まずいまずいまずいまずい! これじゃ終電に乗り遅れちゃうよ! と心の奥で叫びつつ駅までの坂道を駆け上がる女性がいた。
 その女性の名はノベマコ。漢字で書くと野辺真子で、平仮名だと「のべまこ」と読む(当たり前だ)。
 ちなみに仮名である。ノベマコのモデルとなった人物を特定されるのを防ぐための処置なので、どうか御容赦の程を。
 さて、それでは話を戻そう。
 本作品のヒロイン野辺真子(仮名、ちなみにノベマコと読む)は――言ってなかったが、この話の主人公は彼女である――現在の位置から駅までの距離と終電の時刻を元に「ギリギリで間に合う」と計算して走っていた……のだが異常事態が発生し、その計算が大いに狂うことになった。
 計算違い、その一。
「ちょっといいですか? あなたは神を信じますか?」
 野辺真子が走り始めた直後のことである。物凄いイケメンの金髪白人男性が彼女に話しかけてきたのだ。呼び止められた時は無視しようとしたが、あまりのハンサムぶりに息が止まり、ついでに足も停まってしまったのが運の尽きだった。
 超絶美形の外国人青年は立て板に水の日本語トークで野辺真子に世界の真実について語った。
「この世界は神が創造したとされています。そして、その創造主は善なるものだと信じられています。ですが、それは本当でしょうか? 悪がはびこる世の中が正義の神の産物なのでしょうか? 嘘偽りだらけで悪人だけが栄える今が、正しい時代なのでしょうか? 正直者が馬鹿を見るのが幸せなことなのですか? 貧富の差が拡大し飢えや貧困に苦しむ人がいるというのに飽食を楽しみダイエットに励む肥満者がいるなんて、世の中は間違っていますよね。世界中で戦争が続く現代は平和な時代なのですか? 違いますよね。そうなのですよ。この世界は徹頭徹尾、間違っているのです。それは、どうしてなのか? この世界を創造した神は、邪悪な存在なのです。根っからのワルだから、こんな世界を創ったのです。神は人々に、幸せと安らぎを与えているなんて、嘘っぱちです。ほんの少しの幸せを餌に、たっぷり不幸を食らわせ、それを高みの見物と洒落込んでいる性悪な奴、それが人々に崇め奉られている創造神なのです。信じられませんよね? そんな神が救い主だとか救世主だとか言われているなんて、冗談じゃありませんよね! ですが、ご安心下さいませませ! 宇宙の大暗黒である邪悪な創造主は撃ち滅ぼされます。私たち光の戦士が現次元における根源悪を消滅させるのです。これは世界の真理として確定している事項なのです。未来は決まっているのです……ただし、それには条件があります。光の戦士のメンバーの仲間に、あなたが加わること。あなたが光の戦士の一員になることで、世界は救われるのです。世界を悪の魔手から救うため、光の戦士になるのです。あなたは選ばれたのです。選び抜かれた精鋭中の精鋭、光の戦士になるときが、遂に訪れたのです」
「すみません、急いでますので」
 そう言うなり一気に走り出した野辺真子に絶世の美男子は何か言いかけたが、彼に今この瞬間すべきことがあるとしたら、それは話しかけることではなく一緒に走り出すことだったろう。彼に求められるのは言葉の力より脚力だったのだ。女は男を振り切った。だが、別の難関が彼女を待ち受けていたのだった。
 計算違い、その二。
 駅に向かって夜道を突っ走る野辺真子の行く手を遮る人物が再び現れた。途轍もなく美しい女だった。
 あまりの美貌に野辺真子の足が止まった。
 凄い美人は野辺真子を睨みつけた。
「この泥棒女! あたしのユースケを取らないでよ!」
 甲高い声が闇を斬り裂いた。物凄い剣幕である。夜道に轟く大声に、野辺真子は肝を潰した。それは他の人間も同じだった。駅へ向かって急ぐ人々の視線が美人と、そうでもない方の女に集中する。
 美人とは言いがたい女が美女に尋ねる。
「あの……誰かと間違っていませんか? 私、ユースケなんて人、知りませんけど」
 美人の頬がビリリッと震えた。
「嘘おっしゃい、この泥棒猫! 人の男に手を出しておいて、何その言い草!」
「いえ、本当に全然知らないんですけど」
「しらばっくれないで!」
「何というお名前の方なんです?」
「ユースケだって!」
「あ、いえ、そっちじゃなくてえ、泥棒女の方です。女の名前」
「自分に訊いたら良いでしょ!」
「一応、確認しときたくて」
 美女は憎々し気に言った。
