指を空に向ける。示されるまま上を向くと、校舎の二階と三階の窓からたくさんの生徒が顔を出している。
「……⁉」
「ようやくつき合えるんだから、証人は必要だよね」
にっこりと笑んだ里村はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を章人に向ける。そこにはクラスメイトたちとのグループトークに『校舎裏』とメッセージが送信されている。
まさか、さっきスマートフォンをいじっていたのは――。
「えっ」
どういうことだ。状況に頭が全然ついていけない。
「あー、章人に近づかないようにするの大変だった! ついいつものくせでそばに行きたくなっちゃうんだよね。章人に可愛いって言わないと一日が終わらないから、帰ってから章人の写真に向かって一日分言ってたよ。あーつらかった!」
「え……?」
なに……これ、本当にどういうことだ?
先ほどまでの冷めた口調や、興味を失った目はなんだったのだ。手のひらを返すように表情をころりと変えた里村は、うーん、と両手をぐうっと天に向けて伸ばす。猫の背伸びのようなしなやかな動きに、頭上から黄色い声があがった。
「したいのと正反対のことするって大変だね。しかもさっきからの章人、可愛すぎて真顔を保つの大変だったなあ。目を逸らしてもにやにやしちゃいそうなの、必死でこらえたよ」
ぽかんと間の抜けた顔をしているとわかっている。でも表情を引き締めることも笑うことも、呆れることもできない。呆気に取られるとはこういうことだろうか。
「まさか、さっきから何回も目を逸らしてたのって……」
「章人があまりに可愛いから、真顔を保つため」
なんの言葉も出ない。茫然とする章人に、里村は唇の端をあげて見せる。
「『押してだめなら引いてみろ』とはよく言ったものだよね」
「……!」
「これからよろしくね、俺の章人」
ぼっと顔に熱が集まり、頭の中まで熱くなった。目を見開いたまま動けない章人に向かって、里村は極上の笑顔を向ける。
これは……これは……。この感情と気持ちをなんと表現したらいいのか。
「誰が里村のだ!」
ようやく声が出せたけれど、里村には効果がないとわかる。だってそれ以上のものを里村は受け取って、特別な関係がはじまってしまったのだ。
「いきなり喧嘩してる」
「そのまま別れて!」
「私たちの悠誠くんを返して!」
「ほんと、仲いいよなー」
窓から言いたい放題の声が降ってきて、力が抜ける。腹が立つのに、どう言っても足りないくらいに悔しいのに、笑いが込みあげてくる。
「あきちゃん笑ってる。可愛い」
「笑ってない。可愛いって言うな」
「さっきは言ってほしいって言ってたよ?」
「空耳じゃないの」
こんなやり取りも久しぶりすぎて、涙で水分の増した視界がゆらりと滲む。手の甲で目尻を乱暴にこすって、里村に背を向ける。意味がわからないのにすっきりとしている。あんなにもやもやしていた心が、今日の青空のように晴れ渡っている。
「ほんと、昔から優しくて可愛いよね」
「昔?」
昔ってなんだ。里村とは高校一年で出会ったので、昔と言ったって半年ほど前だ。首をかしげる章人に、里村は目を柔らかく細める。
「章人、小学生のときに、近所の公園でいじめられてる子を助けたことはない?」
「……」
ある。記憶を辿らなくても思い起こせるくらいに鮮明な思い出。
小学校一年生のとき、近所の公園で背が低い華奢な男の子が、数人の男子たちに囲まれてからかわれていた。顔見知りではなかったけれど、多人数でひとりをいじめているようで気に食わなくて、助けに入った。それがきっかけでその男の子と仲良くなり、何度も遊んだ。隣の小学校の生徒だと聞いた覚えがある。でもある日突然、その男の子は公園に来なくなってしまった。寂しかったけれど、学校で友だちができたのかなと思って、章人も気にしなくなって、そのままその子との関係は終わる。
「それが……なに?」
どきんどきんと心音が高くなる。身体の向きを変えてまた里村にまっすぐ向かい合い、顔をじいっと見る。
まさか……。
整った顔にその子の面影は――まったくない。
「あのときはありがとう、あっくん」
「……ゆうちゃん?」
おそるおそる呼びかけると、答えではなく美麗な微笑みが返ってくる。
「――」
言葉が出ない。なにか言おうと思ったはずなのに、それがどんな言葉なのかもわからなくなるくらいに混乱する。里村と記憶の中の男の子、ふたりの顔が頭の中で左右に並ぶ。どうやってもイコールで結べない。
「同じ高校だったのは偶然だけど、でも再会したときに思い出してほしかったな」
そんなことを言われたって無理だ。あんなに小さくて可愛らしかったゆうちゃんが、こんなに背が高いイケメンに成長しているなんて、想像してみることもできない。
「俺、あのあと引っ越して、高校に入るときにまたこっちに戻ってきたんだ」
「じゃあ、いきなり公園に来なくなったのは……」
「うん、転校したんだよ。お別れを言ったら泣いちゃいそうだったから、言えなかった」
過去を懐かしむように目もとを和らげた里村は、章人に一歩近づく。
「黙っていなくなってごめんね。絶対あっくんのそばに戻ってくるって決めてたから、戻ってきたよ」
そんなことってあるのか……?
