「あーきと、今日も可愛い」
よくこんなに可愛い可愛い言えるな、と感心する。章人が応戦するのもいつものことで、当たり前になった日常がすぎていく。こんな言い合いが当たり前なんて悲しいけれど、仕方がない。里村が飽きるまでの辛抱だ――本当にいつまでも続きそうで、気が重い。
「またやってるの? 悠誠くん、粘り強いね」
「それだけ章人が可愛いの」
自慢するような里村に、クラスメイトはみんな笑う。
たぶん、里村が章人に絡まなくなっても、里村はみんなに囲まれる。でも章人は存在を忘れられるだろう。もともと目立つタイプではないし、自己主張するほどの『自己』を持っていない。
「……」
王子様みたいに輝く男と目立たないモブがいたら、誰だって王子様に目を向ける。それが正しいのだ。
「どうしたの、章人。俺がそばにいなくて寂しくなっちゃった?」
「うるさい」
振り向いた里村が両腕を広げるので、さっとよける。余計なことを考えるより、里村に興味を失ってもらうことに尽力しよう。こんなふうに、みんなに囲まれて声をかけてもらえることが普通になってしまったら、そうでなくなったときが――頭をぶんぶんと振る。
まるで、里村にずっと絡まれたいみたいじゃないか。
自分の思考に反発し、もう一度頭を振る。そんなことは考えていない。モブだろうがなんだろうが、ひとりでいいのだ。囲まれなくたって声をかけられなくたって、平和な学校生活が送れるようになれば、それでいいだろう。
一時間目のロングホームルームで、文化祭についての話し合いが行われた。希望案が黒板に書き出され、多数決で決まった喫茶店で申請をするようだ。文化祭実行委員がはきはきと喋る声を聞きながら、はじめての文化祭にわくわくしたいのに、心が弾むどころか沈んでいく自分に苦笑した。里村のせいだ。
「喫茶店か」
里村は絶対に接客係だとわかる。あの外見ならそうなるに決まっている。章人は裏方で、ちょこちょことした作業をするだろう。そう、もともと立ち位置はそのくらい違う相手だ。
「……」
わかっているのに、なんだか心がすうすうする。変なの、とひとりごちて窓の外を見た。
放課後になり、部活も委員会もやっていない章人はさっさと帰る。長くいればいるだけ絡まれる。と思っていたらさっそく捕まった。章人を捕まえたのはもちろんあいつだ。
「章人、一緒に帰ろう」
「嫌だって言ったってくっついてくるんだろ」
嫌と言って聞いてくれる相手ならば、これほどの心労をかかえない。嫌と言ったらもっとやるのだ。最近はほんの少し学習して、無駄な抵抗をしないということを覚えた。
「俺のこと、わかってくれてて嬉しいな」
ぽっと頬を桃色に染めるので、うげ、と声が出てしまった。そういう表情さえ、里村がやると恰好いいのもまた腹が立つ。嬉しそうに弾んだ足取りの里村の隣で、章人は少し俯いた。なんでかはわからないけれど、まだ心のすうすうがおさまらない。冷たい風が撫でて名残を残していったような、尾を引く感覚が続いている。それとともに、寂しさとも心細さとも言えない感覚が湧き起こる。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか落ち込んでる?」
「……そんなことないよ」
落ち込んでいる――そうかもしれない。でもなんで?
