「もう、間に合わないか」


 私の右手に伝わるぬくもりが、そっと離れていくような予感がした。私の前を進んでいた彼の足が止まる。


「もう、こんな時間だよ」


 ほら、と差し出された彼のスマホの光と暗闇の対比が、私をさらに焦らせる。彼のロック画面には、三年記念日の旅行で撮った、私の後ろ姿があった。
 23時47分──もうすぐ、日付が変わる。

 彼の言葉に、うん、と返事をする。目を合わせることができなかった。
 今日を逃したら、もう、一生言えないような気がする。


 まだ、帰られては、困る。それなのに臆病な私の口は、勝手に言葉を紡いでいた。

「……まだ、走れば間に合うんじゃない? だって、もうすぐ、そこだよ、ほら」

 喋りだしたくせに、喉がつかえてうまく言葉が出てこない。途切れ途切れで薄く呼吸をしながら彼を見ると、今度は彼のほうが、私の言葉に「うん」と小さくうなずいた。そっと、彼のまつ毛が影をつくる。


「でも、いいんだ。今日は……まだ帰らない」


 その言葉にホッとしてしまう自分に嫌気がさして、それでいて、彼のやさしさに心が痛んだ。
 落とされた響きは、彼が私を呼ぶときのものに似ていた。まるで壊れやすいものに触れるみたいに、愛しいのだと示すような声で、いつだって彼は、私の名前を呼ぶのだ。

 ── 灯子(とうこ)ちゃん。


 先ほどの予感は外れて、彼は私の手を離さなかった。そっと引いて、歩きだす。


「少し話そうか」


 ね、と語りかけるような彼の口調は、出会った頃と何も変わらない。春の香りがする風が静かに通り抜けるような、そんな爽やかさを含んでいる。


 促されるまま、公園のベンチに座る。それから「ちょっとごめん」と立ち上がった彼は、缶コーヒーを片手にまた腰を下ろした。

 虫の鳴く声が聞こえる。深夜の公園には、私たちしかいない。ふたりだけの世界みたい、と高校生の時の私なら、そう、思えていたのかもしれない。
 それなのに、今はこの空間が、どうしようもなくつらい。


「楽しかったね」


 沈黙を破ったのは彼のほうだった。暗がりにただひとつ、響いたというより落ちた声。
 ──楽しかったね。それは、今日のデートのことだろうか。それとも……これまでのことだろうか。


「楽しかったよ……全部」


 今度は、自分自身に言い聞かせるように、彼が呟いた。その声はゆらゆらと動いていて、はっきりとしていない。
 思わず彼を見つめると、まっすぐに目が合う。
 ぐらり、彼の瞳が揺れた。


 沈黙が、重たかった。目を合わせるだけで鼓動が速まるようなときめきは、もうここにはない。
 いつから、なんて考える時期はとっくに過ぎてしまった。



 ──ここしかない。


 身体の神経すべてが、そう言っている。
 口を開け、声を出せ、言え、伝えなさい。


 その時、ぎゅっ、と、私の手を握っている彼の手に力がこもった。それを合図に、するりと言葉が飛び出す。


「……あのね、私」


 唇が震えて、もう、まっすぐ彼を見ることすらできない。目線が落ちた。

 彼がどんな顔をしているのか、もう私には、認識することができない。


「……っ、」


 最後の最後に、恋人として彼の首をはねることすらしてあげられない私は本当にだめな女で、恋人を名乗る資格もない。

 ぐるぐると、自己嫌悪に陥る。謝罪の言葉が、何度も何度も、頭の中に溢れ出した。

 ──……ごめんなさい。ごめん、ごめんね。



 ふ、と息をついた彼は、そっと、繋いでいた私の手を離した。伝わっていたぬくもりが消えて、熱の行き場を失う。
 静寂に、風が吹いた。



「終わらせようかぁ……ね、トコちゃん」



 仕方ないなぁ──そう、言われた気がした。困ったように笑う彼は、耳のあたりを触って、その手をまた自分の膝の上に戻した。それはこの三年間で見つけた彼の唯一の癖だった。

