初秋の風が章人(あきと)の黒髪を揺らし、頬を撫でた。今日の外気は少し夏の名残がある。すぎた夏を恋しく思うことなんてないのは、暑さでだいぶばてたからだ。涼しくなってきてほっとしている。
 いつもどおりの道を歩いて学校に到着し、一年二組の教室前でため息。ここまでに来る足も心持ちも重かった。もうすでに腹が立っているけれど、仕方がない。いつまでも教室の前で扉を睨みつけていたってそのときは来る。見つからない術を考えても、どれもが「無理だろうな」と思わせるあいつの章人感知能力は、はっきり言っておかしい。
 諦めて扉を開けると同時に、がっしりと羽交い絞めにされた。衣替えになって、ネイビーのブレザー越しになったのは、ほっとしている。夏服のときは、もっと接触がはっきりとわかって、苛立ちが増していた。
「あきちゃん、今日も可愛い」
「はーなーせっ、可愛いって言うな! 『あきちゃん』もやめろ!」
 もがいて暴れて、長い腕の中から脱出する。これは章人が逃げられたのではなく、相手が放してくれたから。小柄な章人が、体格に恵まれている相手の腕を振りほどくのは難しい。うんざりしながら振り返った先には、いつもの王子様スマイル。色素の薄い髪は今日もつややかだ。切れ長のヘイゼルの瞳に通った鼻梁、ほんのり厚みのある唇。パーツのすべてが整った、『美形』という言葉がそのまま人間になったような男――里村(さとむら)悠誠(ゆうせい)、章人の天敵。
「朝からやめろ!」
「ほんと、章人は全部が可愛いなあ」
「だから可愛いって言うな! 俺は可愛くない!」
 何度も繰り返しているやり取りなのに、毎日同じことを仕掛けてくる。飽きないのかと思うが、里村はまったくそんな様子も気配もなく、しかも悪びれもせずに章人に絡む。
「かーわい。可愛すぎ」
「いい加減にしろ!」
 朝からぎゃあぎゃあやりたくなんてない。でも里村へはこれでも足りないくらいだ。足りないどころか、効果はまったくない。
「まあ、河西(かわにし)は可愛くないよな」
 そばにいたクラスメイトが、笑いながら里村の肩を叩いて揺らす。
「河西って目立たない顔だし。可愛いとは表現できなくね?」
 他の男子も首をかしげる。その他大勢も「うんうん」と頷き、それもそれで腹が立つ。事実だから仕方がないけれど、河西章人は平凡で地味、他人の中に埋もれてしまう目立たなさだ。だから、こんなにも注目されることだって慣れていない。中学までは平和だったのに、高校に入って里村に目をつけられてから、生活が変わってしまった。
 クラスメイトの言葉に、里村は肩にのった手をぽいと放り、眉を寄せてから顎をあげる。
「なに言ってるの? 章人の可愛さがわからないなんて。章人は身長一六五センチで抱きしめやすいサイズなのも可愛いし、細身で強く抱きしめたら折れちゃいそうなのなんてきゅんとするほど可愛いし、意地っ張りで照れやなところも可愛いし、四月生まれの俺と約一年違う三月生まれなのも運命的に可愛いし、頑張っても成績が平均点なところも可愛いし、すぐむきになるのもかわ」
「貶してんのか」
 今並べられたのは、すべて短所だ。さすがに呆れる章人に、里村は驚きを隠さず目を見開く。
「なに言ってるの? 章人の可愛いところだよ。まだ続きがあ」
「黙れ」
 しゃべりながら徐々に顔を近づけてくるのも、意味がわからない。整った顔を手で押しやるのに、里村はそれでも嬉しそうにしている。美麗に笑まれると、なぜだかわからないが章人が悪い気がしてくる。里村の余裕の表れがそう思わせるのか、それとも地味な章人が、輝くほどに見目麗しい里村に敵意を向けること自体がいけないことなのか。
 美形は得だ。なにをしても「恰好いい」と騒がれるし、誰か――主に女子にちょっと優しくすれば、ころっと惚れてもらえる。章人が同じことをしたって、絶対にそんなことにはならない。
 腹立たしくてキッと睨みつけても、里村はどこ吹く風という顔でにこにこしている。
「まあ、今のは貶してるよな」
 里村と章人のやり取りを見ていたクラスメイトが、こらえきれなくなったようで噴き出す。それを合図に教室中に笑い声が響いた。笑いの種になるのも、いつものこと。笑いながら、クラスメイトたちが里村を囲む。
「里村、振られちゃったなあ」
「振られてないよ。俺の章人は素直になれないだけ」
「すげえな。そのメンタルの強さは、ある意味羨ましいわ」
 クラスメイトと里村のやり取りを聞きながら、苛立ちよりも虚しさが胸に押し寄せてくる。
