先日の話し合いで、以前と同じように岳と登下校を共にすることになった。これにて一件落着、と言いたいところだけれど、実際はそうもいかない気配をじわじわと感じている。
 幼なじみとしてではなく、岳はなぜか俺と『はじめまして』の関係をスタートさせようとしているのだ。
 その日、四時限目のホームルームでは、体育祭の打ち合わせが始まっていた。
 クラスの多数決で学級委員長をまかされていた俺は、副委員長と一緒に、みんなの前で資料を広げている。
「クラス代表二名の二人三脚は誰がやるー? ふたり選出してぇんだけど、自薦でも他薦でもいい」
 副委員長がみんなに向かって問いかけると、明らかにだるそうに「二人三脚かぁ……」と沈んだ声があちこちから聞こえてくる。
「今どき二人三脚て……」とスガ。
「そう言うなって。この高校の伝統で名物なんだから」と俺。
「もっと違う名物作れんだろうがよぉ! たとえば、水道からジュース出すとかさぁ!」とコータ。
 それよりも休みを週四日に増やそうとか、学校からアイドルグループを出そうとか、校長の話を五秒にしようとか、みんなはこの学校の新しい名物を考え始めてしまった。
「二人三脚ねぇ……、息ぴったりのやつらがいいよなー……」
 ぽつりと俺が言った言葉に、教室の空気が一瞬で変わった気がした。
「だったらもう決まってるっしょ!」
「春野と冬坂で賛成のひとー」
 一斉に俺と岳以外の手が上がった。
「イケメン幼なじみのツートップが二人三脚するなら、ぜったい見たい!」
「いいじゃん、幼なじみーズ!」
「だよね、ふたりとも出てよー! マジでお願い!」
 みんなの熱い期待に思わず苦笑いすると、無表情で頬杖をついている岳と目が合った。以前は目が合えばすぐに岳の考えていることがわかった気がしたのに、最近は岳が何を考えているのかさっぱりわからない。
「えっと、じゃあ……岳、俺とでいい?」
「いいよ」
 飄々とした岳の返事に、教室が沸き立つ。微妙にからかうような岳の笑みから視線を逸らし、気持ちを切り替えながら、改めてクラスメイトたちを見渡した。
「運動苦手なやつも、嫌いなやつもいるかもだけど、俺らが全力でサポートするから、みんなで楽しもうなー。誰ひとり置いてかねぇから」
「旭、熱すぎて笑うんだけど」
「だって、みんなでわいわいできんの嬉しいじゃん!」
 笑ってそう言うと、後ろの席から茶化すような声が飛んでくる。
「しつもーん、サポートしてくれる俺らって誰ですかー」
 俺が答える前に、コータが意気揚々と続けた。
「俺と岳と旭と、スガ……は大丈夫、ごめん。あとは野球部、サッカー部、バスケ部とバレー部のやつらじゃね?」
 スガが「……微妙に傷ついた。損害賠償を請求する」とつぶやくのが聞こえた。小さく笑ったあと、俺は改めて前を向く。
「そういうわけで頼んだぞ、運動部」
「まかせろー」「かしこまりー」「おー!」「やったるでー」
 まったくまとまりのない返事が、逆に頼もしく聞こえる。
「話し合いが意外と早く終わったから、残りは自習ってことで」
 がやがやと賑やかな生徒たちをかき分け、岳のもとへ歩いた。
 途中、誰かに制服の裾を引っ張られて振り返ると、クラスの女子たちがにこにこと笑顔を向けてくる。
「旭、この前の体育祭のチラシ、手伝ってくれてありがとね。すっごく助かった!」
「いいって、チラシぐらい。ほかに俺が手伝えることあったら言って?」
「めっちゃ優しい~! ほんと旭って頼りになるよねー」
「うちらの旦那さんにしたいナンバーワンだから!」
「ははっ、サンキュー」
 女子たちとの話の最中。視線を感じてパッと顔を上げると、奥の席に座っている岳が、こちらをじっと見つめているのが目に入った。
「ごめん、岳んとこ行くわ。またあとで」
 彼女たちにそう言って、岳の隣に座る。
「二人三脚よろしくな、岳」
 岳の肩を組むと、岳は片眉を上げてにやりと微笑む。
「まさか旭と二人三脚やるとは思わなかったわ」