でも、ゆうちゃんのことは両親以外には話していない。両親以外で知っているのは、本人だけ。
親にはよく、ゆうちゃんとこんなことをして遊んだ、今日はこういうことをした、と話していた。たぶん父にも母にも「小学生のときのゆうちゃん」と言えば、今でも通じる。
あんなに可愛かったのゆうちゃんが、そんなことを考えていたなんて。驚きどころか信じられない。頼りなくて、少しからかうと泣き出しそうな繊細さを持った男の子だった。たったひと言でも、戻ってくると言ってくれていたなら、待っていたかもしれないのに。
「ゆうちゃんが里村……」
「そうだよ、章人」
「……ふ」
おかしくて、わけがわからなくて、笑い出したら止まらなくなった。感動の再会にしては間が抜けているが、それでもおかしくて仕方がない。
「キース!」
「えっ」
笑い涙を拭った章人の耳に届いたのは、窓から覗いている男子たちからの謎のキスコールだった。同時に女子たちから「キスはだめ」コールが重なる。すっかり存在を忘れていたが、すべて見られていたのだ。
キスなんてできるか!
その場から逃げようとすると、左手首を掴まれた。力強く引き寄せられ、里村の肩に身体が触れる。
「さと――」
頬にふわりと柔らかい感覚が触れ、目をまばたく。
「真ん中取ってこれでいい?」
上方に笑顔を向けている里村を、すぐそばから茫然と見つめる。なにが起こったのかわからなかったけれど、されたことが徐々に理解できてきて、顔どころか耳まで熱くなった。
「……里村の馬鹿」
小さな小さな文句は聞こえないだろうと思ったのに、里村の耳にはしっかりと届いたようだ。嬉しげに微笑んだ里村が、両腕を背にまわしてくる。わああっと盛りあがる外野の声が遠くに聞こえる。突然のことが続きすぎて身体が動かず、ただされるままになってしまった。
「好きだよ、章人」
「……」
「好き」
「……馬鹿」
俺は嫌いだ、と章人が返せないのをわかっているのだ。悔しいやらおかしいやら腹立たしいやら。なんとも表現できないふわふわとした心地になり、苦笑する。
なんだよ。俺、里村のこと大好きじゃん。
諦めではないけれど、腹はくくれた。もう逃げないと決めたのは章人自身だ。
「章人」
「え……あ」
すっかり力の抜けきった章人の顎を持ちあげ、里村の顔がすっと近づいて、視認できないほど間近になった。綿毛が落ちるように、でもたしかな温もりがある唇が触れ合った。可愛いふりをして瞼をおろし、里村の足を踏んだ。
今日も先に帰ろうとする里村を捕まえた。以前と立場が逆だ。里村は胡乱げな瞳を向けながらも、黙ってついてくる。教室から離れ、どこにしようか悩みながら校舎をぐるりとまわって、校舎裏にした。一応周囲を見まわして、他に誰もいないことを確認する。
今日は晴れていて暖かいけれど、校舎裏で陽が当たらないことに静けさも手伝って、外気がひんやりと感じる。
「なに?」
連れ出したときから、里村はずっとスマートフォンをいじっている。ちらりとだけ見てくれたけれど、すぐにまた画面に視線を戻した。そのそっけなさに胸が痛くなる。でも勇気を出すと決めたのだ。もう引きさがれないし、逃げるつもりもない。ぎゅっと目をつぶって手を握り込んでから、ゆっくりと瞼をあげて里村をとらえる。
「ごめん!」
意気込みすぎたのか、思ったより大きな声が出て、自分でもびっくりしてしまった。里村はぴくりと反応して、スマートフォンから章人に視線をあげてくれた。
「なにが?」
冷えた口調に、また胸がきゅっと痛む。でも逃げない。
「無神経なこと言ってごめん。ずっと嫌なやつって思ってたこともごめん。可愛いって言うなって怒ってごめん。全部ごめん」
「……」
深く頭をさげて、相手の顔色を窺いながら姿勢を戻す。なにも答えてくれないけれど、スマートフォンはポケットにしまってくれた。里村がきちんと聞く体勢になってくれたことに緊張し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お願いだから、前の里村に戻ってほしい。前みたいに『可愛い』って言いながら、俺にかまってくれ」
勝手なことを言っているとわかっている。でももう耐えられないのだ。里村の目が章人をとらえないこと、里村がそばにいないこと。
