犬派か、猫派かと言ったら——圧倒的に猫派のはずだった。


「終電なくなっちゃったぁ……」

突然かかってきた通話に出たら、太田くんはそう言った。
クゥンという鳴き声まで聞こえてきそうなぐらい情けない顔が容易に想像できた。

「……今、どこにいるの?」

私の質問にスマホ越しの太田くんの声のトーンが跳ね上がる。

「センパイんちの近く!」

新手のメリーさんみたいな返事に私は深い溜息を吐いた。


時刻は、深夜一時に近付いていた。

だらだらと夕飯を食べて、だらだらとお風呂に入って、だらだらと動画を眺めていたらこんな時間になっていた。明日もあるし、もう寝ようかなって思っていたタイミング。

それをまるで見計らったように届いた通知——メッセージを既読にした瞬間にかかってきた通話を私は無視できなかった。

「センパイんち、行っていい?」

私がしばらく考え込んでいると太田くんがそう聞いてきた。

不安そうな声。
まるで捨てられる直前の犬みたい。

この声に私は何度も騙されている。


「……いいよ」

溜息混じりに頷けば、太田くんは「ヤッタァ〜!」と深夜に相応しくない大声で叫んで通話が切れた。

それから五分も経たずにインターフォンが鳴って、私は肩を竦めた。
応答する前に、メッセージが届く。
『おれです』の四文字。

ドアを開ければ、コーギーみたいな笑顔を浮かべた太田くんが立っていた。

「おじゃましまぁ〜す」
「ほんとにね」

その手にはビニール袋がぶら下がっていて、わざわざコンビニに寄ってきてんじゃないよと太田くんのフワフワの茶髪を私は軽く叩いた。柑橘系の香水と、お酒の匂いがフワッと漂った。



太田くんは、21歳の大学四年生。
私は、22歳の社会人。

ひとつ違いの私たちの接点は、もちろん大学だった。

出会ったのは私が大学二年生の頃で、たまたま同じゼミで同じ発表のグループになったのが太田くんだった。

英字のTシャツの上から赤いチェックシャツを羽織っていた太田くんは、かなりファッションセンスが終わっているタイプだったのに、愛嬌のある笑顔のせいでダサさも可愛らしさに変えていた。

「パワポって使ったことないです」
「そっか、じゃあ教えるね」
「ありがとうございます」

そんなありきたりな会話から始まって、一緒に自分たちの発表をまとめる。
同じグループに所属する太田くん以外の大学一年生の子たちとも話をしたけれど、一番世話が焼けるのは太田くんだった。

「壊れちゃったぁ……」

ノートパソコン片手に文字通り右往左往している太田くんは、デジタルネイディブ世代にしては異常なほど機械音痴だった。

ゼミ発表の準備期間中、パワポのデータを何度も吹っ飛ばして、その度に私に泣きついてくる。
もう全部、私がやっちゃおうかなとも思ったけれどそれじゃあ将来の太田くんが困るから根気良く、出来るだけ丁寧に教えてあげた。

「なるほど! すげえよく分かりました!」
「ほんとにわかったの?」
「めちゃくちゃ分かりました! パワポに目覚めました!」
「戻すの大変だからもう消さないでね」
「はい!」

それでも週末を挟めば、また太田くんは私のところにやってきて「消えちゃったぁ……」と泣き言を言うので、私はガックリと肩を落とした。

そんな私と、太田くんのやりとりを見ていた同じグループの女の子が笑いながらふと呟いた。

「ダメ犬と、その飼い主みたい」

私は犬を飼った覚えはない。
圧倒的猫派だし、今後も犬を飼うつもりもない。

けれども何故だか太田くんは嬉しそうに「へへへ……」と笑った。ダメ犬って呼ばれているのに、どこを照れる要素があるのか分からず、私は呆れながら彼を呼んだ。

「犬田くん」

太田の「太」の点の部分をずらして、わざとそう呼んであげれば太田くんはなんとそのふざけた呼び名を気に入ってしまったらしい。

「わん!」

私が「犬田くん」と呼べば、太田くんはそう返事するようになってしまった。

それから大学を卒業するまでの三年間——私はずっと太田くんの飼い主もどきをやらされた。

太田くんは人懐っこいコーギーのような男の子で、大学では私の後を散歩中の犬みたいについて回った。食パンみたいな可愛いお尻は流石に持ち合わせていないけど、地毛だという柔らかな茶髪はコーギーの毛色と少し似ていた——食パンのミミのような色。