「鈴木ビッチルネ・ポロリンコ・ヨコドリスキイイイ」
 聞き取った野辺真子が聞き返す。
「イイですか? それ、イの数、多すぎません?」
「あたしが名付けたんじゃないわよい!」
 また<い>の数が多い……と野辺真子は思った。しかし、それはこの際どうでもいい。
「人違いです」
 そう言って野辺真子は駆け出した。
「待ちなさい!」
 そう叫んで美女が追いかけてくる。
 追う者と追われる者のデッドヒートは、追われている野辺真子が追う女を振り切っての勝利で幕を下ろした。それだけ早く走ったのだから駅に到着しただろうと予想するのも無理のないことだが、そうはいかない。終電に間に合うよう急ぐ人たちによる混雑を避けるため駅には少し回り道となる公園ルートを取ったのが残念な結果をもたらした。タイムリミットまでの時間が短くなってしまったのだ。終電に乗るためには、近道を通るしかない。そこで彼女は、公園の人通りが極端に少ない道を進むことにした。これが新たなトラブルを招くとも知らずに。
 計算違い、その三。
 木々に遮られ都会の夜を彩る人工の光りが届かない薄暗い道を足早に進む野辺真子の目の前に突然、眩いオレンジ色の光が現れた。
「なにこれ!」
 それは大きさが大玉スイカで、地上から一メートルくらい上をフワフワ浮かぶ照明のような物体だった。その怪しげな光に目を奪われた野辺真子は、近くに寄りたくなって、我に返った。
 こんな変なモノに近づいてどうすんの! と思いジリジリと後ずさりする。視線はそらさない。目を離したら野生動物は襲いかかってくるからだ。相手が野生動物かどうか分からないが、とにかくそうした。メンチ切るなら最後まで!
 十分に距離を置いてから、野辺真子は踵を返して来た道を後戻りしようとした。
 しかし振り返ったところにも、オレンジの光りが輝いていた。慌てて振り向く。元の場所には何もない。
 怖くなった彼女は悲鳴を上げた。声の限りに叫んでも、ここは冷たい大都会。誰も来てはくれない。もっとも、田舎でも人が助けに来るとは限らないが。
 叫び疲れた彼女に聞き慣れない声が聞こえてきた。
「驚カナイデ下サ~イ。僕ハ怪シイ者デハアリマセ~ン。宇宙カラ来タ旅行者デ~ス。全然怖クナイデスヨ~」
 宇宙から地球観光にやって来た旅行者は日本でエモい映像を収めようとしているところだった。いかにも日本的なエモい動画を採りたいのだが、何が良いのか分からない。そこで、たまたま通りかかった野辺真子に聞いてみたのだ……ということがテレパシーっぽい何かで伝えられた。
「それでしたら終電に乗り遅れそうな人たちが夜の街を駆け抜ける風景を撮影したら良いと思いますよ」
 終電に乗り遅れそうな者の一人からの適切なアドバイスを受けて、宇宙から地球にやってきた旅行者は「ドウモアリガトウゴザイマ~ス」と言い残し消えた。オレンジの光りは失われ再び闇が公園に戻ってきた。野辺真子は「駅まで運んでくれと頼むんだった」と後悔した……が、余計な頼みごとをしない方が正解だったとも思った。キャトル・ミューティレーションでもされたら、かなわない。
 とはいえ、一瞬だけだが大宇宙のロマンを感じられたのは良かった。都会の片隅で起こったファンタジーに見えない心の傷や溜まった疲れが癒される野辺真子だった……が、それは一瞬のことだった。すぐ現実に戻ってくる。
 いけない! 早くしないと!
 ここでロマンを感じるより終電の車内でロマンを味わう方が翌日に疲れが残らないと考えた野辺真子は駅へ猛ダッシュした。
 しかし、もう遅かった。会社で残業して、サークルの飲み会が盛り上がって、デート終わりになかなか別れを切り出せず……など、様々な理由で終電を逃してしまった者たちが駅前で脱力しきって放心状態で所在なさげに佇んでいる。野辺真子は、その一人である。これからどうすればいいのか、途方に暮れる。
 そんな時、時間を潰す方法として、朝まで誰かと過ごすというのがあるのだが……その相手が野辺真子にはいなかった。
 呟く。
「いつもは素通りする公園を散歩してみたり、カラオケでストレスを爆発させたり、終電後の深夜という特別感を活かしたエモい20代向けの恋愛ストーリーを期待しちゃうんだけど、そんなの無理かな。期待外れのまま終わっちゃうのかな」
 その呟きが神に届いたのだろうか? まさかの出会いが野辺真子の身に起こったのだ!
