(あっ……!)
左足をひねった、と思った時は遅かった。
脱げたサンダルが弾むように階段を落ちていくのが、人混みの隙間からかろうじて見える。
と思ったら、一瞬で視界から消えた。
当然だ。
終電がもうすぐホームに来るのだから。
最終電車を逃すまいと、殺気立った人たちが大勢階段を上ってきている。
「ごめん、先にいってて!」
一緒に飲んだサークル仲間に声をかけ、灰川凜奈は人にぶつかりながら階段を下りた。
片足で、しかもヒールがあるのでバランスを取るのはかなり難しい。
よたよたと手すりにつかまりながら降りていく。
もう何となくわかっていた。
今からサンダルを履いて戻っても、きっと終電に間に合わない、と。
片足が裸足でも飛び乗ったほうがよかったかもしれない。
だが、やけ酒で酔っているせいか、自暴自棄になっている自分がいた。
間に合わなくてもいいや――と。
人をかきわけ、ようやく階段を下りきると、蹴られたのか隅のほうに白いサンダルが転がっているのが見えた。
(ああ)
電車の出発を知らせるアナウンスと、電車が動く音が上の方から聞こえる。
(やっぱり間に合わなかったな……)
よろよろとサンダルの方に近づくと、すぐそばを人影が横切った。
「え……」
サンダルを拾って笑顔を向けてきたのは、後輩の大路だった。下の名前は知らない。
端整な顔立ちと穏やかな振る舞いゆえ、皆が『王子くん』と呼んでいるせいだ。
「大丈夫ですか、凜奈先輩」
大路がにこりと笑って近づいてくる。
「靴を片方落とすなんて、シンデレラみたいですね」
「大路くん、なんで……! 終電に乗らなかったの?」
大路も三次会まで残り、他のサークルの皆と一緒に階段を駆け上がっていたはずだ。
「凜奈先輩が階段を下りるのを見たんで」
当たり前のように言うと、大路くんは片膝をついて屈んだ。
「靴、履けますか? 俺の肩につかまってくれていいですよ」
「……っ」
頭は混乱していたが、まずはサンダルを履くことが先決だ。
酔っているせいかフラフラしている。
凜奈は仕方なくそっと大路の肩に手を置いた。
一見華奢に見える大路だったが、思いのほか肩はがっしりしていた。
(やっぱり男の子だな……)
ありがたくつかまらせてもらってサンダルを履く。
「大丈夫ですか?」
「うん、ヒールは折れてないみたい。これなら歩けそう」
「送りますよ、タクシーで」
「ううん、三駅だから歩いて帰る」
なんとなく、すぐに家に帰りたくなかった。
今は真夏だ。夜の散歩も悪くないだろう。
「じゃあ、俺も歩きます」
「えっ、いいよ!」
「何言ってるんですか! 夜中に女性一人歩かせるわけにいきませんから!」
きっぱり言われ、凜奈は少し驚いた。
(いつもおっとりしているのに、思ったよりずっとはっきり物を言うんだ……)
一人になりたかったが、大路は絶対に引き下がらないという意志を漲らせている。
「じゃあ、お願いしようかな……」
確かに、車通りがある車道沿いに帰るとはいえ、男性がついていてくれた方が安心だろう。
凜奈がそう言うと、大路がぱっと顔を輝かせた。
(なんで嬉しそうなんだろう……)
大路は同じ大学の法学部の一年生だ。
凜奈は文学部の二年生で、学部も学年も違うので、サークルで顔を合わせるだけだ。
凜奈の入っている旅行サークルはなかなかの大所帯で、入学して半年の大路とはろくに話したこともない。
駅を出ると、まだ空気は熱を持っているものの、それなりに快適だった。
真夏の夜はいい。昼と地続きでまだ眠らなくていいよ、と言ってくれているような気がする。
凜奈は大きく伸びをした。
「うーん、どこかバーに寄っていくかな。まだ帰りたくないなあ」
「ダメですよ。行くならファミレスとかにしてください。飲みすぎです」
「そんなに飲んでないよー」
「いえ、結構飲んでましたよ。今もふらふらしてるじゃないですか」
大路の声が真剣味を帯びる。
心配してくれているのだとすぐわかる。
(私、そんなに飲んだっけ……。なんで大路くんは知っているんだろう)
凜奈ちらっと大路の横顔を見上げた。
隣に立つと思いのほか背が高いとわかる。180㎝くらいだろうか。
(宇井先輩より背が高いなあ……)
「宇井先輩、幸せそうでしたね」
大路の言葉に飛び上がりそうになる。
まるで心を読まれたみたいなタイミングだった。
「えっ、えっ、なんで宇井先輩のこと……」
「だって、ずっと見てたでしょ、宇井先輩のこと」
はっきり言われ、凜奈は火照った顔が更に赤くなるのを感じた。
(見られてた……?)