考えれば考えるほど違和感は不可解で、なにかが胸の奥に引っかかったように疼痛を訴える。誰もいない真っ暗な道にひとり立たされている心持ちになり、隣を見あげる。里村が心配そうに、でもいつもどおりに微笑んでいて、それだけでほっとした。
「大丈夫、本当になんでもない」
一度深呼吸をして歩を進める。少し楽になったことも不思議だ。なにが苦しくて、なにがそれを抑えるのか、まったくわからない。
「小テスト、どうだった?」
「……」
余計なことを聞くな。せっかく気持ちが浮上したのにまた沈んだ。里村はきっと誰に言っても恥ずかしくない点数を取っているのだ。だからなんの憂いもなく聞ける。章人の気持ちなど知ろうともしない。
また風が吹き抜ける。外気はそんなに冷たくないのに、心の内では吹雪のように突き刺す痛みが荒れ乱れる。
「……なんで里村は、そんなに俺にかまうの?」
どうして俺なのか。こんなに地味な男を捕まえて可愛い可愛いと繰り返して、つきまとって、なにが楽しいのか。
口に出してから後悔した。ほしくない言葉があると気がついたから。
――気まぐれ。
そう言われて傷つく自分がわかる。なんで、どうして、疑念とともになにかが胸の奥でむくむくと膨れてくる。それは焦りに似た、でももっと追い立てられる感覚だ。
「聞きたい?」
たぶん、今まで見た中で一番の笑みを浮かべ、里村は問い返してきた。笑顔なのに寂しそうで、胸がぎゅうっと苦しくなった。表情以上に、里村にこんな顔をさせているのが自分だということに心が痛い。
「やっぱいい」
なかったことにしよう。問いかけも、心の中の焦りも疼痛も、吹きつける冷たい風も、気のせいだ。そばにいすぎて情が移ったに違いない。
里村から視線をはずしてまた足を進める章人に対し、里村は動かなかった。徐々に距離ができて、引き留められたわけでもないのに足が勝手に止まった。
「里む――」
「章人が好きだから」
呼びかけを遮って言いきった里村は、まっすぐに章人を見ていた。ふざけているのでも、からかっているものでもない。真剣な表情で見つめられ、どきりとする。心音が徐々に耳に響きはじめ、緊張が全身に糸を張る。身動きひとつできなくて、ただ視線を返す。
真剣な表情が笑みに変わり、それでも動けない。一歩、また一歩と近づかれ、距離が近くなる。里村の笑顔が寂しそうなものに見え、胸が詰まった。もう一歩近づかれ、それでも章人は動けない。目の前に立った里村は、少し眉をさげて手を伸ばした。頬に温かな感覚がある。
里村の手ってあったかいんだ。
知らなかったし、知る機会もなかった。今までさんざん抱きつかれても、気にも留めなかった。それなのに今は、はっきりとその温もりを感じる。頬を撫でられ、なんで動けないんだ、と硬直しきった自分の身体を不思議に思いながら、ヘイゼルの瞳を見つめる。
「好きだよ」
からかうと楽しい、の間違いではないのか。でも眼前の男は揺らがない視線で章人を見つめていて、その表情にも瞳にも揶揄の色などわずかも見えない。
里村に触れられたところから、温もりが広がる。頬を撫でられている事実に、今さらどっと激しい鼓動が鳴り、喉が震える。なにか言わないといけない。でもなにを言ったらいいかわからない。いたたまれないほどに居心地が悪い。
「章人は?」
「え?」
「章人は、誰が好き?」
先日もこんなことを聞かれた。どんな人が好きか、と。そのときより具体的に、「誰が」好きかと聞かれている。誰が好きか――好きな人。
わからない。特別に好意を寄せる相手がいるわけではないし、芸能人で誰それが好きというのもない。
そういうことを聞きたいのではないと、心の中でわかっている。でもわからないふりをした。不可解な感覚がいっそう広がり、うしろから背を押されたように一歩足を踏み出す。片眉をぴくりと動かした里村は、章人の頬から手を離した。
「そうだよね、俺は嫌われてるんだもんね」
目を逸らされ、また心細さが襲ってくる。ため息をついた里村は背を向け、来た道を戻っていく。先ほどと反対に距離ができていき、慌てて呼び止める。
「里村?」
少し振り返った里村の表情はとてもせつないもので、今にも泣き出しそうな瞳に胸がぐっと詰まる。なにか言わないといけない。でもなにを言ったらいいかわからない。ぐるぐると考えているうちに里村がまた歩き出して、距離は広がる。