「俺もだよ。まぁ俺らなら一位目指せるって! がんばろうな、岳!」
「ああ。誰よりもぴったりくっついて走ろうな、旭」
「だな、誰よりもぴったり――って、え?」
 きょとんと目を瞬かせていたら、岳がふっと笑って俺の腰を引き寄せてくる。
「全然わかってねぇような顔して。……ほんとかわいいね、お前」
「……か、かわいくねぇし」
 どう反応していいかわからなくて間抜けな顔で岳を見つめていると、さっきとはまた別の女の子たちが俺と岳の周りに集まってきた。
「あー! またイケメンツートップの幼なじみーズが、いちゃいちゃしてる!」
「めっちゃ尊いんだけど!」
 くすくすと笑う女子たちの言葉に驚き、岳に肩を組んでいた自分の手を、ぼんやりと見つめた。「いや、いちゃいちゃはしてねぇって」そう言おうとしたその瞬間。
「ごめんな、見せつけちゃって」
 岳が俺の体をさらにきつく引き寄せる。
「な……」
 突然耳に入ってきた岳の言葉に、「岳くん、やば!」と女子たちが一斉に沸いて喜ぶ。ぎょっとして岳のほうを向くと、したたかなまなざしで俺を見据えていた。
「お、おい、岳」
 そう言葉を発したものの、次の言葉が続かない。クラスの女子たちは「幼なじみーズ、最高だわぁ!」と歓声を上げ続けている。
 岳は盛り上がる彼女たちを尻目に、俺だけに聞こえる声でぼそりとつぶやいた。
「……もう旭とは、幼なじみやめたけどね」
 思わず眉間に皺が寄る。岳は意地悪な笑顔でほくそ笑んでいた。
 どうやら俺の幼なじみは、いまだ絶賛反抗期中らしい。



 次の授業はサッカーだった。グラウンドの片隅でほかのチームの試合を見ながら、先ほどのおかしな岳の発言を思い出す。
 ――ごめんな、見せつけちゃって。
 普段の岳なら言わない台詞だ。隣でだるそうにしゃがみ込んでいる岳をちらりと見つめる。
(見た感じはいつもどおりなんだよなぁ……)
 岳は十七年もの俺との思い出を白紙にし、本当に幼なじみをやめるつもりなのだろうか。
 まるで俺の不安な気持ちと連動するかのように、太陽が分厚い雲に隠れ、急激に冷え込んだ。風も強くなり、ぞくっとした寒気が骨の髄まで染み込んでくる。
「さ、さむー! なんか今日いつも以上に寒くね!? 岳、お前平気!?」
「全然平気じゃない……くそさみー」
 どうやら今日は、普段から平熱が高めで冬に強い岳でさえも、萎えるようなレベルの寒さらしい。強い風が頬を切り裂くように続いている。
「うぅ、何この風……寒すぎだろぉ……」
「……旭、ふたりであったまろうか?」
「いいの? じゃあ、そうしよ。マジでさみーわ」
 思わず口をついて出た言葉に、立ち上がった岳が小さく笑った。
「これでどう?」
 岳の腕が後ろから俺を包み込む。以前のような強い抱擁じゃない。まるで壊れものを扱うような優しさだ。
「……な、なんでそんな、遠慮してんの」
「もっと強くされたかった? こんなふうに?」
 今度は強く体を抱きしめられる。いつもの岳の感触を覚えている俺の体が、まるで今日は違う人間みたいだと叫んでいた。
「旭、痛くない?」
「お、お前、そんなこといつも聞かないくせに……!」
 試合をしているスガとコータの声が、遠くから聞こえてくる。
「まーた、旭が岳のこと湯たんぽにしてるし」
「俺もあっためてー、岳ー!」
「凍えてろって言ってんだろ」
 ゲラゲラと笑うふたりの声も、今はどこか遠い。
「旭、……さっき、女子と距離近かっただろ」
「え?」
 いったいいつのことを言われているのだろうか。突然の言葉に戸惑う間もなく、今度はさらに強く引き寄せられた。
「すげぇ嫉妬した」
 嫉妬した……なんて、初めてそんなことを岳に言われた。耳元でささやかれた言葉が、心臓を直撃している。
「な、何を言って……」
 岳の吐息が耳たぶに触れるたびに、背筋に電流が走っているみたいな感覚がした。
(えっ、何事!? お、俺、なんかおかしいかもしんない……!)
