昨日の気まずさを引きずりながら、教室の扉を開ける。今日も……と思って、あれ、となった。里村が絡んでこない。休みだろうかと教室内を見まわすと、中央列の真ん中にある自身の席に座り、頬杖をついて窓のほうを見ている。
「はよ、河西」
 クラスメイトが「河西」と呼んだのが聞こえたはずなのに、里村は窓へ視線を向けたままだ。
「おはよ」
 挨拶を返しながら、気になるのは里村だ。絡んでこないどころか、椅子から立ちあがる気配すらない。
「よかったじゃん。『可愛い可愛い』からの念願の解放」
「……うん」
 そうだ。よかったのだ。章人はこれをずっと望んでいた。平和で、穏やかであること。
 よかった――そのとおりなのに、なにかが違う。
 勇気を出して里村の席に近づいた。
「里村、おはよ」
 章人を振り仰いだ里村は、興味を失くしたような瞳で「おはよう」のひと言だけ返して、すぐに窓のほうを見る。やはり立ちあがろうともしない。里村とのあいだに冷たい壁があるようで、近いのに遠いうしろ姿につきんと胸が痛む。どうして「よかった」と思えないか、わからない。どうしてこんなに変な気分なのか、わからない。すべてがなぜかはわからないけれど、冷めた瞳にたしかに胸が痛んだ。
 あんなに可愛い攻撃から解放されたいと願ったのに、なぜかすっきりとしない。自分がそうなってほしいと思ったのに、どうして不可解な感情が胸に渦巻くのだろう。
 里村のうしろ姿をじっと見つめた。

 ホームルームで文化祭実行委員が前に立ち、申請が通って喫茶店をやれることになったと報告した。
「……『猫耳喫茶』……」
 黒板にでかでかと書かれた文字に、クラス中の声が重なった。当たり前だ。『喫茶』はわかるが、『猫耳』は謎すぎる。
「せっかくだから可愛い系で攻めていきましょう!」
 意気揚々と握りこぶしを掲げる文化祭実行委員に、章人も言葉を失った。『可愛い』は、一番章人が避けたかったものだ。
 避けたかった、んだよな……?
「里村くんは接客係やってね!」
「悠誠くんの猫耳、めっちゃ楽しみ」
 なるほど、と納得する。目的はそこのようだ。みんな、里村の猫耳を期待している。クラス中の期待の目を向けられた里村に、章人も遅れて目をやる。一瞬目が合って、すぐに逸らされた。不自然な動きにもやっとして、胸がぐうっと押されたような感覚になった。
「本当に俺でいいの?」
 にこ、と笑みを見せた里村に、クラス中から黄色い声があがった。すごい人気だ。
「……」
 どうして自分は、里村を遠くから見ている中のひとりになっているのだろう。

 ホームルーム後から里村が気になる。あの不自然さと朝からの静かさが不気味だ。なにか企んでいるのだろうか。
「悠誠くんの猫耳楽しみ!」
「俺なんかで本当にいいのかなあ」
「いいに決まってんだろ。絶対似合う」
「笑いながら言われたって、真実味がないよ」
 里村の席のまわりに男子や女子が集まり、文化祭の話題に興じている。その輪の外からぼんやりと里村を見つめる。クラスメイトに囲まれている里村の様子は、これまでと変わらない。でも、章人の視線に気がついているのだろうに、わざとらしくこちらにだけ目を向けない。
「てか里村なら、『章人のほうが可愛いに決まってる』とか言いそうなのに」
 ひとりの男子が章人に視線を投げ、里村を囲んでいる輪のすべての目が一斉に向けられる。多数の瞳に一瞬怯みながらも真ん中の里村を見ると、ちらりとも章人に目を向けない。
「あー、そうだね。はは」
 答えともつかない曖昧な笑いでごまかしている姿に、もやもやがますます心内で渦巻く。
 誰が好きかを聞かれたときの反応が悪かったのか。だけど、誰が好き、なんてわからないことは答えられない。これといって気になる相手はいない。「いない」とはっきりと答えていれば、里村は今日もいつものように絡んできたのだろうか。
「それよりさ、他に誰が接客係やるのかな」
 里村は話題を変え、章人に向けられていた視線が里村に戻る。
「なんだよ、さっき決めたじゃん。聞いてなかったのかよ」
「そうだっけ。聞き逃しちゃった」
 いつもと同じように笑っているのに、里村のそばにいるのはクラスメイトたち。違和感を覚える自分が不思議だ。
 里村がわからない。それ以上に、自分がわからない。

 放課後になっても里村は章人のそばに寄ってこなかった。隣を見るといつも里村がいたのに、今は誰もいない。また心がすうすうする。
 帰ろうとして身がまえ、そんな自分に苦笑する。今日一日の様子だと、里村は絶対に近づいてこない。わかっているのに、理解しようとしない心が自分勝手に痛む。スクールバッグを持って教室を出ても、やはり里村はついてこなかった。
 このまま距離ができて、それが普通になるのだろう。里村には彼女ができるかもしれない。当然のように章人がいた位置に、他の誰かがいるようになる。前に出しかけた足を、もとの位置に戻した。もやもやがおさまらない。
 なんとなく振り返り、そのまま進まずにいた。
 ――あーきと、一緒に帰ろう。
 いつものように追いかけてきて、声をかけてくる『誰か』を待っている自分に苦笑する。馬鹿みたいだ。こんなよくわからない気持ちにさせる里村も、腹が立つ。そばにいてもいなくても腹立たしいなんて、本当に嫌なやつだ。
「……嫌なやつ」
 嫌なやつ、と自分に言い聞かせる。せつなく揺れる心が、それ以外のなにかを模索している。心のどこかに、他のなにかがあるのではないかと探している。そんな自分もよくわからない。どうして解放されてよかったと思えないのか。この状態をあんなにも願ったのに。
 俺、変だ。


 毎日里村を見てもこちらを向かないので、目に入るのはうしろ姿だけ。目が合ったと思ってもすぐに逸らされる。徐々にその動きも自然になってきた。不自然なのは章人の心だ。日が経つごとに胸が苦しくなってもやもやするし、すっきりとしない。里村がそばに寄ってこないことが『いつもどおり』になろうとしているのに、その状態をうまく呑み込めない。
「あ……」
 朝からずっと里村を見ていて、ようやく章人を見た目は、やはり冷めている。一瞬だけ視線がぶつかり、すぐに絶たれた。
 もう一週間か……。
 一週間、ずっとこの調子だ。里村はクラスメイトたちには変わらず接するのに、章人だけは避けている。一度、教室の扉のところでぶつかりそうになり、あからさまによけられた。これまでだったら、これ幸いと抱きついてくる場面だ。
 これが本当に望んでいたものなのか。……本当に自分は里村が嫌いなのか。
 何回考えても、今を嬉しいと思えない自分が心の中にいるのだ。里村がそばにいないことも、ヘイゼルの瞳が向けられないことも、諦めに似た思いで受け止めている。なにかを間違えてしまったのではないか。
 なにか――自分の言動。
 人気者の里村が羨ましかった。いつもみんなに囲まれている姿が眩しかった。そんな男に「可愛い」と言われるのが、本当は嬉しかったのかもしれない。嬉しいまでではなくても、それでいいと思っていたかもしれない。
 里村が嫌い……本当に?
 わからない。自分がわからない。