何かあるとその髪をすぐに撫でてほしいとねだってくるところもまるで犬だった。

「おれ、めっちゃがんばったんです!」
「ああ、そうなんだ……」
「だから……ハイ!」

わざわざ屈んで差し出された頭に、私はしばらく茫然としていたけれど、撫でるまで一歩も動かないので私は仕方なく彼が満足行くまで頭を撫でさせられた。

本物の犬も、こんな感じなんだろうか。

右巻きのつむじを眺めながら私は散歩中に通りすがりの人から撫でられて嬉しそうにしているコーギーを想像していた。


それからあっという間に時は過ぎて、私は気付いたら大学を卒業して社会人になっていた。

四年間住んでいた大学近くのマンションから引っ越しするのがだるくて、最寄駅から出ている路線で通える会社を選んで面接を受けたら普通に受かった。周りが就活地獄で苦しんでいる中、私は名も知れぬ中小企業にさっさと内定を決め、そのまま就職した。

親にも友達にも、どこそれ?と聞き返されるくらいマイナーな会社だ。社員が少ないせいで、残業もわりとある。でも同僚も上司もみんなすごく優しくて、職場としては大当たりだった。
やっぱり働きやすさって人間関係なんだな、って新卒一年目の私ですらわかった。

一方、私と違って苦労しているのは、太田くんだった。

太田くんは人懐っこさは抜群だけど、いかんせん不器用で要領が悪過ぎる。
PCスキルは私の努力で人並みにはなった。それでも使えるか、使えないかで言ったら使えない。
よく動くし、気は効くので、全く仕事が出来ないタイプではないはずなのに、書類と面接しか見ていない会社の人事からするとお荷物に見える。

お陰で太田くんの就活は、困難を極めていた。

「もうダメだ〜、せんぱぁ〜い」

私の部屋の、白いラグの上で寝転がる太田くんは腹を丸出しにしてヘソを天井に向けている。
犬でいうところの、降参のポーズ。

しかし、そうやって腹を見せられたところで私にできることはない。

終電を失った太田くんが私の部屋に押しかけるようになったのは、今年の夏頃からだ。

会社での面接を終えて、大学の近くで友人と飲んで、そのままお店のテーブルで眠りこけていたら終電が無くなってしまったと泣きべそ半分で言い訳をしてきた太田くんは、こうして夜中に私の部屋にやってくる。そしてコンビニで買った破棄寸前のお弁当やおつまみを食べて、水を飲んで、ボーッと動画を眺めたり、サブスクでドラマを見たりして過ごしている。シャワーを借りたり、勝手にお湯を沸かしたりもするけれど、気付いたらラグの上で寝落ちていてそのまま朝までこの部屋にいる。

私と太田くんの間に何かがあったことは、たった一度もない。
ただ、終電を無くした夜を太田くんはこの部屋で過ごしている。

「ほめてくださいよぉ……」
「はいはい」

内定が一つも決まってないのに、何を褒めればいいのか分からないまま私は床に転がっている太田くんの頭を撫でた。むしろ夜中に大学の後輩がいきなりやってきたのに、快く受け入れている私が褒められるべきだろう。けれども太田くんは満足するまで私の足元にまとわりついてくる。

「もう寝たいんだけど」
「やだぁ……」
「やだじゃなくって」
「慰めてぇ……」

スンスンと鼻を鳴らしながら寝る支度を整える私の足に縋り付く太田くんは、とても情けない。
誰にも拾ってもらえない捨て犬みたい。
そんな彼がやってくる真夜中はいつもよりちょっと賑やかで、迷惑だ。

「ほら、寝る前に歯磨いて」

洗面台の奥から新しい歯ブラシを取り出して、太田くんに差し出しても彼は受け取ろうとしない。
太田くんは私の足元に転がったままフローリングの溝を指でなぞっている。就活用のシャツに皺が寄ってしまいそうだった。

私は呆れながら、彼を呼ぶ。

「……犬田」
「わんっ!」

どんな時でも、たとえ酔っ払っていても、こう呼ぶと必ず返事がくる。
いまだに飼い犬気取りだなぁと私は溜息を吐いた。

「うちでは、飼えないからね」
「くぅ〜ん……」

そんな情けない返事に絆されないように、その口へ新品の歯ブラシを突っ込む。
前に来た時にも、新しい歯ブラシをあげたけどそれは残っていない。
毎回ちゃんと翌朝になると捨てている。