「見てましたよ」
大路はまたしても心を読んだかのように答える。
それとも、自分の表情がわかりやすすぎるのだろうか。
「嬉しそうに宇井先輩を見ていたのに、宇井先輩に恋人ができたって聞いて表情が消えてましたよね。そこから、ずっとお酒を飲んで――」
「やめて!」
びっくりするほど大きな声が出た。
大路が大人しく口をつぐんでくれたので、凜奈はホッとした。
心にできた傷はまだ血を流していて、これ以上傷口を広げたくなかった。
宇井先輩――経済学部の三年生。笑うと糸目になる、気さくな先輩だ。
「よかったら、旅行サークルに入らない? 気軽に日本全国旅行できるよ! 楽しいよ!」
入学式の日、いきなり声をかけてきた宇井先輩の笑顔があまりにも邪気がなくて――旅行サークルに入ったのだ。
入部してすぐわかった。
宇井は誰に対しても優しくて、ポジティブな声掛けをしてくれる人だということを。
自分が彼にとって特別じゃないということも。
それでも、無愛想でトロい自分をいつでも気遣ってくれたことが嬉しくて。
「灰川さん、おはよう!」
「重そうだね、大丈夫? 俺が持つよ」
「そこ危ないから気をつけて」
「灰川さん、これどっちがいいと思う?」
そんなさりげない言葉を男の人からかけてもらったことがなくて。
いつも笑顔で、そばにいるだけで胸が温かくなる人で。
宇井のそばにいると、サークル内の会話にも自然に入れた。
凜奈は少しずつ変わっていった。
顔を隠すために伸ばしていた前髪を切り、まっすぐ人の目を見ることができ、気づいた時には自然に笑顔が出るようになっていた。
まるで魔法にかけられたようだった。
陰気で人見知りでろくに男性と話すこともできなかった自分がこんなに変われるなんて思わなかった。
ただただそばにいたくて、宇井が参加するイベントや旅行は全部出席した。
でも、本当は宇井先輩の特別になりたかったのだと、今夜思い知らされた。
「宇井、彼女できたんだってー!」
そんな冷やかしに照れくさそうに、恋人のことを語る宇井を見て、ハンマーで殴られたような衝撃に襲われた。
いつもどおり、宇井がいるからと三次会まで残ったが、正直、自分がどんな表情で何を話したか覚えていない。
ただ、ずっとお酒のグラスを握っていた。
気づくと、凜奈は足を止めていた。胸が痛くて足が動かない。頭もガンガンする。
「……水買ってきます。そこにいて」
シャッターの降りた店先に凜奈を誘導すると、大路が自動販売機に向かっていく。
ペットボトルを二本買って戻ると、大路が一本差し出してきた。
「はい、どうぞ」
(嫌だ、酔いを冷ましたくない……ぼうっと酩酊したままでいたい)
力なく首を振る凜奈の手に、ひんやりとした水のペットボトルが握らされる。
「ダメです。少しでいいから飲んで」
「……」
(大路くんはなんでこんなに甲斐甲斐しいんだろう……)
よくわからないまま、凜奈はペットボトルに口をつけた。
ひんやりした水が喉を通っていく感覚が心地いい。
ごくごくと水を飲んだ凜奈に大路が満足そうにうなずく。
「はい、よくできました」
「後輩のくせに……」
そう言って睨むと、大路はなぜか嬉しそうにふにゃっと微笑んだ。
「はい、俺はまだ未成年だから素面です。頼ってくれていいですよ」
余裕のある態度が気に入らず、凜奈はむっと頬を膨らませた。
何が楽しいのか、大路はくすくす笑っていた。
大路の笑顔を見ていると、体から力が抜けてくる。
もう全部ばれているし、後輩相手に気取っても仕方ない。
「そうだよ、失恋したの。入学した時からずっと宇井先輩が好きだった……」
大勢の中で自分の存在を見つけてくれて、気に掛けてくれる人がいる。
そんな幸せを与えてくれた人だった。
「宇井先輩のどこがよかったんです?」