 柔らかい岳の唇の感触が耳に触れた瞬間、ぞくぞくとした震えが全身を駆け巡り、思わず岳の腕を振り払う。
「あ……! ご、ごめん、岳……」
「俺にハグされんのそんなに嫌だった?」
「ち、違う……! そうじゃなくて、なんかいつもと違くて……!」
 慌てる俺を尻目に、平然とした様子で岳が言った。
「俺の元幼なじみにもおんなじこと、何回もしてたけど?」
 たしかにそうなんだけれども……。でも、やっぱりどこか違う。
 今までこんなふうに岳を意識したことはなかった。一気に体温が上がる。冬の風が頬を撫でても、もう顔の熱は冷めそうにない。
「おいで、旭」
 何事もなかったかのような表情で誘ってくる岳に、ふるふると首を横に振って返事をした。
「……もうあったかくなったからいい」
「そんなこと言うなよ。俺はまだ寒い」
 じりっと近寄ってくる岳の姿に慌て、少しだけ距離を置く。
「なんで後ずさんだよ。俺のことあっためてよ、旭」
 体の芯はますます熱くなっていくばかりで、岳はそんな俺の様子を見て満足げに笑った。
「あー、わかった。旭は俺のこと意識して照れてんだ。そうだろ?」
「てっ、照れてない……全然照れてない! 岳に照れるわけねぇじゃん! な、なんかちょっとびっくりしただけで……!」
 必死で否定する声が、かえって怪しく響く。
「それを照れてるって言うんだろ。ほんとかわいいな、旭」
「だから、かわいくねぇって言ってんじゃん!」
「かわいいよ。俺は旭のそういうとこもタイ――」
「あー、ほら! 次、俺ら試合ね。岳ならいっぱいシュートできるもんなー! がんばろうなー!」
 慌てて話題を変える。でも、心臓の鼓動は収まらない。
「お前のためなら、いくらでもシュートしてやるよ」
 妙に含みのある言い方なのは、きっと俺の気のせいだ。そうに決まってる。
「勝ったら褒めてよ。いつもみたいにかわいい笑顔で」
「おま……、もうかわいいって言うのやめろって!」
 冗談めかして「やだ」と笑う岳の姿は、憎らしいほどかっこよくて、俺は柄にもなく黙り込むしかなかった。



 近頃の岳は末恐ろしかった。もう反抗期なんて甘い言葉じゃ片づけられないくらいだ。
 俺ひとりで解決できる問題じゃないと悟った、その日の昼休み。岳は委員会の会議があり、遅れてくるようだった。
 今こそが相談のチャンスだ。
 ここぞとばかりに俺は、スガとコータを学食に誘った。学食のおばちゃんと軽く談笑したあと、ランチトレーを持っていつもの席に座る。
「旭、お前さ、いっつもあのおばさんと話してるよな? 何話してんの?」
 先に座っていたスガが、不思議そうに尋ねてきた。
「ああ、学食のおばちゃんね。相談に乗ってんだよ。なんか最近、俺らと同じくらいの息子さんが、急に反抗期始まったらしくて」
「へぇ~」
「どうも他人事とは思えなくてさぁ……」
 そう答えながら、割り箸を割ったら、完全に失敗した。長さが合っていない割り箸を見てちょっとだけ悲しくなったけれど、かまわずに頼んだ月見そばを一口食べる。
「旭って、ほんとになんでもかんでも親身になっちゃうよな……」とスガ。
「まぁね。学食のおばちゃん好きだし」と俺。
 そうはいっても、今の自分は他人の相談に乗っている場合ではなく、むしろ相談したい立場なのだ。
 コータが席に着いたのを合図に、「あのさ……」とつぶやいた。ふたりはのんびりとそれぞれ唐揚げ定食と、カレー定食を食べつつ、「んー?」と気のない返事をしてくる。カレーと唐揚げ、そしてそばの香りが混じり合う中、言葉を選びながら切り出す。
「実はうちの岳も、マジで反抗期始まったかもしんない。あいつ、俺と幼なじみやめたいって……」
 突然そんなことを言い始めた岳の説明をすると、スガとコータは顔を見合わせ――笑い始めた。
「ついに言ったんだ……!」
「いやぁ、長かったなー!」
「な、なんだよ、お前ら! 知ってたみたいな顔して!」