犬田くんを、うちで飼う気はない。

私はいつもそうやって言い聞かせている——彼と、それから自分自身に。

ダメ犬を拾ったところで、いいことなんて何にもないのだ。



朝になると、太田くんはいつのまにかいなくなっている。

夜中まで何やらゴソゴソしていたのに、私が目覚める頃にはいない。
自動施錠付きのドアだから太田くんが勝手に出て行っても鍵をかける必要がないは助かるが、起こしてくれてもいいのに……と毎回のように思う。

まだ眠気で重たい身体を引き摺ってベッドから出ると貸してあげたブランケットが律儀に畳まれて置いてあり、宿泊代の代わりに朝食が作ってあった。

まさに一宿一飯の恩義と言ったところだろう。
しかし、こんなものを置いていくぐらいならせめて朝食ぐらいは一緒に食べたかった。

太田くんが何を考えているのかちっとも分からない。
太田くんが本当に犬だったら、気の良い笑顔だけで全てを許してしまうんだろう。
けど……彼は人間だった。しかも、二十歳を過ぎた男の人。

飼い主でもなければ恋人でもないのに、こんなことをずっと許しているのはきっとおかしいんだろうなって自分でも思っていた。


だから、この週末に同僚から飲みに誘われたのはいい機会だった。

誘ってくれたのは一個上の先輩で、黒髪のセンター分け。眼鏡をかけていて、いかにも仕事が出来そうなタイプの男の人だった。仕事も手伝ってもらったことがあるし、何かと気にかけてくれていた。ちょっと神経質そうな見た目なのに、私に優しいから少し期待していたのも事実——だから飲みに誘われた時も断らなかった。

いきなり二人きりだと緊張するだろうからと気を遣って他の人も誘ってくれたのも嬉しかった。

その先輩と、もう一人の男の先輩と、私と同じ新卒の子(実はこの子しか私の同期はいない)と飲みに行った。先輩の行きつけである個人経営の居酒屋で、常連さんしかいない店内で飲むのはなんだか社会人として誇らしかった。料理もお酒も美味しかったし、話もそれなりに盛り上がったと思う。もう一人の先輩は明らかに私の同期狙いだったけど、その子も乗り気でダブルデートみたいな雰囲気も出ていた。

問題なんて何一つなかった。

それなのに、私は——気付いたら自分の部屋の前にいた。

午前0時前。終電はまだ残っている。
明日はお休みで、もっと飲んだってよかった。
それこそ終電を無くして、先輩の家にお邪魔したってよかったのだ。
私だって社会人で、いい歳をした大人で、もう何をしたっていいんだから。

だけど、ふと不安になってしまった。

「なんかいま外は雨降ってるっぽいねぇ」

煙草を吸いながらスマホを見ていた先輩がそう呟いたとき。
同期の子が「ええ、傘持ってな〜い」と甘ったる声で呟いたとき。
それを聞いたもう一人の先輩が「うちんち近いから傘貸してあげよっか」と下心を滲ませたとき。

私は、太田くんのことを思い出した。


まだ私が大学にいた頃、ゼミの飲み会で結構遅くまで飲んだときに急なゲリラ豪雨に襲われた。

駅から近い居酒屋で飲んでいたけれど、歩いていくにしたってずぶ濡れになるのは分かっていたし、下手すれば電車も止まってしまいそうなぐらいの大雨だった。

実際、電車は遅れが出ていて終電はいつやってくるか分からないような状態だった。
それでも明日も一限から授業だったと大慌てで帰ろうとする太田くんに、私は声をかけた。

「うち、泊まっててもいいよ」

そう、私から言いだしたんだった。
私が住んでいるマンションは大学から近いけど、学生に入り浸れたら困るから誰にも言っていなかった。

でも、まあ——太田くんならいいかなって思ったんだ。

そしたら、太田くんは急に悲しそうに眉を下げた。

「そんなこと言っちゃダメだよ」

瞳を潤ませる太田くんに私はどうしていいか分からなかった。

「なんでダメなの?」
「ダメなもんは、ダメなの」

そう言って、太田くんは居酒屋から飛び出していってしまう。
慌てて追いかけようとしたら外に出た瞬間に横殴りの雨に、一瞬でずぶ濡れにさせられた。
体に濡れた布が張り付く不快な感覚を耐えながら私が駅に向かって走っていると、その途中で先に行ったはずの太田くんが急いでこっちに向かってくるのが見えて驚いた。