ペットボトルに口をつけながら、大路が尋ねてくる。
「一緒にいると幸せな気分になるところ。旅行中も私が遅れていると声をかけてくれたり、ちょっとしたことを誉めてくれたり……」
新入生歓迎会のバーベキューの時、黙々と野菜を切る凜奈に「綺麗に切れるんだなあ! すごい! 俺だったら手を切っちゃうよ」と声をかけてくれたことを思い出した。
なかなか人の輪に入れず、孤独を感じていた時だからすごく嬉しかった。
堰を切ったように宇井との思い出が蘇ってくる。
どれも大事で幸せな思い出だ。
「なんかね、魔法をかけてくれる人だったんだ、私に」
「魔法?」
馬鹿なことを口走ってしまった、と一瞬思ったが、酔いもあってか止まらなかった。
「そう。元気になる魔法。私、昔から地味で無愛想で自分に自信がなくてうつむいているような子だったの。でも、宇井先輩が変えてくれたんだ」
あれを魔法を言わずになんと言おうか。
この世でたった一人でいい。誰かが存在を認めてくれることで、これほど自信を持てるのだと教えてくれた。
「私ね、全然笑えなかったんだ。笑顔が気持ち悪いって言われたことがあって。それ以来怖くて……でも、宇井先輩のそばにいたら自然に笑ってた」
「……本当にシンデレラなんですね、先輩は」
「え?」
思わぬ言葉に、凜奈はまじまじと大路を見た。
からかっているわけではなさそうだ。
「シンデレラって魔法をかけられて、舞踏会に行くじゃないですか」
確かに宇井がいなければサークルにも入らなかったし、飲み会にも行かなかっただろう。
「あはは! そうだね……見事に靴を落としたしね。でも――」
凜奈は胸の痛みを感じながら夜空を見上げた。
「もう十二時を過ぎたし、靴を落としたシンデレラはカボチャの馬車に乗り遅れて、魔法も解けちゃった……」
涙が込み上げてくる。
(終わったんだなあ……私の恋は)
終電に乗り遅れた瞬間、はっきりと突きつけられた気がした。
電車に乗ったであろう宇井と、乗り遅れた自分。
「どうぞ、使ってください」
大路がすっとハンカチを差し出してくる。
「はは……大路くんは本当に気が利くね」
照れ隠しにそう言った凜奈はハッとした。
大路がまっすぐ凜奈を見ていたのだ。
驚くほど真剣な眼差しで。
「……先輩にだけですよ」
「え?」
「俺は魔法をかけて終わりの魔法使いじゃなくて、そばにいる王子になりたいです」
「……?」
首を傾げる凜奈に、大路の顔が真っ赤になる。
「いや、その、素面なのに何言ってんだ俺……」
そう言うと、大路が手にしたペットボトルを口に当ててごくごく飲み出した。
一気に飲み干すと、大きく息を吐く。
こちらに向けてきた目は熱っぽく潤んでいた。
「俺がなんで旅行サークルに入ったか知ってますか?」
「? ううん……」
「凜奈先輩が声をかけてくれたからですよ」
「えっ、そうだっけ……?」
慌てて記憶を辿る。
今年の新入生の勧誘を任されたのは確かだ。
皆、勧誘係を面倒がって避けたが、宇井が「仕方ない、俺がやるかー」と手を挙げたので、凜奈も一緒にやることにしたのだ。
「びっくりしました。すごい笑顔で『絶対楽しいから、入ってみて!』ってチラシを渡してきて……」
それは紛れもない凜奈の本音だった。
宇井に惹かれてサークルに入り、友達もできて、笑えるようになって――本当に入ってよかったと思っていた。
大路が口に手を当てて横を向く。
「大路くん、大丈夫? 気分悪いの?」
「……だから、俺飲んでないんですって」
よく見ると、大路の顔は耳まで赤かった。
「はっきり言わないとわかんないでしょうから、言いますね?」
「え、あ、うん」
勇気を振り絞るように、大路が目を伏せて小さく息を吐く。
顔を上げた大路が口を開いた。