「あれ、君、野辺真子ちゃんじゃない?」
 そう話しかけてきたのは、人懐っこい笑顔の青年だった。
「俺のこと、覚えてないかな? 君の学校の二年先輩で、埜部間っていうんだけど(仮名。のべま、と読む)」
 野辺真子は胸がキュンとなった。学生の頃、彼女は埜部間が大好きだったのだ。
「覚えています! 埜部間先輩のこと!」
 埜部間は、野辺真子が一年生の時の三年生だった。入学式で見かけて以来ずっと憧れていたのである。顎のあたりまで伸ばしている艶々した髪を、細く長くしなやかな指でさりげなくかき上げるセクシーなしぐさに、すっかり心を奪われたのだった。
 そう書くと、単なる一目惚れだと思われてしまうかもしれないが、埜部間への野辺真子の思いは見た目だけのものではなかった。確かに、そのルックスの良さに最初は惹かれたのだが、裏表のないストレートなキャラクターにも魅了された。面倒見がよく、バスケットボール部のキャプテンとして後輩に優しく接し、人望も厚い。勉強もできた。まさに外面も内面もパーフェクトな男性だった。
 それだけに女子からの人気は大変なもので、恋人となるための競争率はとんでもないものだった。しかし、誰か特定の彼女がいると聞いたことはない。もしも誰か恋人がいたとしても不思議ではないのだが……自分には縁のないことだ、と野辺真子は考えていた。向こうはスクールカーストの頂点、こっちは最底辺なのだから、話しかけられることなんかあるわけない、と。
 実際、学生の間は、遠くから見つめているだけで、一度も話をしたことがなかった……それなのに今夜、話しかけられた。名前を憶えていてくれたのだ。卒業してから、もう何年も経っているというのに。
 野辺真子の胸は、それだけでもうドキドキしっぱなしだったのに、さらに嬉しい言葉が埜部間の口から飛び出した。
「もしかして、終電に乗り遅れた? 俺もそうなんだ。それで、もし良かったら、俺に付き合ってくれない。家に送るけど、明日は休日だろ? だから、その前に少し、カラオケ行ったり思い出話とかしたいなって思って」
 昔の自分よ、喜べ! と野辺真子は心の中でガッツポーズをした。
「どうかな?」
「行きます行きます!」
 二人は駅前のカラオケに入り、ストレスを爆発させた。野辺真子は今までに生きてきた中で最もストレスを爆発させたと言って良かった。十八番の楽曲から聞いたことが一度しかない音楽まで熱唱した。それもこれも埜部間先輩に喜んでもらいたいからだった。
 埜部間も熱唱した。いや、大熱唱と言って良かった。彼もまたストレスの多い社会人生活を送っているのだろう。シャウトしたり、ダンスしたり、しっとり聞かせたりと、エンターテイナー振りを発揮した。
 こうなると野辺真子も負けていられない。あろうことか彼女は憧れの埜部間先輩にラップバトルを挑んだ。挑まれた方は、その勝負に乗った。
「ヨォヨォ」
「ヨーヨーチェケラッチョ!」
 勝負の決着はつかなかったが、二人は満足した。
「いい勝負だったね」
「ですね」
「次、どこ行く?」
「いつもは素通りする公園を散歩してみたり、とかしたいですね、先輩と」
「お安い御用だ」
 二人は駅に近い公園に入った。そこは、先ほど野辺真子が宇宙から来た旅行者と遭遇した公園だった。そこで二人は、光の戦士の一員を名乗る外国人男性と、ユースケという男性を野辺真子に取られたと主張する日本人女性と遭遇した。
「探していましたよ! さあ、光の戦士になって下さい!」
「ちょっとアンタ! あたしのユースケを返してヨォーッ!」
 驚きで全身を強張らせる野辺真子の前に埜部間が立って彼女をかばった。
「迷惑です! 止めて下さい!」
 迷惑な二人は、その勢いに押され、姿を消した。
「どうもありがとうございます……」
 お礼を言う野辺真子に埜部間は照れた顔を見せた。
「こっちこそ付き合ってくれてありがとう。実は俺、君のことが好きだったんだ」
「ええっ」
 驚きを隠せない野辺真子に埜部間が告白を続ける。
「入学式で会った時から、ずっとね。だから、今夜は、とても嬉しかった」
 野辺真子も自分の想いを伝えた。両想いだったと知った二人は、目を見合わせて微笑んだ。
 その時ちょうど宇宙からの旅行者は近くを通りかかった。これはエモいと思ったようで、二人の姿を映像に写し、それを土産に地球を後にした。