夜に浮かぶ桜のような男が、私を覗き込んだ。
「お姉さーん、そんなとこでなにしてんのぉ? オレが癒したげよっか?」
 軽薄な口調のピンク髪が、ぼやけた私の視界に映り込む。数度瞬きしてピントを合わせると、ぱっちり二重の丸い瞳と目が合った。

「……ホスト?」
「ありゃ、お姉さん名探偵?」
 ベンチの背にやるせなくもたれたままの私の隣に、ピンク髪の男が腰かける。眩いスーツは会社員のものとは明らかに違う。
「お姉さん隈すごいね。寝てないの?」
「……仕事が忙しくてね」

 知り合いのように話しかけてくる恐らく歳下の男に、何も考えず答える。天を見上げたまま目だけで横を見ると、思っていたよりパーソナルスペースが保たれていた。ホストだからもっと距離を詰めてくると思っていたのに、意外と常識人なのだろうか。

 最近散ったはずの桜が夜風に揺れているようなピンク髪をぼんやり見ていると、その奥にある時計塔の針が二本揃ってまっすぐ上を指した。すぐ目の前の駅から終電が発車する時刻。嬉しくて、思わず笑みを漏らす。

「なに笑ってんのぉ?」
 不健康そうな女が一人でニヤニヤと笑いはじめたというのに、ホストの男は可愛い顔して首を傾げるだけ。あぁ、やはり深夜は頭のおかしい人間が多い。

「……終電を逃せたから、嬉しくて笑ってるの」
「えぇっ、なんで嬉しいわけ〜? 帰れないじゃん」
「……帰りたくないから」

 再び空に視線を移動させて、世間を知らなそうなホストに告げる。
「帰ったら……いつ買ったか分からない納豆食べて……カビだらけの浴室でシャワー浴びて……一年シーツを替えてないベッドで死んだように眠って……朝日が昇る前に起きて仕事に行く……。帰れないなら、そんな惨めな生活もできないでしょ……?」

 夜空は都会の光害で黒く染まっている。星のひとつも見えやしない闇のような空が、人間の生活を手放しかけている私を飲み込むようだ。
 ホストの男は「ふ〜ん」と興味のなさそうな声を出したかと思うと、途端に笑みを浮かべる。

「じゃあ、パーティーする?」
「……パーティー?」
「終電逃し記念パーティー! それか、明日は仕事欠勤パーティーでもいいよ」
「……なにそれ」

 突拍子もない提案に唖然として、自然と腰が前に出る。
「疲れたお姉さんが元気になるように、オレが楽しませてあげる!」
 子供のように無邪気な笑みを浮かべるホストは、ちょっと待ってて! と言うと近くのコンビニに走っていった。

 しばらくして戻ってきたホストは、ビニール袋を手にぶら下げている。やけに物が詰まったビニール袋から、缶ビールやスナック菓子が顔を出している。
「ホストってそんなこともするの? 大変だね……」
 営業のためなら自腹で酒を奢ったりもするのか、と感心して口にした。けれどホストは陽気に鼻唄を口ずさんでいる。聞いていないようだ。

 ホストはいそいそと狭いベンチに菓子とツマミを並べると、私に缶ビールを差し出す。
「お姉さんチューハイってよりビールっぽいからこれね」
「なによ、ビールっぽいって……」
「チューハイの方がよかった?」
「いやこれでいいけど……」

 差し出されたビールを受け取ると、ホストは開封した桃チューハイを缶ビールにコツンとあてる。
「はい乾杯〜! 終電逃しおめでと〜!」
 妙な祝いの言葉に呆然としながらも、ホストのいい飲みっぷりに充てられて喉が鳴る。そういえば最近はエナジードリンクしか飲んでいなかった、と過去を思い返して缶を開ける。空気の抜ける音が耳に心地いい。

 口に含むと、わずかに視界が明瞭になる。焼けるように熱い喉越しが目を覚まさせた。
「……おいしい」
 小さく呟くと、ホストはにっこり笑ってツマミのイカを頬張った。それに私も続いてみる。賞味期限が切れていないものを食べるのが久々に感じた。