 スガは至極呆れたように、「岳が旭に執着してんのは、一目瞭然だったろ……?」と答え、俺の肩をぽんぽんと叩いてくる。
「旭に褒められるたび、真顔キープしてるつもりだろうけど、死ぬほど嬉しそうだもんな、あいつ」とコータ。
「わかる。案外めちゃくちゃわかりやすいんだよ、岳って」とスガ。
 また何事もなくもりもり食べ始めたスガとコータを見つめ、俺は声を潜めてふたりに問いかけた。
「お、俺、岳が何をしたいのか、いまいちよくわかんねぇんだけど。俺がタイプだとかわけわかんないこと言ってくるし……、ほんとどうしたらいいか……」
「おいおい、まさかまだわかってねぇの、旭」
 スガのぎょっとした顔に、こくりとうなずいた。タイプと言われても、幼なじみをやめると言われても、岳がこの先どうしたいのか正直よくわからない。だって、俺たちは今まで家が隣で、いつでも一緒で、なんでもふたりで乗り越えてきて、そんなふうに『幼なじみ』として完璧な関係でいたのだから。
 コータは「そのまんまの意味だろ……」と呆れている。
「岳は旭がタイプで、それでもお前が岳のこと恋愛対象として見られねぇから、幼なじみやめるって言ってんだって」
 事細かなコータの説明を受けて、ごくっと唾を飲み込んだ。
「そ、それってさ……岳が、……俺のこと好きってこと?」
 スガに「今まで気づかなかったのやばすぎ」とマジレスされ、ショックのあまり声を失ってしまった。
(う、嘘だろ、何も知らなかったの俺だけ……!?)
 幼なじみという一番近い距離にいながら、俺は岳のことを何もわかっていなかったのかもしれない。
(だ、だけど実際に好きだって言われたわけじゃねぇし……)
「何? なんの話?」
 委員会が終わったのか、トレーを持った岳がやってきた。ドキリと心臓が鳴る。コータは唐揚げを箸で持ち上げ、あっけらかんと岳に告げた。
「お前が幼なじみやめるって、言い出した話」
(コ、コータ、デリカシーって言葉知ってる……!?)
 心の中で泣きながらコータに突っ込みを入れる。さすがに今回ばかりは、スガも呆れている様子だ。
「ああ、それね」
 岳は淡々と俺の隣に座り、いただきますと礼儀正しくきれいに箸を割った。岳のトレーからは、いつも頼む肉うどんの匂いがしている。
「前まで旭によく似た幼なじみがいたんだけど、幼なじみ解消したんだよね。で、つい最近出会った旭に夢中」
「何が『つい最近』だよ!」
 爆笑するコータ。「マジでめんどくせーやつだよなぁ……」とおかしそうに口角を上げるスガ。
「が、岳っ! お前、まだ『はじめまして』ごっこしてんのかよ!」
「まぁまぁ、岳の好きなようにさせてやれって、そのうち飽きっから」
 隣で平然としている岳に詰め寄ると、スガが苦笑して俺を宥めてくる。
 こちとら悠長に笑ってる場合ではないのだ。
 ことの大きさをわかっていないふたりプラスひとりを睨みつけ、俺は現実逃避をするかのごとくそばをすすった。
「俺のタイプ聞いて、コータ」
 岳がにやにやしながらコータに言った。
「なんとなく流れ察したわ。えーと、岳くんはどんな子がタイプなのかな?」
 インタビューをするみたいなコータの質問に、岳は涼しい顔をしてしれっと答える。
「俺のタイプは、旭」
 隣から体に穴が開きそうなくらい強い視線が届く。油断していた俺は、そばを誤嚥し、ゲホッゲホッと咳き込んだ。心臓の鼓動は騒がしく、顔も熱くてどうしようもない。
「けっこうエグい球投げてくんね……」
「やべぇ、なんか胸が甘酸っぱくなってきたわ」
 死ぬ。このままではそばの誤嚥で死ぬ。いつまでも咳をしていると、岳が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫かよ、旭。ほら、水飲めって」
「あり……が、と……げほっ、げほっ……」
 なんとか礼を言い、岳からコップを受け取って、慎重に水を飲む。その間も岳は俺の背中を優しく撫でてくれていた。