 彼は私を甘やかす時、甘えてくる時、怒る時、拗ねている時、宥めるとき、励ますとき、私をあやすように「トコちゃん」と呼ぶのだ。もう何度、そう呼ばれたか分からない。


 ──終わらせようか。


 彼の言葉が反芻する。
 彼はきっと、気づいていたのだろう。
 私が言おうとしていたことを。伝えたかった言葉を。

 この世界の誰よりも、私に優しい人間だから。


「……別れて、ほしいです。お願いします」


 ようやく、口をついた言葉。結局、彼に導かれるかたちで、伝えることになってしまった。

 静かに目を閉じる。瞼の裏にうつるのは、笑っている彼よりも、困ったように眉を下げて傷ついた顔をして笑う彼だけだった。
 とっくの前に、私たちの話は終わっていた。それなのに、それに気づかないふりをして、情にとらわれるように彼との関係を続けていた。彼の優しさを返せるわけでも、彼の愛の重さと同じものを贈れるわけでもないのに。

 私は自分が大事だった。それで、自分を傷つけてこない人を、ずっとずっと、傷つけていた。


「……わかってたよ」


 出会ったころよりも落ち着いた、柔らかい声が耳朶を打つ。目線をあげると、彼はふにゃりと、情けないほど柔らかく笑っていた。


「わかってたから、待ってた。言ってほしくはなかったけど、その言葉、ほんとはどこかで、ずっと待ってた」


──いつだって、彼はすべて分かったような顔で笑う。
 終電を逃したのも、わざとだって知っている。
 逃げられたはずなのに。凶器のような言葉を聞かずに帰って、臆病な私とこれからも今まで通りの生活を続けることだってできたはずなのに。

 彼はすべて、終わらせに、来てくれた。



「本当はこのまま帰りたかったけどさ。トコちゃんの目が、そう言ってるからさ。伝えなきゃ、言わなきゃ、って」
「……っ」
「いつも、デートのたびに考えてた。いつ言われるんだろう、今日は言われなかった、よかった、って。ここ数ヶ月、トコちゃん見るたびに、もう、ずっと」


 もう長いこと、苦しませていた。涙が溢れそうになる。けれど、目頭に力を入れて堪える。


「でももう、決めた。逃げたくないから、いま、俺はここにいるんだよ。灯子ちゃん」


 美しい瞳が私を射抜いている。
 伝えなくてはいけない思いが、あった。彼に返せる精一杯の言葉を、持っている限りを伝えなくてはいけない。唇が震える。けれども、続けた。


「……あなたが大切でした。大切だったから、傷つけたくなかった。けど、これ以上、あなたを傷つけずにいる方法が、私にはわかりません」


 いつからか、触れられてもなんとも思わなくなった。彼からの言葉を、素直に受け取れなくなった。会いたいが、嬉しいから重いに変わった。
 触れ合いたいと思わなくなった。唇を、からだを、重ねたいと思わなくなった。



「うん。そういう灯子ちゃんも、俺は好きだったよ。優しくて、弱いから、きっと言えないんだろうなって、思ってた」



 傷つけたくない。それは、裏を返せばすべて自分を守りたいだけの言い訳だった。傷ついている顔を目の前で見たくない。罪悪感を抱きたくない。だから、言えない、会わない。そうやって、惰性に紛れ込ませるように、日常に溶け込んでいるかのように、錯覚させる。

 そんなずるい人間だと、自分で自分を否定するたびに、彼は「トコちゃんは優しいから」と言って背中を撫でてくれた。


 思えば、彼はいつもそうだった。

 最後の一口を惜しむことなく私にくれて、私が迷って選ばなかった方を自分の分として買ってくれて、ツーショットじゃなくて、私の単体写真をなんの躊躇いもなくロック画にできてしまう人。