 ガヤガヤと騒がしい駅前を遠目に見て、静かにホストの横顔も覗いてみる。よく見たらかなり若そうだ。

「……キミ、何歳? ちゃんと成人してる?」
「ちょーど二十歳! あと『キミ』じゃなくて『サクヤ』ね。オレの名前!」
「ふーん……」
 源氏名らしき名前に適当な相槌をうつと、サクヤは「覚える気あるー?」と不満そうに言う。

 二十歳、ということは私の八つ下だ。どうりで幼く見えるわけだと納得する。
「……サクヤっていつからホストやってるの?」
 興味本位で聞いてみたら、サクヤは缶に口をつけながら答えた。

「三ヶ月前からかな。オレ、この間まで学生だったんだ」
「へぇ、今は?」
「やめた。いろいろあって」
「いろいろ、ねぇ……」

 軽く話しているが、おそらくあまり楽しい話ではないのだろう。瞳が遠くを見ているような気がして、深掘りするのは躊躇われた。しかし、私の躊躇いに反してサクヤは続きを話してくれる。

「T大に通ってたんだよ。法学部」
「えっ、T大ってあのT大?」
「そのT大〜」

 私には全く縁のない、けれど誰もが知っている大学名に驚愕する。名門中の名門、入学したらそれだけで成功者だろうと一般人の私が想像してしまうような国立大学だ。そこに入学し二年程度で中退とはなんて勿体ないのか、とどうしても思ってしまう。

『なんでホストになったの?』
 思わずそう言おうとした。けれど言わなかった。あっけらかんとしたサクヤの表情が固まるような気がして。

「……頭いいんだね」
 結局当たり障りない言葉で疑問を飲み込むと、サクヤは酒を煽りながら呟いた。
「勉強できるだけじゃ生きてけないけどね」
 サクヤの瞳がしばらく私を見つめる。私を通して何を思い出しているのか、なぜかこのホストを知りたいと思った。

 瞬間、サクヤのスマホが賑やかな着信音を鳴らす。肩を跳ねさせた私とは真逆に慣れた様子のサクヤは、スマホ画面を見ると「やべっ」と口にした。

「ごめんお姉さん、そろそろ戻んなきゃ。エリちゃん同伴すっぽかしたせいで怒ってる」
「エリちゃんってだれよ」
「先月からオレを推してくれてる子。五十三歳」
「『子』って年齢じゃないでしょ……」
「お姉さん知らないの? お客さんはみんなお姫様なんだよ?」
「知らないよ。ホストなんか行ったことないし」

 そーだよね、と笑うサクヤの顔には先程までの影はもうない。着信音が鳴り響くスマホをなぜか胸ポケットに仕舞ったサクヤは、飲みかけのチューハイを一気に飲み干して立ち上がる。

「お姉さん、またここでパーティーしようよ」
「……なんで?」
「理由なんてなんでもいいじゃん。せっかく知り合ったんだし仲良くしようよ。疲れたときはここに来て。オレが癒したげるから」

 それじゃ! と返事も聞かずに去っていくサクヤは、そのピンクの髪をふわりと揺らしながら振り向き手を振る。ギラギラとした街灯の中に走っていったピンク色は、すぐに溶けてぼやけてしまった。
 残された私は置かれたままのイカを口に含み、眩い光を眺める。

「…………帰ろ」
 小さく呟いて、結局タクシーで帰宅した。

***

鷹藤(たかとう)! お前、仕事舐めてんのか!」
 いつものように上司が難癖をつけてくる月曜の早朝。まだ八時、怒られるような時間ではない。
「すみません……」
「まったく……みんな六時には出社してるっていうのに、申し訳なくないのか!?」

 何時に出社しても怒るくせに、と思いながらも謝罪する。けれど上司の機嫌はすこぶる悪いようで、一人一人に直接謝罪しろとまで言ってくる。あぁ、吐きそうだ。
 怒りを鎮めるにはその通りにするしかないため、同僚たちの席を謝罪してまわる。しかし誰も目を合わせない。

 上司の私への態度は、典型的なパワハラだった。他の社員にはそんなことないのに、入社してから六年、私にだけ異常なほど敵意を向けてくる。助けを求めようとしても同僚たちは見て見ぬふり。話を聞いてくれる同性もいない。精神はすり減っていく一方だった。