「あー……そばで、死ぬかと思った……」
 やっと危機を脱した俺が必死な思いで言うと、岳は俺が持っているコップを指差して、にこりとイケメンスマイルを浮かべる。
「え、何……?」
「俺たち、初めて間接キスしちゃったな、旭」
 どうやら受け取ったコップは岳のものだったらしい。唖然として目を丸くしている俺を横目に、「ぶはっ」とスガとコータが噴き出した。
「もはや変態おじじゃん! きもっ!」とコータ。
「旭、マジでおつかれ……」とスガ。
「お、お前、ほかに言うことあるだろ!」と俺。
「ほかに? ああ、怒った顔もやっぱかっこいいね、旭って。ほんと俺のタイプだわ」
「そ、そうじゃなくてさぁ……」
 呆れた顔で俺が言うと、岳はまったく反省していない無邪気な様子で「ぺこりー」と笑っていた。なんでだよ。
 岳との間接キスなんて、子供の頃から数え切れないほどしている。なのに、どうしてこんなにも頬が熱くなってしまうんだろう。



 その日の放課後。
(なんだかいつもの調子が出ない……)
 原因はもちろん岳のせいだ。
 窓から差し込む光が刻々と色を変える教室で、体育祭の準備のためにクラスの数人が残って作業をしていた。俺と岳とスガ、それにクラスメイトの女子――南出(みなみで)、俺たち四人は応援グッズ担当だ。色とりどりの紙が散らばる机の上で、うちわやポンポンの製作を進めていた。
 南出は肩甲骨あたりまで伸びた黒髪を揺らしながら、色紙を手際よく切り分けていた。目元にさりげなく施されたマスカラと、ほんのり塗られたピンクのリップ。いつもよりもメイクに気合いが入っているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「南出どうする? うちわになんて書く?」
「とりあえず、『しゅき』と『ファンサちょうだい』と『プロポーズして♡』が候補に挙がってた」
 南出は八重歯が少し覗く笑みを浮かべ、うちわの見本を俺たちに見せてきた。
「体育祭、全然関係ねぇな……」
 スガがそう言うと、南出は楽しそうに軽い笑い声を上げる。
「まぁまぁ。盛り上がればOKってことで。シールも売ってるんだけど、予算の問題もあるからさぁ」
「よし、がんばって作りますか!」
 俺が気合いを入れて腕まくりをした、その時。
「ていうか……今日は、いちゃいちゃしないの? 冬坂と春野」
 色紙を切り始めた俺らをちらりと見つめた南出が、ハサミを手にしながら言った。
 ぶっ、とスガが笑いを堪えようとして失敗している。薄々気づいていたけれど、クラスの女子たちは何か勘違いをしているようだ。
「……えっと、南出さ、聞き捨てならないワードあったんだけど」
「え、いつも……ほら、この前のサッカーの時も抱き合っていちゃいちゃしてたじゃん! 女子が沸いてたよ!」
 まさか見られていたとは思わなかった。冷や汗をかきながら、なんとかお茶を濁す。
「あ、あれは……! 寒いからくっついてただけで、深い意味はないから。ほら、日本の冬はね、寒いから」
 言い訳っぽくなる声に、自分でもどうしたものかと思っているのに、岳は俺の横で黙々と作業を続けていた。
(ほんとにこいつはマイペースだよなぁ……)
「抱きつきなよ、春野。うちらはクラスのイケメンツートップの幼なじみーズがいちゃいちゃしてんの、大好きだからさ」
「……今、寒くねーから、無理」
「窓開けたげる」
「やめろて」
「別に俺はいいよ、旭」
 岳は俺を見据えながら、素知らぬ顔で言った。
「な……」
「ほら、春野! 冬坂もそう言ってるって! ね、スガ?」
「俺を巻き込むな、南出」
 スガが苦笑いすると、南出はなぜか幸せそうに相好を崩す。俺は幼稚園の先生のごとく、両手をパンパンと鳴らしてつぶやいた。
「はいはい、みんなちゃんと作業に集中しましょうねぇ」
 だいたい、いちゃいちゃなんかしてねぇのにな――と考えて、ふと我に返った。
(……もしかして、してた……のか?)