 不思議に思えるくらい、全力で、人を愛することが上手な人だった。大切なものを大切にするのが得意で、その人に合った愛し方ができる人だった。


「でも、トコちゃんは強い人でもあるから。優しい人でもあるから。いつか、絶対に、言うんだろうなとも思ってた」


 長く、深く、重く、私を見てきた彼の言葉は、冷え切った私の心に突き刺さって、抜けて、でもたしかに小さな傷を残して、消える。



「最後に……思い出でも振り返らない? そしたらもう、全部、ここに置いていくからさ」



 缶の蓋をなぞりながら、彼が言葉を落とす。その声は、やっぱり春風のようで、どこか震えていた。

 こくり、と頷く。彼は安堵したように頰をゆるめた。


「三年前か……遠いな」


 目を閉じて、三年前の記憶をたどる。まだ青くて、煌めいていて、何もかもが目新しくて、何をしていても楽しかったあの頃。







 私たちの出会いは、彼の声と同じ、春風に髪を掬われるおだやかな春の日のことだった。


 席替えで隣になったのがすべての始まりだったけれど、私たちの出会いは運命的なわけでも、衝撃的なわけでもなかった。ただ少しずつ、ゆっくりと、桜が花開くように、互いに惹かれ合っていった。


 まっすぐに前を見据えているその横顔が、私は好きだった。いつしか横顔がこちらを向くようになっても、私はそれでも、窓の外の真っ青な空から降り注ぐ光に照らされて、キラキラと輝いているうつくしい横顔が好きだった。とても、すきだった。


 毎日の学校が楽しみに変わった。色のない世界が変わって、退屈な日常が彼で染まっていった。


「灯子さん」


 トーコ、ではなく、トウコ、と発音してくれるところが、「ん?」と何度でも聞き直してくれるところが、丸い目を細めて笑うその仕草が、私はたしかに好きだったのだ。


「俺、灯子さんのことが好きです」


 夏休み、一緒に行った花火大会で、告白された。たどたどしい日本語で、「私も」と言った。恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
 好きな人から好きだと言われるなんて、こんなに嬉しいものなのだと、その喜びを教えてもらった。


 私のはじめては、すべて彼にあった。



 受験が終わった、高校三年生、三月。


「一日のはじまりに、灯子ちゃんといたい」


 ふたりで早起きをして、朝焼けを見に行った。綺麗なものが好きだという私のために、彼が見せてくれたそれは、この世のものとは思えないほどに美しかった。私たちはそこで、静かに、唇を重ねた。



 ──たしかに、好きだった。

 好きだった瞬間が、あった。







 だけどもう、あの時の気持ちでは、ここにいることはできない。


「……一日のおわりに、灯子ちゃんといたい」


 一日の終わりは、いつまでか。
 朝が来るまでか。夜が明けるまでか。


 私の心を読んだように、小さく微笑んだ彼が告げる。



「夜が明ける前に……さよならするから」



 新しい日がはじまる前に、彼はこの長い長い話を終わらせようとしている。自ら、終止符を打とうとしている。


「終電……やっぱり、わざと?」


 その問いには微笑みだけが返ってきて、彼の毒のような優しさに、離れよう、と思えた。

 大切だから、この人を、縛ってはいけない。
 ずいぶん前に変えてしまったツーショットのロック画面も、外してしまったメッセージアプリのピン留めも、いつからかつけなくなったお揃いの指輪も、彼が登場しなくなったカメラロールも、めったに光らなくなったインスタのアイコンも、全部ぜんぶ、この夜の果てに消えてしまえばいいのに。











 しばらく、私と彼は黙って夜空を見つめていた。触れ合うことも、言葉を交わすこともなくただひたすらに、あの日の朝日を探すように、空を眺めていた。そうして、ゆっくりと、夜が明ける予感がした。


 ふ、と息を吐いた彼が、立ち上がる。私のほうを振り返ることなく、地面を見ることもなく、まっすぐに前だけを見据えて、告げる。



「灯子ちゃん。俺ね、出会えてよかったって思ってるよ。しつこいかもしれないけど、それだけ、伝えておきたくて。トコちゃんは間違いなく素敵で、俺にとって、大切な人だったよ」



 もう、涙が浮かぶことはなかった。そこにあるのはただ、柔らかい光だけ。


「ばいばい」


 それだけを告げて、彼はもう振り返らなかった。
 彼の背中が、消えてゆく。三年前、あれほど待ち望んだ朝日が顔を出す前に、彼は、私の前から去っていく。


 長いようで短く、色濃い三年の月日は、夜明けとともに終わりを迎える。空には、小さく星が輝いていた。



「さよなら。──好きだったよ、ありがとう」



 あの頃の私たちを照らした光は、夜の果てに消えてしまって、もう見えない。

 けれど、それでいい。それが、いい。



【了】