「凜奈先輩を見て、なんていい笑顔をするんだろうって思って……それでサークルに入ったんです」
「……!」
「つまり、一目惚れです。凜奈先輩と一緒」
それだけ言うと、大路が目線を外した。
凜奈は信じられない思いで大路を見つめた。
まだ彼の言ったことが咀嚼できていない。
自分が人を好きになることはあっても、誰かが自分を好きになるなんて考えたこともなかった。
だって、まだ一年くらいしかたっていない。
どもらずに人と話したり、自然に笑顔を浮かべたり、うつむき加減で顔を見られないようにしなくなってから。
「あと、優しいですよね。後輩の女の子が言いたいことを言えなくてもじもじしてたら、声をかけて言いやすくしてあげたり、バーベキューで火傷をした子の手に保冷剤をすぐ当ててあげたのも先輩でしたよね。それに――」
凜奈は呆然と話し続ける大路を見つめた。
どれもそれは些細なことばかりだ。だが、凜奈をいつも見ていなければ気づかないことでもあった。
「ちょっと、なんでそんなに私に詳しいの!?」
思わず声を上げてしまい、凜奈はハッとした。
大路が少し拗ねたような表情になっている。
「それ、言わせます? 先輩と一緒ですよ。俺もずっと見ていたんです」
「私を……?」
信じられない。ずっと宇井ばかり見つめてきて、自分が見られていることに気づきもしなかった。
「全然気づかなかったでしょ」
「ハイ……」
「俺のこと、何にも知らないでしょ」
「し、知ってるよ! 法学部で――」
女の子にすごい人気があって、サークル内でも女の子たちがよく噂している――とは言えなかった。
「ほら、全然知らない」
唇を尖らせる大路は、いつもより少し幼く見えた。
「ごめんなさい……」
なぜかわからないが凜奈は謝る。初めての事態にどうしたらいいのかわからない。
「別にいいですけど。これから知ってくれたら」
「う、うん」
「あー、全然わかってない! 俺、先輩に靴履かせましたよね?」
「うん」
「だから、先輩がシンデレラなら俺は王子、ってことです!」
「大路くん、『王子』ってあだ名だもんね」
「そうじゃなくて!」
凜奈は思わず笑ってしまった。
気遣いでも、強がりでもない、自然に出た笑いだった。
「ありがとう。すごく嬉しい」
自分が男の子から告白されるなんて夢にも思っていなかった。
なんて夜なんだろう。
凜奈はこちらをじっと見つめている大路を見た。
仄かに頬を染めて見つめる彼の表情に心が揺れる。
(私もこんな風に宇井先輩のことを見ていたのかな……)
彼は靴を落とした自分に気づき、終電を逃しても一緒に残ってくれた。
いつもずっと同じ人を見ていたが、自分を見てくれる人に向き合うのも楽しいかもしれない。
「大路くん」
「はい」
少し緊張気味の声が返ってくる。
彼は自分の返答をドキドキしながら待っている。
大路を笑顔にできるのは自分だけだ。
確かに自分は今、シンデレラなのかもしれない。
ガラスの靴を履いていなくても。
魔法がもう解けてしまっていたとしても――。
左足をひねった、と思った時は遅かった。
脱げたサンダルが弾むように階段を落ちていくのが、人混みの隙間からかろうじて見える。
と思ったら、一瞬で視界から消えた。
当然だ。
終電がもうすぐホームに来るのだから。
最終電車を逃すまいと、殺気立った人たちが大勢階段を上ってきている。
「ごめん、先にいってて!」
一緒に飲んだサークル仲間に声をかけ、灰川凜奈は人にぶつかりながら階段を下りた。
片足で、しかもヒールがあるのでバランスを取るのはかなり難しい。
よたよたと手すりにつかまりながら降りていく。
もう何となくわかっていた。
今からサンダルを履いて戻っても、きっと終電に間に合わない、と。
片足が裸足でも飛び乗ったほうがよかったかもしれない。