 気がつけば、またあの公園に来ていた。サクヤに癒されたいわけではない。本当に来るとも思っていないし、あのささやかなパーティーは営業の一貫なのだろうと理解している。ただ、帰って明日を待ちたくなかっただけだ。
 しかし、ベンチに腰かけてボーッと何もない空を見上げていると、あの陽気な声が再び話しかけてくる。

「やっぱりお姉さんだ」
 まさかと思い正面を見ると、サクヤが立っていた。煌びやかなスーツを纏い、ふわふわとピンクの髪を風に靡かせている。
 本当に来た、と呆然としている間にサクヤは私の隣へ腰かける。

「春の大三角見える?」
「なにそれ……」
「うしかい座とおとめ座としし座を繋げた正三角形。五月だからまだ見えるよ」
「……見えないよ、星なんてひとつも」
「あはは、ほんとだ」

 ぼんやりとピンク髪を眺め、密かに誤解していたホストの仕事を尊敬した。こんな利益になるかも分からない約束を守るだなんて、律儀なものだ。信頼を得るため、サクヤはこのような営業の仕方をしているのだろう。

 はじめてサクヤを尊敬した私は、天を見上げるサクヤの大きく丸い瞳をしばらく見つめた。するとサクヤは思い出したようにこちらを向き、眉間に皺を寄せまじまじと私を見る。

「……お姉さんさ、また隈が濃くなってない? ちゃんと寝てる?」
「……いや、あんまり」
「えー! ダメじゃん! 一年前のシーツもはやく替えて、スッキリ眠らないと!」

 そんなんじゃ疲れがとれないよ! と怒るサクヤが母親のようだ。思いもよらず年下に叱られて及び腰になってしまう。
「で、でもこの間キミとお酒を飲んだ日はまぁまぁ眠れたような……」
 苦し紛れに言い訳すると、サクヤは勢いよく立ち上がる。

「よし! じゃあまた飲もう! パーティーの準備してくる!」
 そう言ってサクヤは走ると、またコンビニで酒とツマミを買って小さなパーティーを開いた。この日のパーティーは『睡眠促進パーティー』と名付けられ、前回同様サクヤがいなくなってからタクシーで帰宅した私は、確かによく眠れたのだった。

 以降、私とサクヤは公園で待ち合わせてパーティーを開くというのがお約束となった。週に一度、月曜の夜に絶望し終電を逃す私を、サクヤは毎度チャラけた言動で励ましてくれた。いつしか私も、そんなサクヤに癒されるようになっていた。これがホストの力か、なんて感心する心に『勘違いするなよ』と密かに念を押す。

 サクヤはホストだ。きっと私を客にしようとしている。だから優しくしてくれるのだ。そう自分に言い聞かせたら、死にたくなった。

 サクヤと出会って六度目の月曜日、この日もわざと終電を逃して公園で空を見上げていた。サクヤの姿を探したくなる気持ちを抑え、いつも通りを装う。大丈夫、私は大人だ。二十歳のホストに騙されるような甘い人生経験は積んでいない。

 深夜の騒がしさをBGMにそんなことを考えていると、唐突に女の怒声が響く。体が跳ねて声の方を見れば、女が男を突き飛ばしている場面が視界に映った。派手なピンク髪の男が、為す術なく地面に尻もちをついている。
――サクヤだ。

「うっせぇんだよゴミ!! 言い訳ばっかしやがって!!」
 女は可愛らしい格好をしている見た目に反し、人目も憚らず暴言を浴びせる。
「毎回健気にアンタのこと待っててやったのに、その裏で他の女のところに行ってるなんてふざけんじゃねーぞ!! そのうえ今日もドタキャンとか、客をなんだと思ってんだよクソ野郎!!」

 どう見ても修羅場。内容から、何となく私が原因のような気がして胸が痛い。

「死んだお兄ちゃんがどうとか言ってたのも、どうせ同情誘うためのウソなんだろ!! そうまでして指名がほしいかよ、底辺ホスト!!」
 黙って暴言をぶつけられるサクヤの表情は、ピンクの髪に隠れていてよく分からない。けれど髪の隙間からわずかに見えたサクヤの瞳は、アスファルトの凹凸を静かに見つめていた。その瞳に既視感を覚える。