「里村……」
もう一度呼び止める。振り向いた里村は、情けなく眉をさげた。
「いったん学校に戻る。今は章人のそばにいるのがつらいから」
声音も口調も寂しげで、言葉が出なかった。なにかを言おうとして、でもなにも言えず、言葉になりそこねた息を吐き出す。それがため息と取られたのか、里村はいっそう悲しそうな顔をした。
「里村……」
返事はなく、ただ背を見送るしかできない。遠くなっていく背中を見ながら、えもいわれぬ焦燥感がぶわっと湧きあがった。
俺は里村を振ったことになるのか……。
先ほどの笑みが、まだ瞼の裏に残っている。追いかけないといけないような気がする。だけれど、追いかけてなんと声をかけるのか。ただ小さくなっていく背中を見つめる。なぜだか、自分の言動に納得していない章人自身が心のすみにいる。
里村はもう振り返らなかった。
よくこんなに可愛い可愛い言えるな、と感心する。章人が応戦するのもいつものことで、当たり前になった日常がすぎていく。こんな言い合いが当たり前なんて悲しいけれど、仕方がない。里村が飽きるまでの辛抱だ――本当にいつまでも続きそうで、気が重い。
「またやってるの? 悠誠くん、粘り強いね」
「それだけ章人が可愛いの」
自慢するような里村に、クラスメイトはみんな笑う。
たぶん、里村が章人に絡まなくなっても、里村はみんなに囲まれる。でも章人は存在を忘れられるだろう。もともと目立つタイプではないし、自己主張するほどの『自己』を持っていない。
「……」
王子様みたいに輝く男と目立たないモブがいたら、誰だって王子様に目を向ける。それが正しいのだ。
「どうしたの、章人。俺がそばにいなくて寂しくなっちゃった?」
「うるさい」
振り向いた里村が両腕を広げるので、さっとよける。余計なことを考えるより、里村に興味を失ってもらうことに尽力しよう。こんなふうに、みんなに囲まれて声をかけてもらえることが普通になってしまったら、そうでなくなったときが――頭をぶんぶんと振る。
まるで、里村にずっと絡まれたいみたいじゃないか。
自分の思考に反発し、もう一度頭を振る。そんなことは考えていない。モブだろうがなんだろうが、ひとりでいいのだ。囲まれなくたって声をかけられなくたって、平和な学校生活が送れるようになれば、それでいいだろう。
一時間目のロングホームルームで、文化祭についての話し合いが行われた。希望案が黒板に書き出され、多数決で決まった喫茶店で申請をするようだ。文化祭実行委員がはきはきと喋る声を聞きながら、はじめての文化祭にわくわくしたいのに、心が弾むどころか沈んでいく自分に苦笑した。里村のせいだ。
「喫茶店か」
里村は絶対に接客係だとわかる。あの外見ならそうなるに決まっている。章人は裏方で、ちょこちょことした作業をするだろう。そう、もともと立ち位置はそのくらい違う相手だ。
「……」
わかっているのに、なんだか心がすうすうする。変なの、とひとりごちて窓の外を見た。
放課後になり、部活も委員会もやっていない章人はさっさと帰る。長くいればいるだけ絡まれる。と思っていたらさっそく捕まった。章人を捕まえたのはもちろんあいつだ。
「章人、一緒に帰ろう」
「嫌だって言ったってくっついてくるんだろ」
嫌と言って聞いてくれる相手ならば、これほどの心労をかかえない。嫌と言ったらもっとやるのだ。最近はほんの少し学習して、無駄な抵抗をしないということを覚えた。
「俺のこと、わかってくれてて嬉しいな」
ぽっと頬を桃色に染めるので、うげ、と声が出てしまった。そういう表情さえ、里村がやると恰好いいのもまた腹が立つ。嬉しそうに弾んだ足取りの里村の隣で、章人は少し俯いた。なんでかはわからないけれど、まだ心のすうすうがおさまらない。冷たい風が撫でて名残を残していったような、尾を引く感覚が続いている。それとともに、寂しさとも心細さとも言えない感覚が湧き起こる。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか落ち込んでる?」
「……そんなことないよ」
落ち込んでいる――そうかもしれない。でもなんで?