「ダメだよ!!」

太田くんが私の腕を掴んで、そのまま近くのマンションの入り口の軒下に駆け込んで、雨宿りをした。

雨宿りといっても、二人揃ってずぶ濡れでもう遅いって感じだったけど、太田くんはカバンの中から必死になってタオルを引き摺り出して私の頭に乗せてわしゃわしゃとかき回した。

今度は私が犬になったみたい、と思いながらされるがままになっていたら、タオルの隙間から今にも泣きそうな太田くんの顔が見えた。

「風邪ひいちゃうよ……」

太田くんがすごく辛そうだったから、なぜだか私まで辛くなった。
泣いている飼い主の顔を犬がぺろぺろと舐めている動画を見たことがあるけれど、こんな感じなんだろうか。

いや、なんか……ちょっと違うような気がする。

犬じゃなくてれっきとした人間の太田くんを見上げていたら、すごく熱心に身体を拭いてくれるものだから冷え切っていたはずの頬が少し熱くなった。

しばらくして私を拭いていたタオルを外して、今度は自分の頭に乗せた太田くんがまた駆け出していきそうになったので思わず引き留めた。

「濡れちゃうって」
「すぐ近くのコンビニまで行くだけだから」
「なにしに?」
「傘とかいろいろ買ってくるから、詩穂ちゃんはここにいて」

初めて名前で、しかもちゃん付けで呼ばれたのはそのときだけだったと思う。
いつもセンパイって呼ばれていたから動揺したけど、それでも手は離さなかった。

「傘も、タオルも、うちにあるから」

そう言って雨宿りしていたマンションを指差せば太田くんはしばらくポカンとしていたけれど、次第に状況を理解して驚いたように目を見開いた——まさか、たまたま軒下を借りたマンションに、私が住んでいるとは思わなかったらしい。確かに凄い偶然だった。

私はその偶然に縋るように、太田くんの手を引っ張った。

「風邪ひいちゃうよ」

太田くんに言われた言葉をそのまま返してあげれば、彼は困ったように眉を下げて笑った。
そのまま太田くんは大人しく私についてきて、部屋に上がった。

大学の頃、太田くんが私の部屋に来たのはその一度だけだった。

タオルを貸して、シャワーも貸して、着替えも貸して、ソファーも貸して、傘も貸した——それでも何もなかったから、ああそういうことなんだなと思って私は翌日からも普段通りに過ごした。

卒業するときも特に何か特別な言葉も交わさなかった。
連絡先は交換していたけれど、社会人と大学生だし、次第に疎遠になるんだろうなと思っていた。


それなのに、太田くんはときどき終電を無くして、私の部屋に押しかけてくる。
そして、私はそれを——待ち望んでいる。

「終電なくなっちゃった」

太田くんから連絡が来たのは、ちょうど私が部屋の玄関に入ったところだった。

小雨が降る中、私は急いで帰ってきたので髪や服は少し湿っている。鞄には水滴が伝っている。それでも自分のことは拭わずに、洗面所から急いでタオルを何枚か取ってきて、財布とスマホと鍵だけ持って、部屋から出た。

エレベーターを使わずにマンションの入り口まで降りたら足が疲れてしまったけど、ガラス張りの自動ドアの向こう側に突っ立っていた太田くんを見つけたらそんなのどうでも良くなった。