 あぁ、いつも鏡に映る私の瞳と似ている。だけど何か違う。一体何だろう。

 変わらない日々にただ絶望する私とは、決定的に何かが違う暗い瞳。しかしその違いが何なのか分からず考えているうちに、女は「アンタなんか二度と指名しないから!!」と去っていった。すれ違う通行人からの冷たいであろう視線をしばらく浴びたサクヤは、ゆっくりと立ち上がり私を見つける。

「あっ、お姉さん! やっほ〜!」
 手を振り駆け寄ってくる無邪気な笑顔。いつものサクヤだ。

「なんか隈薄くなった?」
「ま、まぁ……少し」
「やったぁ。このまま無くしてこ! せっかく綺麗な顔してるんだからさ」

 齢二十歳の若い男が、激しい暴言で傷付いただろうに明るく振舞っている。あまりにいつも通りなものだから、無理をしているのではと心配になってしまう。
「あのさ、さっきの……」
 大丈夫なのか、そう問いかけようとした瞬間、サクヤの丸い瞳が穏やかに細くなる。

「大丈夫、お姉さんは気にしないで。オレが悪いだけだから」
 それより今日のパーティーは何パーティーにする? と話を切り替えられ、私は何も聞けなくなった。それ以上聞かないで、と遠回しに言われたようで。
 意図せず聞こえてしまった『サクヤの亡くなった兄』については、聞けそうにない。

「お姉さん痩せてるから、暴飲暴食パーティーにする? ちょっとでも太らないと倒れちゃうよ」
 自分のことは後回しに、私を気にかける言葉を放つ。サクヤはいつもそうだ。自分のことはあまり話さないのに、私の体調や健康、精神面について事細かに心配し、気遣ってくれる。いつしか私は、そんなサクヤに甘えたくなってしまっていた。

――情けない、そんな気持ちがじわりと胸に広がる。

「……今日はパーティーじゃなくて、花見にしようか」
「花見?」
 突拍子もない提案を持ちかけると、サクヤは目を丸くする。
「お姉さん、桜は随分前に散っちゃってるよ?」
「なんでもいいの、そんなの」
 はて、と疑問を表情に出すサクヤ。

 いつも背もたれにぴったり付けていた背中を離し、立ち上がった私はサクヤを座らせる。混乱するサクヤの顔が面白い。
「今日は私がキミのために花見を企画してあげる」
「お姉さんが、オレのために……?」
 サクヤの復唱に頷き、待っているよう告げるとコンビニに歩く。

 素早く買い物を済ませた私は、サクヤの腰かけるベンチに値引きシールが貼られた唐揚げ弁当とサンドイッチ、そして酒を並べる。
「めっちゃご飯だね。お姉さんお腹すいてるの?」
「花見といったらお弁当とサンドイッチでしょ」
 確かに、と眉を下げて笑うサクヤはやはり幼く見えた。

 チューハイの缶を開けながら「花は?」と聞くサクヤに、心の目で見るよう告げると楽しそうに声を上げる。
「テキトーじゃん!」
「うるさいなぁ」
 ホストとどうでもいい軽口を叩く時間が、胸の奥深くに染み渡る。

「ほら、乾杯」
 ビールの缶をサクヤに向かって傾けると、サクヤのチューハイがキスするみたいに優しく触れる。

「なんで急に花見なの?」
「んー……意味なんかないけど、強いて言うなら、キミの髪って桜みたいだし丁度いいかなって」
「オレが見られる側ってこと〜!?」

 修羅場なんて忘れたように笑うサクヤに合わせて、私も笑う。そういえば、笑うのはいつぶりだろう。随分久しぶりな気がする。

 サクヤの風に揺れるピンク色を見つめながら、昔のことを思い出した。何社も落ちてようやく内定をもらい、泣きながらガッツポーズをしたあの朝のこと。早起きして朝ご飯を作るのが好きだったのに、いつしか嫌いになっていた突き刺さるような朝日。深夜に縋る今の私を、あの頃の私は想像できただろうか。