 結局、里村は変わり者でも人気なのだ。章人はおまけでしかない。里村がかまうから、注目してもらえるだけ。
「章人には長所しかないから、俺困るなあ」
「もう知らん」
 でもやはり腹立たしい。絡んでくる理由もわからない。高校に入学して、オリエンテーションのあとからずっとこの調子だ。すでに半年以上もこんなことを繰り返しているのかと思うと、うんざりする。
 とりあえずスクールバッグを置こうと窓側一番うしろの自分の席に行くと、里村がついてくる。これもいつものこと。章人が右に行けば右に、左に行けば左に、ぴったりとくっついてくる。
「里村は、自分が恰好よくて背が高くて、誕生日が早いこと自慢したいだけだろ。別に俺が可愛いわけじゃない」
 そっぽを向いて、投げやりに言い捨てる。そう、つまりはそういうことなのだ。里村は自身の輝かしい長所を自慢したいがために、章人を利用している。
「え、章人は俺を恰好いいと思ってくれてるの? どうしよう、どきどきしちゃう……」
 胸に手を当てて、作ったような照れくさい顔をした里村が小首をかしげる。こういう仕草だって、里村がやると、まるで映画のワンシーンさながらの完璧さなのだ。
「やめろ」
 利用している……はず。さりげなく顔を近づけてくる美形の頭を、両手でホールドする。
「今日も俺の気持ち、受け取ってくれないの?」
「一生受け取るつもりはない」
 今日だけではない。そもそも男に好き好きと言い寄られたって、嬉しくない。相手が可愛い女子なら――いや、この勢いで来られたら、女子が相手でも怖い。そもそも、章人に言い寄る女子など存在しないが。
 頭をホールドされた状態で、里村はにっこりと微笑む。それからぱっと身体を離し「うーん」と伸びをする。こういう動きさえ恰好いいのだから、腹が立つ。
「じゃあ明日も頑張ろうっと。ほんと、素直になれないところまで可愛いんだから」
 またはじまった。もう口から勝手に出ているだけではないかと思うくらい、「可愛い」を連呼する。それならせめて、本当に可愛い相手にやってくれたらいいのに、いつも相手は章人だ。なにがそこまで里村を夢中にさせるのか、鏡の前で悩んだこともある。黒髪に黒い瞳、目立たない容姿の章人に、里村のような美形を惹きつける魅力など微塵も見られない。だからとにかく謎なのだ。
「可愛いって言うな」
 放っておけばいいのに、つい応戦してしまう。だから余計に里村が気をよくするのかもしれない、とわかっていながら黙っていられない。
「あー、可愛い」
 髪を撫でられ、手を払いのける。当然のような動きでやられると、反応が鈍くなる。
「ほんっと、里村って嫌なやつ」
 可愛くないのは自分が一番よくわかっているし、外見に特徴すらないことだって自覚がある章人にとって、この毎日続く可愛い攻撃は嫌がらせとしか思えない。それに男なら恰好いいと思われたいし、言われたい。一生ないだろうけれど。
 それに対して里村は、恰好いい、スタイルがいい、頭がいい、運動ができる、誕生日が早い、と章人がほしいものをすべて持っている。そんな相手から「可愛い」と言われるのは、馬鹿にされていると取る以外にできない。
 今日も朝から腹が立つ。

「章人、お昼一緒に食べよう」
「パンがまずくなるから嫌だ」
「もう座っちゃった」
 里村はにこにこしながら、当然のように章人の前の席に座る。
「じゃあ、俺がどっか行く」
 一緒に食べるなんて冗談じゃない。食事中まで可愛い可愛いと言われるのが容易に想像できて、げんなりした。椅子を立つと、里村は手にしている購買の袋を軽く持ちあげた。
「章人が好きなマスクメロンパン、買ってきたよ」
 袋を小さく揺らされ、うっとなる。
「これ、人気だからすぐ売り切れちゃうよね。章人のために買ってきたんだ」
「……」
 静かに座り直す。
「……今日だけだからな」
 結局、いつもこうして里村と一緒にパンを食べている。勝ち目がないのなら諦めればいいとわかっているのに、悔しいのだ。それに、マスクメロンパンはおいしいし、大好きだ。
「かーわい」
「やっぱどっか行くわ」
「ついていくよ。どこへでも」
「……」
 本当にどこにでもついてきそうで怖い。満面の笑みがさらに怖い。
 オレンジ色のマスクメロンパンを差し出され、おずおずと受け取る。この行動まで読まれているんだろうな、と思うとやはり悔しい。でも、いくら里村が相手でも、人の親切を無下にするのは申しわけない。
「……可愛いって言うなよ」
「努力するね」
「絶対言うな」
「可愛いなあ」