里村はわずかに目を細め、見定めるような表情を見せる。背筋が伸びる鋭い視線に、身体が竦んだ。
「それをしたら、章人は俺をもっと嫌いになるでしょ」
まっすぐに向けられる視線にぶつけるように、章人も一直線に里村を見つめる。目を逸らしたいくらいに緊張するし、答えが怖い。だけど、目を逸らしたら本心だと思ってもらえないかもしれない。
「ならない。むしろ、そうしてくれないと俺は――」
俺は……。
離れた時間で確信した自分の気持ちが届くかわからない。それでも伝えないといけない。
「……俺、おかしいんだ。里村が離れていってすっきりするはずなのに、逆にもやもやして。どうしたらいいかわからなくなる」
整った顔が訝る表情に変わり、一瞬目を逸らされた。唇を噛んだ里村は、すぐに章人に視線を戻してくれた。困っているのが、その小さな動きから感じ取れてしまった。
「それは俺が好きってこと?」
「……好き……」
あれほどしっかりと自分の気持ちを確認したにもかかわらず、本人から問われると自信がなくなった。それに、不確定なことを口にするのも憚られる。
「まだ……断言はできない。でも、ずっとこのままなのは嫌だ」
「……」
「お願いだからもとの里村に戻って、可愛いって言ってくれ」
里村がまた視線を逸らした。胸に鋭い痛みが走り、答えを聞く前に逃げ出したくなったけれど、こらえた。里村の視線は自身の足もとに落ちている。やや俯き気味の表情に、翳りが見える気がした。
「だめ、か……?」
視線が再び章人に戻り、大きなため息をつかれた。表情は苦々しい。
「……やっぱりだめだよな。こんな都合のいいこと、聞いてもらえないか」
それでも心のどこかで、里村なら聞いてくれるんじゃないか、と思っていたところがある。期待は崩れ、喉が震える。動揺がそのまま表れそうで、次の言葉が出せない。
しばしの沈黙がふたりのあいだに流れた。それを破ったのは里村のため息だった。
「章人が俺とつき合う気になってくれたのはいいんだけど」
「え?」
つき合う?
そんな話をしただろうかと、頭の中に疑問符が浮かぶ。前の里村に戻ってほしいとは言ったけれど、趣旨が違う。
「里村?」
「肝心なことを言ってくれないと、俺だってどうしたらいいかわからないよ」
「……っ」
厳しい瞳に射竦められ、言葉が詰まる。『肝心なこと』がわからなくて脳内の疑問符が増える。里村はそんな思考を読んだのか、胸の前で腕を組む。威圧されているかのようで、また緊張してきた。
「もとの俺に戻ってほしい、そばにいたい、可愛いって言ってほしい――章人はなんでそうしてほしいの?」
「……えっと」
そこまで言うつもりはなかったから、それについての言葉をなにも用意していなかった。前の里村に戻ってもらうことだけが、今日の目的だった。
里村がいつかのように、一歩近づいてくる。
「俺が好きなんでしょ?」
「そ、それは……。そう、なのかな」
疑問形になってしまった。里村は鋭い視線を緩めない。それでも言葉に感情が見えて、先ほどまでの冷めたものより柔らかい。あやすように促される。
「そうだよ。ほら、言ってみて」
こんな話になるはずじゃなかったのに。
心臓がどきんどきんと激しく暴れる。
「『里村が好き』って、言って」
頬が尋常ではないくらいに熱くなり、里村から目を逸らして俯く。それを言う勇気はなかった。でももう逃げないと決めたのだ。
意思を確認しながら唾を飲んだら、喉が鳴った。そんなわずかな音にさえ緊張が表れる。強張った顔をゆっくりとあげ、里村を見ると、彼は綺麗な眉を片方ぴくりとあげた。
「言わないならそれでいいけど。章人がその態度なら、俺もこのままでいる」
里村がまた冷めた口調に戻って、感情のなさに胃が絞られるようなぎゅうっとした痛みが鈍く響く。
「どうしても、言わないとだめ?」
「俺は言ってもらわないとわからない。今はまだ章人の気持ちがはっきりしてないんだ。嫌われてるかもしれないのにつきまとえるほど、神経図太くないよ」
「そ」
咄嗟に言葉を呑み込む。「そうなの?」と聞きそうになった。里村なら章人の気持ちなど関係なくいくらでもつきまといそうだけど、なんて失礼なことを考えてしまった。章人の気持ちがはっきりと伝わらないと、里村はもとに戻ってくれない。
もう逃げないんだろ。