 自分の行動を省みると、いつも寒いからと言って抱きしめてもらっていたし、普通に間接キスだってしていたし、どこに行くのも一緒だった。
 よくよく考えると……やばくね? 距離感バグってたかも……。
 今まで気づかなかった記憶が次々と蘇ってくる。体育の時間に自然と寄り添っていた体。ペットボトルを回し飲みしていた唇。何気なく触れ合っていた指先。
 すべてが新しい意味を持ってしまいそうで、慌てて俺は思考停止した。
「つうか南出さ、俺と旭はもう幼なじみーズじゃないから」
 突然聞こえたひやりとするような岳の声に、喉の奥がひゅっと詰まる。
「え、そうなの!?」
「幼なじみやってんの飽きたから、もう解散した」
「ねぇ、待って。幼なじみってやめられんの? 冬坂、おもしろすぎでしょ!」
「やめてねぇから! まだまだ俺と岳は、現役で幼なじみーズやってるから!」
「あはっ、意見の相違ウケる。なんかあれだ……解散寸前の漫才芸人っぽい!」
 南出は本気にしていないのか、けらけらと笑って言葉を続ける。
「えー、じゃあ、冬坂は春野ともういちゃいちゃしないのー?」
「いや、それはする」
 あっけらかんとした岳の言葉に、「するんかい」とスガが突っ込み、南出がお腹を抱えて笑った。
 俺以外、みんな笑っていたけれど、俺は笑えなかった。
 むうっと唇を尖らせていると、スガの前に置いてあったスマホがブブッと数回震える。
 スガは何気なくスマホをチェックし、はっとしたように立ち上がった。
「やっべ、バイトあんの忘れてたわ……!」
「た、大変! 行って、スガ! うちらは大丈夫だから!」
 南出はそう言うと、俺らと話していた時の何十倍もの柔らかい微笑みでスガを見つめる。
 スガも俺らと話していた時の何十倍もの柔らかい微笑みを南出に返した。
 少しだけ不思議に思いながら、俺も親指を立てて言う。
「そうそう、大丈夫だって。スガがいなきゃ、ポテトがこんがり揚がんねーよ」
 俺の言葉に合わせるように、岳が「ナゲットもな」と付け加える。
「悪い……今度埋め合わせする!」
 バタバタと支度をしたスガは、帰り際、
「サンキューな、南出」
 と小さく声を投げかけた。何気ない挨拶のはずだった。けれど、スガが去ったあと、しばらくして南出の横顔が夕日よりも赤く染まる。
「うぅぅぅぅぅぅ」
 うずくまるように顔を押さえたその仕草を見て、俺と岳は顔を見合わせた。
「えっ、もしかして、南出って、スガのこと……」
 点と点をつなぎ合わせて推理をする。岳は納得がいかないような顔で「なんで他人には敏感なんだよ……」とぼそりとつぶやいた。
 なんだ「他人には」って。その言葉の意味を深く考える間もなく、南出が静かにうなずく。
「バレたかー。……そうなんだー、実はずっと好きなんだよね、スガのこと」
「そうだったんだ……」
「しかもさ、一回フラれてんの、一年の夏だったかな?」
「あいつ、そんなこと一言も……!」
 驚きで、思わず声がでかくなってしまった。
「そっかぁ……スガ、言ってなかったんだね。……スガのそういう優しいとこ、やっぱ好きだなぁ」
 吐息のような甘さが混じった彼女の言葉が、柔らかく響く。
 南出が言うには、スガとは一年の時、委員会が同じで仲良くなったらしい。そして振られてから半年もの長い間、気まずい空気を抱えながら過ごしたという。
 けれど、二年になって同じクラスになり、今はまた友達として笑い合える関係に戻れたようだ。
「体育祭の日に、もう一回告るつもり。それでだめだったら諦める」
「……え」
 南出の言葉に、ふいに胸が締め付けられた。普段だったら、ただ無責任にがんばれと言えたかもしれない。だけど、なんとなく心に引っかかって、遠慮がちに言葉を吐き出した。
「……もしまた振られてさ、一生、スガと気まずくなるくらいなら、友達のままっていう選択肢も、あるんじゃね……?」