だが、やけ酒で酔っているせいか、自暴自棄になっている自分がいた。
間に合わなくてもいいや――と。
人をかきわけ、ようやく階段を下りきると、蹴られたのか隅のほうに白いサンダルが転がっているのが見えた。
(ああ)
電車の出発を知らせるアナウンスと、電車が動く音が上の方から聞こえる。
(やっぱり間に合わなかったな……)
よろよろとサンダルの方に近づくと、すぐそばを人影が横切った。
「え……」
サンダルを拾って笑顔を向けてきたのは、後輩の大路だった。下の名前は知らない。
端整な顔立ちと穏やかな振る舞いゆえ、皆が『王子くん』と呼んでいるせいだ。
「大丈夫ですか、凜奈先輩」
大路がにこりと笑って近づいてくる。
「靴を片方落とすなんて、シンデレラみたいですね」
「大路くん、なんで……! 終電に乗らなかったの?」
大路も三次会まで残り、他のサークルの皆と一緒に階段を駆け上がっていたはずだ。
「凜奈先輩が階段を下りるのを見たんで」
当たり前のように言うと、大路くんは片膝をついて屈んだ。
「靴、履けますか? 俺の肩につかまってくれていいですよ」
「……っ」
頭は混乱していたが、まずはサンダルを履くことが先決だ。
酔っているせいかフラフラしている。
凜奈は仕方なくそっと大路の肩に手を置いた。
一見華奢に見える大路だったが、思いのほか肩はがっしりしていた。
(やっぱり男の子だな……)
ありがたくつかまらせてもらってサンダルを履く。
「大丈夫ですか?」
「うん、ヒールは折れてないみたい。これなら歩けそう」
「送りますよ、タクシーで」
「ううん、三駅だから歩いて帰る」
なんとなく、すぐに家に帰りたくなかった。
今は真夏だ。夜の散歩も悪くないだろう。
「じゃあ、俺も歩きます」
「えっ、いいよ!」
「何言ってるんですか! 夜中に女性一人歩かせるわけにいきませんから!」
きっぱり言われ、凜奈は少し驚いた。
(いつもおっとりしているのに、思ったよりずっとはっきり物を言うんだ……)
一人になりたかったが、大路は絶対に引き下がらないという意志を漲らせている。
「じゃあ、お願いしようかな……」
確かに、車通りがある車道沿いに帰るとはいえ、男性がついていてくれた方が安心だろう。
凜奈がそう言うと、大路がぱっと顔を輝かせた。
(なんで嬉しそうなんだろう……)
大路は同じ大学の法学部の一年生だ。
凜奈は文学部の二年生で、学部も学年も違うので、サークルで顔を合わせるだけだ。
凜奈の入っている旅行サークルはなかなかの大所帯で、入学して半年の大路とはろくに話したこともない。
駅を出ると、まだ空気は熱を持っているものの、それなりに快適だった。
真夏の夜はいい。昼と地続きでまだ眠らなくていいよ、と言ってくれているような気がする。
凜奈は大きく伸びをした。
「うーん、どこかバーに寄っていくかな。まだ帰りたくないなあ」
「ダメですよ。行くならファミレスとかにしてください。飲みすぎです」
「そんなに飲んでないよー」
「いえ、結構飲んでましたよ。今もふらふらしてるじゃないですか」
大路の声が真剣味を帯びる。
心配してくれているのだとすぐわかる。
(私、そんなに飲んだっけ……。なんで大路くんは知っているんだろう)
凜奈ちらっと大路の横顔を見上げた。
隣に立つと思いのほか背が高いとわかる。180㎝くらいだろうか。
(宇井先輩より背が高いなあ……)
「宇井先輩、幸せそうでしたね」
大路の言葉に飛び上がりそうになる。
まるで心を読まれたみたいなタイミングだった。
「えっ、えっ、なんで宇井先輩のこと……」
「だって、ずっと見てたでしょ、宇井先輩のこと」
はっきり言われ、凜奈は火照った顔が更に赤くなるのを感じた。
(見られてた……?)