 アルコールと炭酸が喉を焼く感覚に目を伏せると、サクヤが「お姉さん」と私を呼ぶ。顔を上げたら、サクヤは静かな声で聞いてきた。
「お姉さんは、残される気持ちって分かる?」
「…………?」
 一体なんの話だろう、そう思ってサクヤの瞳を覗く。笑みは絶やさず、しかし真剣な眼差しだった。

「オレは分かるよ」
 私の返事を聞く前に告げたサクヤは、寂しげに唐揚げを見つめる。
「正しい目印がなくなって、道が分からなくなる。そんな気持ち」
 サクヤの声には悲哀が滲む。

「あんなに憧れて追いかけてたのに、たくさん勉強して学校まで真似したのに、苦しんでいたことに気付いてあげられなかった。瞳に表れてたはずなのに、平気だって笑うのを馬鹿正直に信じた自分が憎くて、ぶん殴りたかった。だけど周りはみんな勝手に前を向いて、忘れていく。そうして自分だけが取り残される」

 突如として吐き出された、おそらくサクヤの抱える思い。なぜだか胸に突き刺さる。
 アルコールを摂取した後の微かな眠気が覚めていく。そんな私を、サクヤは長いまつ毛の隙間から見つめた。

「少し前のお姉さんも、同じ瞳をしてた」
「瞳……?」
「もう何も映してない、闇の奥に光り輝く星があることも忘れたような、虚ろな瞳。あの時の記憶が蘇って、思わず声をかけちゃった」

 サクヤが声をかけてきた理由なんて気にしたこともなかった私は、その辛そうな笑顔に驚愕したと同時に納得した。過保護な母親のように気にかけてくれたのは、その『同じ瞳をした誰か』を救えなかった後悔からの言動だったのだ。

 私を心配したわけではない。ただ過去を清算するため、救いの手を差し伸べただけ。わずかに期待していた心が、崩れ落ちていく。

「でもオレ、今嬉しいよ」
 しかし無気力に視線を落とす私に反し、サクヤの声は明るくなる。
「なにが……?」
 問いかけてサクヤの瞳を窺うと、優しい瞳と目が合った。

「お姉さん、いつも真っ黒な空ばかり見てたのに、今はオレのことまっすぐ見てくれてる。それがすごく嬉しいんだ」

――満面の笑みで告げられたら、勘違いしそうになる。このホストは私を映しているのだ、と。

 ホストの手腕に引っかかり手遅れになる前に、この独特な空間から逃げ出さなければ。そう思って立ち上がると、サクヤは甘いマスクでどこに行くのかと聞いてくる。
「……帰る」
「お姉さん帰っちゃうの? オレまだお姉さんと飲みたいよ」

 子供みたいに眉を下げるサクヤに、不覚にも母性をくすぐられる。
「……キミも早く仕事に戻った方がいいよ。私はキミの客になるつもりはないから、時間の無駄だし」
「なんでお姉さんが客になるなんて話になるの? オレ、お姉さんに店に来てほしいなんて言ったことないよ」

 サクヤの言葉で、私の視界に沼が広がる。

「……キミ、私に営業かけてるんじゃないの?」
「どうしてそう思うの?」
「だってホストだし……名前だって……」
 サクヤに背を向けたまま沼に怯える私は、動かない足に意識を集中させる。しかしサクヤは、容赦なく私を沼に引きずり込んでくる。

「オレ、お姉さんには本名しか教えてないよ」
「……え?」
 思わず振り向くと、サクヤは微笑みながら告げた。

「よく源氏名みたいって言われるけど、本名なんだ。夜に咲くと書いて、咲夜」
「じゃ、じゃあ源氏名は……」
「全く別の名前。ホストとしてお姉さんと接したことなんか、一度もないよ」

 足が、暗く底の見えない沼に飲まれる。心拍は異常をきたし、私の耳にドクドク響く。視界に映るのは闇に浮かぶピンク色。

「お姉さん、なんか顔赤くない? 桜みたいだね」
 
 私を沼に沈めた夜桜は、小さく笑う。身動き取れなくなった私はぼんやり思う。
 こうして桜の木の下に、死体が埋まっていくのだろう――。