 こういうやり取りをしているとき、からかわれているのかと思っても、里村は本気の目をしている。いつも柔らかく細められているヘイゼルの瞳のその奥は、たしかな意志が宿っているのだ。からかって遊んでいるだけにしては、本気の目すぎる。
「ほんと可愛い」
 それでも睨みつける。本気だろうがなんだろうが、気に食わないのはたしかだ。里村は、なぜか頬を赤く染めて見つめ返してくる。
「その顔、めちゃくちゃ可愛い。もっと俺だけ見て?」
「……」
 悔しいけれど、こいつには絶対勝てないと断言できる。たぶん思考回路が壊れているか、おかしいのだ。だから章人には里村が理解できない。
 ため息をついてから、マスクメロンパンの袋を開ける。それだけで甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、幸せな気持ちになる。ささくれた心が和らぐ、至福の香りだ。パンにかぶりつくと、芳醇なメロンの香りに口もとが緩む。中に入っているマスクメロン風味のクリームが濃厚な甘みなのに、後味がすっきりとしていてくどくない。購買の人気商品として、納得のおいしさだ。里村の言うとおり、すぐに売り切れてしまうので、なかなか食べられない。でも、章人はよく食べている。
 ちらりと里村を見ると、里村は自身の焼きそばパンを食べている。
 章人がマスクメロンパンをよく食べているのは、里村が買ってきてくれるから。喜ぶ顔が見たいんだ、とさらりと言うけれど、昼休みの購買で目当てのパンを買うのは、なかなか難しい。パンの予約をしているのかもしれないが、そこまでしてくれているとなると、なんとも言えない気持ちになる。いつもの章人の応じ方に対して、そんな優しさを返せること自体が里村の勝ちなのだ。だって章人はまんまと罠にかかり、「ほんの少しだけいいやつかもしれない」と毎回思ってしまうのだから。罠というより餌づけだろうか。でもマスクメロンパンはおいしいし、パンに罪はない。もうひと口かぶりつく。
「章人、午前の授業でわからないところあった?」
「……あった」
 素直に答えると、里村は嬉しげにする。こんなことでも喜ぶのがよくわからない。
「どこ?」
 あれとこれと、とひとつずつあげていくと、里村はわかりやすく解説してくれる。
 こいつ、頭いいんだよな。中身は変だけど。
 里村はこうやって、章人がわからないところを、いつも丁寧にときほぐしてわかりやすく説明してくれる。先生の説明だと右から左に通り抜けていくのに、なぜか里村だとすんなり理解できるのだ。たぶん、章人が苦手な部分を知っているから、そこをカバーする解説をしてくれている。だからするりと解釈できる。
「里村は塾とか行ってんの?」
「予習復習しかしてないよ」
「……」
 章人は、どちらもほとんどやっていない。やるとしても、適当にさらさらっとやるだけだ。そういう努力が違うのだろう。勉強が理解できたら、苦手な勉強も楽しくなるかもしれない。
 けっこう普通なことも話す里村は、微笑んで章人を見ている。居心地が悪くなるくらいに、じいっと見られているから、少し俯いた。里村にはどんな部分も見せたくない。きっと、すべてが『可愛い』になる。でも、章人は自分の内側の可愛くなさを、痛いくらいに知っている。だから可愛い攻撃に罪悪感もある。そんなふうに感じてもらえるほど、章人の内面はいいものに溢れていない。いいと言えるものなんて、ひとつあるかないかだ。
 俺も真面目に頑張らないとな。
 珍しく里村に感化されている。里村は、できないから、と放置しておく男ではない気がする。できなければとことん突き詰め、何度でも挑戦する。結果、とてもよいものを得る。人生はそんなにうまくいくことばかりではないが、努力は実ると章人は信じている。頑張ったら頑張った分だけ返ってくるはずだ。
 頑張ることってけっこう恥ずかしいよな、とふと思う。頑張ってなにが得られるかわからないけれど、なにかは得られる。それなら恥ずかしくても頑張った甲斐はある。マスクメロンパンを食べながら、ぼんやりと考える。最後のひと口を食べて、空のビニール袋を丸めた。なんとなく向かいを見ると、里村は食べ終えたパンの袋を綺麗にたたんでいた。
「……」
 別に真似するわけじゃないけど、と自分に言いわけしてから、丸めたパンの袋を広げて章人も綺麗にたたんでみた。それに気がついた里村は、これ以上ないほどに優しく目を細めた。
「章人は可愛いなあ。全部が可愛い」
 やっぱり嫌なやつだ。
 章人の心情など知らない里村は、にこにこと微笑んで章人を見ていた。