自分に言い聞かせ、口を開く。耳まで熱いから、たぶん真っ赤だ。でもそれを見せつけるように、里村に顔を向ける。真正面からとらえた相手の瞳は、まだ疑いの色がある。
「…………里村が、好き、かも」
意気込んだわりには小声になってしまった。鼓膜を叩く心音が徐々に激しくなり、顔を見られていることが恥ずかしい。
「『かも』はずして」
「っ……」
里村はさらに追い討ちをかけてくる。これ以上熱くならないだろうというくらい火照った頬が、まだ熱を増すのを感じる。熱すぎて火が出そうだ。
「まあ、無理にとは言わないけど」
背を向けようとしているのがわかる。すうっと通りすぎた心細さを追い払うために頭を小さく振り、握り込んだ手に力を込めて、腹から声を出した。
「里村が好き!」
勢いよく言いきると、なぜかわあっと拍手が起こった。なにごとかと周囲を見まわしても、誰もいない。幻聴かと疑問符を浮かべると、里村が人差し指を空に向ける。示されるまま上を向くと、校舎の二階と三階の窓からたくさんの生徒が顔を出している。
「……⁉」
「ようやくつき合えるんだから、証人は必要だよね」
にっこりと笑んだ里村はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を章人に向ける。そこにはクラスメイトたちとのグループトークに『校舎裏』とメッセージが送信されている。
まさか、さっきスマートフォンをいじっていたのは――。
「えっ」
どういうことだ。状況に頭が全然ついていけない。
「あー、章人に近づかないようにするの大変だった! ついいつものくせでそばに行きたくなっちゃうんだよね。章人に可愛いって言わないと一日が終わらないから、帰ってから章人の写真に向かって一日分言ってたよ。あーつらかった!」
「え……?」
なに……これ、本当にどういうことだ?
先ほどまでの冷めた口調や、興味を失った目はなんだったのだ。手のひらを返すように表情をころりと変えた里村は、うーん、と両手をぐうっと天に向けて伸ばす。猫の背伸びのようなしなやかな動きに、頭上から黄色い声があがった。
「したいのと正反対のことするって大変だね。しかもさっきからの章人、可愛すぎて真顔を保つの大変だったなあ。目を逸らしてもにやにやしちゃいそうなの、必死でこらえたよ」
ぽかんと間の抜けた顔をしているとわかっている。でも表情を引き締めることも笑うことも、呆れることもできない。呆気に取られるとはこういうことだろうか。
「まさか、さっきから何回も目を逸らしてたのって……」
「章人があまりに可愛いから、真顔を保つため」
なんの言葉も出ない。茫然とする章人に、里村は唇の端をあげて見せる。
「『押してだめなら引いてみろ』とはよく言ったものだよね」
「……!」
「これからよろしくね、俺の章人」
ぼっと顔に熱が集まり、頭の中まで熱くなった。目を見開いたまま動けない章人に向かって、里村は極上の笑顔を向ける。
これは……これは……。この感情と気持ちをなんと表現したらいいのか。
「誰が里村のだ!」
ようやく声が出せたけれど、里村には効果がないとわかる。だってそれ以上のものを里村は受け取って、特別な関係がはじまってしまったのだ。
「いきなり喧嘩してる」
「そのまま別れて!」
「私たちの悠誠くんを返して!」
「ほんと、仲いいよなー」
窓から言いたい放題の声が降ってきて、力が抜ける。腹が立つのに、どう言っても足りないくらいに悔しいのに、笑いが込みあげてくる。
「あきちゃん笑ってる。可愛い」
「笑ってない。可愛いって言うな」
「さっきは言ってほしいって言ってたよ?」
「空耳じゃないの」
こんなやり取りも久しぶりすぎて、涙で水分の増した視界がゆらりと滲む。手の甲で目尻を乱暴にこすって、里村に背を向ける。意味がわからないのにすっきりとしている。あんなにもやもやしていた心が、今日の青空のように晴れ渡っている。
「ほんと、昔から優しくて可愛いよね」
「昔?」
昔ってなんだ。里村とは高校一年で出会ったので、昔と言ったって半年ほど前だ。首をかしげる章人に、里村は目を柔らかく細める。
「章人、小学生のときに、近所の公園でいじめられてる子を助けたことはない?」
「……」
ある。記憶を辿らなくても思い起こせるくらいに鮮明な思い出。