「見てましたよ」
大路はまたしても心を読んだかのように答える。
それとも、自分の表情がわかりやすすぎるのだろうか。
「嬉しそうに宇井先輩を見ていたのに、宇井先輩に恋人ができたって聞いて表情が消えてましたよね。そこから、ずっとお酒を飲んで――」
「やめて!」
びっくりするほど大きな声が出た。
大路が大人しく口をつぐんでくれたので、凜奈はホッとした。
心にできた傷はまだ血を流していて、これ以上傷口を広げたくなかった。
宇井先輩――経済学部の三年生。笑うと糸目になる、気さくな先輩だ。
「よかったら、旅行サークルに入らない? 気軽に日本全国旅行できるよ! 楽しいよ!」
入学式の日、いきなり声をかけてきた宇井先輩の笑顔があまりにも邪気がなくて――旅行サークルに入ったのだ。
入部してすぐわかった。
宇井は誰に対しても優しくて、ポジティブな声掛けをしてくれる人だということを。
自分が彼にとって特別じゃないということも。
それでも、無愛想でトロい自分をいつでも気遣ってくれたことが嬉しくて。
「灰川さん、おはよう!」
「重そうだね、大丈夫? 俺が持つよ」
「そこ危ないから気をつけて」
「灰川さん、これどっちがいいと思う?」
そんなさりげない言葉を男の人からかけてもらったことがなくて。
いつも笑顔で、そばにいるだけで胸が温かくなる人で。
宇井のそばにいると、サークル内の会話にも自然に入れた。
凜奈は少しずつ変わっていった。
顔を隠すために伸ばしていた前髪を切り、まっすぐ人の目を見ることができ、気づいた時には自然に笑顔が出るようになっていた。
まるで魔法にかけられたようだった。
陰気で人見知りでろくに男性と話すこともできなかった自分がこんなに変われるなんて思わなかった。
ただただそばにいたくて、宇井が参加するイベントや旅行は全部出席した。
でも、本当は宇井先輩の特別になりたかったのだと、今夜思い知らされた。
「宇井、彼女できたんだってー!」
そんな冷やかしに照れくさそうに、恋人のことを語る宇井を見て、ハンマーで殴られたような衝撃に襲われた。
いつもどおり、宇井がいるからと三次会まで残ったが、正直、自分がどんな表情で何を話したか覚えていない。
ただ、ずっとお酒のグラスを握っていた。
気づくと、凜奈は足を止めていた。胸が痛くて足が動かない。頭もガンガンする。
「……水買ってきます。そこにいて」
シャッターの降りた店先に凜奈を誘導すると、大路が自動販売機に向かっていく。
ペットボトルを二本買って戻ると、大路が一本差し出してきた。
「はい、どうぞ」
(嫌だ、酔いを冷ましたくない……ぼうっと酩酊したままでいたい)
力なく首を振る凜奈の手に、ひんやりとした水のペットボトルが握らされる。
「ダメです。少しでいいから飲んで」
「……」
(大路くんはなんでこんなに甲斐甲斐しいんだろう……)
よくわからないまま、凜奈はペットボトルに口をつけた。
ひんやりした水が喉を通っていく感覚が心地いい。
ごくごくと水を飲んだ凜奈に大路が満足そうにうなずく。
「はい、よくできました」
「後輩のくせに……」
そう言って睨むと、大路はなぜか嬉しそうにふにゃっと微笑んだ。
「はい、俺はまだ未成年だから素面です。頼ってくれていいですよ」
余裕のある態度が気に入らず、凜奈はむっと頬を膨らませた。
何が楽しいのか、大路はくすくす笑っていた。
大路の笑顔を見ていると、体から力が抜けてくる。
もう全部ばれているし、後輩相手に気取っても仕方ない。