 声に出した瞬間、心の奥に隠された俺の本心が見えた気がした。岳はそんな俺の言葉に、真っ向から対立してくる。
「俺だったら、言う。後悔したくねぇし」
「うちもそう。ちょっとでも可能性があるなら挑戦したいもん」
 南出はきょとんと首を傾げながら、「なんか旭らしくないよー!」と指摘してきた。
 俺だってそう思うけれど……。結局、その時は曖昧な笑みしか返せなかった。

 一時間後、うちわとポンポンは完成した。窓越しに見える空は、橙色から深い藍色へとすっかり色を変えている。廊下には部活帰りの生徒たちの足音が響き始めていた。三人で協力して応援グッズを抱きかかえ、職員室に向かおうとした瞬間、大きな鞄を背負った後輩たちが廊下を駆けてきた。
「わっ!」
 後輩たちを避けようとして、南出がバランスを崩す寸前、彼女が手にしていたうちわがバラバラと床に落ちるのが見えた。岳がすかさず南出の背中を支えたのを確認し、声を荒らげる。
「あぶねーな! おい、お前らやんちゃすぎんぞ! 廊下走んなよ!」
「すっ、すんませーん!」
 慌てて逃げていく後ろ姿を「しゃあねぇなぁ……」と見送る。南出は顔面蒼白になって、ゆっくりと自身の足を上げた。
「マジでごめんなんだけど、よろけて踏んじゃった……」
 南出の足元には、無残に踏まれたうちわの数々。俺は特に動揺することもなく、けろっとして言い放った。
「平気平気、何回でも作ればいいって。むしろ俺らの腕も上がってるし、今度はもっとすげぇの作れんじゃん。なぁ、岳」
 横を見ると、岳が小さく微笑んで、落ちたうちわを拾い始める。
「南出に怪我がなければそれでいいよ」
「ありがとー……。ほんと優しいね、春野と冬坂。うちの好きな人ランキング、トップ5に入ってるよ」
「え、めっちゃ嬉しいかも」と思わず笑う。
「しかも、幼なじみーズのふたりとしては二位だから、大いに喜んで」
「どういうランキング計算なんだよそれ」
 俺がすかさず突っ込みを入れると、岳がにやりと笑って言う。
「で、堂々の一位はスガなんだろ?」
「そ、それは……うん……」
 赤く染まった南出を見て、なんだかほっこりとしてしまった。
 会話も弾みつつ、素晴らしいチームワークでうちわをもう一度完成させて、無事に提出し終えた。校舎を出ると、冷たい夜風が制服の襟元を撫でていく。
「おつかれー!」
「おー、おつかれ! 気をつけてな、南出!」
 俺たちとは反対方向に向かって歩く南出を一瞥し、
「スガと南出、うまくいくといいな……」
 そうぽつりとつぶやく。岳は小さく「だな」とだけ返事をして歩き出した。
「そういや、おじちゃん、今週から海外だよな? 岳、俺んち泊まるっしょ?」
 自然と口から出た言葉。いつもの、ごく当たり前な会話のつもりだった。
「旭の家、俺が泊まってもいいわけ?」
 真剣な岳の瞳に射抜かれ、思わず動揺してしまった。
「な、なんだよ、その反応……! 何度も泊まってんのに、調子狂うじゃん! いいに決まってんだろ!」
「嬉しいわ。旭の家に泊まんの初めてだし」
 屈託なく岳が笑う。話がまったく噛み合っていない。どうやらまだ『はじめまして』ごっこは続いているようだ。その時ふとスガの言葉が脳裏をよぎった。
 ――まぁまぁ、岳の好きなようにさせてやれって、そのうち飽きっから。
 もしかしたらスガの言うとおり、岳のノリに合わせていたら、いずれこの〝ごっこ遊び〟も終わるかもしれない。
「何? どうした、旭」
 岳が首を少し傾げると、黒髪がさらりと彼の頬に落ちた。
「そっ、そうだよな、岳~! 俺んち来るのは初めてだよな~!?」
 とりあえず岳が納得するまで、付き合ってみようと思った。急な方向転換をした俺を見て何を思ったのか、岳がふっと笑う。
「すげぇ楽しみ、旭ん家のお泊まり」