小学校一年生のとき、近所の公園で背が低い華奢な男の子が、数人の男子たちに囲まれてからかわれていた。顔見知りではなかったけれど、多人数でひとりをいじめているようで気に食わなくて、助けに入った。それがきっかけでその男の子と仲良くなり、何度も遊んだ。隣の小学校の生徒だと聞いた覚えがある。でもある日突然、その男の子は公園に来なくなってしまった。寂しかったけれど、学校で友だちができたのかなと思って、章人も気にしなくなって、そのままその子との関係は終わる。
「それが……なに?」
どきんどきんと心音が高くなる。身体の向きを変えてまた里村にまっすぐ向かい合い、顔をじいっと見る。
まさか……。
整った顔にその子の面影は――まったくない。
「あのときはありがとう、あっくん」
「……ゆうちゃん?」
おそるおそる呼びかけると、答えではなく美麗な微笑みが返ってくる。
「――」
言葉が出ない。なにか言おうと思ったはずなのに、それがどんな言葉なのかもわからなくなるくらいに混乱する。里村と記憶の中の男の子、ふたりの顔が頭の中で左右に並ぶ。どうやってもイコールで結べない。
「同じ高校だったのは偶然だけど、でも再会したときに思い出してほしかったな」
そんなことを言われたって無理だ。あんなに小さくて可愛らしかったゆうちゃんが、こんなに背が高いイケメンに成長しているなんて、想像してみることもできない。
「俺、あのあと引っ越して、高校に入るときにまたこっちに戻ってきたんだ」
「じゃあ、いきなり公園に来なくなったのは……」
「うん、転校したんだよ。お別れを言ったら泣いちゃいそうだったから、言えなかった」
過去を懐かしむように目もとを和らげた里村は、章人に一歩近づく。
「黙っていなくなってごめんね。絶対あっくんのそばに戻ってくるって決めてたから、戻ってきたよ」
そんなことってあるのか……?
でも、ゆうちゃんのことは両親以外には話していない。両親以外で知っているのは、本人だけ。
親にはよく、ゆうちゃんとこんなことをして遊んだ、今日はこういうことをした、と話していた。たぶん父にも母にも「小学生のときのゆうちゃん」と言えば、今でも通じる。
あんなに可愛かったのゆうちゃんが、そんなことを考えていたなんて。驚きどころか信じられない。頼りなくて、少しからかうと泣き出しそうな繊細さを持った男の子だった。たったひと言でも、戻ってくると言ってくれていたなら、待っていたかもしれないのに。
「ゆうちゃんが里村……」
「そうだよ、章人」
「……ふ」
おかしくて、わけがわからなくて、笑い出したら止まらなくなった。感動の再会にしては間が抜けているが、それでもおかしくて仕方がない。
「キース!」
「えっ」
笑い涙を拭った章人の耳に届いたのは、窓から覗いている男子たちからの謎のキスコールだった。同時に女子たちから「キスはだめ」コールが重なる。すっかり存在を忘れていたが、すべて見られていたのだ。
キスなんてできるか!
その場から逃げようとすると、左手首を掴まれた。力強く引き寄せられ、里村の肩に身体が触れる。
「さと――」
頬にふわりと柔らかい感覚が触れ、目をまばたく。
「真ん中取ってこれでいい?」
上方に笑顔を向けている里村を、すぐそばから茫然と見つめる。なにが起こったのかわからなかったけれど、されたことが徐々に理解できてきて、顔どころか耳まで熱くなった。
「……里村の馬鹿」
小さな小さな文句は聞こえないだろうと思ったのに、里村の耳にはしっかりと届いたようだ。嬉しげに微笑んだ里村が、両腕を背にまわしてくる。わああっと盛りあがる外野の声が遠くに聞こえる。突然のことが続きすぎて身体が動かず、ただされるままになってしまった。
「好きだよ、章人」
「……」
「好き」
「……馬鹿」
俺は嫌いだ、と章人が返せないのをわかっているのだ。悔しいやらおかしいやら腹立たしいやら。なんとも表現できないふわふわとした心地になり、苦笑する。
なんだよ。俺、里村のこと大好きじゃん。
諦めではないけれど、腹はくくれた。もう逃げないと決めたのは章人自身だ。
「章人」
「え……あ」
すっかり力の抜けきった章人の顎を持ちあげ、里村の顔がすっと近づいて、視認できないほど間近になった。綿毛が落ちるように、でもたしかな温もりがある唇が触れ合った。可愛いふりをして瞼をおろし、里村の足を踏んだ。