「そうだよ、失恋したの。入学した時からずっと宇井先輩が好きだった……」
大勢の中で自分の存在を見つけてくれて、気に掛けてくれる人がいる。
そんな幸せを与えてくれた人だった。
「宇井先輩のどこがよかったんです?」
ペットボトルに口をつけながら、大路が尋ねてくる。
「一緒にいると幸せな気分になるところ。旅行中も私が遅れていると声をかけてくれたり、ちょっとしたことを誉めてくれたり……」
新入生歓迎会のバーベキューの時、黙々と野菜を切る凜奈に「綺麗に切れるんだなあ! すごい! 俺だったら手を切っちゃうよ」と声をかけてくれたことを思い出した。
なかなか人の輪に入れず、孤独を感じていた時だからすごく嬉しかった。
堰を切ったように宇井との思い出が蘇ってくる。
どれも大事で幸せな思い出だ。
「なんかね、魔法をかけてくれる人だったんだ、私に」
「魔法?」
馬鹿なことを口走ってしまった、と一瞬思ったが、酔いもあってか止まらなかった。
「そう。元気になる魔法。私、昔から地味で無愛想で自分に自信がなくてうつむいているような子だったの。でも、宇井先輩が変えてくれたんだ」
あれを魔法を言わずになんと言おうか。
この世でたった一人でいい。誰かが存在を認めてくれることで、これほど自信を持てるのだと教えてくれた。
「私ね、全然笑えなかったんだ。笑顔が気持ち悪いって言われたことがあって。それ以来怖くて……でも、宇井先輩のそばにいたら自然に笑ってた」
「……本当にシンデレラなんですね、先輩は」
「え?」
思わぬ言葉に、凜奈はまじまじと大路を見た。
からかっているわけではなさそうだ。
「シンデレラって魔法をかけられて、舞踏会に行くじゃないですか」
確かに宇井がいなければサークルにも入らなかったし、飲み会にも行かなかっただろう。
「あはは! そうだね……見事に靴を落としたしね。でも――」
凜奈は胸の痛みを感じながら夜空を見上げた。
「もう十二時を過ぎたし、靴を落としたシンデレラはカボチャの馬車に乗り遅れて、魔法も解けちゃった……」
涙が込み上げてくる。
(終わったんだなあ……私の恋は)
終電に乗り遅れた瞬間、はっきりと突きつけられた気がした。
電車に乗ったであろう宇井と、乗り遅れた自分。
「どうぞ、使ってください」
大路がすっとハンカチを差し出してくる。
「はは……大路くんは本当に気が利くね」
照れ隠しにそう言った凜奈はハッとした。
大路がまっすぐ凜奈を見ていたのだ。
驚くほど真剣な眼差しで。
「……先輩にだけですよ」
「え?」
「俺は魔法をかけて終わりの魔法使いじゃなくて、そばにいる王子になりたいです」
「……?」
首を傾げる凜奈に、大路の顔が真っ赤になる。
「いや、その、素面なのに何言ってんだ俺……」
そう言うと、大路が手にしたペットボトルを口に当ててごくごく飲み出した。
一気に飲み干すと、大きく息を吐く。
こちらに向けてきた目は熱っぽく潤んでいた。
「俺がなんで旅行サークルに入ったか知ってますか?」
「? ううん……」
「凜奈先輩が声をかけてくれたからですよ」
「えっ、そうだっけ……?」
慌てて記憶を辿る。
今年の新入生の勧誘を任されたのは確かだ。
皆、勧誘係を面倒がって避けたが、宇井が「仕方ない、俺がやるかー」と手を挙げたので、凜奈も一緒にやることにしたのだ。
「びっくりしました。すごい笑顔で『絶対楽しいから、入ってみて!』ってチラシを渡してきて……」
それは紛れもない凜奈の本音だった。