考えれば考えるほど違和感は不可解で、なにかが胸の奥に引っかかったように疼痛を訴える。誰もいない真っ暗な道にひとり立たされている心持ちになり、隣を見あげる。里村が心配そうに、でもいつもどおりに微笑んでいて、それだけでほっとした。
「大丈夫、本当になんでもない」
一度深呼吸をして歩を進める。少し楽になったことも不思議だ。なにが苦しくて、なにがそれを抑えるのか、まったくわからない。
「小テスト、どうだった?」
「……」
余計なことを聞くな。せっかく気持ちが浮上したのにまた沈んだ。里村はきっと誰に言っても恥ずかしくない点数を取っているのだ。だからなんの憂いもなく聞ける。章人の気持ちなど知ろうともしない。
また風が吹き抜ける。外気はそんなに冷たくないのに、心の内では吹雪のように突き刺す痛みが荒れ乱れる。
「……なんで里村は、そんなに俺にかまうの?」
どうして俺なのか。こんなに地味な男を捕まえて可愛い可愛いと繰り返して、つきまとって、なにが楽しいのか。
口に出してから後悔した。ほしくない言葉があると気がついたから。
――気まぐれ。
そう言われて傷つく自分がわかる。なんで、どうして、疑念とともになにかが胸の奥でむくむくと膨れてくる。それは焦りに似た、でももっと追い立てられる感覚だ。
「聞きたい?」
たぶん、今まで見た中で一番の笑みを浮かべ、里村は問い返してきた。笑顔なのに寂しそうで、胸がぎゅうっと苦しくなった。表情以上に、里村にこんな顔をさせているのが自分だということに心が痛い。
「やっぱいい」
なかったことにしよう。問いかけも、心の中の焦りも疼痛も、吹きつける冷たい風も、気のせいだ。そばにいすぎて情が移ったに違いない。
里村から視線をはずしてまた足を進める章人に対し、里村は動かなかった。徐々に距離ができて、引き留められたわけでもないのに足が勝手に止まった。
「里む――」
「章人が好きだから」
呼びかけを遮って言いきった里村は、まっすぐに章人を見ていた。ふざけているのでも、からかっているものでもない。真剣な表情で見つめられ、どきりとする。心音が徐々に耳に響きはじめ、緊張が全身に糸を張る。身動きひとつできなくて、ただ視線を返す。
真剣な表情が笑みに変わり、それでも動けない。一歩、また一歩と近づかれ、距離が近くなる。里村の笑顔が寂しそうなものに見え、胸が詰まった。もう一歩近づかれ、それでも章人は動けない。目の前に立った里村は、少し眉をさげて手を伸ばした。頬に温かな感覚がある。
里村の手ってあったかいんだ。
知らなかったし、知る機会もなかった。今までさんざん抱きつかれても、気にも留めなかった。それなのに今は、はっきりとその温もりを感じる。頬を撫でられ、なんで動けないんだ、と硬直しきった自分の身体を不思議に思いながら、ヘイゼルの瞳を見つめる。
「好きだよ」
からかうと楽しい、の間違いではないのか。でも眼前の男は揺らがない視線で章人を見つめていて、その表情にも瞳にも揶揄の色などわずかも見えない。
里村に触れられたところから、温もりが広がる。頬を撫でられている事実に、今さらどっと激しい鼓動が鳴り、喉が震える。なにか言わないといけない。でもなにを言ったらいいかわからない。いたたまれないほどに居心地が悪い。
「章人は?」
「え?」
「章人は、誰が好き?」
先日もこんなことを聞かれた。どんな人が好きか、と。そのときより具体的に、「誰が」好きかと聞かれている。誰が好きか――好きな人。
わからない。特別に好意を寄せる相手がいるわけではないし、芸能人で誰それが好きというのもない。
そういうことを聞きたいのではないと、心の中でわかっている。でもわからないふりをした。不可解な感覚がいっそう広がり、うしろから背を押されたように一歩足を踏み出す。片眉をぴくりと動かした里村は、章人の頬から手を離した。
「そうだよね、俺は嫌われてるんだもんね」
目を逸らされ、また心細さが襲ってくる。ため息をついた里村は背を向け、来た道を戻っていく。先ほどと反対に距離ができていき、慌てて呼び止める。
「里村?」
少し振り返った里村の表情はとてもせつないもので、今にも泣き出しそうな瞳に胸がぐっと詰まる。なにか言わないといけない。でもなにを言ったらいいかわからない。ぐるぐると考えているうちに里村がまた歩き出して、距離は広がる。
「里村……」
もう一度呼び止める。振り向いた里村は、情けなく眉をさげた。
「いったん学校に戻る。今は章人のそばにいるのがつらいから」
声音も口調も寂しげで、言葉が出なかった。なにかを言おうとして、でもなにも言えず、言葉になりそこねた息を吐き出す。それがため息と取られたのか、里村はいっそう悲しそうな顔をした。
「里村……」
返事はなく、ただ背を見送るしかできない。遠くなっていく背中を見ながら、えもいわれぬ焦燥感がぶわっと湧きあがった。
俺は里村を振ったことになるのか……。
先ほどの笑みが、まだ瞼の裏に残っている。追いかけないといけないような気がする。だけれど、追いかけてなんと声をかけるのか。ただ小さくなっていく背中を見つめる。なぜだか、自分の言動に納得していない章人自身が心のすみにいる。
里村はもう振り返らなかった。