「風邪ひいちゃうよ……?」

小声で囁きながら私が太田くんの頭にタオルをかけてやると彼は項垂れるように俯いた。
そして私にわしゃわしゃと髪を拭かれる。

ポタポタ、と足元に落ちたのはスーツや鞄を伝っていた雨粒だけではなかった。

「タバコのにおいがする」

太田くんは私の肩に鼻先を埋めると憎らしげに呟いた。
ウヴッと誰かを威嚇するように呻く。

「……誰かと一緒にいたの?」

太田くんの問いかけに私は静かに頷く。

「会社の人と飲んできただけだよ」
「男の人でしょ」

私の答えに、太田くんが噛み付く。

「年上の、男の人と飲んだんでしょ」

潤んだ瞳に睨みつけられた私は一瞬怯んだ。
でも、すぐに垂れ下がった眉に気付くと思わず笑いそうになった。

「うん、会社の先輩ね」
「部屋にいるの」

縄張りを気にするみたいに太田くんは唸る。
私は首を横に振った。

「いないよ」

それからもう一言、付け足す。

「私が部屋に入れたことがある男の人は、太田くんだけだよ」

その言葉に、太田くんはガバッと顔を上げた。
頭に乗せたままのタオルがスルスルと落ちていく。

私は慌ててそれを拾おうとしたけど、その前に太田くんに抱きつかれて身動きが取れなくなってしまった。

「センパイ……」
「太田くん……タオル……」

しゃがみ込もうにも背中にしっかり腕が回されてしまって動けない。
そのまま太田くんはスンスンと鼻を鳴らす。

「いぬになりたい」
「え?」

思わず聞き返せば太田くんは情けない声で呟く。

「おれ、せんぱいのいぬになりたい」

ズビズビと鼻を鳴らしながら太田くんは私を抱きしめる腕の力を強めた。

「そしたら、毎日せんぱいの部屋にいてもいいよね」

「朝も夜も昼もさぁ……ずっと一緒にいていいよね」

私が視線をあげれば、涙でぐちゃぐちゃになった太田くんの顔が見えた。
いつもの人懐っこい笑みを浮かべている彼とは別人で、壊れかけた段ボールから必死に身を乗り出している仔犬のようだった。

「おれが人間じゃなくて犬だったら最期まで飼ってくれるでしょ?」

終電も、行き先も、何もかもを失ったような顔をして太田くんは泣いていた。
何もかもが限界なんだなと私にも伝わってくる。
毎日毎日面接に出掛けて、落とされて、誰にも拾ってもらえなくて——夜中になって、お酒の力を借りて、ようやく私の部屋にやってくる。

頑張ったんだよと訴えて私に頭を撫でてもらいたがるくせに、それ以上は求めない。
何もせず、ただボーッと過ごして、朝になって私が起きる前に部屋を出ていく。

ひとりで、私の分の朝食を作りながら太田くんは私の犬になりたいと思っていたんだろうか。

「せんぱい」

太田くんが一際強い力で私のことを抱きしめた。
震えながらも必死に縋り付くようにして、私に懇願する。

「おれを飼ってよ、せんぱい」


だけど、私は犬は飼わない。


「犬田」

私がそう呼ぶと太田くんはすごく小さな声で答える。

「わん……」

それは本当に犬の鳴き声みたいだった。
情けなくて、どうしようもなくて、可愛い。

「……うちでは飼えないよ」

太田くんの頭をゆっくりと撫でながら答えれば、その表情は絶望に染まった。
ゆるゆると腕の力が抜けて、太田くんは私から離れようとしていく。

それを引き留めるように私は太田くんの腕を掴む。

「うちのマンション、犬も猫も飼っちゃダメなんだって」

ほら、と言いながら私が指させばマンションのエントランスの壁には、ペット禁止の張り紙があった。犬や猫のシルエットの上から赤い禁止マークが描かれている。

それを見た太田くんは、頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべていた。
パワポの使い方を教えていた時に何度も見たことがある表情だ。

バカっぽくて、マヌケで、すごく可愛い。

「太田くん」

私は彼の名前を呼び直した——ふざけたあだ名じゃなくて、はっきりと本名で。

「うち、泊まっていくでしょ」

尋ねるというよりは確定事項のように伝えた。
ダメだよ、なんて二度と言わせたくないし、聞きたくもない。

だからちゃんと言っておく。

「太田くんは、私の犬じゃなくて——私の好きな人だもんね」

——その瞬間、太田くんの瞳がこれ以上ないくらい見開かれた。
そしてシンと静まり返っていたはずのマンションのエントランスホールに響いた遠吠えみたいな叫び声に、私は目の前のバカな男の頭を思いきり叩いた。

時刻は、深夜一時に近付いていた。
終電は、もうない。
外には、小雨が降っていた。

私は、私の犬ではない男の子の口を押さえて、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。


翌日、二人揃って寝坊した私たちが朝食を買いに行こうとエントランスホールを横切るとペット禁止の張り紙がもう一枚増えていた。

「……犬田!!」

そう呼んでも、太田くんはもう返事をしなかった。