宇井に惹かれてサークルに入り、友達もできて、笑えるようになって――本当に入ってよかったと思っていた。
大路が口に手を当てて横を向く。
「大路くん、大丈夫? 気分悪いの?」
「……だから、俺飲んでないんですって」
よく見ると、大路の顔は耳まで赤かった。
「はっきり言わないとわかんないでしょうから、言いますね?」
「え、あ、うん」
勇気を振り絞るように、大路が目を伏せて小さく息を吐く。
顔を上げた大路が口を開いた。
「凜奈先輩を見て、なんていい笑顔をするんだろうって思って……それでサークルに入ったんです」
「……!」
「つまり、一目惚れです。凜奈先輩と一緒」
それだけ言うと、大路が目線を外した。
凜奈は信じられない思いで大路を見つめた。
まだ彼の言ったことが咀嚼できていない。
自分が人を好きになることはあっても、誰かが自分を好きになるなんて考えたこともなかった。
だって、まだ一年くらいしかたっていない。
どもらずに人と話したり、自然に笑顔を浮かべたり、うつむき加減で顔を見られないようにしなくなってから。
「あと、優しいですよね。後輩の女の子が言いたいことを言えなくてもじもじしてたら、声をかけて言いやすくしてあげたり、バーベキューで火傷をした子の手に保冷剤をすぐ当ててあげたのも先輩でしたよね。それに――」
凜奈は呆然と話し続ける大路を見つめた。
どれもそれは些細なことばかりだ。だが、凜奈をいつも見ていなければ気づかないことでもあった。
「ちょっと、なんでそんなに私に詳しいの!?」
思わず声を上げてしまい、凜奈はハッとした。
大路が少し拗ねたような表情になっている。
「それ、言わせます? 先輩と一緒ですよ。俺もずっと見ていたんです」
「私を……?」
信じられない。ずっと宇井ばかり見つめてきて、自分が見られていることに気づきもしなかった。
「全然気づかなかったでしょ」
「ハイ……」
「俺のこと、何にも知らないでしょ」
「し、知ってるよ! 法学部で――」
女の子にすごい人気があって、サークル内でも女の子たちがよく噂している――とは言えなかった。
「ほら、全然知らない」
唇を尖らせる大路は、いつもより少し幼く見えた。
「ごめんなさい……」
なぜかわからないが凜奈は謝る。初めての事態にどうしたらいいのかわからない。
「別にいいですけど。これから知ってくれたら」
「う、うん」
「あー、全然わかってない! 俺、先輩に靴履かせましたよね?」
「うん」
「だから、先輩がシンデレラなら俺は王子、ってことです!」
「大路くん、『王子』ってあだ名だもんね」
「そうじゃなくて!」
凜奈は思わず笑ってしまった。
気遣いでも、強がりでもない、自然に出た笑いだった。
「ありがとう。すごく嬉しい」
自分が男の子から告白されるなんて夢にも思っていなかった。
なんて夜なんだろう。
凜奈はこちらをじっと見つめている大路を見た。
仄かに頬を染めて見つめる彼の表情に心が揺れる。
(私もこんな風に宇井先輩のことを見ていたのかな……)
彼は靴を落とした自分に気づき、終電を逃しても一緒に残ってくれた。
いつもずっと同じ人を見ていたが、自分を見てくれる人に向き合うのも楽しいかもしれない。
「大路くん」
「はい」
少し緊張気味の声が返ってくる。
彼は自分の返答をドキドキしながら待っている。
大路を笑顔にできるのは自分だけだ。
確かに自分は今、シンデレラなのかもしれない。
ガラスの靴を履いていなくても。
魔法がもう解けてしまっていたとしても――。



